4 おバカな弟、カバになる
「あんたバカね、そんなバカだとそのうちカバになるよ」と冗談半分に脅した翌朝、ものぐさな弟の万年床には、ぐうすか寝ているはずの弟の代わりにカバが、本物の動物のカバが、我が物顔で寝そべっていた。
「姉ちゃん、おはよう」
カバがあくびのように口を開いて、そこから弟の声がした。カバの口の中に弟がいるのかと覗き込んでみても、喉はただ暗い空洞だった。もう一度カバを見ると、つぶらな黒い瞳が眠そうに私を見つめてくる。
「もしかして、このカバが私の弟なの?」
「うん、おれだよ。昨日言われたこと心配してたんだけどさ、おれってば本当にカバになっちまったよ。やっぱり姉ちゃんの言うことはなんでも正しいね。びっくりだよ」
カバの弟はのんきに言って、それから、「草食動物だからか眠いや」とゆっくり目を閉じる。
私は驚くより呆れてしまった。こんな一大事にも寝ようとするなんて、本当に寝汚くてぐうたらだ。
「こら、起きな!」と弟の頭をはたく。「とりあえず大家さんに相談しに行くよ。このアパート、ペット禁止だからね。あんたがペットじゃなくて人間だって説明しておかないと」
分厚いカバの皮膚を容赦なく叩き続けると、弟はようやく寝るのを諦めて、よっこいしょと体を起こし、四足歩行でのろのろと歩きだした。弟は人間の時よりサイズが大きくなっていて、横幅は玄関のドアに挟まってなかなか抜けなかった。「これ以上太ったら永遠に部屋に閉じ込められるかもね」と言ったら、「そうなったら永遠にごろごろできるね」と返ってきた。私は弟の大きな尻を蹴って、ドアの向こうに押し出した。
まったく、このものぐさめ!
階段を一段下りるのもしぶる弟を叱りつけながら、私たちはなんとかアパートの一階にある大家さんの部屋へたどり着いた。ドアをノックすると、大家さんが「はいはい、なんじゃらほい」と顔を出す。
「実は、弟がカバになってしまって」と私が切り出すと、大家さんの目は私の後ろにいる弟に釘付けになった。
「え? このカバが弟くん?」
「はい、おはようございます」弟が口を利いた。
大家さんは甲高く叫んで尻もちをついた。腰が抜けたらしく、ドアにすがりつくようにして私たちを見上げてくる。
「ご覧の通りです。見た目はカバですが、私の弟なんです」と私は深刻な表情で訴えかけた。「ですから今まで通り、私と弟を住まわせてもらえませんか。人間らしく行儀よくしますから」
私の真剣さが響いたのか、大家さんも真面目な顔つきになる。そして尻もちのまま「うーむ」と考え込んでから、「専門家に相談した方がいいだろうね」と言った。
「私も君たち
「わかりました」
というわけで、私はカバの弟を引きずるようにしてアパートを出発した。外に出ると、弟はのそのそと道路の端を歩いた。大きなカバの体は、通りがかる人々の視線を一身に集めていた。「見て、カバだ!」「すごい、こんなところにカバがいる!」と周囲の人々が騒ぎ立てる。まるで見世物扱いで、私は思わず弟に「大丈夫?」と不安な声をかけてしまったが、弟は「へーきへーき、これが今のおれだからさ」とのそのそ歩き続けた。
やがて先生の家に着いた。二丁目の角にある立派な家。そこに一人きりで暮らす謎の物知りおじさんが町の相談役、先生だった。
「お姉さんの言葉が原因でしょうな」
居間にて、私がひとしきり事情を話し終えると、先生はゆったりと着物の腕を組んだまま言い切った。
「お姉さんが『あんたはバカだからカバになる』と言った。弟さんはそれを信じた。あまりに素直に信じたために、本当にカバになったというわけです」
「そんな。信じたから現実になるって、そんなことあるんですか。まるで魔法じゃないですか」
「世の中は広い。そういうこともある」
「では、私が『あんたは人間に戻る』と言えば弟は人間に戻れますか?」
「うーん。いやいや、それは無理でしょう。一度言ったことを取り消しては信用というものがない。それでは弟さんも信じ切れない。だから、しばらくは様子見になりますかな。カバのまま」
「カバのまま……」
私は庭のほうを見た。カバの弟が、先生の庭の草をもしゃもしゃ食べている。先生は草刈りの手間がはぶけると喜んでいたけど、草を地面から直に食べるなんてやっぱり変だ。
一生こんなふうにカバのままなんて……しかも私のせいで。
暗い気分になっていると、それを吹き飛ばすかのように先生がひらひらと手を振った。
「まあ安心なさい。弟さんは毒蛇にも時限爆弾にもならない。たぶん、カバというのが性に合っていたのでしょう。人間のほうが性に合っているならじき戻る。カバのままなら……それはそれで、弟さん自身はしあわせということです」
弟の生活の足しに、と先生からコビトカバの図鑑をもらった後、私と弟は同じ道を引き返して帰った。相変わらず通りかかった人が驚いたり騒いだりしていたが、弟はお構いなしのマイペースで歩いている。カバの背中は日光を浴びて赤っぽい黒につやめいていた。すごく生き物っぽい。すごくカバだ。その背中を見下ろして歩きながら、私はだんだん泣きたくなってきた。
謝ろうかと思った時、カバの弟が大きな口を開いて、「ありがとね」と大きな声で言った。
「え?」
「姉ちゃん、おれがカバになっても見捨てないでさ、大家さんに頼みに行ったり先生に相談に行ったりしてくれてさ、おれ嬉しいよ。だから、ありがとね」
「そんなの、弟なんだから当たり前だよ」
カバ化は私のせいなのに感謝されても困る。私がつっけんどんに言い返すと、弟はゆったりした仕草で笑った。
「それ、それ。姉ちゃんがいつも通りなの、安心するなあ。おれがカバでも人間でも大丈夫だって気がする」
「大丈夫なわけないでしょ」
「大丈夫だよ」
弟がきっぱり言ったので、私はちょっと黙ってしまった。姉が弟を不安にさせてはいけないのに、とうとう本当に涙がこぼれそうだった。じっとこらえて歩く間、弟はバカの一つ覚えみたいに、大丈夫大丈夫と繰り返していた。
アパートに着くと、前庭に工事車両が入っていた。地面を掘って何か作っているらしい。何だろう。私たちが野次馬っぽく見ていたら、大家さんが「おかえり」と出てきた。
「二人とも、先生から電話で話は聞いたよ。弟くんはしばらくカバのままらしいね」
「ええ……ご迷惑をおかけします」
「いいんだよ。でもまあ、カバが暮らせるアパートにしなきゃならんからね。とりあえず、庭に池を作ってるところだ」
大家さんが自慢げに前庭を示した。確かに、穴を掘って池を作っているらしい。
カバの弟のために。
弟を受け入れてくれるんだ。
私がはっと大家さんを見ると、大家さんはにこにこ笑ってうなずいた。
「すごいね、おれのための池だって!」と弟ははしゃいだ声を上げた。「泳いで遊ぶのが楽しみだね」
「こら、まずは大家さんにありがとうって言いなさい」
私が弟を叱りつけたタイミングで、工事現場がうわっとうるさくなった。水道管でも割れたらしく、地面からガキンガキンと軽快な破壊音が響く。そして新しい池から、水が勢いよく噴きあがった。青空に向かった水がうっすら虹を作って、まぶしく私たちにふりそそいだ。
変身シリーズ 岩須もがな @iwasumogana
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。変身シリーズの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます