雨上がり、虹を架けるドーナツ
見春
1.
雨の冷たい匂いが鼻を撫でる。何もかも濡らすような細い雨音が、耳までも包み込む。雨脚が強くなると、自然と足下を見てしまう。そこにはいつも、すっと足に馴染んだローファーがあって、それを見ると何だか安心するから、ずっと留まっていたくなる。
停滞は安心だ。安心は幸福だ。幸福は停滞だ。
だけど、いつも思うのだ。
後一歩足を踏み入れてしまえば――やっぱり濡れるのが怖くて、後ろについた足跡しか見ることしかできない。
そして、私は正真正銘の雨女だ。
異界から来た超能力者でも、真夜中に魔法を使う魔女でもない。歴史を狂わす科学的根拠も理論的証拠もない。願わなくともただ雨を降らせてしまう、そんな女子高生なのだ。
入学、卒業、受験、遠足、運動会、その他諸々。全部が好きではなかった。だけど何かの罰ゲームみたいに、その全てが雨模様だったから、いつしか興味を無くしていった。
「今日も、私のせいで、雨日和だね」
空に向かって、いつもの独り言。
別に信じてもらえなくてもいい。信じたところで特に役立つことはないし、信じない方がよいことだってある。
ただ、私は自分を信じている。それに理由なんてないから、単に信じるしかない。だから、ずっと変わらない。
停滞、安心、幸福。
悪くないなら、このままでいい。
だけど、涙ぐんだ空が変わらないままだと、私まで泣きたくなる。
涙は、独りきりの夜に寂しくなって流れるものではない。私にとっては、心の奥底から滲んでいく雨粒みたいなものだ。
私の涙は現実だ。感動も衝動も生み出さない、現実的な涙だ。綺麗な運命でもないから、不可思議的な偶然でもない。
その涙は、絶え間なく、ただじっくりと流れていく。
それは、一人が寂しいからじゃない。
ただ、雨が降ってるからだ。
そんな雨の中、一人の少女が駆け込んできた。
焦げ茶の瞳、瞳孔には緩やかに揺れる青。小豆色の髪は生まれつきのものだろうか。染めではないような自然な艶を織り込んでいる。
濡れた髪をハンカチで丁寧に拭きながら、その少女は言った。
「……大丈夫?」
「……えっと、濡れてるけど、そっちこそ大丈夫?……あと、あなた、誰?」
「何を隠そう、普通の女子高生。だけど、眼鏡をかけた女の子が泣いてるから。なんだか恋の予感がして、走ってきちゃった」
あまりにも的外れな発言のせいで、私の口はポカンと開き、涙は一気に興醒めた。
「……ほんとに大丈夫? あのね、泣き顔の眼鏡は、恋なんてしないの」
「――うわぁ、冷めてるぅ」
「はいはい。現実主義者でごめんなさい」
「えーっと。……あのー、現実主義者さんは、なんて名前なの?」
「
「美散さんは、なんで泣いてるの?」
「外、雨だから」
「雨が降ったら、あなたは泣くの?」
「……私、雨女だから。だから雨を見ると、泣きたくなるの」
「……雨女、ねえ。じゃあ、空が晴れたら、あなたは笑う?」
「……答えは、ノー。私は、笑わない」
「おっ、やっぱり! その答えも、話し方も、夢で見た雨女そのものだ!私、雨女に会いたいってずっと思ってたんだー!」
会いたい、なんて。初めて言われた。
「ねっ、別に、晴れていようが、嫌なことだってあるもんね! 私立受験の日、晴れてただけど、私普通に落ちちゃったもん! それに晴れの日だって悩みは尽きないから、天気なんて、関係ないよね!」
「雨も晴れも否定はしない。だけど、人に好かれるのは、晴れの方だと思うよ」
「……うーん。私はそうは思わないかな。雨は、私にとって優しいものだから」
「雨は、優しくなんてないよ。だって私を泣かすから。それに髪湿気るし」
「現実主義者で恋なんてしない。そんなあなたさえ泣かしてしまうから、きっと雨は優しい。そうでしょ、美散」
何も言えなかった。
初めて会う人に、いきなり名前で呼ばれた。
「だから、雫が優しさなら、陽照りは楽しい友情。大体そんな感じ。私の名前は、
これ以上ないといっていい。不可解で、無邪気で、自然と腑に落ちる自己紹介だった。
「それにしてもかわいいねー。現実しか見ないくせに、雨は泣いてまで信じちゃうなんて」
「いや、別に、悲しくなんて――」
「『悲しくなんて』。そんな言い始めは、悲しいと思う人の特徴。じゃあ、私が晴れにしてあげよう。そしたら変わるかな?」
「……変わらないよ。それに、雨を止めるなんて、願ってもできないよ」
「できるよ。だって、私、晴れ女だもん」
「えっ?」
何を言っているか分からなかった。
雨を降らす。その力は自分が持っているから、納得がいく。
だけど。空を晴れにする――そんなてるてる坊主とか写真アプリの擬人化みたいなものがこの世に、しかもこんなにも近くにあるとは思えない。
「――フフっ。こうやって驚いた表情を見るの、ほんとに大好き」
「そんなの、できないでしょ?」
「いや、できるの。私が願えば晴れ、あなたが願わなかったら、雨。世界ってさ、単純なんだよ」
「いや、ほんとに、意味がわかんないんですけど?」
「別に、どうもこうもないよ。あなたが雨を降らすように、私は空に青を塗る。そんな頭の悪い妄想を持った夢見るJKが、ここにいる私。それだけだよ」
「――」
気付けば、窓ガラスに打ち付けられていた雨音が、ただのささやきへと変わっている。
偶然かもしれない。だけどなぜか――
雨と晴れの願い、どちらも根拠はない。
半信半疑。それでも良かった。
雨空だって、たまには青空を信じていたい。
そう思った。思ったことは変わらない。変わらないから、私は歩き出す。
「この後、私は空に虹をかける。それであなたは涙を止める。ただ、それには儀式が必要。とても重大で、責任の伴うこと。それはね、私がこの世界で一番幸せだと感じること! だから、ドーナツを食べに行こう!」
♦
「ショコラフレンチ。私の一番好きなドーナツの名前」
そう言った後、優羽はドーナツを齧った。マダムやシニア、OLとカップルが集う喫茶店で、女子高生とは思えないほど豪快に。
見るからにフワフワなココア色の生地に粉砂糖をまぶした、正に普通のドーナツ。
それが、ショコラフレンチだった。
「あなた、綺麗」
「え、なになにいきなり」
「ドーナツを口いっぱいに頬張るの、あなたが一番似合ってると思う」
「……それ、褒め言葉?」
「うん。ドーナツを自信満々な表情で丸かじりできる女子高生なんて、あなたくらいだと思う」
「そういうの罵倒って言うの、知ってる?」
「言葉の暴力よりも、心が欲しがる甘いもの、でしょ?」
「おっしゃる通り。だけどドーナツってのは齧るものだよ。割ってしまうと、幸せも半減するよ」
「その根拠は?」
「ドーナツを円のまま齧るのは、この世で一番の幸せだから」
「優羽さん。それはね。理由と根拠じゃなくて、屁理屈と屁理屈って言うんだよ」
「むー! だ、け、ど!フレンチショコラは! 恋の味がするの! だから齧らなきゃなの!」
恋の味。ただ、ぽつり、繰り返す。
「私、食べたいなぁ……なんてね」
どんな表情するかな。怒るか、驚くか。わくわくだけは避けたいところ。
「いいよ。じゃあ、口開けて」
「えっ」
こういうとき、どうすればいいのだ。
食べたい、とは言った。
だけど食べさせて欲しい、とは言ってない、空に誓って。
考えるのをやめたいけど、それでも考えてしまう。そして少しだけ、想ってしまう。
私の心は、私にだけ、意地悪だ。
「『いっせーのーで!』、でやるからね!」
「あっ、うん」
「いっせーのーで」
一瞬だった。すぐに過ぎ去ってしまう。だけどその衝動に慌てて、戸惑うことしかできない。
「どう?ちるちる?」
「ちるちる、はやめて。呼ぶなら、みちる、にして」
「……いや、あだ名じゃなくて、味の感想を期待してたんだけど」
「……恋? の味かは分からない。まあ、想像通りの味。ふわふわしっとりショコラ味」
ちるちるが脳内で消えないから、韻を踏んだ食レポを口に出してしまった。
脳内で整理する。最初は甘くて、後からほろ苦い。柔らかな生地は、舌の上で泡みたいに溶けていく。
見た目通りの味。地に足の着いた日常の中で生まれた恋の味。女の子の理想を詰め込んだかわいらしいハートマークでは決してなかった。
「ちるちるとみちる。ちるちるみちる。わー、ねるねるねるねみたいで可愛い」
「人の名前で遊ばない。改造してお菓子みたいにしない。それと人の話は最後まで聴く……優羽、分かった?」
「……おー! いいね! 名前呼び!」
人を名前で呼んだのは初めてだった。
もちろん、名前で呼ばれたのも。
――この記憶は、ずっと残ってしまうのだろうか。
ドーナツを食べ終え、彼女はこんなことを言い出した。
「こんな日がずっと続けばいいのに」
私は思う。
続けたい。だけどその先には?
「ねえ、優羽。その幸せは満たされると、そこで終わる? それとも、また次の幸せへと進む?」
「――私は、進みたいよ。幸福をずっと変えて、『今』を過ごしていきたいな」
優羽はすごい。
私は、この幸せにしがみつくだけて精一杯だ。それだけで心が満たされるから、それ以上を望めないのだ。
いつも足下を見てしまう雨の日。
たった少し、だけどその一粒に濡れるのが怖くて、私は昨日の足跡を辿ることしかできない。
だけど、優羽はもう一歩踏み出して、明日への足跡を作る。
髪が濡れる。スカートが揺れて、その反動で水飛沫が舞う。そんなことなんてお構い無しに、前へ前へと進むから、次第に空は晴れていく。
「ごめんね、優羽。やっぱり私は、雨女だよ」
どれだけ近づいても、どれだけ話していても、どれだけ手を繋いでいても、いつか終わってしまう。彼女がはるか遠くに消えていくように見えた私は、そっと心を閉ざす。その閉ざした心は、涙みたいな雨を降らす。
「美散が雨を降らすなら、私はいつでも青空にする。そして、とびっきりの虹を見せてあげるよ」
雨は止んで、空が晴れていた。
そして、虹が架かっていた。
その虹はすごく綺麗で――だけど、とめどなく泣きたくなってしまうような色に見えた。
♦
優羽といるときが、人生で最も楽しい――そんな情熱的な想い、あったような、なかったような。だけど、確かだったのは、躊躇いなく伝えられる相手がいなかったこと。
だから、運命という漠然とした尊いものに真剣に向かい合うことはなかった。
それなのに。ふとしたとき――眠い目を擦って三限目の講義を聴いていたときや、寝落ちからはっと起きてしまったとき――彼女と過ごしたあの頃を決まって振り返ってしまう。心の奥底に溜めた思い出は、不意に降り注ぐ雨粒みたいで、いつも愛おしい。
空は幾分か晴れるようになった。だけどその日以降、虹は架からなかった。
彼女は嘘をついた。または、虹を一度たりとも願わなかった。そのどちらか。
答えは明白だ。空を晴れにする能力なんて、この世にないのだ。
嘘だったのだ。
願いだけで、空は青くならない。
誰もがそう思っても。分かりきっていても。
きっと、私だけは信じてしまうのだ。
そうしてずっと、雨は過去の乾いた思い出に張り付いていた。
「――もしもし、優羽。聴こえてる?」
「……四年会ってなくても、再会の第一声って、『もしもし』なんだね」
「……いきなり電話かけて、いきなりそんなこと言うあなたに驚いた」
「えへへ〜、四年ぶりだね。ちるちる」
「みちる、ね」
「はいはい。美散。ところで、なんか用?」
「……あのさ、週末、どこか行かない?」
「いやー、驚いた」
「……まあ、そりゃあ、ね」
「フフっ」
「――」
「……いきなり会っていきなり遊ぼうなんて、いつぞやの誰かさんみたい。まあ、オールフリーな日常だから、全然オッケーよ」
「……えっとね。ただ、どこか行きたくなって。そのどこかは、どこでもいいんだけど」
そうだ。私は、ただ――
「おお。すごい。ノープランでデートを誘う精神!憧れないなー」
「……そんなに言うなら、あなたの行きたいところでいい」
「うーん? ……まあそれは、行く先々で決めればいーんじゃ? 映画館、雑貨屋、カフェ、古着屋……色々あるよ」
「じゃあ。今週日曜。渋谷駅前、ハチ公のあるとこ。二時集合ね」
安易に手を差し伸べられても困るし、歩み寄って欲しい訳でもない。今となっては、涙なんてものもあまりに安っぽくなって、エンドロールは閉まらない。そんなことは分かってるから、その理解の向こう側には行きたくない。
だけど、ずっと待っていた。
だから、待っていてほしい。
浅くていいから、息をし続けていてほしい。ほとんど記憶が埋もれていても、言葉の破片や記憶の断片、その一つや二つでもいいから、優羽には覚えておいてほしい。
好きも、愛してるも、もう一度やり直そうも。
そんな言葉は、臆病すぎる私には似合わない。だからその代わりに、私は言うのだ。
「――この雨があがったら、ドーナツでも食べに行こう」
一緒にドーナツを食べて、話していたい。
もちろん、全てとは言わない。
ただ伝えたいことが、そのまま伝わって。
ただ届けたいものが、そのまま届けばいい。
――雨の日でも、悩みは尽きないな。
「じゃあ、また日曜日ね。おやすみ」
♦
晴れ女と一緒にデートに行く体なのに、この日さえも雨なんて。
自分を苛む。今からでも、優羽が来てからでもいい、とりあえず晴れてほしい。
優羽はいつも来るのが遅い。十五分や二十分は平気で遅刻する。社会人になったら苦労しそうだ。
――優羽は、どうなっているのだろう?
四年前。
あの日、あの時、あの空、あの匂い。
一度自分の心に染みついたものを頭では消したいと考えても、心では消したく無いと思っている。
だけどその拮抗は、彼女の目の前では無力に過ぎない。
「……おまたせ、結構待った?」
「……うん、待ってた。 ……じゃない。そんなに、待ってない、かも」
「……あー、結構待たせちゃったんだね、ごめんなさい」
高校時代、紺色のブレザーだったのが、今では暖かな見た目のムートンジャケットに。メイクやマニキュアの色だって変わっている。だけど骨格や肌の色はそのままで、一目で彼女だと判断できる。
「美散。まだそのローファー、使ってるんだ」
「うん。革靴って、中々壊れないし。愛着湧いたから、あともう数年はこのままかな」
「シンプルイズベストだけどさ。今だけだよ、お洒落できるのは」
「そういえば、優羽のやつ、可愛いよね」
「そうでしょ!ビットローファーって言ってね!ここに金具がついていて!しかもブラウンのスウェードだから、季節感あるの!」
「ふうん」
愚痴とかではない。だけど履く履かないにしろ、そんなの誰でも知ってる。だって、お洒落に疎い私が分かるくらいだから。
「まあ、歩きにくいんだけどね。小走りならできるけど、猛ダッシュはできないね」
今日は雨の中、駆ける優羽を見られないみたい。
渋谷駅前直結のショッピングビルをブラブラした。めぼしいものはなく――というよりも心が落ち着かずに何かを買う気になれなかった。その後、彼女は前触れもなく「ドーナツ食べたい」と言い出した。
店の内装は変わっていなかった。灯りも、音楽も、フローリングの傷や汚れだって四年前のまま。カウンター席に座ると、いつもの、コーヒーと焼菓子の香りがした。
「そうだ。あのドーナツ――私たちがずっと食べてたのって――あれ、なんて名前だったっけ? なんか、ふとしてたらなくなっちゃってて。思い出せないんだよねー」
ああ、なくなっちゃったんだ。
ショコラフレンチは、恋の味がする。
あの日、そう言っていた。
仕方がない。彼女の幸福は、ずっと変わり続けることなのだ。
「……私は、あんまりお腹すいてないから。コーヒーだけでいいかなって。だからテイクアウトにする。プレーンの、オールドファッションみたいなやつ」
「……あっ、そう」
テーブルに置かれたのは、砕かれたオレンジピールとピスタチオがのせられた、綺麗なチョコレートドーナツだった。
あの日齧った素朴なドーナツとは比べ物にならないくらい華やかで、美味しそう。
それは、ずっと楽しかった過去が、味気なく感じてしまうくらい。
「これ、雑誌にのっててさ。めちゃくちゃ大人気らしくて、食べてみたかったんだよー。美散。やっぱり、勿体ぶらずに、食べよう?」
「……いや、ほんとに、私は――」
「はい。半分あげる!」
彼女はドーナツを半分に割って、私に差し出す。そのとき、記憶の片隅にある何かが、心の奥底を静かに抉る。
「……おーい」
「――」
「……み、ち、る」
「――」
優しくない雨。
跳ねないローファー。
消えてしまった恋の味。
半分に割れたドーナツ。
変わってしまったあなたと、そこにあった幸福。
ブツン、と糸を劈いたように、心臓の脈動が揺れている。
何だかそれは――あの日の途切れた記憶が、思い出が、心が――青空に溶けていくみたいだった。
「ちるちる!」
「……えっ?」
「美散。泣いてるよ?」
「えっ?」
あれ。なんで、私。
「ごめん。私、なんか、ひどいこと言っちゃった? それとも、誰にも言えない悩みでもあるの?」
「……あっ、いや、そうじゃないよ」
「……じゃあ、どしたん?」
「……私も、わかんない。あれ、ほんと、なんでなんだろうね、もう」
脳は「泣きやんで」と言っているのに、心はそうしてくれない。涙を堪えようとしても、瞳はさらに弱音を吐く。
――こんな私だから、いつも雨空なんだろうな。
「もしかして!単位ヤバくて卒業できないとか」
「違う」
「じゃあ……バイト先で気になった子ができたとか」
「……そうじゃない、バカ」
「……えーっと、じゃあ……もしかするともしかしなくて、私と会うの、めっちゃ嬉しい、だったり?」
「……うん」
「えっ」
「……すっごく、嬉しい。ほんとに、ほんとにその通りだよ」
嬉しいのだ。
だけどそれ以上に、どうしようもなく悲しいのだ。
「そう。それはよかった……フフっ、最初に会ったときも、泣いていたよね。なんだか、よく分からない事で」
あの日も、今も。空が泣いているから、私だって泣いている。
「変わらないなぁ、美散は」
――そう。私は変われない。だけどあなたは、変わってしまった。
これでよかったんだ。
私の気持ちに、優羽は気付いていたなら。私の涙が、彼女の罪になってしまう。彼女を傷つけてしまう。
だから泣くことなんて、無意味で無価値なものでいいのだ。涙で滲むせいで誰の目も見れないなら、誰の目にもかからなくても構わないのだ。
それでも。
――それでも瞳から涙が零れるのは、きっと。
奇跡が起こらなくても、その奇跡を待ち続ける人がいるように。
愛し続けられない運命でも、その運命ごと愛し続けていくように。
いつか消える雨雲が、今は見えない青空を夢見るみたいに。
恋をしていた。「好き」なんて言いたくないくらい、好きだった。
「私ね。誰にも言えないんだ、あなたのこと。なんかね、昔の記憶を口に出すと、それだけで綻びちゃうんじゃないかって」
奇跡なんて、日常にはなかった。
その日常が、奇跡そのものだったから。
遠くにあるようで、ずっと近くにあった。
近くにあるからこそ、ずっと遠い存在のように見えて、気づけなかった。
だけど、手をどれだけ伸ばしても、「今」はあの日見た影みたいに遠ざかっていて、もう届かない。
だから、手を繋ごう、なんて言わない。
傍にいるよ、なんて言ってほしくもない。
そんなことを今言うと、未練しかなくて、その未練さえ否定してしまうと、やっぱり卑怯になってしまう。
だけど――いや、だからこそ、伝えたかった、届いてほしかった。
「ごめんね。いつも、泣いてばっかりで。私、ちょっぴりあなたを待ってたから、それでなんだか、ね」
――ずっと、あなたを待っていた。
ただ、それだけのことだった。
願いや望みなら、雨粒みたいに落ちてくるのに。言いたかったことは、ずっと、こんなちっぽなものだけ。
だから、待ちに待ち侘びたあなたを見ると、なんだか綺麗すぎて、不意に涙が溢れてしまっただけ。
「繊細だね、美散は。だから雨は優しかったんだよ」
優羽は私の頭を撫でる。「よしよし」なんて言いながら。
「ちるちるの手は、涙を隠してる。だから手は繋げられない。だけど、撫でてあげるくらいならできるよ……まあ、そっちのほうが恥ずかしいか、あはは」
優羽が優しくなることで、自分はただか弱い感情の持ち主で、それ以外の何者でもないということを知る。彼女の良さを一つ知る度、私のやるせなさが一つ露見してしまう。
「私も、会いたかったんだ。大学生になって、色んなこと経験して、夢から覚めたように全てが変わったような気がして、すごい嬉しかった。それをずっと誰かに言いたくて、でもその誰かって、一体誰だろうって――」
「……私を呼ぶとき、ちるちるは、やめて」
「……あっ、そうだ! ちるちるみちる! すっごく言いたかったの! ……言えたから、今すっごく心が軽くなった!」
美羽は、あどけなさ丸出しの会話をし始め、ついさっきの包容力を途端に捨てた。ちょっと残念だけど、それで涙は段々と収まる。
「あなたの心って、軽いんだね。何だか、ショコラフレンチみたい」
「……そう、それ! ようやく、思い出せた! すっきりした!」
ちるちるは嫌だけど、ショコラフレンチは好き。こういう甘ったるい会話、二人だけで浸っていたかった。
だけど話しすぎると、終わりがあることを知ってしまう。いつか終わりが来てしまうから、心は閉じたくなる。
ああ、やっぱり。ニコニコ顔でドーナツを食べる優羽は、すごい綺麗だな。ずっと綺麗だから、目を瞑りたくなる。
彼女には、そんな私になんて気づかずに、ただ明るく笑いとばしていてほしい。私は、優羽を見ると、私自身を少しだけ誤魔化していられる。
私の心は、私にだけ、少し意地悪になるみたいに。優羽の心は、優羽にだけ、優しくあってほしい。
「だからね。今日は、ありがとうって。そう言いたいの」
私は、彼女の優しさをそっと裏返す。
「私も、ありがとう」
「雨、弱くなったね。ちょっと外、出よっか」
優羽の髪。小豆色、というより、真っ直ぐなショコラ色のレイヤーカット。その髪は、柔らかな陽の光を透かしている。
それはどこか、真っ白な粉砂糖のかかった、あの日のドーナツみたいだった。
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