第4話 アブダリ・フチャの戦い

 女真じょしん討伐軍の総司令官・楊鎬ようこうは、軍勢を四つに分けて各方面に進発させた後、予備兵力だけを手許てもとに置いて全軍を指揮監督していたが、西路軍せいろぐんおよび北路軍ほくろぐん壊滅の報を受けるや、南路軍なんろぐん東南路軍とうなんろぐんに撤退を命じる伝令を飛ばした。

 さすがに彼も、残る二軍団だけで金国アイシン・グルン軍を倒せると考えるほど愚かではない。


 遼陽りょうようから清河せいがを経由するルートで進軍していた南路軍なんろぐんの将・李如柏りじょはくは、長らく遼東りょうとうの地を統括してきた李成梁りせいりょうという武将の次男であり、兄の李如松りじょしょうと共に朝鮮で小西こにし行長ゆきながの軍と戦ったこともある。


 父親の李成梁りせいりょうは、遼東りょうとうの地を治めるにあたって、女真じょしんの各部族の対立につけ込み、互いに争わせた。

 そして、李成梁りせいりょうの支援を受ける中から、力をつけてのし上がったのが、ヌルハチに他ならない。


 元々慎重に兵を進めていた李如柏りじょはくは、撤退命令を受け取るやすぐに行動に移した。

 しかし、すでに敵地の奥深くまで進攻していた東南路軍とうなんろぐんには、撤退命令が届くことはなかった。


 劉綎りゅうていが率いる東南路軍とうなんろぐんは、朝鮮軍1万と合流して丹東たんとう付近から北上し、シャンギャンハダの戦いがあった3月2日には、ヘトゥアラ南方で金国アイシン・グルンの守備部隊を打ち破った。


「くそ、もうそこまで来ていたか。意外に脚の速いことだ」


 その報を受けるや、ヌルハチは北路軍ほくろぐんの残敵を掃討していた兵たちを招集し、急ぎヘトゥアラに帰還する。


「ダイシャン、そなたに命じる。漢人かんじんどもを討ち果たせ」


 ヌルハチは次男ダイシャン率いる主力部隊を派遣。両軍は3月4日、ヘトゥアラ南方のアブダリで遭遇した。


 劉綎りゅうてい倭寇わこう討伐で功績を挙げた劉顕りゅうけんの子で、南西の少数民族の反乱を鎮圧したり、豊臣秀吉による文禄ぶんろく慶長けいちょうえきの際には朝鮮救援に派遣されるなど、武功を重ねてきた。

 また、杜松としょうに輪をかけた剛力無双で、120きん(およそ80kg)の大刀だいとう得物えものとし、「劉大刀りゅうだいとう」の異名を取る剛の者でもあった。


 金国アイシン・グルン軍と会敵するや、劉綎りゅうていは即座に陣を固めたが、ダイシャンは弟ホンタイジと古参の将フルハンにそれぞれ別動隊を指揮させて、劉綎りゅうてい軍を三方から攻撃。

 劉綎りゅうていはご自慢の大刀だいとうふるって勇戦するも、力尽きて討ち死に、麾下の部隊も壊滅となった。



 この時、劉綎りゅうてい軍の後方には朝鮮軍1万がいた。

 時の朝鮮王は第十五代光海君クァンヘグン。後に廃位に追い込まれたため、諡号しごうは無い。

 彼は新興の金国アイシン・グルンを恐れ――あるいはその脅威を正確に認識し、派兵には否定的だった。

 しかし、文禄ぶんろく慶長けいちょうえき、朝鮮でいうところの壬辰じんしん倭乱わらんに際してみんが援軍を送ってくれた恩義に報いるべきという名分論めいぶんろんに押し切られ、しぶしぶ姜弘立カン・ホンリプという将を送り込むことを決めた。


 出兵に先立ち、光海君クァンヘグンは密かに姜弘立カン・ホンリプを呼び寄せ、直々に命じた。


「やむを得ぬ場合は無理をせず、女直じょちょくどもに降伏せよ」


「よ、よろしいのですか、殿下チョナ?」


「兵を出すことで大明だいみんへの義理は果たした。兵たちの命を無駄にするな。もちろん、そなたもだ」


「承知いたしました、殿下チョナ


 姜弘立カン・ホンリプみん東南路軍とうなんろぐんに付き従いつつも、密かに使者をヘトゥアラに送り、今回の朝鮮の出兵は本意でなかった旨を伝えておいた。


 劉綎りゅうていの部隊が壊滅した時、朝鮮軍はみん軍の後続部隊と共に、南のフチャという地にいた。

 これに対し、ダイシャンはホンタイジを先鋒に立てて攻め寄せる。


 姜弘立カン・ホンリプは長槍隊に護衛させた鳥銃ちょうじゅう隊を前衛に立て、金国アイシン・グルン軍を迎え撃とうとした。

 しかし、折悪おりあしく強風が吹きつけ、鳥銃ちょうじゅう斉射による黒色火薬の白煙が朝鮮軍の視界を遮ってしまい、そこへ金国アイシン・グルン軍の騎馬隊が殺到、前衛を打ち破った。


 乱戦の中、朝鮮軍はその半数近くの兵を失い、また明の東南路軍とうなんろぐん後続部隊も壊滅。

 ダイシャンは生き残った朝鮮軍5千に対し降伏勧告の使者を送り、姜弘立カン・ホンリプは王の言いつけ通り降伏した。



 残る南路軍なんろぐんの将・李如柏りじょはくは、総司令官からの撤退命令を受け取るや、素直にそれに従い兵を返そうとした。

 しかし、この時金国アイシン・グルンの斥候20名あまりが、山に登り法螺貝ほらがいを吹き鳴らした。金国アイシン・グルン軍が攻撃を仕掛けようとしていると見せかけたのである。

 まだ敵影も見えぬのに撤退することを不審に思っていた兵たちは、これに驚き我先われさきに逃げようとし、南路軍なんろぐんは大混乱に陥った。


「ば、馬鹿者! あれはただの脅しだ。この近くに敵などおらぬ!」


 李如柏りじょはくら将たちが押しとどめようとするのも空しく、南路軍なんろぐんは千人近い死者を出した。


 本拠地の鉄嶺てつれいに戻った李如柏りじょはくだったが、朝廷では彼の失態をあげつらう者たちが続出し、挙句の果てには、父・李成梁りせいりょうとヌルハチの関係から、如柏じょはく金国アイシン・グルンに内通しているなどと言い出す者まで現れた。


「おのれ、小人しょうじんどもめが!」


 翌年、李如柏りじょはく北京ぺきんに召喚されることとなり、抗議の自殺を遂げた。



 かくして、敵に数倍する兵を動員した女真じょしん討伐は、見るも無残な結末を迎えたのであった。

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