第4話 踏み台

 今日もまた彼女に会える、その事実だけで、朝は素晴らしいものになった。午前六時台、元来は寝起きの悪い花井も、既にテンションが大気圏を突破している。

 パジャマを高速で脱ぎ捨て、カーテンを開けば、清々しい朝日に素肌が勇みだす。自宅が山奥などに位置するポツンと一軒家であったならば、花井は迷うことなく窓を全開にし、声の限り叫んだことだろう。「浜辺さん、好きだ!」と。それくらい彼は浮かれていた。

 意図せず、スクワットをしてしまう。重複になるが、寝起きである。正しく、若さ故の過ち。

 無駄な汗をかき、制服を着て、一階へ下りる。入室したダイニングからは、キッチンで朝食の用意をしている佳織の姿が見えた。

 「おはよう、母さん。朝早くから食事の用意をしてくれて、ありがとう。愛してるよ」

 浜辺と付き合う前には決して言えなかった、愛してる、というパワーワードを西洋人みたいにさらっと扱えた、その心は、恋は魔法。

 佳織は驚き、それから照れ笑いを浮かべて、「ありがとう、潤」と言った。

 「朝食の用意、手伝うよ」

 花井は佳織の隣に立ち、ケーキナイフを手に取って、出来合いのキッシュを切り分けた。

 朝食の用意を進めていると、智昭と陽菜がダイニングに入ってきた。

 「父さん、陽菜、おはよう。素晴らしい朝だね。愛してるよ」

 愛してる、の声に動揺しつつも、智昭は冷静を装い、「I love you,too.」と返した。

 「父さんったら!」花井は笑った。「そこは、ミートゥー、でいいじゃない」

 「発音から何から馬鹿丸出し」不機嫌に言って、陽菜はダイニングチェアに腰掛けた。

 智昭はコーヒーマシンを使ってカフェラテをいれた。

 「みんなも飲むかい?」

 佳織だけがカフェインを求めて、智昭は二杯のコーヒーカップを持って陽菜の隣に座った。

 「お父さん。左耳の下にシェービングフォームの泡が付いてるよ」陽菜が優しい声で指摘した。

 「そう?」智昭は言われたところをティッシュでぬぐった。「どう? 全部取れた?」

 「うん。取れたよ」

 「陽菜」父と妹の和やかな雰囲気に引き寄せられ、キッチンから絡んでいく。「僕のほっぺにも食べかすが付いてたりしないかな? キッシュをつまみ食いしちゃってさ」

 陽菜は花井を一瞥し、不快を露にした。それから、智昭に笑顔を向け直し、学校の話を始めた。

 痛烈な塩対応を受けて、それでも、淀みのない笑みを浮かべられる。浜辺に愛されている、唯それだけで、花井は世界中の全てを無条件に許し、愛することができるのだった。

 キノコ、ホウレンソウ、カボチャ、三種のキッシュ。生野菜と卵焼き。コーンポタージュ。それらをダイニングテーブルまで運び、家族四人、着席して、朝食をとり始める。

 慣れきってしまって有難味の薄れていた家族団欒に、新鮮な息吹が注ぎ込まれる。恋愛に満たされた心は、平生さえをも楽園に変えた。

 幸せを咀嚼するようにして、花井の食事は進んだ。

 朝食が済んで、歯をみがく。歯磨き粉を大量に使い、入念に、執拗に、みがく。口内がミントの香りに満ちてからは、洗面化粧台の鏡で身だしなみを整える。陽菜に洗面所を追い出されてからは、玄関の姿見で身だしなみを整える。そうして、時間に追われ、前髪の流れに若干の不満を抱きつつ、花井は家を出た。

 「陽菜。気を付けて行くんだよ」

 一緒に家を出た陽菜に向かって、言う。その声は案の定、無視された。朝日が差して、小畑新町中学校の制服の紺色が映えた。

 陽菜とは反対方向へ歩き出す、花井。君ヶ浜高等学校への通学路、その平凡な道程が、浜辺の傍らへと続く愛のトンネルであるという錯覚を感じ得て、陽気な足取りはひたすらに軽やかだった。

 五月のまだ肌寒い朝風に吹かれてさえ、熱した体は上気した。恋愛の熱量がそのまま活力に変換され、花井は生れて初めて、生産的な意欲を持って学校へと向かえた。

 波の音が聞こえ始めたころ、自ずと、美輪明宏氏を真似ながら、愛の賛歌を口ずさんでいた・・・・・・筆者もまた、歌おう。君ヶ浜よ、結び給え、愛し合う二人を!


 花井が愛の箱庭と見立てた、2年D組の教室。クラスメイトの大半が既に教室にいたが、愛おしい思いが引力となって、花井が教室に入ってすぐ、二人の視線は交わった。浜辺は、薄らと笑った。

 浜辺の美貌に圧倒されて、花井は糸の切れた操り人形みたいになり、尻餅をついた。

 慌てて駆け寄った浜辺が、前屈みになり、艶やかな唇を動かす。

 「大丈夫、花井君?」

 降り注ぐ視線は、花井のMを刺激した。視姦の魔力が性欲に絡みついて、辛抱たまらず身をよじる。

 下半身に変化が生じる前に急いで立ち上がり、「大丈夫だよ、浜辺さん」と震える声を発する。そうして、近い距離で見詰め合い、二人ははにかんだ。

 「おはよう、花井君」

 頬だけでなく、声まで赤らんでいるようだった。甘い響きに耳を犯されて、花井は文字通り骨抜きになる。

 弛緩する足腰に鞭打って、どうにかこうにか再びの尻餅を回避する。そこから、ふやけた表情筋を引きしめて、よれよれの微笑みをこしらえた。

 「おはよう、浜辺さん」

 まだスズメのさえずりも聞こえる時分に、おはよう、と言い合える至福。官能の残影が差して、心の淫らが暴かれる。花井は、ここが学校であることを失念して、寝室用の眼差しを浜辺に向けた。

 色欲を感じ取り、うぶな心は困惑の裏で甘美を覚えた。クラスメイトに呼ばれるまで、寝室用の眼差しから逃れることは、しなかった。

 浜辺が離れてから、花井は千鳥足で自分の席へと移動した。椅子に深く腰掛け、甘い吐息をもらす。

 教壇の近くでクラスメイトと談笑している浜辺を見詰めた。何気ない一挙一動が、花井の網膜を愛撫する。頻繁に目が合い、その度、大きな瞳に恋慕の火が灯っているのを確認できて、彼は増々、彼女に見入った。

 織女星を見詰める彦星が如く真摯。真摯が過ぎて、いつしか花井の精神は恋の宇宙へと迷い込み、心地よい無限を漂った。

 「花井君・・・・・・花井君ってば!」

 低い声が耳に届いて、正気に戻る。花井は顔を上げた。厳つい風貌の男が目に入る。

 「島田君」厳つい風貌の男に向かって、花井は言った。「おはよう。素晴らしい朝だね」

 「素晴らしい朝もくそもないよ」島田は眉根を寄せた。「昨日、君が訳の分からないことを言ったりしたから、気になっちゃって、一睡もできなくて、最悪の朝だよ」

 「昨日? 僕、何か言ったっけ?」

 「電話で、言ったじゃないか」島田の頬が染まる。「俺のこと、綺麗って言ったり、これからも彼女でいてくれって言ったり、したじゃないか」

 失念していた前日の電話の件を思い出せば、島田の乙女チックな雰囲気に危機感を覚えられた。

 「島田君」努めて冷静に、言う。「昨日の僕から君への言葉は、本来、別の人に伝えられるべきものだったんだ。全ては、発信者を確認せずに通話に応じた僕の間違いによるもの。妙な誤解をさせちゃって、ごめんね」

 島田は、腕を組み、民主主義を説かれたスターリンみたいな顔をして、黙した。

 十数秒の後、潮が引いていくようにして、島田の熱情は冷静に移り変わっていった。

 「つまり、花井君はあの言葉を伝えるべき相手からの連絡を待っていたってことだよな?」

 すっかり頬の赤みの薄らいだ島田を見て、花井は安堵し、「そうだよ」と零した。

 「これからも彼女でいてくれ、ってことは、もう交際しているってことだよな?」

 「うん」ほいほいと認める。「昨日、交際がスタートしたんだ」

 「マジかよ! すごい! やったじゃん、花井君! 先週までは彼女なんて一生できっこないって嘆いてたのに、超展開じゃん!」

 毛深い女は情が深い・・・・・・否、ジェンダーレスの時代にあっては男も女もないだろう。謹んで訂正します。毛深い人間は情が深い。純情をかき乱されてさえ恨みを抱くことなく、島田は心から花井を祝福していた。

 映画版ジャイアンと称される島田の、平生を取り戻した様子に安堵して、花井は素直に祝福を享受できた。

 「ありがとう。ありがとう」

 「それで、君の彼女って、どんな人? 俺の知ってる人?」

 島田の声が大き過ぎたため、教室にいるほとんどの人間が花井に注意を向けていた。浜辺も、花井を見詰めている。

 浜辺さんが僕の彼女だよ、という真実の声が花井の声帯に宿った。しかし、その福音が教室に響き渡ることはなかった。

 『才色兼備である浜辺さんと、凡庸の権化である僕の交際。この不釣り合いな付き合いが明るみに出れば、浜辺さんの評判に傷が付くのではあるまいか?』

 発声の直前に脳裏をよぎった考えは、ある種、正しい。確かに存在するスクールカースト、その頂点と下位に位置する二人の交際は、格好のゴシップなのだから。また、浜辺に対してジェラシーを抱いている人間たちにとってすれば、男の趣味の悪さという一点をつき、マドンナの失墜を計る材料にもなりうる。

 浜辺に不利益が生じることを嫌って、花井は真実を飲み込んだ。

 『浜辺さんの名誉は僕が守る。交際の真実は墓まで持っていく』

 断固たる決意であった。

 「誰と付き合っているかは、内緒だよ」

 その返答に、教室にいる誰しもが不満を抱いた。

 「友達に秘密事とは何だ!」花井の両脇に両手を滑り込ませ、くすぐり出す。「吐け! 吐け、この野郎!」

 ごつい指をしているというのに、島田の指は触手みたいに蠢いて、尋常ならざるくすぐったさを花井に与えた。

 花井は笑い悶えながら必死に上体を振り乱したが、脇に深く入り込んだ手は外れず、くすぐったさが絶えることはなかった。

 「言わない! 内緒だもの!」

 「強情を張るんじゃないよ! 笑い死にするぞ!」

 笑い死に、そんなファンタジーな言葉が現実味を帯びるほどの、えげつない指使いだった。学校でお目にかかれるようなくすぐりではない。正しく、拷問であった。

 くすぐったさに乱れる痴態を、大勢のクラスメイトから、なにより大好きな浜辺から見られているという、快感。花井はいつしか抵抗することを止め、笑い声に嬌声を混じらせていた。

 花井が異常を示してさえ、島田はくすぐる手を緩めなかった。彼もまた、楽しんでいたのだ。花井が誰と付き合っているかなんて、もうどうでもよくって、拷問そのものを、楽しんでいたのだ。

 「花井君。島田君」花井たちに近付きつつ、浜辺が言った。「さすがに、はしゃぎ過ぎ。教室はあなたたちだけの物ではないんだから、もう少し他の人に気を使って」

 「すまん、クラス委員長」焦った声を出し、島田は花井の脇から手を抜いた。「花井君のリアクションが余りにもよかったから、ついヒートアップしてしまった」

 「うるさくしちゃって、ごめんなさい」息も絶え絶えになりながら、声をしぼり出した花井。「島田君のテクニックが余りにもよかったから、ついサムズアップしちゃった」

 茶目っ気に、唇がむずがゆく震えるも、浜辺は寂しげな目を向けただけで、すぐに花井から離れた。

 くすぐったさの余韻が残る体で、花井は浜辺を見詰め続けた。しかし、この朝に彼女と目が合うことは、もうなかった。


 朝以降、浜辺と何の接点もないまま迎えた、夕方。既にクラスメイトの多くが去った教室で、花井は自分の席に座り、今もなお、浜辺を見詰めていた。

 くすぐり拷問のビフォーとアフターで浜辺の態度が変わったことは、鈍感な花井でも気付けるほどに明白だった。

 『浜辺さんは僕のことを避けているのかな? くすぐられてエッチな声を出しちゃうような変態に、幻滅しちゃったのかな? 一時の快楽におぼれたばっかりに、僕は捨てられちゃうのかな? 付き合い始めてまだ三十時間も立っていないのに、もう損切りされちゃうのかな? ああ、嫌だ! 浜辺さんの愛がなければ、僕、生きてはいけない!』

 不安が茨の鞭となって、心を打つ。その痛みを抱えたまま夜を越せる自信がなくて、今日のうちに真意を聞き出そうと、浜辺に話しかける絶好のタイミングを今か今かと待っている。

 前日に実施された数学の抜き打ちテストで散々な結果だったクラスメイトに、浜辺は勉強を教えていた。相手が女子でなければ、花井が嫉妬に狂ってしまったであろうほどに、教示は親身だった。

 しばらくして、複素数の基礎を理解したクラスメイトは、浜辺に礼を言い、教室を出ていった。

 大きく伸びをしてから、観葉植物に水をあげ、教室に残っている数人の女子と談笑した後、学生鞄を手に取り、浜辺は教室から出て行った。

 すぐさま、花井は浜辺を追った。

 追いかけて、凝視した浜辺の後姿は、優美かつ優雅だった。小さな後頭部を包む豊かな髪。ポニーテールと制服の襟に隠れつつも、その蠱惑な有り様が容易に想像できる、華奢な体躯に裏付けされた慎ましいうなじ。髄まで色気を宿したかのような背骨によって成り立つ、艶めかしいヴィーナスライン。小振りながらも芯が強そうに見える臀部。筋繊維の繊細さまでもがうかがえる、細く長い脚。

 後姿でさえ人を魅了する女子が、自分のような冴えない男に愛想を尽かすのは必然。そう思われて、声を掛けたら嫌悪の色を目撃してしまう気がして、花井の喉は凍て付いた。

 部活動に励む生徒たちの青く澄んだ声、吹奏楽部が奏でる発展途上ゆえの伸びやかな音色、ひんやりとした廊下に小さく響く浜辺の足音。そんな音にあふれた世界で、花井は無音のストーキングマシーンと化していた。苦渋の尾行で、彼の心は摩耗の一途をたどった。

 校舎のA棟とB棟をつなぐ渡り廊下まできて、浜辺は振り向いた。意図的な不意打ちである。所詮は素人の尾行、とうにばれていたのだ。

 窓ガラスに映る、浜辺の淡い横顔が微笑んだ。

 「ここなら、誰もいないから、大丈夫だよね?」

 「尾行なんてして、ごめんなさい。僕、どうしても浜辺さんと話がしたくて・・・・・・」浜辺の不可解な発言に気を配る余裕なんてこれっぽっちもない、やむを得ぬ少年の浅はか。「僕、浜辺さんに避けられているように感じちゃって。思い過ごしかどうか、確認したかったんだ」

 濡れた子犬をほうふつとさせる有様に良心を痛め付けられ、浜辺は全力で両手を振った。

 「ごめんなさい! 私、花井君にそんなふうに思わせちゃってたなんて、気付かなかった!」

 「僕のほうがごめんなさい!」予想だにしなかった謝罪の言葉を受け、脊髄反射で謝り返す。「感じやすい僕が悪いんです!」

 必死な顔で、見詰め合い、恥ずかし合って、同時に目を伏せた、二人。青春の、1ページ。

 「花井君、今朝、私と付き合ってることを隠してたでしょ」悪意のない上目遣いで、言う。「私は、花井君と接していたら嬉しい気持ちがあふれ出ちゃうから、それだと迷惑になると思って、少し距離を置いていただけなの」

 「僕を嫌いになったわけじゃないの?」

 「嫌いになんて、ならないよ」羞恥を体現するように、身をよじる。「花井君のこと、大好きだから」

 大好き、という言葉の甘美な清流が、心に根付いた不安や恐怖を綺麗さっぱり洗い流した。そうして、不純物の消え去った裸の心にはアザレアが咲き誇り、感激は絶頂にまで至った。

 「ねえ、花井君。私も、聞いていいかな?」

 「何なりと、聞いて下さい」

 「私と付き合っていることを秘密にした理由、聞きたいの」

 花井が交際の事実を隠した理由、それを推し量れないほど、浜辺は機微に鈍い人間ではない。それでも、花井の口から話を聞かないことには安心できない恋愛心理。大きな不安を抱えていたのは、浜辺も同じだった。

 「それは、その、それは・・・・・・」

 もじもじする。くだらない駆け引きなんかではない。素直に、もじもじしている。この期に及んで、浜辺の憂いに気付いていない。なんて男だ!

 浜辺さんの名誉を守るためだった、と伝えることは、格差に対する卑屈を告白するのと同義。そんな生々しい事実を提示されて、浜辺の心が痛んでしまうことを、花井は危惧していた。度し難い鈍感ではあっても、優しいのだ。

 体操着姿の男子生徒が、花井たちのそばを駆け抜けていった。

 浜辺は、花井にぴょんと近付き、「言わないとくすぐっちゃうよ」とささやいた。花井がいじらしいばっかりに、かわいさ余って飛び出した、衝動的な言動。次第に恥ずかしくなり、体が火照ってしまう、羞恥の自給自足。

 浜辺の後悔など露知らず、花井、押し黙る。くすぐられ待ちだ。浜辺は言葉のチョイスを誤っていたのだ。言わないとくすぐらないよ、のチョイスならば、花井は一瞬でゲロしていたであろうに。

 「やばい! マイラケット、机に入れっぱなしだ!」

 体操着姿の男子生徒が、引き返してきた。

 咄嗟に離れようとした花井の手を、浜辺は握った。

 体操着姿の男子生徒は、花井たちをちらっと見て、去っていった。

 「言いふらすようなことじゃない。だけど・・・・・・」浜辺の瞳は、たたえる潤いに夕日の照り返しを浴びて、多様な色彩を帯びていた。「私は、花井君を好きな気持ちを隠したくない。今日一日、胸が張り裂けるようだったから」

 小さな手から伝わってくる確かな愛情。応えたいと、思った。浜辺にふさわしい人間に自分がなればいいのだと、思った。胸を張って生きようと、思えた。

 「僕も、浜辺さんを好きな気持ちを隠さないよ。今度、誰と付き合っているのかと聞かれたら、浜辺さんだと、胸を張って言う」

 望み通りの言葉を引き出せた安堵で、浜辺は綻んだ。そんな彼女を浅ましいなどと思ってはいけない。だって、しょうがないじゃないか。恋愛とは極めて不安定なものなのだから、望んだものを得られる確信と、関係に現実味を与える確約、この二つを欲してしまうことは、しょうがないじゃないか。

 悲しいかな、21世紀にさえ繰り広げられてしまう身分違いの恋。苦しみは弱者だけのもの? いいや、そうではない。強者にも苦しみがある。周囲の人間の無慈悲によって成り立つスクールカースト、その頂点に祭り上げられた浜辺が抱えるストレスたるや、常人では発狂ものだ。日々、無責任な好意を向けられ、無遠慮に必要とされ、あまつさえ、好きな男子に劣等感を抱かれてしまう苦しみは、筆舌に尽くし難い。羨望の眼差しを浴びて快感を得るような下劣な品性など、浜辺は有しておらず、彼女は唯、好きな男子と対等に付き合いたいだけ。だからこそ、儚い言葉にさえ救われたのだ。

 「僕、浜辺さんと釣り合う立派な人間になるよ。約束する」

 「今の花井君で、十分すぎるほど素敵だよ」

 下位に位置する者ほど階級制度に隷属しようとし、上位に位置する者ほど独立を夢見る、切ないすれ違い。しかし、互いを思う気持ちはしっかりと通じ合っている。それなら、大丈夫だ。

 ようやく握り返した手が、妖艶に震えて、恋慕が性の空気をまとった。

 好きな人の唇が、輝いて見える。

 二人の手が離れるまでには、少しの時間を要した。

 一生洗わないと心に決めた手を、花井はポケットに突っ込んだ。

 「浜辺さんは、これからどこへ行こうとしていたの?」

 「図書室だよ」花井の温もりが残る手を、浜辺は腹部に当てた。「本を借りて帰ろうと思って」

 「僕も付いて行っていいかな?」

 「うん。一緒に行こう」

 二人、横並びで歩けば、学び舎さえもが愛の聖域に変わり、無限に煌めく廊下はバージンロードの様相を呈するのだった。

 胸のドキドキが強すぎて、それ以外はもう何も、聞こえなかった。

 

 採光窓は多いものの、その全てが東側に位置しているため、室内は照明の無機質な白光に満たされていた。蔵書が豊富で、普通教室の四倍ほどの広さを有した図書室に、人の姿はまばら。

 古典文学が収まっている書架の前で、浜辺は足を止めた。無数の背表紙に視線を泳がせ、やがて、目当ての本を見つける。一番高い段にあった、和泉式部日記だ。

 つま先立ちをして、和泉式部日記に手を伸ばすも、届かない。

 「僕が取ってあげるよ」

 格好をつけて、しかし花井もまた、つま先立ち程度では手が届かなかった。ジャンプをしてみるも、日ごろの運動不足がたたり、バネのないホッピングみたいな跳躍になって、結局、良いところは見せられずに終わる。

 辺りを見回し、踏み台がどこにも見当たらず、花井は、そばを通った図書委員に、「踏み台はどこにありますか?」と尋ねた。

 「ステップスツールは破損してしまって、今はないんです」

 答えた図書委員は、吊り下げ名札を揺らしながら去っていった。

 「ジャンプして取ってみるね」

 「駄目だよ、図書室でジャンプなんて」

 「花井君は、さっきしたのに」

 「やってから後悔したよ。マナー違反だもの」

 「それじゃあ、あの本はまた別の日に借りよう」

 「僕が踏み台になるから、諦めなくても大丈夫だよ」

 会話の流れに挿入された、変態紳士のパトス。余りにもナチュラルで、最初、浜辺は違和感の一つさえ覚えられず、事態を把握するまでには十秒ほどを要した。

 遠慮の声が発せられる、その気配を察知した花井は、無駄が一切ない動きで四つん這いとなった。既成事実を作ることで浜辺から四の五の言う余地を奪おうとしたのだ。作為でしょうか、いいえ、本能。

 直立二足歩行を行う動物であることが信じられないくらいに、花井の四つん這いはしっくりきていた。

 「さあ、浜辺さん」意気揚々と、言う。「僕の背中に乗って」

 まだ記憶に新しい、ちんちん責めに似た兆しを見つけて、上履きに隠れるつま先が丸まった。

 「チャンス、チャンスだよ、浜辺さん。周りに誰もいない今こそ、僕を踏んづけて、本を取る絶好のチャンスだよ」

 曖昧な拒否で逃れられないことは経験上、理解している。自分が拒否を明確にしないことも経験上、理解している。昨日の今日の事なのだ。そうして浮かんだ笑みは、見まがうことなき女の顔だった。すなわち、諦めの表情である。

 浜辺は、暴れ出しそうになる呼吸を必死に抑えながら、上履きを脱いだ。

 「どうして上履きを脱ぐのさ」

 予想だにしなかった声が聞こえて、女の顔は少女の顔に戻った。すなわち、困惑の表情である。

 「どうしてって、上履きで乗ったら制服を汚しちゃうから」

 「構いやしないよ」

 「構うよ」

 「ブレザーの上に靴下で乗ったら、滑りやすくて危ないよ」

 「滑ったりしないよ」

 「浜辺さん。僕は浜辺さんに危険なことはさせられない。どうしても靴下で僕の背中に乗るっていうならば、僕が上半身裸になるよ。そうすれば滑らないからね」

 花井は、徐に立ち上がり、ブレザーのボタンを外しにかかった。

 「脱いだりしないで」

 「僕が脱がないなら、上履きで乗るしかないね」

 細い二の腕をなでながら、浜辺は暗がりが広がる採光窓に視線を逃がした。

 「上履きで乗るのは、やっぱり悪いよ」

 「分かったよ、浜辺さん」外しかけのボタンから手を離す。「それなら、裸足になってみようか。裸足なら滑らないし、制服を汚す心配もないから、僕と浜辺さん両者のニーズにかなっているよ」

 「図書室で、裸足・・・・・・」

 か細い声は恥じらいの表れだった。それが辛抱たまらないほど愛おしくて、花井は唇をなめた。

 「やっぱり僕が裸になるしかないんだね」再びブレザーのボタンに手をかける。「浜辺さんが裸足になってくれないなら、仕方ないね」

 まるで成長していない・・・・・・前日から。浜辺に踏まれたい、あわよくば、素足で踏まれたい。そんな欲望に従順で、ひたむき故に羞恥責めを繰り返してしまう、滑稽なまでの愚。もう二度と浜辺さんに嫌な思いはさせない、その誓いは本物で、今も花井の心に刻まれている。しかし、性欲は心を容易に凌駕するのだった。

 心の宿る場所が脳ならば、性欲の宿る場所は下半身だ。下半身は第二の脳と言っても過言ではない。この第二の脳が最も発達する時期が、俗に言う性欲のピークにあたる。男性であれば、十五歳から二十九歳の間が性欲のピークだ。第二の脳が発達し過ぎるとどうなるか、答えは簡単、主導権が移る。つまり、下半身にコントロールされた人間が誕生するということ。理性の及ばない獣同然の存在、そんなものに成り果てないため、男性は己の性と向き合い、日々、性欲を戒めなければならない。性の正しい知識をたくわえ、文明人としての生き方を学び、心を発達させる修練を積み続けなければならないのだ。そうして女性は、男性の正体を見抜く目を養わなければならない。獣であるのか、修練者であるのか、見極めなければならないのだ。いやあ! 恋愛って本当に面倒なもんですね・・・・・・詰まる所なにが言いたいかというと、花井が獣であることを浜辺は見抜けず、そうして悲劇は繰り返された、ということです。

 既にブレザーのボタンは全て外されていた。

 ブレザーを脱ぎ捨て、Yシャツのボタンにも手をかける。

 「止めて、花井君」切羽詰まった声だった。「私、裸足になるから」

 「本当に?」嬉しそうに、言う。「それがいいよ」

 細く繊細な指が、漆黒のハイソックスに触れる。上質な絹織物が解けていくように、するすると漆黒がむけて、隠された純白が露になっていく。

 「そんなに、見ないで」足首まで素肌がのぞいて、手が止まる。「恥ずかしい」

 「恥ずかしい? どうしてさ?」無我夢中の、無情だった。「靴下を脱いでるだけじゃない。変な浜辺さん」

 恥じらいを糧にして、浜辺の色気は増した。花井の目は一層、釘付けになる。

 諦めて、靴下を脱ぎ進める。つるつるな踵が見えて、血色の良い土踏まずが見えて、真っすぐな五指が、見えた。

 汚れ一つない素足は、清流な小川、その源流に見る透明度で、エロスの結晶さえもが透けて見えた。

 全身を巡る血が沸騰しそうなほどに熱を持ち、花井は卒倒しかけたが、気力を振り絞り、どうにか意識を保った。

 「左足の靴下も脱ごうね」

 慣れることのない羞恥によって、初々しい色に染まったまま、靴下を脱ぎ、左の素足もさらす。

 図書室の無骨なフローリングを慎ましく噛む足指に、官能が掻き立てられる。花井は、浜辺の足に口付けをする心持ちで、四つん這いになった。そうして、背中が蹂躙される瞬間を待つ。

 二十秒ほど、待った。浜辺の躊躇が、図らずとも焦らしになっていた。何時間でも待つ覚悟が、四つん這いの節々からにじみ出た。

 心中で、言い訳があった。踏まなければ終わらない、だから踏む・・・・・・。

 浜辺の足が、上がった。

 優しく、労わるようにして、背中に右足が乗せられる。刹那に、快感の気泡が背中一杯に弾けて、花井は昇天する寸前までいった。

 『これが浜辺さんの足裏なんだ! Yシャツ一枚を隔ててさえ感じる、シルクもリネンも及ばない極上の肌触り!』

 一方の浜辺も、抗い難い快感を覚えていた。小刻みな震えを足裏で感じ取るたび、好きな男を喜ばせているのだという確信が得られ、それが優越と混ざり合えば、果てしなく、花井を愛おしく感じられる。かわいい、かわいい、かわいい・・・・・・唯々、男をかわいいと思うは劇薬で、女子高生には刺激が強すぎた。吐息はアルコールを含んでいるかのように、ほうけた。

 左足も、背中に乗った。

 好きな女の尊い全体重を一身に受ける幸福感で、喘ぐ。

 「重い?」

 「軽いよ」

 全神経が背中に集中する。淀みなく滑らかな踵、太陽と月を連想してしまうほど美麗な母指球と小指球、一流ピアニストの手指に匹敵するほど柔軟な足指。それらが惜しみなく背中に点在する性感のツボを刺激して、快楽はもう、極まっていた。

 「重い?」

 「軽いよ」

 和泉式部日記、その背表紙に触れつつ、浜辺は花井の後頭部を見下ろした。撫でてあげたくなる、チャウチャウみたいな毛並みの髪。足で撫でたら喜ぶことが手に取るように分かって、それでも、これ以上の痴態を演じる勇気はなかった。

 欲求を抑え込む強い意思で、和泉式部日記を抜き取り、片足ずつ、フローリングに下ろした。そうして、「ありがとう」とささやく。

 「どういたしまして」ふらふらと、立ち上がる。「ありがとう、浜辺さん」

 身に余る満足で、花井の笑顔はふやけていた。しかし間もなくして、その笑顔は消え去った。浜辺の、靴下を履く様がいぢらしく、哀れに思われたがために。

 良心が痛んで、ようやく、脳がコントロールを取り戻す。思いやりを失い快楽に固執した事実を、ようやく、認知できる。花井は、己を強く恥じた。

 後悔は先に立たない、その真実こそ、人類最大の悲しみ。花井は愕然と、浜辺の素肌が隠れていくのを眺めた。

 履くは脱ぐよりも恥ずかしい、その事実こそが、人類最大の惑わし。指先が震え、長引く羞恥に浸りながら、浜辺は己のサガを持て余した。

 どうにかこうにか上履きまで履き終えて、浮かんだ笑みはくしゃくしゃだった。一層と、花井は悔やんだ。

 「ごめんね」余計な言葉は不要。それだけは学べていた花井だった。「浜辺さん」

 「ううん」くしゃくしゃな笑みのまま。「いいよ」

 最適解があって、そうしたらもう、沈黙以外に続くはずがなかった。

 初めてのセックスが黒歴史となったカップルみたいに、気まずさが妨げとなって、手を伸ばせば触れられる距離にいながらも、冴える孤独に身を縮めた。ちらちらと瞳の奥をうかがい合うも視線が重なることはなく、胸の奥ばかりが痺れて、それでも、書架が作る影のなか、二人は離れたりしなかった。

 悪戯に時間だけが過ぎて、「あと五分で本日の図書室の利用は終了となります」という図書委員のアナウンスが、響いた。

 「帰ろう」と浜辺が言って、花井は、「うん」と返した。

 図書室を出て、橙色の薄らいだ校舎を歩き、昇降口で靴に履き替え、帰路を寄り添って歩く。

 銚子電鉄の踏切を渡ってから、浜辺は、「なんだか、嬉しい」とつぶやいた。

 「嬉しい?」

 「こうやって、当たり前みたいに、並んで歩けることが嬉しい」

 「僕も。僕もだよ」

 過ちが繰り返され、気まずさが豪雪のように降り積もろうとも、互いに恋焦がれる気持ちがあるならば、自然と雪解けを迎えることになる。そうして、雪解け水を糧に咲く花は、強く育っていくものだ。今、笑い合っている二人は、正しく恋人だった。

 一時の不協和音が消え去れば、後は会話が弾んで、笑みが絶えることもなく、幸福は縁取られたようになって、思い出に焼き付いた。

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