2.
「まさかね。二人合わせて一個しか食べれないとはね。ちょっと前まで、三つくらいは余裕だったのに」
薄めた橙色を水彩紙に広げたような秋空。冷たい向かい風が、優しく手の中を通り過ぎていくと、やっぱり、私には何も無いんだと実感する。
涙は、独りきりの夜に流れるだけのものじゃない。心の奥底から滲んでいく雨粒みたいなものだ。
見えないけれど、それは遠くの誰かの心に触れ、奇跡のような糸を紡いでいく。
そして、その糸が絡まるとき、ありふれた生活となって、私の前に現れる。
でも、その糸が解ける瞬間。
空が晴れたら、雨は乾いてしまう。今まで見ていた夢から覚めていくように、私たちは離れ離れになってしまう。
だけど、その終わりには。
晴れと雨、光と影。交わらないけど、全てを分かち合って――きっとすごく美しい空を見せる。
「――虹、架けちゃった。ごめんね、今まで、ずっと見せられなくて」
「……やっぱり、嘘でしょ」
「……?」
「今まで、大事なこと、隠して生きていたんだね」
「……フフっ。何言ってんの。私は正真正銘の『晴れ女』だよ」
「……優羽は顔に出ちゃうタイプだから。もうとっくに分かってるのよ。もちろん、あなたに会う前から」
答え合わせなんてしなくても、とっくに分かっていた。
この世に運命なんてない。全ては偶然だけでできていて、そこには人の思いや願いなんて、置き去りにされている。もちろん、いつの日か夢見た、馬鹿げた盲信すらも。
そんな風に彼女のことが分かるのは、私も同じだから。
「……ああ。うん。そうか。やっぱ、そうなるよね」
「……別に、責めてる訳じゃないけど」
「……えっと、ごめんね。今まで、嘘ついて」
ごめんね――その一言が、あの日の空みたい。すごく綺麗で、だけど泣きたくなってしまった、あの空の色。
ただ浮かんでは消えて、それを繰り返す。心はたった一人の少女を除いて――無情な世界から多くの笑みを消す、冷たい雨になっていく。
そんな気持ちを置いてけぼりにして、半分に割れたドーナツは、大きな虹を架けている。
起こるはずのない奇跡。それでも、ただずっと待ち続けていくみたいに。
ああ。やっぱり、私は――
「だけど、ずっと信じてるから。あなたのこと」
「……えっ」
「……ありがとね。あの日、声掛けてくれて。雨上がり、恋の味を教えてくれて。大きな虹を架けてくれて。こんな私を、幸せに、してくれて」
感極まって、思わず言い淀まってしまう。
それでも、私は言う。
「優羽、駅まで、一緒に行こう」
「……いや、いいよ。そこまでしなくて。待たせた上に泣かせたりして、そこから送り迎えなんて。めっちゃくちゃ申し訳ないよ」
「いや!いやなの!私、離れたくない」
「……えっと、そんなに?」
「……私ね、あなたともっと――離れ離れになるまで、話していたいから。だから、ドーナツでも食べながら、ね?」
「……フフっ」
「……何よ」
「……いやー、ねぇ。美散は正直者だなぁって」
「……私は、あなたみたいな嘘は付けないから」
「……あーわかったわかった。美散は相変わらず、寂しがり屋だなぁ」
「じゃあ、何から話そっか?」
「……これからの将来……仕事の話なんてどう?」
「……そういうのは後回し」
「うーん……なら、この虹の先には何があるのか、とか?」
高層ビル群の上、虹の描かれた方角。駅とは真逆の方角を、優羽は指さした。
「――このまま進みたいの。行けるところまで」
「行けないとわかる、そんなところまで、でしょ?長引きそうだけど、その分面白そう」
「じゃあ、決定だね」
幸福は停滞だ。
雨の中、二人で一緒に歩き回り、ドーナツを食べる、そんな日常。
だけど、今。
私たちは探しに行く。
虹の向こう。エンドロールのその先。
今の幸せを離して、新たな幸せを迎えに行く。
「優羽。ごめん。久しぶりに、手を繋ごう」
「……何よ、『ごめん』って。そんなのいちいち言わなくていいのに。やっぱり、あなたって、ほんと寂しがり屋だね。それとも、甘えたがりなの?うさぎさんみたいに」
「うー。だって私、面倒くさい性格だし」
「でもさ。好きだよ、そういうとこ」
「どうしたの?いきなり」
優羽は私の手を握る。
「『幸福』って、こういうことでしょ?」
頷く暇も躊躇う隙も与えさせず、彼女は言葉を放つ。やっぱり、あの日と何も変わっていない。私は、それが例えようもなく嬉しいのだ。
「よし。じゃあ、『いっせーのーで』、で始めよう」
ここから、日々は続いていく。
現実から逃げている私と、夢から抜け出した優羽。願わなくとも雨は降って、願ってしまうと、時々晴れる。そんな単純な世界で、掠れた心はいつしかすれ違っていた。
だけど、これからは隣り合わせ。
虹の向こう側を目指して、そっと足音を立てて歩き出す。片割れたドーナツと昨日までの足跡を、ずっと心から離さないように。
ぺトリコールは失われたドーナツをのせて 見春 @wjpmwpdj
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