第3話 シャンギャンハダの戦い

杜来清とらいせい(来清は杜松としょうあざな)が討ち死にしただと!? 何をやっているのだ、あの阿呆は!」


 サルフ・ジャイフィアンの戦いの翌日、旧暦3月2日。北路軍ほくろぐんを率いて来た馬林ばりんは、その報を聞いて天を仰いだ。


「いかがなさいますか、閣下?」


 幕僚の問いに、馬林ばりんは顔をしかめながら答えた。


「いかがするも何も……。我が軍の主力である西路軍せいろぐんが壊滅したのだぞ。このまま進軍しても、蛮族どもの餌食になるだけだ」


 馬林ばりんの父の馬芳ばほうという人は、11歳の時にモンゴルに捕らえられるも、その物怖ものおじせぬ態度と弓矢の腕前を評価されて死をまぬがれ、12年後に脱出して明朝みんちょうに帰参、その後は武将として北方民族と戦ってきた人物である。

 その血を受け継いで、馬林ばりんも武勇に秀でる一方、文芸にも才を発揮し、名士たちとの交流も深かった。

 馬林ばりん金国アイシン・グルン軍と闇雲に衝突することを避け、サルフの北方、シャンギャンハダの地に三重の塹壕を掘り、火砲を揃えて、直属の兵1万でもって金国アイシン・グルン軍を待ち構えた。



漢人かんじんめ、中々に手堅いではないか」


 馬林ばりんの陣を見て、ヌルハチは思わず感嘆した。


「これでは、騎馬による突撃は無理ですな。どうなさいますか、ハン?」


 ホンタイジに問われ、ヌルハチはしばし考え込んだ後、麾下の軍に命じた。


「まずは、あの丘を占領する。しかる後、下馬して敵陣に接近、これを突破する」


 突撃速度は速くとも被弾面積が大きくなってしまう騎馬突撃よりも、下馬して遮蔽物に身を隠しながら接近し、敵陣に切り込む方が、火砲対策としては有効、というのは、女真じょしん族がこれまで多くの流血を経て学んだ教訓である。

 しかも今回、みん軍は塹壕を幾重にも巡らせて守りを固めている。

 まずは高所を占領してそこに陣を張り、じっくり攻めていくというのがヌルハチの方針、だったのだが――。


「阿呆! 蛮族どもの挑発に乗らず守りに徹せよと命じておったであろうが!」


 馬林ばりんは陣中で頭を抱えた。

 部下の一部が、金国アイシン・グルン軍に高所を押さえられることを嫌い、勝手に兵を動かしたのだ。

 野戦で女真じょしん軍に打ち勝つというのは、よほど兵力差があっても難しい。

 それがわかっているから、徹底的に陣を固めたというのに、これでは台無しだ。


 一方、降って湧いた好機を見逃すようなヌルハチではなかった。


「全軍突撃!」


 ヌルハチは即座に方針を切り替え、騎馬突撃を命じた。

 金国アイシン・グルン軍はみん軍に馬上から矢の雨を降らせ、接近してはとうで斬撃を見舞う。

 みん軍はたちまち劣勢となり、陣に逃げ帰ろうとする。それを追って金国アイシン・グルン軍は敵本陣にまで斬り込み、これを壊滅させた。

 馬林ばりんの二人の息子も乱戦の中戦死し、馬林ばりん自身は命からがら落ち延びて行った。



 この時、北路軍ほくろぐんの副将である潘宗顔はんそうがんは、これも1万の部隊を率いて後方に陣取っていたのだが、彼は馬林ばりんと仲が悪かった。


「閣下、本隊の救援に向かわれぬのですか!?」


 幕僚が血相を変えて詰め寄って来るのを軽く受け流し、潘宗顔はんそうがんうそぶいた。


「ふん、あの文人気取りめ。自力で何とかするがいいさ」


 虫の好かない馬林ばりんの苦境に対し援軍を送ろうともせず、留飲を下げていた潘宗顔はんそうがんだったが、彼の幕僚たちは絶望の表情で互いの顔を見やった。

 たとえ馬林ばりん軍の救援に向かっても、金国アイシン・グルン軍を押し返すことは確かに難しかろう。

 しかし、ここで守りを固めていたところで、次の餌食となる順番を待つだけだ。

 この場の大将たる潘宗顔はんそうがんだけが、そのことを理解していなかった。



 馬林ばりんの隊を壊滅させたヌルハチは、休む間もなく潘宗顔はんそうがんの隊に襲い掛かり、これもたちまち壊滅させた。

 潘宗顔はんそうがん以下、主だった将たちも軒並み戦死。

 その報を聞いて、男はわめき散らした。


漢人かんじんの無能どもめが! あれだけの兵を揃えていながら、何をやっている!」


 男の名はギンタイシ。ヌルハチによる女真じょしん族統一に最後まで抗い続けているイェヘ部のおさだ。

 一度は和睦し、妹のモンゴ・ジェジェをヌルハチに嫁がせて、ホンタイジという甥も生まれているのだが、それも両者の確執を埋める助けにはならなかった。


 今回、みん楊鎬ようこうの呼びかけに応じ、1万の兵を率いて参戦したのは、みん軍が45万もの兵を動員してヌルハチを討つと聞いたからだ。

 実際の動員兵力はその半分以下と見ても、強力な火砲も装備したみん軍の優位はくつがえらない――。そのはずだったのだが。


「馬鹿々々しい! これ以上付き合っていられるか!」


 ギンタイシはそう吐き捨てて、みん軍に断わりも無く――というか、断りを入れるべき相手もすでにこの近くにはいなくなっていたのだが――、兵を引き揚げた。


 ここでヌルハチ軍の背後をき、死中に活を見出みいだしていたならば、彼のその後の運命も変わっていたかもしれないのだが――。


「まだ終わってはおらぬ。みん軍は南路軍なんろぐん東南路軍とうなんろぐんを残している。やつらがヌルハチめを討ち取ってくれれば……」


 みん軍を打ち破ったヌルハチの報復に対する恐怖から目をらし、彼自身ですら信じてもいない慰めを、ギンタイシは繰り返し呟いた。



「ギンタイシめ、逃げおったか」


 その報を聞いて、ヌルハチは口惜しそうに振舞っていたが、内心安堵もあった。

 同じ女真じょしん族であるイェヘ部の兵は、みん軍を壊滅させる片手間に相手取るには少々手強い。

 後回しに出来るならそれに越したことはない。


「首を洗って待っておれよ、ギンタイシ」


 兵を交えずに済んだとはいえ、みんに加勢したことを許すつもりは毛頭ない。

 義兄への憎悪をたぎらせつつ、ヌルハチは南方に目を向けた。


 残るは、遼東りょうとう総兵官・李如柏りじょはくが率いる南路軍なんろぐん4万と、遼陽りょうよう総兵官の劉綎りゅうてい率いる東南路軍とうなんろぐん2万――。

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