後篇
電車を乗り継いで、海辺まで行った。土曜の朝、一般的に早起きというには至らないだろうが、普段の俺なら寝ている時間。
学生の頃一度くらい訪れた記憶のある駅、改札を出てすぐのところに、彼女は既に立っていた。めずらしく、空ではなく駅のほうへ目を向けていた。
「すいません、お待たせしました」
「ううん、そんなに待ってないから」
別人みたいな彼女の姿を見つけて、俺はちょっと驚いた。上品な青色、一色のみのシンプルなワンピース。上に夏用の白っぽいカーディガンを羽織っている。そしてまるで恋人同士のような会話に、一瞬ひやりとする。
「黒木くん、今日は藍だね」
「……アイ?」
「うん、藍色。ちょっと濃いというか暗めの、青色の一つだよ」
「へー……」
自分では、青として選んだつもりはなかった。どちらかといえば紺とかネイビーのイメージで、いつも黒なのはどうかと、でも気張りすぎてもいけないだろうと、手元にあるものから何気なく選んだカジュアルなシャツ。
これを青だと言われると、同じ色を纏う彼女と並んで歩くのは、それに自ら進んで青を着てきたように思われるのは――なんだかまずい気がする。
そんな俺の密かな
梅雨明けすぐ、夏本番というにはまだ早い。人はそこまで多くない。ぎりぎり海開き前の時期に来られてよかった。
空は少し雲って、青というより淡い灰色。時折浮かぶ太陽は白。それを映す海もやっぱり灰がかって、ふと俺は青を見る目的としてどうだろうと思ったが、彼女は楽しそうだった。たぶん彼女の中では、この青にも何かしらの名前があるのだろう。
一通り海岸線を歩いたあと、砂の上に座った。彼女は用意周到にレジャーシートを持ってきていた。
近くまで穏やかに波が寄せて、また返ってゆくのを眺める。彼女の瞳はブルーグレーだった。
砂が敷き詰められた地面の上に、海の水が染みてゆく。その上にまた、波で運ばれた砂が重なって、また水が染みて――。
「ラングドシャだ」
思わず声に出していた。それに振り向いた彼女が、首を
「あー……その、水と砂が交互に重なって、あれみたいだなって。前もらったお菓子」
そんな
「でも、それを言うならミルフィーユかも」
「え?」
「ラングドシャっていうのは、ああやってチョコを挟んでることの意味じゃなくて」
海風に吹かれて顔にかかった髪を、彼女は片手で押さえながら話した。
「表面がザラザラしたクッキー自体のことなの。フランス語で、猫の舌。猫の舌ってザラザラしているでしょ?」
そういうことか。たまに会社でも配られるラングドシャなるものは、ああしてチョコレートを挟むことをいうんだと思っていた。
「だからね、交互に重なるのはミルフィーユ。千枚の葉。ああ、わかりやすいのはミルフィーユ鍋とか」
「……詳しいですね」
「甘いもの好きだからね」
満足げな顔は、おぼえたての知識を披露する子ども。今日の彼女は少女らしさしかない。ずっと大人だなんて言うけれど、年の差はきっと一つか二つ、本当はそのくらいの
またしばらく、黙って海を眺めた。
彼女のスマホのアラームは鳴らない。しかし日が落ちるみたいにじわじわと――実際の太陽はまだ大分高い位置にあったけれど――彼女の表情が大人びてゆく気がした。
それを横目に感じつつ、俺の胸はざわざわした。鳴らないアラームの音が徐々に大きく、フェードインしてくる感覚にとらわれる。それが錯覚ではなく現実のものとして響いたとき、俺はハッとして隣を見た。
彼女は特別動じることなく淡々と、帆布のショルダーバッグからスマホを取り出して、アラームを止めた。
そのまま画面をオフにしたスマホを見つめ、少しして、
「そろそろ、限界かもしれない」
限界。
彼女が何を言っているのかわからないと思いながらも、俺はどこかでその言葉の意味を理解していた。
バッグに再びスマホをしまった手で、彼女は別のものを取り出した。軽く掌に収まってしまう大きさの、個包装の四角い包み。ぴりりと破って、その中身を俺の眼前に差し出した。
「ラングドシャ、食べる?」
一つ瞬きしたあと、吸い寄せられるようにして俺の口はそれを受け取った。
瞬間、目の前の海辺の景色が途絶えた。パキッと何かが割れる音がする、少し遅れて口元に微かな痛みを感じた。
俺の
「さよなら」
呆然と、力の抜けた口元から半分になったクッキーがこぼれ落ちそうになって、俺は慌ててそれを片手で押さえた。中に戻し、噛み砕いてみれば血の味がした。
そうこうする間に彼女は、立ち上がり、より波に近い場所まで歩き出していた。陸と海の境界線、
立ち上がって、俺はそれを追いかけようと思った。けれど少し手前で、動けなくなって、ただ彼女の背を見つめた。
波の
風が、彼女の真っ直ぐな黒髪を揺らして、寄せては返す波間に、ぷくぷくと細かい泡が弾けて。白い太陽の下、彼女は振り返った。
透けるような光を纏って、目元にはキラキラ輝く滴。眩しくて、見えない。でもたぶん、彼女は笑っていた。そして泣いていた。
それ以来、彼女と会うことはなかった。
パートは辞めたのか、書店でも、その前にある公園でも、彼女の姿を見かけることはなかった。時間をずらして訪れたりもしたけど、結果は同じ。それにしても、同じ街に住んでいて一切見かけないのはさすがに不自然だ。どこか別の場所に引っ越しでもしたのかもしれない。
秋がきて、冬がきて、再び夏の足音が聞こえるくらいには時間が経った。
部屋で一人何気なくテレビをつけたら、海水浴特集なんてコーナーが始まっていた。画面に映る海をぼうっと見る。
ざらり、口の中に血の味が
血を含んだ、ざらざらしたクッキーの食感と、挟まれたチョコレートの甘さ。それらは俺の身体に流れて、巡って、生き続ける。ずっと。呪いのように。
ふと手首のあたり、浮き上がっている血管を見て思う。血って、青かったんだ。
どこからか、じわり、言葉にならない思いが忍び寄ってくる。
一体、何に対する思いだというのだろう。
彼女への想い? それとも、あのとき何も言えなかった自分への思い? わからない。
けれど、わからないままに、想いは容赦なく打ち寄せてくる。
そこに重なるように浮かび上がる、彼女の姿、風景、記憶。
想い、記憶、交互に、あの浜辺で見た、波に運ばれる海の水と、砂のように。
寄せては返し、ただ薄く薄く、重なって、積もってゆく。ずっと、ずっと。どこまでも。
――ラングドシャだ。
ううん、それを言うならミルフィーユ――
云えない 言葉を しまった あの日
ぼくらは すこし つよく なった
青い ワンピース はだかの 足首
あしあと サンダル 僕のあし
サヨナラと 愛してるは 似てるね
なんて、 だれかが いった
海風 背中 揺れる髪
白い 太陽 光る泡
想い 記憶 ラ
それを言うなら ミ
青い ワンピース
躍った 波は 僕まで 届かず
言葉 だけなら 忘れて しまえた
甘い 呪いは 喉元 過ぎず
振りかえる 笑いかける
見えないくらいに 眩しい光
血の味 巡りて さらに 濃い青
さよなら さよなら いまでも ずっと
想い 記憶 ラング・ド・シャ 出 万璃玲 @die_Marille
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