合同学園祭は、概ね好評のうちに幕を閉じた。翌日の日曜日は後片付けに追われたものの、月曜日にはすっかり校舎は元の姿を取り戻していた。

 早朝に登校した私は、家庭科室に立ち寄った後、教室へ向かった。

 人もまばらな教室には、弓道部の朝練を終えたばかりの椿がいて、ぐったりと机の天板に突っ伏していた。


「おはよ、椿」


「……はよ」


 くわぁ、とあくびをかみ殺しながら身を起こす。


「いよいよ週末だね、秋都大会予選」


「そうね」


 椿は団体戦メンバーに選出されたそうだ。海浜の弓道部はそれなりに大所帯なので、選抜は快挙と言っていい。試合(というのだろうか?)は地方の武道館で行われるので、一応、応援には行くつもりだ。多分、掛け声とかダメなんだろうけど。


「あれ作っていってあげようか。ハチミツにレモンスライス入れたやつ」


「昭和の女子マネージャーじゃないの」


「やかんに麦茶とか」


「いらないわよ。バスケ部じゃあるまいし」


 つれないことを言う。

 私はスクールバッグから教科書とノートを取り出して、机の天板に並べた。一限は数学だ。少し予習をしておかなくては。


  †


 放課後になり、生徒会室へ向かう。

 一大イベントが終わり、一旦は平常運行へ戻るものの、遠からず生徒会選挙が控えている。

 自分でいうのもなんだけど、私は次期会長の大本命だ。他に立候補が出てこなければ、すんなり会長に決まるだろう。

 生徒会室に入ると、神楽坂会長がシステムチェアに腰かけて、ぐるぐると回っていた。小学生か。


「おや、桜ちゃんだ。相変わらず、君は真面目だな」


「性分なので」


「選挙の応援演説、誰に頼むか決まった?」


「普通にクラスメイトにやってもらおうかなと思ってます。弓道部の」


「ま、適当で大丈夫だよ。桜ちゃん優秀だから」


 さて、どうだろうか。

 平常運行といっても、その平常運行が忙しいのが海浜生徒会だ。各クラスから提出された売り上げを精査し、ちょろまかした不届きものがいないかをチェックしていく。ちなみに、学園祭の売り上げは、基本的に来年の学園祭予算のためにプールされることになる。いくら繁盛しても儲かるわけではない。

 でも、後輩のために何かを残せるというのは、案外悪い気分じゃない。

 どうせ一日で終わる仕事ではないし、先週末の疲れもあろうということで、早めに解散となる。17時だ。

 私はスクールバックを肩にかけて、家庭科室へ向かう。

 秋が深まっていくについて、どんどん日が短くなっていく。リノリウムの廊下は真っ赤に染まっていて、まるで紅葉が敷き詰められているかのようだ。

 廊下の窓から吹奏楽部の奏でる「シング・シング・シング」が聞こえてくる。私の上履きの靴底が、きゅっきゅっと音が鳴らす。

 足取りは弾むように軽いのに、心は少しだけ重たい。

 二階の家庭科室に着く。

 引き戸を開けると、篠森がいた。彼女はいつものように丸椅子に腰かけて、文庫本を紐解いていた。


「篠森」


 いつもみたいに名前を呼ぶ。濡れ羽色の髪がさらりと揺れて、篠森が顔を上げた。


「おまたせ、来たよ」


「はい」


 篠森はバッグに本を仕舞いながら、私を見た。


「言われたとおり、お米だけ炊いてますけど」


「うん。ちょっと待っててね」


 私は業務用冷蔵庫を開けて、朝のうちにしまっておいたものを取り出した。Mサイズの卵が三つと、豚バラ肉。玉ねぎ。

 それから、篠森が常備している各種調味料を調理台に並べていく。みりん、醤油、砂糖、顆粒の和風だし……。

 篠森が目を丸くした。


「先輩、これって」


「多分、行けると思うんだよね」


 鳥と豚肉の違いはあるけれど、多分なんとかなるだろう。

 玉ねぎの頭とお尻を切り落として、皮を剥く。半分に切って、細切りにする。豚バラを一口大に切って、フライパンを火にかける。

 ごま油を垂らして、まずはタマネギを飴色になるまで炒めていく。焦がさないように豚肉を入れて、同じように火を通す。ざっくりと火が通ったら、みりんと料理酒を入れてアルコールを飛ばして、水と砂糖、醤油、顆粒だしを加えて煮込む。あまり沸騰させないように、弱火で丹念に。

 並行して、卵をボウルに割入れて、ホイッパーでかき混ぜる。食感の違いを楽しめるように、白身は潰しすぎないように気を付ける。

 卵液を、フライパンへ回すように注ぐ。一度に全部入れてしまうのではなく、二回に分ける。菜箸で卵をゆるく混ぜながら、火の通りを調整する。

 ここ、というタイミングで火を止めて、蓋を載せて蒸らす。

 蓋を外すと、ふわっと出汁の香りがした。

 丼にご飯を盛り付けて、タネをよそう。


「……他人丼」


「料理教室でさ、親子丼作ったんだよね。だから、今なら作れるんじゃないかと思って」


 完成した丼を、篠森の前に置く。

 彼女は、どこかぼんやりとした目で私の作った他人丼を見下ろした。


「ど、どう?」


「……美味しそうです」


「食べてくれる?」


 篠森は、ふっと気が抜けるような笑みを浮かべた。


「なんでそんなこと聞くんですか。ダメだって言われても、これは私が食べますから」

 

 知らず知らずに、口角が上がっていく。なるほど、これは──楽しい。

 今度、藤乃ちゃんにも作ってあげよう。

 でもこの場所で、私が藤森に手料理を振舞うのは、きっとこれが最後だ。

 いただきます、と篠森が言った。私も同じ言葉を言って、箸を手に取る。

 ──うん。ちゃんと美味しく出来ている。

 卵は黄身の部分がトロトロで、白身はつゆを吸って膨らみ、やわらかく固まっている。タマネギも豚肉も味が染みて、噛み締めるとぎゅっと幸せが口の中に広がっていく。

 半分ほど食べたあたりで、私は一度箸を置き、篠森を見た。


「……? なんですか?」


「美味しい?」


 篠森が、二度まばたきをした。


「美味しいです、けど」


「そっか。よかった」


 しばし迷った後、でも結局、私は口を開くことにした。


「私、やっぱり料理の勉強をしようと思う」


 篠森の顔に、どこか不安そうな影がよぎった。


「やっぱり、鶴ケ谷さんと料理教室に通うんですか」


「違うよ。いや、それもアリかなって思ってるけど、そうじゃなくて。私が言いたかったのは──私はもう大丈夫だってこと」


「え?」


「ちゃんとご飯を作って、ちゃんと食べれるようになるから。篠森がいなくても。この同好会が無くなっても」


「……は?」


「だから篠森は、私のこと、気にしなくていいからね」


 目の奥が熱くなってきた。今更だけど、この場所が無くなると思うと、すごく寂しい。


「ちゃんと双葉さんのご飯食べて、残しちゃだめだよ。これからも、たまには一緒にご飯を食べようね」


「…………は?」


 ずぴ、と鼻を啜る。

 なぜか怪訝な顔をした篠森が、眉間にぎゅっと皺を寄せた。


「あの、すみません。さっきから先輩が何を言ってるのかさっぱりなんですけど」


「……? だって篠森、双葉さんと和解したじゃん」


「和解って、そんな大げさなものじゃないですけど。ただ、あの人のご飯を食べてあげてもいいかな、ってだけで」


「だから、晩ご飯は家で食べるようになるんでしょ」


 料理研究同好会は、篠森が自分で夕食を作って、自分で食べるために立ちあげた同好会だ。双葉さんの料理を食べることを受け入れた今の篠森には、この同好会を続ける理由がない、はずだ。

 それだけじゃない。4月の頃と違って、今の彼女には仲の良いクラスメイトだっている。撫子と呼ばれていたあの子と一緒に遊んだり、帰ったりする時間だって必要だろう。

 この同好会はもう役目を終えたのだ。

 嵐が過ぎたなら、冬が過ぎ去ったのなら、シェルターを出て歩いていかなくてはいけない。


「同好会、もう続ける理由ないよね。私のことは気にしなくていいからさ」


 篠森は丁寧に箸を丼の上に置き、親指と人差し指で眉間をもみほぐした。


「……先輩ってやっぱり、ご飯を食べてるときだけ馬鹿になりますよね。なんですか。そういう呪いでも受けてるんですか」


「え?」


「一応、一応聞くんですけど。先輩は、わたしがなんで同好会を続けてきたと思ってるんですか?」


「だから、お母さんの料理の味を忘れたくなくて……夕食を自分で作って、自分で食べるためだよね」


「それは同好会を立ち上げた理由です。わたしが聞いてるのは、ここまで同好会を続けてきた理由なんですけど」


「…………え。その二つって、何か違うの?」


 はぁあぁぁぁ、と篠森がめちゃくちゃ大きなため息をついた。


「そうですか。先輩は馬鹿なんですね。学年主席のくせに。副会長のくせに」


「そんなことないもん」


「あります」


「じゃあ、教えてよ。なんで同好会を続けてきたのか」


 篠森はちっちゃな口を開いて、閉じて、また開いて、すうっと息を吸ってから──ゆっくりと吐き出した。


「いやです。教えてあげません」


「ええー」


 なんだそりゃ。

 箸を手にした篠森が、食事を再開する。


「同好会は辞めないし、廃止もしません。ただ──平日のうち、二日くらいは家でご飯を食べようと思います」


「じゃあ、その日はバイトして、土日に青葉先輩と料理教室に通おうかな」


「やっぱり週5で同好会活動します。毎日来てください」


「なんでよ……」


 意味がわからん。

 丼が二つ、空になる。篠森が立ち上がって、二人分の食器をシンクに置いた。水に漬けてから、また戻ってくる。


「先輩」


「ん?」


「わたし、先輩にご飯作ってあげるの、好きなんですよ」


 さらりと告げられた言葉が、胸に染みていく。


「先輩がわたしの居場所を、この家庭科室を守ってくれたとき、わたしが言ったこと、覚えてますか」


 もちろん、覚えている。

 ──これから毎日、わたしのご飯を食べてくれませんか。

 篠森はそう言ったのだ。今思えば、まるでプロポーズみたいな台詞だった。


「覚えてるよ」


 と、私は答えた。

 篠森の頬がほころぶ。雪解けを迎えた早春の白い花みたいに。


「じゃあ、これからも。毎日、わたしのご飯を食べてくれますか」


 後輩の顔を見上げた。白皙の頬は、いつかのように淡く色づいている。

 いいのだろうか。少しだけ、悩む。

 でも本当は、答えなんて決まっていた。


「いいよ」


 少しだけ照れてしまった私は、横を向いて、藍色に染まる窓の外を見ながら言った。


「明日は、何を作ってくれるの?」

 















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私と彼女と、家庭科室の逢引ごはん。 深水紅茶(リプトン) @liptonsousaku

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