第23話 女二人


         

 体内時計が堅固なのであろうか。目覚ましの助けを三日も借りれば、真理は自然と起床時間が身につき、目が覚めてしまう。今朝も六時に千明が十年間愛用したベッドから身を起こし庭へ出ると、北に仰ぐ秋葉大権現と湯の山公園を眺めながら、両手を広げ大きく背伸びしてすがすがしい朝の空気を胸いっぱい吸いこむ。一日の始まりで、規則正しいリズムで真理の日常が動き出すのだった。


「さあ、今日は何が載ってんのかな?」

 

門脇の新聞受けから朝刊を取り出して、千明が愛用したニスの光沢も渋い桜材の机に広げ、一面を皮切りに紙面の隅々に目を通す。読めない漢字と分からない言葉は、右手を伸ばすと、書棚の漢和中辞典と国語辞書が教えてくれる。


〈年金と医療行政立ち遅れ〉。ここしばらくの紙面の常連で、〈きみ待つ診療所〉がなぜ繁忙を極めるのかの裏返しであった。世上を悩ます、良くない、というか〈年金と医療行政立ち遅れ〉に関する問題が、恥ずべき社会的・政治的理由の一位、二位だった。そして〈きみ待つ診療所〉が繁忙を極める理由の第一位は、診療所長・柴公夫の人柄だった。


〈妖しげな栄養ドリンクと点滴で老人患者を食い物!〉。最近マスコミを賑わし、死者を出す事態にまで至った医療機関や、生活保護受給者をターゲットに不要手術を施しては国庫からの保険給付金を詐取してきた総合病院。こんなとんでもない医療機関や病院に関する記事が後を絶たないが、この暴利医業の対極にあって、〈安心・安全・懇切丁寧・廉価医院〉が、誰いうともなく〈城崎温泉きみ待つ診療所〉の代名詞となってしまっていた。


「あ、ここや、ここや。ここが評判の、〈きみ待つ診療所〉や」


遠来の患者さんも最近増えだし、近在のご老人は涼みがてらの談笑に足繁く通うので、日中は演芸場さながらの賑わいを呈していた。


「柴先生、もうちょっと広いとこへ引っ越さなアカンわ。このままやったら、患者のおばあちゃん、おじいちゃんが入り切られへんわ」

 

最低でも一日一度、柴に促すのが真理の日課になってしまったが、


「そうだな、なんとかしないと駄目だな」

 

柴の返事はいつも生半可で、気のない回答が口から漏れるのみであった。三四郎の存在を知って余程ショックを受けたのか、ぼんやりと考え事というか、心ここに有らずの、何とも頼りない時間が多くなってしまった。以前はあんなに朗らかで、少しでも時間が空くと、


「真理ちゃん。おばちゃんと三人でドライブに行こうよ」

 

が口癖で、佐和子の手が塞がったときは、


「真理ちゃん、バイクでツーリングに出かけよう」

 

こちらが閉口するほどの誘いだったのに、最近、柴の声がかかることは皆無であった。


「柴先生。今度の日曜日、佐和子おばちゃんと一緒に、来日岳へ連れて行ってくれるて言うてたやろ。山頂から眺める、豊岡盆地に円山川、それに山陰海岸国立公園の絶景は最高やって、先生、言うてたやんか。ウチ、楽しみにしてんやから」

 

七月八日の金曜日、真理がしびれを切らして柴に促すが、


「え? そうだったかな」

 

彼の返事はいつもの気のないものだった。

 

マルニ堂のご隠居も心配して、口実を見つけては柴を誘い出そうと画策するのだが、武庫之荘から帰って以来、目論見が達成されたことは一度もなかった。


以前は酒席を設けると、一も二もなくというか、二つ返事が返ってきたのに、ここ一カ月、土曜は診療所の二階で一人酒をあおっていた。


「ごめんください。不良隠居のマルニ堂ですよ」

 

電話で誘っても断られるものだから、今日は本人自ら診療所へ出向いて来て、〈本日休診〉札のかかったドアを開けた。


「いらっしゃい、ご隠居。さあ、上がってください。すぐ柴先生を呼んできますから」

 

真理が甲斐甲斐しく待合室の掃除をしていたところで、その白いエプロン姿が何とも言えないほど可愛かった。


「いいねぇ、真理ちゃん。掃除機をかける姿が様になっていて、まるで新妻のようだよ」


「もう、いややわ。ご隠居いうたら」

 

ぽっと桜色に染まった頬を笑いでごまかすが、もしそうなれて柴を慰めることが出来るなら、真理はそれこそ、至福の喜びを味わえると思うのだ。


「‥‥‥ね、真理ちゃん。柴先生、ここの病気だね。武庫之荘から帰って来てからだから、原因は千明さんなんだろうね」

 

ご隠居が胸に手を当てて真理の顔をのぞき込むと、


「‥‥‥うん」

 

彼女は掃除機を片づける手を止めて、口元に寂しげな笑みを浮かべた。


「‥‥‥真理ちゃん。柴先生を救えるのは、アンタしかいないんだよ。ここは腕の見せ所だから、頑張ってくださいよ」


「もう、ご隠居いうたら、そんなことばっかり言うてからに‥‥‥」

 

ご隠居に肩をつかまれて真剣な目で見つめられると、真理は耳たぶまで赤くなって俯いてしまった。


「それそれ。こんな可愛い娘さんに気づかないで、出戻りのおばちゃんにウツツを抜かすなんて、柴先生の気が知れないよ」


「ご隠居! 怒りますよ! 千明さんの悪口いうたら」

 

今度は怖い顔で、真理はご隠居を睨み付けた。自分を贔屓にしてくれるのは有り難いが、千明の悪口はいかにご隠居でも許せないのだ。


「ちょっと待っててくださいね。二階へ上がって柴先生を呼んできますから」

 

ご隠居に断り、柴を呼びに上がると、彼はパジャマ姿のまま、ベッドに座ってウィスキーをラッパ呑みしていた。


「柴先生‥‥‥」

 

不精髭を生やした柴を見ていると、真理は悲しくなる。


「先生、朝ご飯も食べんと‥‥‥」

 

真理が持参した朝食にもまだ箸をつけていなかった。


「な、なーんだー。真理ちゃーんかー。きーみーは、いい子だーなー」

 

柴は泥酔状態で、目の焦点も定まらなかった。


「な、柴先生。昼間からそんなに呑んだら体に毒やわ。それに汗で体がボトボトやんか」

 

窓を開け放してはいるが、ほとんど無風で、アルコールのせいもあって体が熱病のように熱かった。


「さ、着替えて。横になろな」

 

クーラーのスイッチを入れ、窓を閉めながら、子供に接するように柴をあやす。


「ほらな、涼しなったやろ」

 

タオルで体を拭いて、新しいパジャマを着せていると、真理の目から涙が溢れる。これでは抜け殻ではないか。

 

―――こんな柴先生、イヤや‥‥‥。

 

柴を横にならせ、タオルケットをかけて顔の汗を拭いていると、


「ごめんください」

 

診療所のドアが開いて、聞き慣れた声が続いた。


「やあ、千明さん。柴先生に用なの? それとも真理ちゃんかな」


「こんにちは、マルニ堂さん。二人に用があって来たんですけど、二階ですか?」


「ええ。呼びましょうか」


「いえ、いいんです。上がっていきますから」

 

真理はしばらくの間、二人の会話を黙って聞いていたが、急に立ち上がると廊下へ出た。


「あら、真理ちゃん。公夫君はまだ寝てるの?」

 

千明が手摺を持って狭い階段を上がってくるところだった。


「千明さん! 上がって来んといて! お願いやから、上がって来んといて!」


「一体、どうしたの?」

 

勢いよく駆け下りてきた真理を抱き止め、千明は怪訝顔で見つめた。


「なあ、今日は何しに来たん? 三四郎さんとのことを報告に来たんか? 柴先生に断わりに来たんか? もしそうやったら、今日は会わんと帰ったげて。‥‥‥なあ、お願いや。もうこれ以上、柴先生を惨めにしたらんとってや。‥‥‥こんなん、なんぼなんでもあんまりや。柴先生が可哀想すぎるわ。‥‥‥千明さんも、三四郎さんも嫌いや。なあ、お願いやから、帰ってやー!」

 

真理は最後の言葉を震える声で告げると、床に泣き崩れてしまった。


「‥‥‥さあ、千明さん」

 

心配顔の千明の腕を取って、ご隠居は帰宅を促す。

 

―――真理ちゃん。いい世話女房になるよ。

 

千明と並んで歩きながら、一人ご隠居だけが満悦だった。


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