ぷちぷちさん

夜桜くらは

ぷちぷちさん

 私がそれを見つけたのは、仕事の帰り道。駅から家までの、ほんの十五分ほどの道のりを一人で歩いているときだった。


 三叉路さんさろに差しかかったとき、その交差点の脇に、明かりが灯っているのを見つけた。街灯の光とは違う、どこか不思議な色合いの光。

 なんだろうと興味を惹かれ、私はそちらへ近づいてみた。四角い箱のような何かが見えてくる。

 なんだ、自動販売機か。

 ちょっとガッカリして、それでもなんとなく気になって、私はそれに歩み寄った。

 そして気づいた。これは自動販売機じゃない、と。

 高さも横幅も二メートルほどの、箱のようなもの。色は薄い青で、正面には右開きの扉が一つ。扉には直径十五センチほどの丸い窓が一つ開いていて、そこから明かりが漏れているのだと分かった。


 なんだろう、これ。

 窓から中をのぞき込んでみる。中には、カフェテーブルのようなものが見える。それ以外には何も置いてない。テーブルの上には、赤いボタンのついた機械が一つ、置いてあった。クイズ番組なんかでよく見る、ボタンを押すと「ピンポーン」なんて音がしたりする、あれ。……どうしてそんなものが、こんな場所にあるのだろう。

 なんだか不気味に思えたけれど、それ以上に好奇心の方がまさってしまった。クイズ番組でタレントさんとかが押しているのを観ていて、一度でいいから自分もボタンを押してみたいと思っていたから。

 私は恐る恐る扉のノブに手を伸ばした。すると私が触れるより先に、扉は内向きに開いた。


「……え?」


 ちょっとびっくりして、私は思わず手を引っ込める。まるで私を招き入れるかのように、扉はほんの少しの隙間を開けたまま、動きを止めていた。

 入っても、いいのかな。

 どうしようかとしばし迷ったけれど、やっぱりボタンを押してみたいという欲求には勝てなかった。私は、思い切って中に入ってみた。


 扉が閉まると、灯っていた明かりの雰囲気が変わった。不思議な色合いをしていた光が、蛍光灯みたいな白っぽい色に変化する。

 箱の中は、思っていたより広かった。奥行きは、私が両手を広げてもまだ余裕があるくらい。床が正方形に見えるから、おそらく二メートル四方の空間なのだろう。この感覚は、試着室に居るときに似ているかもしれない。


「そうだ、ボタン……」


 周りの観察もそこそこに、私は当初の目的を思い出した。

 狭い空間に、カフェテーブルが一脚。高さは私の腰くらい。その上に、直径十センチほどの赤いボタンのついた機械が置いてあった。改めて見てみると、ボタンには何やら文字が書いてある。


「ええと……『Press start』?」


 押したら何か始まるのだろうか。どこかから、何か出てくるとか? 私はちょっと怖くなった。でも、ボタンを押してみたいという欲求は抑えられない。ボタンに手のひらを乗せてみる。大丈夫、何も起こらない。えい、と思い切ってボタンを押してみた。

 カチリ、とボタンが沈む感触があった。

 その直後。


「……っ!」


 突然、機械から眩しい光が放たれた。目を開けていられないほど、強い光。私は思わず顔を背け、目を閉じた。

 光が弱まり、恐る恐る目を開く。そこで目にした光景に、私は愕然がくぜんとした。


「な、なに、これ……?」


 壁一面に、白いボタンが並んでいる。規則正しく等間隔に、整然と。

 さっきの赤いボタンより少し大きいくらいの、白いボタン。それが無数に並んでいるのだ。それも、天井と床を抜いた、四方の壁全て。

 そこで私は気づいた。扉がなくなってる、と。

 正面に一つだけあった扉は、跡形もなく消えてなくなっていた。あるのはただ、白いボタンの列だけ。テーブルも、持っていたカバンも、なくなってしまっていた。


 私はその場にぺたりと座り込むと、改めて辺りを見回した。さっきとは違った意味で不気味に思える空間に、私は完全にすくんでしまっていた。

 どうしよう。帰れないかもしれない。そんな不安が、じわりと心に広がっていく。

 と、そのとき──私の正面に並んでいたボタンの一つが、赤く光った。


「ひゃっ」


 突然のことに、私は変な声を上げてしまった。

 また何かが始まるのかと、私は身構える。でも、それ以上は何も起こらなかった。ボタンはただ、赤い光を放っているだけ。

 ちょっと安心しつつ、私はそのボタンに近寄ってみた。よく見ると、ボタンには何か文字が浮き出ている。


『Push me』


 私を、押して?


「……押せば、良いの?」


 私は誰にともなくたずねた。すると、そのボタンはチカチカと点滅し始めた。まるで、そうだと言っているみたいに。

 出口もないんだし、こうなったらもう従うしかない。私は意を決して、赤く光るボタンを押した。


 ───ふしゅう。


 なんだか間の抜けた音がして、そのボタンはつぶれた。そう、つぶれたのだ。まるで紙風船みたいに。私の想像とは違って、ボタンはやわらかかった。


「わ、わわっ」


 私は慌てて手を引っ込めた。壁のボタンはぺしゃんこになって、それきりうんともすんとも言わない。

 まさか、壊しちゃった? でも、押せって書いてあったし……。

 焦りつつも、私は辺りを見回す。すると、今度は右側の壁にあるボタンの一つが、青く光った。

 なんだろう。なんとなく、続いてる気がする。壊しちゃったわけじゃなさそう。……良かった。

 ホッとすると同時に、好奇心が戻ってくる。私は青いボタンに近寄ってみた。ボタンには『Push』とだけある。私は手を伸ばし、そのボタンを押した。


 ───ふしゅう。


 また同じように音がして、青いボタンはつぶれた。ぺしゃんこになったボタンは、放つ光を弱める。そして、今度は上の方のボタンの一つが黄色く光った。

 光ったボタンを押すと、また別のボタンが光る。一連の流れから、この部屋が私に何をさせたいのかが、なんとなく分かってきた。


「順番にボタンを押して、つぶしていくの?」


 なんだかゲームみたい。そう思うと、ちょっと楽しくなってきた。さっきまで感じていた不安は、わくわくした気持ちで上書きされていく。

 高いところにある黄色いボタン。私はちょっとジャンプしてそれを押してみる。


 ───ふしゅっ。


「……ふふっ」


 思わず、笑みが漏れた。押すときにちょっと力が必要なこのボタンの感触は、なんだかとても面白い。くせになりそう。

 どこかで似たようなものを触ったことがある気がする。その記憶を手繰り寄せるのに、さして時間はかからなかった。

 そうだ、緩衝材かんしょうざいだ。子どもの頃、つぶして遊んだ気泡緩衝材に、これは似ているのだ。

 思い出したら、もう壁に並ぶボタンはあの緩衝材の気泡にしか見えなくなってしまった。緩衝材をつぶして遊ぶなんて、いつ以来だろう。私は童心に帰って、光るボタンを次々と押していった。


 黄色の次は緑。次はオレンジ。その次は水色。そのまた次は紫と、ボタンは光る色を変えながら私を楽しませてくれる。ちょっと探すのに時間がかかると、ボタンは点滅して教えてくれる。はやく押してもらいたがってるみたいに。そんなボタンたちの姿が、私にはだんだん可愛く思えてきて、ついつい夢中になってしまった。


 ───ふしゅう。

 ───ふしゅうう。

 ───ふしゅうううう。


 楽しい時間は、あっという間に過ぎてしまう。気がつけば、ボタンは残すところあと一つになっていた。

 もう終わりなのかと少し残念に思いながらも、私は最後のボタンに手を伸ばした。押したら何が起こるのだろうという期待と不安を胸に抱きながら。小さく深呼吸して、ボタンを押す。


 ───ふしゅううっ。


 最後のボタンが、今までで一番大きな音を立ててつぶれた。と同時に、この空間を支配していた白い光が、カラフルな光に切り替わった。まるで私を祝福してくれているみたいに、色とりどりの光が私を包む。

 そんな空間に居ると、達成感のような気持ちが湧いてきて、私は嬉しくなった。そして、やっぱりこれで終わりかな、とちょっと寂しく思っていたときだった。

 私の目の前の壁に、扉が現れた。入ってきたのと、同じ扉。でも、今度の扉には何か文字が刻まれている。


『Thank you』


「ありがとう、か……」


 なんだかとても温かい気持ちになって、思わず呟く。そしてノブにかかっていたカバンを取ると、扉は私の方に開いてくれた。内開きなのだから当然なのに、なんだか擦り寄ってくるような動きに思えた。

 扉の向こうには、元の景色が見えている。……良かった。外に出られる。私は安心して、その扉から外に出た。すると──


 ───ふしゅるるるるるるる……。


 また、あの音だ。私は振り返り、目にした光景に驚いてしまった。

 さっきまで私が居た箱が、音をたてながら縮んでいたのだ。まるで空気の抜けた風船みたいに、どんどんしぼんでいく。形を変えながら縮む姿は、生き物のようにも見えた。


 やがて、それは五十センチ四方のハンカチみたいになってしまった。薄い青色で、うっすら水玉模様が浮かんでいる。

 それは風もないのにふわりと舞い上がると、私の周りをくるくると回り始めた。まるで、お礼を言っているみたいに。


「ふふっ、可愛い」


 思わず私は笑顔になった。そしてそれは、私の右手と左手を交互に拭くような動きをし、それからふわっと空に飛んでいってしまった。


「ありがとう」


 私は手を振って、それを見送った。不思議な体験だったけれど、なんだか心が温かい。またどこかで会えるだろうか。そうだったら、今度はもうちょっと長く遊べるといいな。そんなことを思いながら、私は帰路についたのだった。

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