第24話 たくましくしなやかに


 

羽化への成長を見守り、保護とこれ以上ない安らぎを与えてくれた我が家だったが、その夜、真理は藤井家へ帰らなかった。七時過ぎに千明から電話がかかってきたとき、


「‥‥‥さっきはゴメンやで、千明さん。―――うん、今夜はここへ泊まるから、佐和子おばちゃんに心配せんように言うといて。―――うん、柴先生、もう起きてはる。二日酔いで頭が痛いて、氷で頭を冷やしてはるわ」

 

真理は素直に謝って、柴の様子を伝えた。淡々と千明に語りながら、この診療所が自分の新しい住処となる予感があった。


「ゴメンね、真理ちゃん。大変なことを押しつけちゃって。‥‥‥公夫君のこと、お願いね」

 

千明にも予感が伝わったのか、それとも、なるようにしかならないとの諦観に似た見極めであろうか、受話器からの声は弾んでいた。


「さぁ、柴先生。今夜はなに食べたい?」

 

頭に氷嚢(ひょうのう)を乗せナイター中継を観戦する柴に、真理はキッチンから朗らかに問いかけた。診療所の二階にはそれなりの厨房が設置されていて、日常生活に困ることはなかった。


「そうだな、何がいいのかな‥‥‥」

 

柴はテレビから目を移して、ここしばらくのはっきりしない、ぼんやりとした思案顔だったが、


「そうや、鯛にしょ。お刺身と、おいしい赤ダシ作ったげるわ。魚屋さん、まだ開いてるから」

 

真理は柴の大好物で今夜の食卓を飾ることに決めた。

 

―――鯛か‥‥‥。

 

記念すべき日には、一番ふさわしい魚であろう。今夜から、ここが自分の家になるとの予感が、このとき実感に変わったのだった。

 

実感を噛みしめながら自転車で夜の駅前へ出て、真理は三軒も鮮魚店をハシゴして買い物を楽しんだ。家へ帰ると、ナイター中継は終わっていた。


「ただいま」

 

キッチンへ立つと、これまで体験したことのなかった緊張が真理の体を貫く。さっき迄のほんわかとした新妻の気分に、覚悟と責任が加わったのだ。


「うん、うまい! やっぱり真理ちゃんの料理は最高だよ!」

 

その夜、久し振りに柴に笑顔が戻った。ブカブカの柴のパジャマを着て、真理がベッドの横に蒲団を敷いていると、


「‥‥‥あのさ、真理ちゃん。俺も男だから、こんなそばで寝られると、迫っちゃうかも知れないぞ」

 

冗談のつもりで脅かしたのだろうが、


「うん、かまへんよ」

 

真理に真剣な瞳で見つめ返されると、


「いや、冗談、冗談。冗談だよ。‥‥‥それより、明日の朝食はどうしようかな。真理ちゃんがここで作ってくれるんだったら、おばちゃんとこへ行かなくていいのかな」

 

困ったような仕草を浮かべ、柴は話題を変えてしまった。

 

翌朝、柴の目覚めは早かった。昨日は二日酔いで昼まで寝ていたこともあるが、ベッドの横で眠る真理が気になり、そう長くは寝ていられなかった。寝室の掛け時計は五時二分を指していた。


「‥‥‥おはよう、先生」

 

真理も眠っていなかったのだ。柴の目覚めを知ると、彼女は手際よく蒲団をたたんで、ぎこちない仕草で東窓のレースのカーテンを開けた。


「―――な、先生。朝陽がきれい」

 

パジャマ姿のまま、東の空に見入っている。


「本当だな」

 

山の峰々を照らす朝陽がまぶしかった。


「な、先生。朝ご飯の前に、ウチと散歩してくれへん?」


「‥‥‥そうだな、少し歩こうか」

 

昨夜の宿泊について、柴も真理と話し合う必要を感じていたがこの部屋で話すのは、やはり気が引けた。

 

秋葉神社へ足を延ばし、石段をゆっくりと上って、湯の山公園を巡る細い小道を二人並んで歩いて行く。小鳥たちも目覚めたところなのか、鳴き声や枝をついばむ動作がぎこちなかった。


「どうしたんだ?」

 

真理が〈恋むすび坂〉で立ち止まると、柴が振り向いて怪訝顔を浮かべた。


「‥‥‥ううん。ちょっとな」

 

何気なさを装い、朝露で素足とジーンズのすそをぬらしながら小走りで柴に追いつく。


「静かで、綺麗やね」

 

公園の小さな池の水面(みなも)に朝陽が写し出され、秋葉権現も荘厳な輝きを放っていた。


「‥‥‥そうだね」

 

山々や木々、そこに生息するものたちが、いま正に目覚めんとする息吹が沸き上がって来て、厳かな儀式が目の前で動き出す感覚に包まれるのだ。


「ほんまに、気持ちええ」

 

きらきらと水玉が光る芝の上を歩んでいると、真理は心までが瑞々しくなって行くのだった。

 

きみ待つ診療所へ戻り、柴に頼んでガレージのカローラを出して貰い、豊岡ジオ・コウノトリキャンパスへ連れて行ってくれるよう頼む。


助手席で聞きなれたエンジン音に和みながら大学へ着くと、六時を少し回っていた。正門前で、真理は急に改まって、自分の正面に立つ柴を見上げた。


「‥‥‥柴先生。お願いします。つらいでしょうけど、千明さんを諦めてください。千明さんは、三四郎さんと人生をやり直す決心をしています。‥‥‥私も女やから、千明さんの決意が分かるんです。生涯、男の人は三四郎さんだけだと心に決めています。たとえ三四郎さんが亡くなっても、これは変わりません。三四郎さんの思い出を胸に、千明さんは生きていきます。‥‥‥だからいくら待っても、千明さんは柴先生のところへは戻って来ません。‥‥‥本当に、ウチには分かるんです」

 

一つ一つ言葉を選んで、ゆっくりと話し始めたが、柴を見上げる瞳から大粒の涙が溢れた。言葉に詰まると、しばらく嗚咽を漏らしていたが、柴が口を開こうとすると、遮るように声を震わせながら続けた。


「‥‥‥その代わり、ウチ、―――ここへ入って、ここへ入って、一生懸命、勉強します。千明さんにはなられへんけど、きっと、近づくように努力します。せやから、柴先生も、もっと強う、たくましく生きてほしいねん。‥‥‥ウチ、もうイヤやねん。今までみたいな柴先生を見るの、つらいねん。な、お願いやから。ホンマにお願いやから‥‥‥」

 

最後の言葉を震えながら告げ終えると、真理は柴の胸に飛び込んで細い小さな肩を震わせて泣きじゃくった。


「―――分かったよ、真理ちゃん。よく分かったよ。‥‥‥一番大事なものが、やっと見えた思いだよ。悔しいが、マルニ堂のご隠居の言った通りだな」

 

柴は真理の肩を軽くたたいて、苦笑いを浮かべながら、天を仰いで目をしばたいた。


「―――さあ、忙しくなるぞー! 高卒認定の勉強に、看護師の国家試験。それに―――」


「診療所の事務員に、お手伝いさんでしょ」

 

真理は涙の顔で柴を見上げていたが、背中に両手を回すと、再び彼の胸に顔を埋めた。


「‥‥‥ありがとう、千明さん。ウチ、もう絶対、負けへん!」

 

柴の腕に抱かれながら、真理は何度も何度もつぶやいていた。千明と三四郎の恋が生涯をかける〈尼崎の恋〉なら、自分と柴の愛は〈城崎の愛〉と名づけ、ご隠居夫婦のように城崎町に溶け込み、生涯この愛を育んでいこう。三宮の高架下で千明と出会えたことが奇跡のように思われ、真理は自分を救ってくれた尼崎と城崎、そこに住む人々に感謝せずにおれなかった。


      


会いに来(こ)よ


恋むすび坂


柿の実の


色づきしころ


きみ愛に会う


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不良少女と貧乏ドクターの恋は、恋結び坂のある城崎温泉町で【兵庫きのさき温泉きみ待つ診療所】(整形外科医南埜正五郎追悼作品) 南埜純一 @jun1southfield

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