第5話 メロンパン
教室で、廊下で、屋上で、下校の路で、好きな人と目が合って、言葉を交わして、笑みが重なって、手が触れて・・・・・・共有する生活圏の至るところで恋の芽吹きを見つけ、その一つ一つを青い記憶に閉じ込めて、胸の奥に大切に仕舞う。増えていく恋のメモリーは、そのまま幸福だった。
交際が始まって十日以上が立ち、今もなお、愛情は初なベールをまとったままで、恋の鮮度は微塵も傷んでいなかった。好きな人の声を聞くだけで甘い吐息を漏らさずにはいられない、そんな様相にあって、永遠の恋という夢想は現実味を帯び始めていた。
「花井君」
廊下で、舞い散る雨をぼんやりと見ていたところ、不意に声を掛けられて、甘い吐息が漏れた。
「これから、昼食?」
「うん。学食に行く途中だったんだ。浜辺さんは?」
甘い吐息が絡まり合う。
「私も、学食に行くところ」
「友達と?」
「ううん。一人で」
「珍しいね。昼食はいつも友達と一緒でしょ」
「今日は、花井君と一緒がいいなと思って・・・・・・」
罪のない嘘が、恋慕によって露呈した。機微を察して、花井は天を仰いだ。
『教室から、僕を追いかけてきてくれたんだ! そうして、偶然を装い、僕に声をかけてくれたんだ!』
浜辺の言動に、花井はかわいさの極みを見た。慎ましさと、健気さと、悪戯っぽさと、それらが程よくブレンドした、Kawaii文化の大革命。
神々しい趣すらあるかわいさに、跪きたい衝動を覚えるも、必死で自重し、紳士のパッションを以てして、花井は言うべきことだけを口にした。
「僕も一緒に食事がしたいと、ずっと思ってた。浜辺さん。僕と一緒に学食へ行こう」
雨に濡れそぼった窓が水鏡のようになって、浜辺ともども朱に染まった。
「うん。一緒に行こう」
湿り気を帯びた廊下に小さな波紋を落とした声は、瑞々しかった。
胸の鼓動は雨音よりも強く、二人はお互いの音を聞きながら学食へと歩いた。
雨のためにテラス席が使用できないのもあって、室内は満席で、学食の入り口には長蛇の列が出来ていた。
「これに並んじゃったら、昼食を食べる前に昼休みが終わっちゃいそうだね」と花井が言って、浜辺は、「購買部で何か買って食べる?」と言った。花井は首を縦に振った。
学食から少し歩いたところにある購買部に、人の姿はまばらだった。
陳列棚に残る食品の乏しい有様から、ほんの数分前に購買部で昼食の争奪戦が行われていたことを理解できた。
「パンが少し残ってる程度だけど・・・・・・」陳列棚の倒れた値札を直しながら、花井は言った。「浜辺さんは、パンだけで足りる?」
「うん。私は足りるよ」嬉しくて、浜辺は笑った。「花井君こそ、足りる?」
「僕も足りるよ」
パンは、140円均一の五種類が一個ずつ残っているだけだった。
「浜辺さんは、どのパンを食べたい?」
「花井君から選んでいいよ」
「浜辺さんには好きなパンを食べてほしいな。だから、お先にどうぞ」
「私だって、花井君に好きなパンを食べてほしい。お先にどうぞ」
浜辺さんがお先に、花井君がお先に・・・・・・譲り合いの無限ループは、正しく心のスキンシップだった。
「仲のいいカップルさんね」
販売員の中年女性が穏やかに言い、二人はそろって、「ありがとうございます」と素っ頓狂な声を出し、照れ笑いを浮かべた。
「買ったパンを半分こにすればいいじゃない」中年女性の連続アシスト。「仲良く、半分こ」
「それは素敵な考えですね」上擦った声。「ねえ、素敵だね、浜辺さん」
とんでもなく、とんでもなく幸せで、少し不安になって、浜辺は消え入りそうな声で、「素敵だね」と返した。
それぞれ70円ずつ出し合い、ピザパン、醤油パン、焼きそばパン、メロンパンを購入する。そうして、中年女性に礼を言い、二人は購買部を後にした。
自ずと、2年D組の教室に帰ろうとする花井。それに付いて行く浜辺。
心のつながりは、実感に乏しく、夢のようなもの。愛情と執着は常に隣り合わせで、夢が愛おしいほど現実を求める気持ちは強まって、体のつながりに活路を見い出すようになる。それが、人を愛するということ。
2年D組の教室が見えて、浜辺は花井の袖をつまんだ。
「どうしたの?」
「二人で、食べたい」ずっと一緒にいたい。唯、それだけだった。「花井君と、二人きりで」
性で色香が華やいだ。
蜜のにおいを雄の本能が嗅ぎ付けた。
「漫画部の部室で食べるのはどうかな? 昼休みは部室が解放されているけれど、部員が部室にくることは滅多にないから、二人きりになれるよ」
「でも、部員じゃない私が利用するのはまずいよ」
真面目な応対をして、後悔する。かまととぶってるだけじゃない、と自分を責める。
「部員の僕と一緒だから、きっと大丈夫だよ」
そんなことを言わせてしまって、そんなことを言ってくれると初めから分かっていて、ずるい女だと自覚して、胸が痛む。それでも嬉々としてしまう、紛れもない、恋愛の虜。
自身の細い首をそっとなでた後、浜辺は、つまんだままの袖を引っ張った。
校舎のB棟、4階。文化部が部室を連ねる、その一画に、漫画部の部室もあった。
漫画部に隣接する茶道部から漏れ出た笑い声が、人通りの少ない廊下に響いた。
花井は、部室の引き戸を開けた。そうして、漫画部の部長の井上と目が合った。
井上は、「やあ、花井君」と言って、それから、浜辺の姿を認めて、「ああ、やっぱり」とつぶやいた。
誰もいない部室、その目論見が外れて、花井は失望を露にした。
「俺は、邪魔かな」井上は小気味よく言った。「すぐに出て行くよ」
「大丈夫だよ、井上君」食い気味な浜辺であった。「何か作業をしていたのなら、続けて」
「いいの?」
もちろん、と言おうとした浜辺を制して、花井が、「逢引きなんだ」と口にした。金管楽器の音色のような、耳に強く残る声だった。
浜辺はうろたえ、井上は笑いをかみ殺した。
「ご存じの通り、色恋には疎いんだ。俺にも分かるように事情を話してくれ」
花井は浜辺の目を見て、揺れる憂いに勇気を振り絞り、「僕たちは付き合っているんだ」と断言した。
真実を口にする清々しい体験が引き金となって、脳内に大量のエンドルフィンが分泌された。裸の心が解放されれば、後は堰を切ったように思いの丈が流れ出すだけ。
「井上君。僕は浜辺さんを心から愛しているんだ。彼女なしでは、もう生きることさえかなわない。僕の生命の源と言っても過言ではないほどに、浜辺さんは僕の根幹に位置しているんだ。浜辺さんの有する全て、アプロディーテーさえ裸足で逃げ出す美貌も、メーティスが認める知性も、蛇の奸計に毒される以前のイブみたいな汚れない心根も、何もかもが僕を幸福にしてくれる。浜辺さんは、無限の春をもたらしてくれる恵みそのもの。惜しみなく注いでくれる可憐な陽光に、僕は焦がれ、尽きることのない魅力に僕は熱する。それでも、構うものか! 世界で一番すばらしい女性、浜辺娃に焼き尽くされるなら、僕は本望! 喜んで焼かれよう! 身命を賭して、僕は浜辺さんを愛する! 僕の全ては浜辺さんのもの。浜辺さんの息吹を感じるだけで、僕の魂は天に昇る。こんな喜びを与えてもらっているのだから、僕の全てなど、容易く差し出せるさ。ああ! 愛しの君! 浜辺娃! 僕は君ほど尊い人を他に知らない。ああ! 僕に愛を教えてくれた女神! 浜辺娃! 君を思うだけで僕の・・・・・・」
「花井君」熱弁を遮った浜辺の顔は、サクランボのように真っ赤だった。「もう、許して」
羞恥プレイまがいのものに利用されて、しかし井上は愉快な心地を微塵も崩さなかった。
「悪かったね、浜辺さん」涙をぬぐい、井上は眼鏡をかけ直した。「少しからかえば面白いものが見聞きできると考えてはいたのだけれど、まさかここまでのものを引き出すことになるなんて、予想だにしなかった」
「井上君。出て行ってくれるね」色欲が、面の皮を厚くしていた。「今すぐに」
「花井君。そんなのよくない」あくまで真人間を通す浜辺。「井上君。私たちに気を使ったりしないで」
「大丈夫。俺はこいつを取りにきただけだから」
そう言って、井上は持っていた冊子を挙げた。
「それ、去年の文化祭で出していた同人誌?」
「知っててくれたの? 嬉しいね」表紙のほこりを払いながら。「今年の同人誌制作に役立てないかと思ってね」
「五か月も前から準備を始めるなんて、さすがだね」
「去年は締め切りぎりぎりで地獄を見たから、今年は余裕を持って事に当たりたいだけだよ。そういう訳だから、花井君もできるだけ早くネームに取り掛かってくれよ」
「出て行ってくれるね」井上の声なんて聞こえていなかった。浜辺と二人きりの食事、そうして、その最中にあると予感できるエロス以外、眼中になかった。「今すぐに」
「こいつは重症だ」
井上は笑った。
部室を出て行く間際、井上は浜辺に、「大変だろうけど、きっと楽しいよ」と耳打ちした。返す言葉が見つけられなくて、浜辺は首を引っ込めるようにお辞儀をした。
井上が去って、花井は引き戸をそっと閉じた。
二人きりの密室に、相手の香りと熱がこもっていくような気がして、心拍は激しいリズムを刻んだ。
部室の中央には木製の丸テーブルが置かれていて、そのテーブルを囲むように椅子が八脚、用意されている。花井は上座の椅子を引いて、「どうぞ、浜辺さん」と言った。
紳士のエスコートにも慣れてきていて、浜辺は古い洋画のヒロイン気分を味わいながら、「ありがとう」とささやいた。
花井は、浜辺のそばまで寄せた椅子に座り、膝の触れ合いそうな距離にドキドキしながら、テーブルの縁に視線を落とした。
「部室、きちんと整理整頓されているんだね」照れを誤魔化したくて、言った。「漫画部の部室って、物があふれてるイメージだった」
「部員はみんな、タブレットで漫画を描いてるからね。部室に常時置いてある物といったら、歴代の漫画部が作った同人誌と、集めた資料くらいのものなんだ」
同人誌の詰まった段ボールを見やり、それから、漫画の資料が収納されている大型のガラスキャビネットを見やる。ガラス戸に映る彼、彼女と目が合って、二人は顔を両手で覆った。
「花井君」指の隙間から、花井を見詰める。「ありがとう」
隙間に見つけた瞳。浜辺の、茶色を帯びた虹彩は、スモーキークォーツみたいな透明度で、そこに恋心がはっきりと透けて、花井は見入った。
雨は小降りになっていた。湿気が薄い膜のように広がり、静寂は淑やかに震える。
「井上君の前で、戸惑ったし、恥ずかしかったけど、私のこと、好きだって気持ち、いっぱい言葉にしてくれて、すごく、嬉しかった」
花井の全身を愛の電流が駆け巡った。骨格が透けてしまうんじゃないかと心配になるくらい、駆け巡った。神経の末端まで痺れて、心の底まで焦がして、その愛の熱傷は、欲求を浮き彫りにした。
『愛でたい。浜辺さんを』
人間としての理性による愛、それを遥かに超越する、動物としての本能による愛。正しく、サガ。
もう、上気した顔は隠れていなかった。
浜辺は、花井の目を見詰めたまま微動だにしない。唇だけが、儚く濡れるだけ。夢現の表情が、女の顔を際立たせる。十六歳の少女とは思えぬ、妖艶。
光に誘われる虫みたいに、花井が顔を近付ける。女の甘い香りが強まって、鼻孔が至福の痙攣を起こした。
目が閉じられて、目蓋さえもが美しいのだと知れる。そうして、花井も目を閉じた。
唇の僅かな震えさえも感知できるほどに、二つの花弁は距離を縮め、接触間際にあった恍惚は、素敵だね、素敵だね・・・・・・。
「ワッカだろ!」
突如として轟いた怒声が、二人の距離を引き離した。
「ネコっていったらワッカだろ!」
「ワッカなんて古いネットミームじゃん! 烈海王こそが普遍的なネコだよ!」
「ネットミームですらない、ニッチな薄い本だろ、烈は! なあ、部長、ネコの代表格といえばワッカだよな!?」
「リュウ、一択! 6で乳首をさらした瞬間、真実は決した!」
「あんたに聞いた私が馬鹿だった! リュウはタチだろ!」
「馬鹿言わないでよ! タチはケンでしょ!」
「タチはガイル、一択!」
茶道部から聞こえてくる激しい議論。それは数分に及び、やがて、結局は安室透の総受けが正義、という落としどころで終息した。
部室に静寂が戻ったころ、悲しいかな、性の熱はすっかり冷めてしまっていた。当然だ。素人がネコだのタチだのという議論を聞かされたのだから、当然だ。こんな惨状で燃え上がるには、二人はまだ若すぎる。結果、世界一ピュアなキスは未遂に終わったのだった。
かち、かち、かち、という部室の掛け時計が出す音を認識できるくらいには気力を取り戻して、有限の昼休みを思い、浜辺は、「パン、食べよ」と、か細い声をしぼり出した。「うん」と、花井は答えた。
寸前で逃したエロスに未練たらたらな花井の、パンをちぎる手は重たかった。一方の浜辺はというと、既に未来へと気持ちを切り替え、てきぱきとパンをちぎっていた。
四種類のパンが、それぞれ半分にちぎられた。
「私は、ピザパンから食べよう」
「僕も、ピザパンから食べようかな」
そうしてお互いに伸ばした手が、触れ合って、欲情が再び顔をのぞかせる。
時間に追われる現実感で、浜辺はピザパンの片割れをつかみ、さっと手を引いた。残された手が、むなしく空をなでた。
ピザパンを食する、浜辺。一口サイズにちぎり、艶やかな口で包み込み、丁寧にそしゃくしながらも無音をつらぬき、滑らかな流動を以て飲み込む。正に上品の鏡で、花井は見惚れた。
小振りな顎関節がそしゃくの度に小さく動いて、その動きさえもが美しい浜辺だった。機能美と優美の結晶、そんな顎関節をおかずに、花井の食は進んだ。
ピザパンの次に醤油パンを食べて、焼きそばパンを食べて、メロンパンが残った。時計を見てみる。時間に少し余裕が出来ていた。
「あーん、してみる?」
浜辺の出来心で、花井は卒倒しかけた。
「あーん、って、あの、あーん?」気付けに腿をつねりながら、言う。「アイーン、じゃなくて、あーん?」
「うん。あーん」
「恋人同士がやる、あの、あーん?」
「恋人同士がやる、その、あーん」
「慈しみの念を抱きつつ開放された口内に食物を供える、あの、あーん?」
「くどくど言うと、あーん、やらないよ?」
「やろう! あーん、やろう!」
導入さえ、いちゃいちゃの一環だった。幼稚で、傍から見れば馬鹿馬鹿しいことこの上ないやり取り。しかし、想像してごらん。そんなことで満たされるんだと。誰もが、あーん、一つで生きていけるって・・・・・・イマジン。現にほら、口角が裂けてしまいそうな勢いで口を開く、花井の幸せそうなこと。
体の正面を向け合い、一口サイズにちぎったメロンパン片手に口内を見詰める浜辺の目は、蠱惑に煌めいていた。
今朝は念入りに歯磨きをしてきたから、口内は白光の輝きを保っている。三時限目の終了後にブレスケアを噛んでいたので、においも清浄だ。
『見られようが嗅がれようが、何も恥ずかしくないぞ』
そんなふうに考えていた時期が、花井にもありました。
喉ちんこを、浜辺に見られている。その事実に思い当たった瞬間、余裕が失われ、心身は猛烈に火照った。
食い入るような視線に喉ちんこを愛撫される、快感。精神を激しく乱されて、一種の錯乱状態に陥った花井は、喉ちんこと喉じゃないちんこの差異さえ失念して、羞恥を貪った。
全身の汗腺がにじみ、淫らに濡れて、喉ちんこは震えた。
「ごめんね!」慌てて、浜辺は言った。「ずっと口を開けているの、きついよね。ごめんなさい」
サディズムを披露しておいて、真剣に謝罪する天然。それは、花井を大いに喜ばせた。
「大丈夫だよ、浜辺さん。ありがとう」
「今度はすぐに食べさせてあげるね」メロンパンを口元に近付ける。「はい、あーん」
耳を犯されて、堪らず、「あん」と零す。
「あん、じゃなくて、あーん、だよ」
うら若い母親に促される幼児みたいに、丸っきりの純真無垢で、「あーん」と口を開く。そうして、メロンパンをつまむ人差し指が上唇に触れた。途端に、性が狂乱の嵐となって吹き荒び、純真無垢は吹き飛んで、唇はもう、性感帯でしかなくなった。
浜辺さんを食べてしまいたい! そんな欲求に突き動かされ、口を閉じる。しかし、細い指は舞い散る木の葉のようにつかみ所なく離れていって、口内にはメロンパンだけが残ったのだった。
「どう、美味しい?」
無念と安堵を抱きつつ、花井はメロンパンをゆっくりと咀嚼した。
浜辺の手指のぬくもりが残るメロンパンは、神聖で美味だった。
「美味しいよ」感動で声が震える。「世界で一番、美味しいよ」
浜辺は笑って、「大袈裟」とはしゃいだ。
最高に気持ちいい、好きな人からの、あーん。浜辺と快感を共有したい一心で、花井は、「僕も浜辺さんに、あーん、してあげる」と語気を強めて言った。
頬ばかりか耳までもが紅潮する。
「うん」言葉が甘い吐息に混じった。「して」
煩悩を抑え込む紳士然とした様相で、メロンパンを一口サイズにちぎり、それを浜辺の唇に近付けて、「それじゃあ、浜辺さん。あーん」と言う。
浜辺はぎゅっと両目をつぶり、「あーん」と答えて、口を開いた。
天女が戯れる純潔の箱庭、そんな形容が相応しい浜辺の口内だった。整然と並んだ純白の歯、麗しい艶にぬれる舌、柑橘系を思わせる清潔な香り、それらが完璧に調和して、美の極致は成り立っていた。
『浜辺さんは口の中まで美しいんだ!』
感慨にふける。ふけって、ふと、慎ましい突起物を見つけ、驚愕した。
『喉ちんこだ! 喉ちんこ! 信じられない! 浜辺さんみたいなかわいい女の子にも喉ちんこが付いているなんて!』
妖しい癖が胸中に忍び寄った。得体の知れない興奮を持て余し、喉ちんこを食い入るように見詰める。
場が停滞し、しかし時は流れて、幕が下りるように、口は閉じられた。
「花井君、長いよ」官能的に、なじる。「早く、して」
「ごめんね」エロスの酔いが回り、頭がふらふらしながらも、最後の理性を握りしめ、言葉を紡ぐ。「今度はすぐに入れるから」
浜辺は再び両目をつぶり、律儀に、「あーん」と言ってから口を開いた。
神域に踏み入る厳粛な心持ちで、メロンパンを口内に近付け、人差し指が上唇に触れた、デジャブ。浜辺が身震いして、花井も身震いした。
唇の感触は、上質なゆし豆腐を遥かに凌いでいた。
いつまでも浜辺さんの唇に触れていたい・・・・・・それがかなわぬ願いであることくらいは理解できて、名残を惜しみながらも、つまんだメロンパンを放し、手もまた離れるのだった。
名残を惜しむのは、浜辺も同じだった。こんなにも唇が敏感だなんて知らなかったから。余韻が強すぎて、口がぱくぱくと動いてしまう。はしたない! と強引に口を閉じて、始めた咀嚼は、乱れていた。
「美味しいね」
そう言った浜辺の笑顔が、花井の母性を芽吹かせた・・・・・・男に母性? あるさ! あっていいのさ! 21世紀だもの・・・・・・授乳を済ませた母親みたいな感情が、花井の心を支配する。
『ずっと、浜辺さんを守護ってあげたい』
そう思えることが喜びだった。性愛とは異なる、親愛。それさえも抱いて、愛は一層と深まるのだった。
あーん、の残り香は恥じらいの芳香で、残ったメロンパンを食べ終えるあいだ、二人は一言も口をきけなかった。
羞恥の峠を越えてからは、時間が許す限り、会話を楽しんだ。
昼休みが永遠に続いてほしい、そんな願いをあざ笑う残酷さで、時計の針は速まった。
いつの間にか、雨は止んでいた。雲の隙間から差した陽光が、濡れそぼった窓を透かして部室に入り込む。潤いを含んだ煌めきは、テーブルの天板で反射して、光のベールをかけた。
「そろそろ、教室に戻らなくちゃね」
立ち上がった花井の袖を、浜辺はつまんだ。
可憐な上目遣いは、作為によるものではなかった。
「二日後、日曜日に、デート、しよう」
幸福の青い鳥のさえずりに聞こえた。甘美が過ぎて、花井はほうけた。
「駄目、かな?」
憂いを感じて、すぐさま奮い立ち、「デートしよう」と真摯な声を返す。そうして、桜花爛漫、浜辺の笑顔に花が咲く。その花に伸ばした手が、頬に触れて、伝わった温もりは、心身を永遠に温める種火となった。
初めて交わしたデートの約束は、初々しさ故につたなくて、大まかなデートプランすら念頭になく、唯、日曜日の逢瀬を思い、心が躍るだけなのだった。
変態紳士によろしく はんすけ @hansuke26
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