ある夏のことがら

岡池 銀

ある夏のことがら

 小学六年生の三月。

 小学校卒業間近のこの時期に、僕は部屋の掃除と整理に追われていた。必要な物と要らない物を振り分けて残す物と捨てる物を選んでいく。

 棒と紙で数を数える算数セット。これは要らない。

 バケツとパレット、それに絵筆。これは中学でも使う。

 そうやって押し入れを掘り出して、小学生活で使ってきた道具達に対し、多少の想い出を想起しながら机かゴミ袋かの行き先を決めていると一冊のノートが発掘される。

 埃は被っているが古くはない、見覚えのある日記帳。

 四年二組 金守かなもり真士しんじ

 パラパラと中を捲ると七月末からの日記が流れていく。毎日毎日変わり映えのしない内容の中、僕の手は日記の最後で止まった。


 八月三十一日

  あれはなんだったんだ。

  もしかしたら夢だったのかも。

  あの子は消えてしまった。

  神社に行ってもだれもいない。


 忘れていたつもりはない。まだ二年経っただけ。だけどあの時の事は今でも夢か現実かの判断が付いていない。ぼんやりとしているんだ。誰もあの日々が真実であったと証明してくれない。

 僕は日記を読む事にした。神社で不思議な女の子と出会った日から、その別れの日までを。

 小学四年生、僕の夏のことがら。




 小学四年生。

 学校生活にはとっくに慣れ、校内の景色に目新しさはない。年齢がようやく二桁に乗ろうかというこの時期に、僕は孤独だった。

 天蓋孤独という訳ではない。父親は居ないが母親が毎日世話してくれる。学校の中で一人だったのだ。


 子供というのは案外残酷なもので面白くない人間はすぐに除け者になる。遊び、勉強、運動。光る物がない人間には興味を失い除外されてはみ出してしまう。

 僕もそんなはみ出した人間のうちの一人だ。


 僕の除外の要因はゲームだった。

 クラスではゲームが流行っている。家庭用据え置き機。ポータブルゲーム機。そしてそれらの為のソフト。いずれも今現在コマーシャルが流れているような最新の物だ。そんな中で僕が持っているのは親の世代の古いゲーム機かジャンクショップで購入した三〜四世代前の物。新発売のソフトなんてあるはずも無く、新しく買ったとしてもカートに積まれた中古の物だけ。


 片親なのだ。金銭の余裕は無い。子供時分の僕ですらそれはわかっていた。わかってはいたが鬱屈としたやりきれない気持ちをいつも抱いていた。

 入学当初からの唯一の友達は最新ゲームを買った途端に別のグループに行ってしまい今はもう話しかけてはこない。


 僕は一学期の終わり、夏休みを目前にして一人になった。寂しくて辛い、とは思わなかったが毎日がとてもつまらなかった。

 休みの度に遊んでいた友達が別の子と遊ぶから、と家に行っても入れてもらえなかった時は疎外感を感じたがそれだけだった。


 そんな夏休みは毎日がただただ退屈だった。家に居ても誰もいない。テレビを見ても気分は乗らず、一日一時間の約束を破ってするゲームの時間も、コードが揺れるだけで電源が落ちるようならストレスになるだけ。不良という訳ではないが親の居ない所で毎日机に向かって宿題をするほど真面目でもない。


 夏休み、僕の一番の課題は毎日有り余る時間をどう消費するのか、というそれだけだった。

 家に居てもやる事がなく、外に行っても遊ぶ相手は居ない。そんな中で目を付けたのは児童館だった。友達と一緒に卓球やビリヤードをやったのは輝かしい思い出だが今の目的はそこに置いてある大量の漫画。少年漫画の単行本がずらりと並んだ本棚だけが僕の時間消費を手伝ってくれた。

 毎日毎日、昼食を食べに帰る以外は入り浸ってたくさんの漫画を読んでは一人ニヤニヤと笑っていた。


 そんな消費するだけの毎日なのだから宿題に出された日記の内容は誰が読んでもつまらないものだった。自分で読んでもつまらない上に変わり映えしない日常のおかげで書いてる内容も全く同じ。

「児童館に行って〇〇って漫画を読んだ。」

 たったそれだけ。唯一変わるのは日付のみ。こんな内容で提出しても良いものか、と考えもしたが嘘偽りなく書くならこれ以外はない。


 どうしてもこれ以外がないのだ。旅行にでも行けばまた変わるのだろうが、母親は忙しい上に金も無いので旅行どころか実家への帰省すらない。


 家と児童館を往復するだけの夏休みは、いっそ強制的に出来事が流れていく授業の方がマシとすら思える程、色褪せて退屈な毎日だった。


 そんな大半を無為に過ごす夏休みも終わりに近づいた頃の事。

 ある日、なんの気の迷いか僕はいつもと違う事をしてみようと思い立った。


 変わらない毎日に飽きが来ていたのだろう、その日僕が自転車を走らせた先は児童館とは別の場所だった。別の場所、なんて言うと初めからそこが目的だったように思われるがそんな事はない。ただフラフラと自転車を漕いでいたらそこに辿り着いただけだった。


 その日も外は暑かった。山を進んでいるので余計に感じる。じりじりと照りつける直射日光とアスファルトの照り返しが僕を苦しめ、玉のように流れ出る汗が僕のシャツをじっとり濡らす。


 暑いし張り付いたシャツが気持ち悪いしで正直最悪な気分だった。今すぐにでも冷房の効いた児童館へ行って涼みたかった。

 けれどその日の僕は何の負けん気か、ひたすら何かを求めて足を動かしていた。

 退屈な夏休みが嫌だったのかもしれない。

 こんな山道を行くのだからせめて何か一つでも良い物を見つけたかったのかもしれない。

 それとも、ここで最大限頑張る事でずっとこのままかもしれないという不安に諦めをつけたかったのかもしれない。


 そんな今にも帰ってしまいそうな情けない精神状態で自転車を停めたのは石段の前。

 走り通しだったので休憩したかっただけかもしれない。けれどそれ以外にもこの石段の先に何か心惹かれるものがあったのかもしれない。


 何せその日の僕はいつもと違う事をしたいと思って一人で山に行くくらいなのだ。そういうよくわからない理由でこの石段を上がるのも不思議はない。


 石段を一段、また一段と上がっていく度に奇妙にも暑さが少し和らいでいく。途中帰ってしまおうかとも思ったがこの先を見るまでは帰れないとやはり不思議な負けん気を発揮して石段の先、一番上へ上り切った。


 そこは寂れた神社だった。

 真昼だというのに樹木が茂っているからか妙に薄暗く誰も居ない事も相まって背筋に不気味な冷気を感じた。実際は涼風が汗を冷やしただけだったのだろうがその時の僕は確かに少しの恐怖を感じていた。

 少しだけある怖いの気持ち。

 それよりは大きな期待外れのつまらない気持ち。

 だけどそれよりも何よりも今の僕に必要だったのは体の冷却と水分補給だった。向かって右に見える手水舎に一目散に駆けて行く。


 流石に水筒も持たずにここまで来るのは危険だっただろうか、柄杓に直接口を付けるのは汚いだろうか、などと考える余裕はなく、僕はただ一心不乱に手水の水を啜り続けた。


 ようやく体も心も落ち着いて、さてこの後はどうするかと考えていたその時、僕は左手側、本殿がある方からの視線を感じて、そちらへ首ごと目を向ける。


 一層強い風が吹いた気がした。

 熱をさらに奪う風のはずなのに僕の体温は少し高い。

 巻き上げられた木の葉が再び石畳に降りる時、僕の目と心はその女の子に奪われていた。


 背丈は僕よりも小さいだろうか。よく梳かされた真っ直ぐな髪は雪のように白く、ほんのりと血色を見せる白い肌に柔らかく乗っている。


 身に纏った白い着物は知ってるものよりも生地が薄くそこだけは少しちゃちな印象を受ける。


 頬はややこけ、長い袖から覗く手は骨張っている様は彼女の虚弱さを静かに物語っている。


 しかし、その上でなお彼女の目鼻立ちは整っており、それが殊更この場の異様さを増していた。


 僕が彼女に気づいたように彼女もまた僕に気づいたようだが、彼女は何も言わずこちらを見てニコニコと微笑むだけだった。


 神社の子だろうか、神主さんが居てその人の娘なのだろうか、それよりも目も合っている筈なのに一向に喋りかけて来ないのは何故だろうか。


 普段の僕なら絶対にしなかった。

 日常でこうできるなら今一人でここに来ていなかった。

 今日の僕は怖いもの知らずで不思議な思い切りがあった。


「あ、あの……こんに、ちは」

 なんてぎこちないのだと顔を覆いたくなった。恥ずかしくて彼女の反応が見たくなかった。だけど薄ら目で見てみろ、彼女のあのきょとんとした表情を。まるで挨拶したとすら思われてない様子だ。柄杓を投げ捨てて逃げようとも思ったが何か一つ、一つだけでも反応が欲しくてその場で固まっていた。


 そして反応はあった。

 彼女はひらひらと袖を揺らして右へ左へ腕を振る。こちらを見て首を傾げ、次は歩いて右へ左へ。再びこちらを見て、まだ納得できないのか今度は小走りで近づくと僕の顔の前で手を振っている。


 それまで固まっていた僕も流石に目をしばたかせて顔を引いた。その瞬間、彼女の微笑みは好奇心の笑いに変わった。人差し指を一本立ててゆっくりと左右に、そうかと思えばこちらに指先を向けて蜻蛉取りのようにぐるぐる回す。怪訝に思いながら目で追っているとその指は彼女の顔の前で止まり


 パンッ!

 と、突然手を叩いた。

「わっ⁉︎ ったくなんだよ!」

 訳のわからない事をされたんだ、悪態だってつきたくなる。

「ああごめんね、まさかこんなに楽しいなんて思わなかったから」

 その悪態に対して彼女が返したのは悪意のない謝罪。そしてこれが僕と彼女が最初に交わした会話だ。


「で、何の用?」

 僕は態度悪く彼女に訊ねる。さっき驚かされた時に手水の縁に腰をぶつけていて痛いのだ。

「何の用? ……うーん、別に?」

 用もないのに僕の方を見てたのか。

「むしろ君の方が私に用があるんじゃないの?」

「別にこっちもないけど」

「だったらなんでここに来たの? 何かお願いに来たんじゃないの?」

 お願いって確かにここは神社だけど、僕がここに来たのに理由なんてない。強いて言えば偶然だ。


「たまたまだよ、たまたま通りがかったんだ」

「本当? ほんとのほんと?」

 随分としつこく食い下がってくるな。まるで願い事があってほしいみたいじゃないか。

「本当。暇だからここに来ただけ」

「ふーん……そうなんだ〜……」


 そう言って少し考え込むと顔を上げて、さっきまでのはきはきとした喋り方とは裏腹に恐る恐るといった様子で口を開いた。

「暇、なんだよね……?」

「そう言ったじゃん」

「じゃあさ、もうちょっとここに居て私とおしゃべりしていかない?」


 僕は舞い上がりそうだった。可愛い女の子とお喋りができる、というのも理由の一つだが一番大きな理由はまた僕に友達ができるかもと思った事だった。

 平気だと思っていた孤独な三十日は幼心に割と大きなダメージを残しその傷は人恋しさとして現れていた。


「ま、まあいい、けど……?」

 しかし素直じゃなかった。

 こっちは別に話したい訳じゃないけどそっちが話したいのなら話し相手になってあげる、というような、「僕はお話できても嬉しくは無いが?」と動じてないような態度を醸し出し、精一杯の背伸びをする。


「ありがと〜! ね、ね、何する? どんな事話す?」

 傍目には僕の見栄なんてバレバレだったはずだが彼女の態度は僕をさらに調子づかせた。


「え、あ、えぇっ! そうだな〜っ……と、とりあえず名前! 俺は金守真士! お前は?」

 見栄っ張りここに極まれり。友達の会話が失われた僕にうまく話題作りなどできるはずもなく、その上普段の一人称は僕なのに今は俺。しかもその垢抜けなさが見え透いていていっそ痛々しい。


 だけどそんな事がどうでも良くなるくらいの、まるで糠に釘打つような反応が彼女から返ってきた。つまり何も返ってこない。


「名前……?」

「そうだよ、名前」

 小首を傾げて目はうつろ。あれ、あれ、と言ってきょろきょろと首を振りながら困惑している。

 そんなにまずい事を聞いてしまったのか? 名前だけだぞ?


「い、いやそんなに言いたくないんだったら無理して言わなくてもいいから」

 そんな彼女を見てはこちらもたじろいでしまう。僕はおろおろとしながらも気分悪そうにぺたりと座り込んだ彼女の肩に手を置こうとしたその瞬間、血走ったように見開いた目が僕を見た……気がして手が止まった。


「……ど、どうしたんだよ」

「……」

「なあって」

 肩で息をする彼女の肩に手を置いたその時、僕の手は彼女の体をすり抜けた。


「……名前、思い出せないや」


 胸が早鐘を打つ。冷たい汗が背筋を通る。引っ込めた手の震えが止まらない。

 これは人間じゃない。

 可愛らしい表現をするなら妖精。

 脳裏に浮かんだ言葉そのままなら幽霊や妖怪。


 こいつの近くに居れば取り殺される。その直感が僕の足を鳥居の方へと向かわせた。駆け足で鳥居をくぐる。追ってきてないだろうなと後ろを振り返ると彼女はさっきと座り込んだ体勢のまま動いてはいなかった。


 そして俯いた少女の切なそうな表情を見た途端、僕の中であれだけ恐ろしいと思っていた僕の心は静かに冷め、彼女に対する申し訳なさが湧いてきた。


 当然だ。彼女は僕に何もしていない。勝手に僕が怖がっただけの事。

 そう理解した瞬間、僕の体は再び彼女の元へ動き出した。震える手をもう片方で押さえながらゆっくりと近づき、深く屈み込んで目線を合わせる。


「大丈夫か?」

 今の自分にできる精一杯の強がりで平静を装い彼女に優しく話しかける。それに応えてか彼女の反応も幾分か落ち着いたものになっていた。


「もう大丈夫。ごめんね、怖かったよね」

「怖くなんかねえよ。けどなんで名前聞いただけでそうなんの?」

「名前ね、もうずっと口にしてなくて忘れちゃったの」

「名前忘れるくらいってどんくらい?」

「百年くらい? お話する子は居るんだけどその子は私の名前を呼ばないから」


 開いた口が塞がらないなんて言葉は知っていても実際に体験したのは初めてだ。百年もの間この若さのまま生きていられる人間は居ない。間違いなくこの少女は人外だ。


「百……一応聞いとくんだけどさ、なんでお前の体すり抜けるの?」

「それはね」

「それは?」

「実は私、神様なの!」

 愕然としすぎて顎が外れそうだ。言うに事欠いて神様とは。神様ってこんなに気さくなものなのか。イメージにあるのとは全然違う。もっとヨボヨボの老人で偉そうな喋り方をする物だと思っていた。


「お化けとかそういうんじゃなく?」

「じゃなく!」

 鼻息は荒く、腰に手を当ててふんぞり返るその姿は神々しいだとか荘厳だとかでは決してない、少し頭が弱いのかな感を余さず溢れ出してくる。その様は僕に最低限あった警戒心をも解かせてしまった。

 とりあえずどうするか、何か神様だっていう証明でもしてもらおうか。


「じゃ、じゃあ神様? 例えば今俺が願い事とか言ったらそれ叶えてくれたりすんの?」

「それはどうだろ? 昔は力もあったんだけど今は弱いからな〜。あ、神様だからってあんまり畏まらないでもいいからね」

 そんな心配しなくても彼女相手に畏まったり敬語使ったりはしない。なんというか全く威厳がない。


「えぇ……じゃあ何ができるの?」

「そんな意地悪な言い方ないでしょっ⁉︎ 今はできないけど、昔はちょっと力を使えば稲が実ったりしたんだから!」

「あーはいはい、稲ね、お米ね。すごい」

「今私の事完全に馬鹿にしてる! こうなったら私の力見せちゃうんだから!」


 彼女はそう言って両手の掌を上に向けパン、パン、と柏手二回。するとどうだろう、彼女を中心に風が巻き起こり、風に乗って砂利が噴き上がる。舞い上がった砂が目に入って前が見えにくい。が、涙目の細目に彼女を見れば微かに光を放っているのが見えた。


 一体これから何が起こるのか。

 期待混じりに思った途端、風も光も落ち着き止んだ。


「え?」

 目を擦って完全に瞼が開くようになった時、目の前にあったのは膝立ちで胸を押さえている彼女の姿だった。

「……全然、……できないや」

「……いや、なんかすごそうなのはわかったし充分だよ」


 もしこれが中断されてなかったら一体どうなっていたのか。それはわからない。でも見なくてよかったと思う。きっとただでは済まなかっただろうから。


「何か見せられたら良かったんだけどね〜」

「別にいらない。体が透けるってだけでお前が変なのは伝わったから」

「厳しいな〜。……まあ何もできないし、してあげられないけど涼しいのだけは保証するからさ、ゆっくりしていってよ。お話しよ?」


 立ち上がって膝に付いた砂を払った彼女はバツが悪そうに笑って頬を掻く。彼女のその様子はやはり神様なんてものには到底見えない。普通の同年代の女の子だ。この子が神様な訳がない。

「いいよ。俺も話相手欲しかったし」

「ありがと〜! 何から話す? なんせ百年分だからね、お話ししたい事はいっぱいあるよ!」


 勢いがすごい。彼女に圧倒されている。思わず後退りしてしまいそうだ。けれど、それこそ百年分を一気に話し切ってしまいそうな興奮ぎみの彼女を手で制して一つだけ伝えておく事にした。


「ちょ、ちょっと待って。話すのはいいんだけど、俺さお前の事なんて呼べばいい? ずっとお前じゃなんか嫌だし……神様とか?」

「確かにお前って呼ばれ続けるのはなんか嫌だね。神様なんてもっと嫌だし。……うーん、そうだ、真士が付けてよ」

 真士っていきなり呼び捨てかよ。まあいきなりお前呼びの僕が言えた事じゃないか。

「俺ぇ〜? 名前なぁ……」


 たじろぎながら何か良い名前の案がないか周囲を見回してみる。そしてしばらく考えた後思いついた。

「ネネってのはどう? あ、いや気に入らなかったら別にいいんだけど」

「ネネってどういう意味なの?」

「いや意味っていうか、ここ神社だろ?」


 僕は落ちていた木の枝を拾って土に神社の漢字を書いてやる。そしてそれぞれの部首を丸で囲む。


「神社の漢字って縦に並べて左側だけ読むとネネってなるから。だから「ネネ」。神社に居たんだしこれが良いかなって。……いやほんと嫌だったら嫌って言ってくれていいから」


 なんか自分で思いついた事とはいえ話していて恥ずかしくなってきた。

 むしろ嫌って言って、「それならお前って呼ばれる方がマシだ」って言われた方が良いと思えてきた。


 僕は緊張で胸を高鳴らせながら彼女の顔色を窺う。口を噤んだままなのが余計に鼓動を早くする。

「……」

 どうだ?

「…………」

 どうなんだ?

「…………いい!」

「はぁぁ〜〜!」

 解けた緊張で止まっていた息が一気に吐き出る。ここまで緊張したのは生まれて初めてかもしれない。


「ネネ、ネネだね。せっかく付けてくれたんだもん。今度は忘れないよ!」

「そりゃ良かったよ」

「ね、呼んで?」

「へ?」

「だから名前。君が付けてくれたんだからまず君が呼んでよ」


 あ〜、名前付けたらそりゃ呼ぶ事になるよな。でも僕女の子の事苗字でしか呼んだ事ないんだけど。

「名前、名前な。俺が付けたんだもん。呼ぶよ」

「うん!」

 ネネ。ネネって呼ぶだけだ。一言口にするだけなのにまた緊張してきた。今度は顔まで熱い。

「言う、言うぞ……」

「うん!」

「言うんだからな!」

「うん!」


 彼女を直接見るともっと恥ずかしくなるから駄目だ。目を逸らして言おう。と思っていたのに彼女は僕の顔を覗き込んでくるではないか。

「そんなに見られると恥ずかしいんだけど!」

「だったら早く私の名前を呼んでよ!」

「わかった、わかったよ! ネネ、ネネ、ネネ! どうだ三回も言ったぞ!」

「くぅううう……」

 声にならない声をあげて震えているネネだが、それは恥だとか嫌悪ではなく激しい喜びを耐えて悶えているようだった。


「もう一回、もう一回呼んで!」

「なんでだよ! もういいだろ!」

 この後僕はしつこい催促の末、何度も何度も彼女の名前を口にする事になった。




「……もういい?」

「ふぅぃ〜、満足!」

 もうなんだっていいや。ネネが楽しそうでなによりだ。だけど流石に喋りすぎて疲れた。だがそれだけの事を話せたと思う。


 名前を呼ぶ以外に、話をした中でネネについてわかった事がいくつかある。

 元は人間で百年以上前に死んでいる事。死んで神様になった事。この神社の境内から出られない事。他の人には姿が見えない事。後は死んだ時の年齢が十歳である事。

「年上かよ!」

「すぐに追い越すよ」


 他にもネネは自分の事の他に百年の間に起こった事を色々話してくれたし、その時の彼女はとても楽しそうだった。だけどそれ以上に目を輝かせていたのは僕の話を聞いている時だった。


 驚いた事に彼女はこの境内にある物以外の物事を殆ど知らない。

 例えば自転車。僕が乗って来た物を見せたらぐるぐると歩き回って観察していた。百年前は自転車なんて無かったのか? それとももっと前の人間だったのか? それはわからない。


 ……ただまあ面白い反応が見られたのは良かったんだけど、これをまた下まで下ろさないといけないんだよな。


「なんか喋りまくってたらお腹空いてきたしそろそろ帰るわ」

 ふと空を見上げると薄暗くなっていた。夕方だ。思えば昼食も食べずにずっとここで彼女と話していたのか。

「また明日も来てくれる?」

「おう、なんだかんだ楽しかったしまた来るよ」


 僕は自転車に跨って階段下まで見送ってくれたネネに別れを言う。明日は弁当を作ってもらってそれを持って来よう。一食抜いたのは正直キツい。

「またね。気をつけて帰るんだよ」

「お前はオカンか。まあいいや、じゃあな」


 僕はすっかり傾いた日と山降りの風の涼しさを全身で浴びながらブレーキも掛けずに自転車を走らせていた。

 だけどそれが失敗だった。道中、調子に乗っていた為か子供にぶつかりかけてしまう。


「うわっ!」

 僕は間一髪でハンドルを切りブレーキを掛けて相手を躱せた。相手も身を引いてくれたおかげでお互いに怪我はなさそうだ。


「ごめん、大丈夫だった?」

 相手に怪我がなさそうなのは言った通りだがその恰好はこの夏の時期にしては妙だ。


 暗緑色の、長袖でボタンを上まで閉じた上着に同じ色の長ズボン。その癖帽子は被っている為僕から見ればチグハグなように見える。それに自分でもよくわからないがその子の格好には何かが足りないと直感した。


「ほんとごめん、怪我とか無かった?」

 再度謝ったが相手からの返事は無い。帽子のつばで隠れているがどうやら驚いているようで、それで声が出ないらしい。しかし不気味だ。危ないじゃないかと怒ってもよさそうなものなのに相手はこちらを見たまま無言を貫いている。

「大丈夫そうなら僕帰るから!」

 僕は怖くなって逃げるようにペダルに足をかけた。が、そのタイミングでようやくその子が口を開いた。


「関わるな、です」

「え?」

「あの子に関わるなです」

 僕が振り向いた時、その子は既に上の方まで歩いていた。なんだったんだ?

 とりあえず次からはちゃんとブレーキを使おう。




 帰ってからというもの、僕は神社での事で頭がいっぱいだった。久しぶりに同年代の子と話ができた事、女の子と話ができた事、また友達ができた事。


 今日の出来事は僕に瑞々しい刺激を与えて薄ぼけていた僕の夏休みがやっと始まったような気分になった。惜しむらくはその夏休みが後七日、今日を除けば六日しかない事か。


「どうしたの? そんなにニヤニヤして」

「いやそんなにニヤニヤはしてないよ」

 一緒に夕食を囲んだ母親が僕の異変を指摘する。顔に出ていたようだ。

「してるって。何か良い事でもあった?」

「んー……今日友達ができた」

 少し考えて隠す事もないと考えた僕は正直に打ち明ける事にした。


「もしかしてそれでお昼も食べずに遊んでたの?」

「うん」

「へー、あんたがね〜。どんな子なの?」

 だけどネネが女だって言ったら馬鹿にされるかもしれない。それは避けなければ。

「なんか変な奴だった」

「変な子ね〜、まあ悪い子じゃないならいっか。今度紹介しなさいよ?」

「嫌だよ。っとそうだ。お母さん、明日お弁当作ってくれない? そいつと遊ぶ時に持って行きたい」

「はいはい、今日みたいにお昼抜いて外で倒れでもしたら大変だからね。でもちゃんと忘れずに持って行きなさいね」

「はーい」


 明日は何を話そうか。ネネの事だ、きっと何を話しても驚いてくれる。興味津々で耳を傾けてくれる。そんな彼女の反応に調子づいて僕はもっとたくさん話すんだ。それを考えたら今から頬の緩みが止まらない。僕は遠足前日のように興奮しながら、いつもより少し早く布団に入り、そしてずっと遅くに眠りについた。




「いらっしゃ〜い。また来てくれたんだ」

「おう」

 翌日。弁当と水筒をリュックに詰めて僕は神社にやって来た。

「ね、ね、今日は何を話してくれるの?」

 僕は昨晩何を話すか考えて、そして思いついたのが漫画の話だった。漫画の話をするのだけどちょっと誇張して、さも自分が行なってきたかのように話すのだ。


「これは吸血鬼になった親友と戦った時の話なんだけどな」

「え〜喧嘩は駄目だよ〜。ところで吸血鬼って何?」

「……で、水に沈められたんだけどその時逆に考えてなんとか空気をな」

「すごーい、今もそれできるの?」

「いや〜、今はちょっと力を捨てちゃってできないかな〜」


「……それでそれで? 最後はどうなったの?」

「それで最後は一緒に海に沈んだんだ」

「そんなぁ……ってじゃあなんで今ここに……?」

「っていう作り話があるんだよ」

「作り話なの⁉︎ 真士さっき「俺は」って言ってたのに!」

「嘘だよ」

「嘘つくなんてひどい!」

 ひどいとまで言われたが目を輝かせながら聞いていたのはネネだ。そんなのを見せられたら調子に乗るに決まってる。

「でもネネを楽しませようと思ってつい」

「面白かったけど〜、でもそのままの真士で話して欲しかったな」

「わかったよ。次はそうする」


 一通り聞き終えた彼女は自分の膝の上で頬杖を突きどこか遠くを眺めている。僕はそのどこか憂いを帯びた横顔を水筒を傾けながら見ていた。

「どうしたんだよ」

「いいなぁって。外、面白い事いっぱいなんだろうなぁって思ったらちょっとね」

「ちょっと?」

「ここから動けないのが辛くなってきちゃった」


 そういうものなのか。外が面白いかどうかについてはあまり実感は湧かないけれど、しかし確かにずっとここに居る事を考えればずっと楽しくて面白いのかもしれない。

 いや、自分に当て嵌めてみればわかる、か。


 ひと月の間児童館と家とを往復するだけだった毎日よりも、この二日間の方がずっと楽しいし輝いている。

 新しい事、知らない事を知るのは楽しいのだ。だけどネネはいつも変わらないこの景色に囲まれてたまに人が来ても話はできない。それを百年以上もずっとだ。


 どうにかネネの力になってあげられないかな。


「何か俺にできる事ない?」

「いいよいいよ、慣れてるから」

「いやだって百年振りに新しい事をするってきっとすっげぇ楽しいと思うんだよ。俺なんてひと月振りにこうやって友達と話ができて馬鹿みたいに楽しいんだから」

 テンションが上がってるからか、嘘偽りの無い自分の本心が口からするする発せられる。

 今の自分がこんなに楽しいんだからネネにも同じように楽しんでほしいと、純粋にそう思っている。


「そうかもしれないけどね〜。私はここで縛られてないと駄目なんだ」

「縛られてって、確かに知らないものってのは怖いかもしれないけどさ、だからってずっとこのままだといつまでもつまらないままじゃん!」


 目を丸くして僕を見ているネネは、しかしそれでも意見を曲げずに「駄目だよ」と言って首を横に振る。


「まだネネと出会って二日だけど、俺今すっげぇ楽しいんだよ。今でこんなに楽しいならさ、ネネと一緒に神社の外でいろんな事をしたり、見たりできたらきっともっと楽しくなると思うんだ。……怖いなら俺いつも一緒に居るからさ、だから何か方法があるなら教えてくれよ。力になりたいんだよ……」


 身勝手で独りよがりな理由。自分の事しか考えていないジャリの理屈。思えば以前の友達は僕がこういう気持ちを出してから避けられていったような気がする。これはきっと僕の短所だ。

 だけどそうとわかっていてもいなくても、心に抑えが効かない。押し付けがましいが僕が楽しいと思う事をネネも楽しんでほしい。それだけが僕の頭を支配する。


「……はぁ、そこまで言うならわかったよ。でもやり方思い出すまで一人にしてくれる?」

 ネネはそう言って僕から離れると背を向けたまま突然屈んで胸を押さえだした。さらには寒さに震えるかのように小刻みに震え、その上肩で息をしだしたではないか。

「な、なあネネ……」

「大丈夫!」

 大丈夫か、と僕が言い切る前にネネは声を張り上げて答えを返し、そして後ろ手で僕を制して近づけまいとした。

「大丈夫、大丈夫、大丈夫……大丈夫、だよ……」


 しばらくそうしていると、やがて落ち着いたのか立ち上がり再び僕の元へと歩いてきた。けれど彼女の息はまだ少し荒い。

「ちゃんと……思い出したよ」

「うん。それで何をすればいい?」

 ネネは自身の右手を差し出し、それに僕の右手を重ねるよう促す。そして重ねた僕の手の上にまた彼女の左手を乗せるが、実体が無い為か少し不安定だ。


「じゃあさっきの気持ちを心の中で思って。口しなくてもいいから」

 僕は彼女の言う通りにする。

 ネネのおかげで今僕は楽しい。

 ネネにも僕と同じ楽しさを味わってほしい。

 ネネと一緒に未知を体験したい。

 ネネが未知に怯える時、僕が近くに居てそれを和らげてあげたい。


 僕がここまで思った時、重ねた僕と彼女の手が白くぼんやりとした光に包まれる。そして一秒もしないうちに光は消えた。


「い、今のは……?」

「今ね、私と真士の心と心が繋がったの」

「そう、なんだ……ところで今更なんだけど何でネネはここから出れないの?」

「言ってなかったっけ? 私ね、神社の外に出るとお腹が空いて消えちゃうの。神社にご飯を食べさせてもらってる感じかな」

 お腹が空いて消える? あれ、じゃあ僕の予想とは違った? それにだったら今のは……?


「じゃ、じゃあ今のってもしかして僕を食べるって」

「食べないよ」

 不安に駆られて早口になった僕を感情を感じさせないネネの一言が制する。

「大丈夫、食べないから。真士を食べるんじゃなくて真士の体からちょっとずつ栄養を分けてもらうんだよ。ね、だから大丈夫。真士は食べないよ。大丈夫」

 早口に呟いたネネの目が僕を見ていないように見えるのは気のせいだろうか。


「ネ、ネネ? 大丈夫か?」

「うん、大丈夫。それよりも早速試してみようよ!」

 彼女の声が、表情が、いつもと同じ溌剌としたものに戻る。

 今のはなんだったんだろう、と一抹の不安はあるものの、それを心の隅に追いやってネネに引っ張られて階段を降りる。


「……行くよ?」

「……おう」

 階段の下まで降りた僕達は手を繋ぎ、一、二の三、と息を合わせて石段から道路へと足を出した。

 彼女は不安げに目を瞑っていた。僕はそんな彼女を見ていた。残った足を前に揃えると、彼女の握る手の力が少し強くなった。


「どうだ?」

 ネネはぎゅっと閉じた瞼をゆっくりと開くと彼女の顔は晴れやかになっていく。


「わぁあ〜!」

 最初に会った時から表情がはっきりした子だと思っていた。笑う時は全身で笑うし、驚く時は大袈裟なくらいの身振りも加えて驚く子だった。

 今の彼女はそのどれよりも大きくはっきりとした喜びの感情で溢れていた。夏の陽差しを全身に浴びて感動を噛み締め笑っていた。


「あっはっはっははは、すごい、外だよ外!」

「ああ、そうだよ外だ!」

 今にも小躍りでも始めそうな彼女はさらに外へと歩いて行きたいのか握った手を離してもう一歩を踏み出した。……が。

「あ、あれ……」

 その途端に力が抜けたように膝から崩れさらにはその体を透かしていった。


「ネネ! き、消えてるよ!」

 僕は咄嗟の判断でネネを石段の方へと引っ張った。ネネが引っ張られた勢いで石段へ座った時、彼女の色は通常に戻っていた。

「はあ、はあ、怪我してないか?」

「う、うん……」

 俯き消沈するネネ。喜びの最中にこれ以上は進めないという失望を与えられてはそうもなるだろう。でもだからって諦めてほしくない。


「今日は……今日はさ、一歩外に出れたんだ」

「一歩だけだよ」

 ネネの心の傷は浅くはないようだ。今は愛想笑いすら浮かべない。

「明日やれば二歩進めるようになるかもしれないだろ」

「それでも二歩だけじゃない」

「でも歩ける範囲が広がったんだ。その次の日はもっと外に行ける」

「明日絶対に二歩歩ける、訳じゃないでしょ? きっと無理だよ」


 ネネの投げやりな様子に少しの苛立ちを覚えるが、それでも僕は諦めない。ネネが諦めたって諦めるもんか。


「行ける!」

「無理だよ! そもそもなんで明日の事を言い切れるの⁉︎ まだやってもないのに! 私はずっとこのままだよ、できるわけがないんだよ!」


 瞳を潤ませ僕を見上げて抗議するネネ。初めて聴く彼女の悲痛な叫びは僕の耳と心を強く鋭く刺激する。


「やってもないってそれはネネの方だ! やってもないのになんでできないって言い切るんだよ! 勝手に諦めんな!」

「勝手はそっちでしょう! 自分の事だけ考えて私を連れ出そうとして! 私は別にこのまま外なんか出られなくても良かったんだよ! ああもう、こんな気持ちになるんだったら最初からやらなきゃよかった!」


 自分勝手。確かに自分の都合しか考えてない。やってみて、できなかった時にネネがどんな気持ちになるのかなんて考えてなかった。


「……嫌だったのか? 外に一歩だけでも出た時のお前は嫌な気持ちだったのか?」

「嬉しかったよ……でもそのせいで今がもっと辛いよ!」

「だったら! 俺がもっと楽しませてやる! 俺が手を引いて少しだけしか歩けない中での楽しみを教えてやる! 辛いのを吹き飛ばすくらい笑わせてやる! だから、簡単に諦めんな!」


 心からの僕の叫びは山へ、土へ、石へ沁み入り、一瞬何もかも音が無くなったように静かになる。


 そして再び風が音を運んだ時、彼女は嗚咽を漏らしていた。声にならない声で泣いていた。


「もうずっと境内に籠もってたのに、できるかな……」

「できるよ。その為に俺が居るんだ。だからさ? 頑張ってみよう、な?」


 優しく肩に手を置き穏やかな語気でネネを諭す。彼女は泣いている。だけどその涙は悔しさと辛さだけで流したものではない。その暗い気持ちの中でそれでも頑張ろうと奮起したものの涙だ。ネネは溢れる大粒の感情を袖で拭い、ただ一言「うん」と呟き意志を示した。




 その日から目的の無かった僕と彼女の毎日に日課が定まった。

 外に出て行ける範囲を広くする。疲れたら境内で休み、外の話をしてネネの外への憧れとモチベーションを向上させる。体と気持ちが落ち着いたらまた外へ挑戦する。それを繰り返す。


 初日は何度やっても一歩が限界だった。けれど二日目、三日目は二歩、三歩どころか行動範囲が十歩、二十歩まで広がる素晴らしい成長を見せた。


 四日目も同じように範囲が広がったが、五日目は違っていた。

 あいにくの雨で午後二時頃まで僕が動けず、雨が上がって神社に着いた時には午後三時過ぎ。ネネとの日課はそれまでのような成果は上げず、行動範囲がさらに三歩程度広がっただけだった。


「朝は君が来ないから暇だったよ〜」

「ごめん、でも雨だったし」

「わかってるよ。ただね、君が居ない時でも頑張りたかったから一人で外に出てみたんだ」

「え、そうなの? どうだった?」

「ぜんっぜんダメ! 昨日の半分くらいで苦しくなっちゃった!」

「ダメだったのか」

「だからね、ちゃんと毎日来て? 私は真士とずぅ〜っと一緒じゃないとダメなの」


 そんなに頼られて照れない僕は居ない。顔面真っ赤で顔を逸らす。けれど僕の語調は、全然気にならないぜ、という風に平静を繕う。


「お、おう! 任せてくれ! ……あ、でも……」

「でも?」

「朝からずっとは難しいな。明後日から学校が始まるんだ」

「学校……」

「うん。学校が始まったら今日みたいに昼からじゃないと来れないんだ。ほんとごめん。でも休みの日は一日神社に居れるからさ」

「…………」

「こればっかりはほんとにごめん。ズル休みすると母さんめちゃくちゃ怒るんだよ」

「…………」


 ネネは顔を隠していて表情が見えない。残念に思っているのだろう。でもこれは譲れない。

 怒った時の母さんはこの世の何よりも怖いんだ。なんとなく学校に行きたくなくて嘘を吐いて仮病を使った日には鬼だって目じゃないくらいの恐ろしさで僕を怒鳴りつけた。


「でもちゃんと毎日神社に来るからさ、これだけは許して……ネネ?」

 どうやらネネは黙り込んでいる訳ではないようで、耳をすませば小さく何かを呟いているのが聞こえる。

 同じ言葉を繰り返している?

「……丈夫……大丈夫……大丈夫……」

「ネ、ネネ?」

 ああ、そうだ。ネネは偶にこういうスイッチが入るんだ。この時のネネは不気味で少し怖い。けれど大抵すぐに持ち直す。今だってそうだ。


「大丈夫! ちょっとだけ退屈だけど、でも真士はちゃんと来てくれるもんね!」

「ちゃんとわかってるじゃん! 俺絶対にお前を裏切らないからさ、だから待っててくれ」

「うん!」

 と、カッコつけて言ったもののもう既に日が傾いて西の空が暗くなり始めている。お腹も空いてきたし帰らないと。


「じゃあ、そろそろ帰るな」

 そう言って僕が鳥居へと駆け出した時、後ろのネネがまた何かを呟いているの聞いた。振り返りネネを見ると彼女の言ってる言葉がわかった。


 ──大丈夫。大丈夫。


 さっきと同じ。でも少し違う。


 ────今度は大丈夫。


 今度?

 今度ってどういう意味?

 口に出そうとした瞬間、ネネはこちらの視線に気づきにこやかに手を振っていた。

 何でもないのか。


 妙に引っかかるもの抱えながらも僕は石段を降り自転車を漕ぎ出した。

 坂道を下るんだ。スピードが出る事は以前の経験で知っている。ブレーキをかけて可能な限りゆっくりと、加速は緩やかに走らせる。そのおかげで今度は道を歩く子供を余裕を持って回避できた。


「あれ?」

 だけどさっきの子、前にも同じようにすれ違った気がする。

 そうだ、前に事故りかけて謝ったのに返事もろくに返さない子だ。今日も前と同じく長袖だったな。

 そういえばその時何か言われたよな。


 ───関わるな。


 結局何の事かさっぱりだ。

 話してみればどういう意味だったか教えてくれるかな。

 そう思い自転車を止めて後ろを向くとそいつはそっぽを向いて坂道を上り出した。

 頭の中のクエスチョンマークは消えないまま、僕は薄暗い空に気づいて自転車を進めた。




「雨降ってたんだけど、昼から晴れたじゃん? だから今日も山の神社に行ってさ」

「あんた最近よく喋るようになったね」

 夕食の席で今日の出来事を話していると、母親が料理にも手を付けず僕を見て目を丸くしていた。


「そう?」

「そう。あんたの新しい友達のおかげ? その子の事よっぽど好きなのねぇ〜」

 好き。自分の口では一度も言ってないがもしかしたらそうなのかも?

 そう意識した瞬間なんだか自分の感情がよくわからなくなる。鼓動は早く、顔が熱く、体全体がうずうずとしてじっとしていられない。

 今すぐにでも立ち上がり気持ちを落ち着ける為にひたすら歩き回りたくなるが、食事中に立ち歩くのは怒られるので理性で我慢する。


 けれど今僕は実感した。ネネの事が好きであると自覚した。自覚したと同時に今までのネネに対して発した言葉の数々が「好き」に由来するものだと理解した。


 なんだか恥ずかしいと思った。だけど嬉しいとも思う。嫌な気持ちは全然しない。


「いや……いや、そういうんじゃ……ないかもだし……そうかも……だし……」


 ただ一つ、この気持ちを他人に指摘されるのは明確に嫌だ。初めての感覚とはいえ、これがあまり大っぴらにするものでは無い事ははっきりとわかる。隠しておくものだ。


「ふーん……」

 この全部わかってるんだって風の態度もやめてほしい。

「もうなんだよぉ! 別になんだっていいだろぉ!」

「何にも言ってないけど?」

「目が言ってる! もう喋くってる!」

「ぷっ、なにそれ〜?」

「あぁもう笑うなよ〜!」

「あはははっ、まあでもいつか家に呼んできなさいよ。あんたとそこまで仲良しの友達私も知りたいし」

「また今度な」


 実はネネと出会ってから普段の話し方まで変わっていたのに僕はこの時気づいていなかった。ネネはこの一週間にも満たない間に変えてしまったのだ。それだけの影響力を持っていた。ネネが僕を変えたのだ。




「真士! 何あれ⁉︎」

「あれは信号。青が進めで赤が止まれ。黄色は注意」

「なんで? なんでそうなったの?」

「知らねぇよ! 偉い人が決めたんじゃねーの?」

「じゃあさ、なんで青と赤ははっきりと進めと止まれなのに黄色は注意なんて曖昧な感じなの? 注意してたら進んでいいの?」

「黄色はなんでそうなったんだろうな」


 翌日。夏休み最後の日。今日もまた僕は神社に来ていた。いつもと少し違うのは外の話を口だけじゃなくて実際に見せながらしている事だ。

 行ける範囲は今日もまた広がった。そのおかげで目に入る物が増えているのだ。

 彼女が目ざとく見つけた物を、「これは〇〇」「ごめんわからない」などと返していっては「そうなんだ〜」「また今度教えてよ」と言って返ってくる。

 僕が何を言っても笑って反応を返してくれるネネを見ると心が温かくなる。楽しくなってくる。


 見慣れた物でも隣の彼女が喜ぶと輝いて見える。彼女が色々な物に興味を示すおかげで、見慣れていると思っていても実は見えていなかった物が沢山ある事に気づく。知らなかった事が見えてくる。それは本当に素晴らしく代え難いものに思えた。


 けれど僕達二人にはままならない問題がある。

「あれ何かな? 行こ?」

「ちょっと待てって」

 走る彼女に手を引かれながら進むと突然彼女が転ぶ事がある。僕も釣られて転ぶのだが問題はそこではない。次の瞬間には彼女の色が薄くなって消える前兆が表れる。急いで引っ張ってやると元に戻るのだが、その時のネネはとても悲しそうに笑う。

 「この先は行けないみたい」と気分を沈める。その度に励ませば立ち直るがその後の彼女は少し窮屈そうに遠くを眺めている。




 どんなに成果があったとしても、まだまだ遊んでいたいと思っていても時間は無慈悲に過ぎていき、空を暗く染めていく。

 ネネと出会う前はあれだけ早く過ぎ去ってしまえと思っていた時間を、もっとゆっくりと進めと惜しむようになっている。

 この気持ちもネネとの一週間で生まれた感情だ。明日だって学校が終わってから会えるのに胸が締め付けられるように痛い。


「昨日も言ったけど明日からは毎日朝からここに来るのはできないんだ。だけど昼からなら来れるから、だからちゃんと待っててくれよな」

 本殿の段に並んで座り二回目の謝罪と二回目の説明を行う。僕だって一日中神社に居たいがこればかりは仕方がない。


「どうしてもダメ? 明日も明後日もその次も、いつもみたいに朝から夕方まで遊ぼ? お話もお散歩もいっぱいしようよ……」

 ネネからの懇願。手を握られてのお願いなんてされたら学校に行かなくてもいいかと揺れてしまう。

「来ない訳じゃないって。いつもより遅く来るだけだよ。それに土日は一日中遊べるからな」

「それはいつ?」

「今日が日曜だから六日後」

 僕が答えると彼女の握る手が強くなる。やがて痛いくらいに握られた手がふっと弛むと彼女は俯いたまま絞り出すように声を出した。


「仕方がない、よね。真士には真士の生活があるんだから……」

「……ごめん」

 震える声で静かに呟くネネに、僕は釣られて目の奥が熱くなる。


「大丈夫、大丈夫……大丈夫……」


 良かった。ネネもわかってくれたみたいだ。僕は握り返していた手を広げて立ち上がった。


「ネネ、また明日な」


「今度は大丈夫……って思ってたんだけどね……」

 しかし、ネネの手に再び力が籠もる。僕の手はがっしりと握られ離れない。


「ネネ?」

「真士。私ね、この一週間楽しかったよ?」

「そりゃ俺だって楽しかったよ」

「真士がしてくれる外の話はとても素敵で、憧れで、話を聞いた夜はずっとその事を考えてた。私も見てみたいってずっと思ってたよ。……今だってそう」

「……うん」

 ネネは僕の話で外への憧れを抱いた。その気持ちが行動範囲を広げる為の意欲となっていたのは間違いない。


「毎晩毎晩その事しか頭になかった。早く外にある色々な物を見たかった」

「だから俺が毎日神社から連れ出してやる」

「昨日真士が遅れたでしょ? 真士が来てからあまり歩けなかったでしょ? 行ける場所少ししか変わらなかったでしょ?」

「それは……」


「ねぇ? 真士は明日から遅れて来るって言ったよね。真士が居ない間私は外に行けないの? 真士が遅れたらその分私の世界は狭くなるんだよ?」


「それは……そう、だけど……」

「私はずっとここで我慢してたの。夜は真士が来ないからずっと我慢して待ってたの。ううん、もっと長い間私は我慢してたの」

 握られた手に爪が立てられ、痛いくらいに皮膚に食い込み血を滲ませる。

「痛っ……やめてネネ……」


「大丈夫、私なら我慢できる。大丈夫、今度はちゃんと我慢できるって言い聞かせてきたけど……もうダメ、我慢できない!」


 彼女は唐突に立ち上がるとその勢いで僕を押し倒し馬乗りになった。彼女の体重は驚く程軽かった。何も無いとすら思える程に。押し退けようと思えばできたと思う。だけどしなかった。できなかった。彼女の迫力に圧倒されて力が入らない。


「ごめんね。真士のおかげで楽しかったの。楽しくなっちゃったの。でもそのせいで真士が居ない時間がとても辛いの。真士と居られる時間が少なくなるなんて我慢できないの」


 ネネが僕を変えたように僕もネネを変えてしまった。

 僕と一緒に居たい。僕と話したい。そしてもっと広い世界を見てみたい。

 彼女の主張はただそれだけ。だけどその為に何をするのかは検討もつかない。わからないだけに恐ろしい。


「真士が一緒に居れば寂しくないの。離れるなんて嫌。一人で我慢なんてもうしない。真士はずっと私と一緒」

 目を見開き不気味に笑って僕を見ているのにその瞳は僕を見ていない。真っ直ぐ視線が注がれているのに僕じゃない僕を見ている。


「私の事嫌いじゃないよね? 私の事好きだよね? だから、ねぇ真士? 真士の心、私にちょうだい? その命ごとくれたら、そしたらもう離れ離れにはならないよ?」


 ネネの言い分を聞き終えた時、僕の心に恐怖は無かった。そしてこの後の決断に迷いも無かった。


 僕は確信したから。

 相手の事も考えずに自分の気持ちを押し付けて強引に主張を押し通し、相手に行動を強制する。


 僕とネネ。

 そっくりじゃないか、と。

 それが僕の中で確信できた時、似たもの同士である彼女の事を怖いとは思わなくなり、心の底から受け入れたいと思ったのだ。


「ネネ……」


「いいよね? 私に真士の命をちょうだい?」


「……いいよ。僕はいつもネネと一緒だ」


 ネネは僕の胸に手を置いた。僕はその手に自分の手を重ねた。二日目の時と同じように。すると重ねた手から溢れるように僕の胸から白い光が放たれる。それを見たネネは現れた光の塊を掬い上げるように持ち上げ自身の胸の前に掲げた。


 ああ、あれはきっと僕の命だ。魂だ。僕を僕たらしめる決定的な物なのだ。それが今僕の体から抜き取られた。大切な物が失われた感覚がある。けれどそれも少しの間だけ。次第に意識に靄がかかる。


 ネネが僕の両手ごと掬った命を口元に近づける。愛おしそうに見つめながら口を開けると命はするりと口の中へ消え口元を白く汚しながらごくりとそれを飲み込んだ。喉を通り体内へと命が落ちた瞬間、ネネは恍惚な表情で息を吐いた。


「ごちそうさまっ」

 ネネの弾む声を聞いた時、僕の体から一切の力が抜けた。持ち上がった両腕が重力のままに石畳へと落ち、ネネを向いていた僕の首は支えを失ったように横を向く。

 ……鳥居の方を。


 僕は閉じゆく瞼と消えゆく意識の最中、鳥居の下に立つ人影を見た。判別などつくはずもない状態の中、なぜかその人影に見覚えがあるな、なんて思った時には僕の意識はぱったりと消えていた。

 ──だから言った、です。

 ──関わるな、と。




「おーい、居たぞ〜!」

 張り上げた男の声と照らされた強い光で意識が戻った。

 冷たく硬い感触が僕の体を痛ませる。仰向けだったので背骨と肩甲骨が特に痛い。

 体を起こすと頭に溜まった血液がどくどくと流れて気分が悪い。

「この子か?」

「多分な。君、名前は?」

 二人の男が僕に訊く。その二人の他にも手にライトを持った複数の男達が僕を照らしながら歩いて来る。


 一体何の騒ぎだろう?

 この人達は誰だ?

 空が真っ暗だ。今は何時だ? 遠くを見やると街に光が灯っている。

 何があったんだ?


「うーん、喋れないのかな?」

「混乱してるだけだろ。もう一度聞くよ? 君の名前は?」

「金守……真士、です」

 ほらな、と言いたげな顔でもう一人を見る男。そしてこちらに向き直ると状況説明を始めた。


「君のお母さんが中々帰って来ない君を心配して、俺達警察に捜索願いを出したんだ」

 この人達は全員警察なのか。つまり僕は神社で日が暮れるまで寝込み、捜索願いを出される程度にはここに居たという事か。

 なんで僕はこんな所で寝る羽目になったんだ? 逡巡の末、今日何をしていたかを思い出した時、動悸が激しくなるのを感じた。


「ネネ!」

 僕が欲しいと言って押し倒してきたネネ。そして僕から命を取り出すとそれを食ったんだ。そうしたら……そうしたら誰かが来て……その後何があったんだ? 朧な記憶はまるで夢のよう。絡まった糸のように思考の前後が合わない。


「ネネ、って誰か一緒に居たの?」

 居た。間違いなく居た、のだけどネネは僕以外の人には見えないと、そう言っていた。


「ううん」

「そうか。まあとにかくお母さんが心配してるから帰ろう?」

 男は手を差し出して僕を引っ張り立たせた。


「みんなが君を探してたんだぞ? 次からはちゃんと日が暮れるまでに帰らなきゃダメだからな?」

「うん……っとっと」

 石にでもつまづいたか、転びそうになるが僕の手を引いていた男が倒れないように支えて転倒を免れる。


「大丈夫か、真士くん。この神社は何故かは知らんが熊でも暴れたのかってくらいボロボロでな、足元なんか酷いぞ」

 そう言って照らされた境内の地は土はぼこぼこと掘り返され、石畳は割れて砕けて捲れ上がっている。

 本当に何があったのか。昼間は絶対にこんな状態ではなかった。僕が眠っている間にこうなったんだ。でもどうすればこんな事になるのだろう?


 ──熊でも暴れたのかってくらいボロボロでな。


 もしかしてこの破壊の痕はネネにも関係があるのか? これに巻き込まれて怪我でもしたのか?

 ……まさか死んだなんて事はないよな。そう考えたら居ても立っても居られない。


「ネネ!」

 僕を見つけて一件落着と和やかに談笑する警官達を尻目に僕はネネを探して駆け出した。

「おぉい! せっかく確保したのにどこ行くんだよ!」


 手を振り解かれその上ライトまで奪われてバランスを崩した警官が僕に悪態を吐く。けれどそんな事はどうでもいい。

 無事な本殿へ上がって中を覗くが誰も居ない。ぐるりと本殿を見て回っても見つかるのは僕を追って来る警官だけ。そして山の木々の群れへと足を入れようとした時、僕は再び手を引かれる。


「勝手にどこか行かれたら困るな。それに急に突き飛ばしやがって……痛かったぞ」

「ネネが、ネネが居ないんだ!」

「さっき誰も居ないって言ってたじゃないか」

「女の子なんだ! 神様の女の子! 居ないんだよ!」

「神様ぁ? もう訳わからん事言ってないで来い! また明日探せ!」

 警官は僕を担ぎ持って石段を降りていく。


「わあっ! 離せよおっさん! ネネ、ネネ!」

「ああ、もううるさいなぁ! 今何時だと思ってんだ! 明日探すのは止めねぇから明日にしろっつってんだよ! お前のお母さんが心配してるって言ってんだろ!」

 僕はこの警官に連行されてパトカーに押し込まれてなお喚き散らした。だけど「こいつはめちゃくちゃ暴れるじゃねぇか!」と愚痴を吐いて振り下ろされた拳骨が車の中を静かにさせた。


 家に届けられてからは警察や近所の人に母親と謝罪と謝礼を述べて回り、家に帰ってから状況の説明を求められたので神社で眠っていて帰るのが遅れた事を伝えると説教と一発のビンタを受けた。


 その時の母親は泣いていたが僕は涙を流さなかった。胸にぽっかりと穴が開いた感覚があり、そのせいか痛いとも悲しいとも思えなかった。


 けれど夕食を食べ、風呂に入り、布団に潜り込んだ時、明日神社に行ってネネに会えなかったらどうしよう、と考えたら少しだけ泣いた。


 その日は夢を見た。

 神社でネネと遊ぶ夢。

 神社を出てネネと色々な場所に足を運び、いつものように質問に答える夢。

 神社に帰ってきて話をしている夢。

 日が暮れて僕が神社を去る夢。

 振り返るとネネが笑っていた。


「夢……」

 僕は夢の内容を思い出してまた少し泣いた。


 絶対にまた会えるはず、と思っても会えないかもしれない不安が勝って震えた。

 そんな不安を抱えたまま過ごした半日は気が遠くなりそうな程長く、昼前に帰れる短縮授業なのに一日以上待っているような感覚を覚える。


 学校から帰って来てすぐ僕は自転車に跨った。行き先は決まっている。


 僕は全速力で山を上り神社への道を急いだ。

 今日もまたネネの気の抜けそうな緩い歓迎を期待して。さりとてそれが無いかもしれないという不安は打ち消せない。もし会えたとしてそのネネは最後に見た怖いネネなのかもしれないがそれでもよかった。また会えるならそれでよかった。


 だけど、僕の期待は敢えなく潰れた。

 石段を上り、鳥居を潜った先には昨日見た破壊の痕。昨日見た地面と石畳、明るくなった為に見えた葉が落ちて枝も折れた境内を囲む木々。本殿だけがいつもの姿を保っていた。

 一気に時間が進んだようだった。それこそ百年も時が過ぎたようなそんな印象を受ける。


 だけどその中にネネは居ない。


 境内のどこを探しても、神社を囲む木々を分け入っても、神社を出てネネと行った周囲を見て回っても、どこにもネネはみつからない。日が暮れるまで探したがそれでもみつからず、暗くなって探すにも苦労したので家に帰ると今日もまた母親に叱られた。


 僕は自室に籠もってネネとの一週間を思い返した。僕達以外の誰も知らない特別な日々だった。とても楽しく輝いていてまさに夢のような七日間だった。けれど、だからこそその日々が真実だと証明する者は他に居ない。

 だけどそんなはずはない。僕は確かに体験した。ネネとの日々を経験した。これは絶対に嘘じゃない。そう信じている。


 けれど、そう強く思っても心の底に巣食った不安は拭えない。今にも這い出して包み込みそうだ。だから僕は昨日書けなかった日記にこの不安な気持ちを全部吐き出す。そうしたらこの不安はこれで終わりだ。


 そして不安をノートに閉じ込めたら、明日もまたネネを探す。明日会えなくても会えるまでいつまでも探し続けてやる。絶対に諦めるもんか。


 だから今は……今日だけ……今日までは思い切り泣きたい。


「うぅ……うぅぅ……うわああああっ」


 声を上げて泣いた。気が済むまで泣いた。誰もそれを咎めなかった。後で理由を聞いてくる事もなかった。ただ次の日の朝食が少しだけ豪華になっていた。母親の無言の気遣いが嬉しかった。僕は気持ちを新たに今日もネネを探しに行く。


 八月三十一日

  あれはなんだったんだ。

  もしかしたら夢だったのかも。

  あの子は消えてしまった。

  神社に行ってもだれもいない。




 日記を閉じると感慨深い気持ちが込み上げてきた。今の僕があるのはこの時のおかげなのだとしみじみとした気持ちになる。


 僕はあの日から毎日毎日ネネを探し続けた。しかし一向にみつかりはしない。あの何かを知ってそうな長袖の子にも会えなかった。


 あまりにもみつからないものだから僕は捜索範囲を広げた。神社の周りだけではなく、浜の方や隣町、挙句の果てには山を越えて向こうまで探した。そうまでしてもネネはみつからなかった。


 だけどその小さな旅とすら思えるその道中で僕はネネ以外の色々な物に出会った。

 本でしか見た事のない虫、社会の授業で聞いた段々畑、潮の匂いに波の音、初めて行く街の小さな店。


 全部、全部、ネネとの出会いがもたらした変化が与えてくれたものだ。


 僕をこれだけ変えてくれたネネが結局何者だったのか、確かな事は言えないがこの町の郷土史料を調べて一つの推測を立てた。


 その昔この地域では飢饉が起こっていた。その為当たり前のように口減らしも行われていたようだ。


 けれどそんな中で自分達とは違う特徴を持つ赤子が生まれた。彼らはその子を特別な神の子として大切に育てた。この子が自分達を救うのだと信じて。傷つかないよう、餓えぬよう、他の子供を殺しその子らの食う分まで与えて大切に育てた。


 そしてその神の子が十になった時、大人達は神の子を天に還した。するとどうだろう、痩せて枯れた地に命が芽吹いた。それまで見た事もない豊作になったそうだ。

 大人達は感謝してその神の子を本当の神として奉り社を建てそれを納めたそうだ。


 それ以上の詳しい事はわからない。ネネは生きている時の事を何も話さなかった。覚えてないと言って笑うだけだった。けれど、この史料を見て僕はネネの孤独を感じた。


 恐らくネネは絶対に死なさないように監禁されていたのではないだろうか。生まれてからずっと閉じ込められていたのではないか、と思うのだ。その上自分以外の子供は殺されていて居ない。


 きっと孤独で退屈だっただろう。でも大人はそこから出てくるなと言って閉じ込めた。外に出る事は叶わない。ずっとずっと我慢していたのだ、とそう思わずにはいられない。


 以上がネネに対する僕の考察だ。

 これが正しいのか正しくないのかは重要ではない。

 ただネネが今も独りで居るのなら側に行きたい。僕が一緒に居ると伝えてやりたい。そしてネネに感謝を伝えたい。ネネのおかげで僕が変われた事にありがとうと伝えたい。


 そう、僕はネネのおかげで変わったんだ。

 陰気で内気だった僕が外に、世界に目を向けて毎日小さな旅をしている。この旅の中でネネに会えないのは今だって寂しく思うが、この旅で出会う新鮮な刺激は好ましい。

 その刺激がネネとの想い出を一層強く感じさせるからだ。ネネと出会う前の僕との変化が確かに感じられるからだ。


 だから僕は探しに行く。趣味がこんなだからか友達は今でも居ないのだが、あの時と違って今の僕は充実している。


「さてと、整理もそれなりに終わったし、今日はどこに行こうかな」


 今日はどんなものに出会えるだろうか。

 新しいものに出会えるだろうか。

 綺麗なものに出会えるだろうか。

 ネネに、また出会えるだろうか。


 期待に胸を膨らませながらドアを開けると、近所の桜に一輪だけ花が咲いていた。

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ある夏のことがら 岡池 銀 @okaikesirogane

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