第3話 夜伽
最後に怒ったのは、中学二年生の夏。行きつけの駄菓子屋にまで消費税の魔の手が伸びたあの日、十円玉六枚を右手に、ブタメンを左手に、社会に対して怒ったアオハル。そんな骨の髄まで温厚な男、花井智昭、四十二歳は、ちんちん責め疑惑の渦中にある息子と向き合ってさえ、優しい面持ちを崩さなかった。
コーヒーテーブルの天板にぼんやり映る花井の顔は、意味深な半笑いを浮かべていた。ソファの布地をなぞる指は落ち着きがない。疑惑を強めるのに十分すぎる有り様だ。
「潤。改めて、聞かせてくれ」息子と向かい合って座るために動かしたラウンジチェア、その肘掛けをさすりながら、智昭は言った。「潤は、浜辺さんという子に、本当は何をしてしまったんだい?」
人間は視覚の生き物である。よって、花井を苛むものは悲痛な声ではなく、老け込んだ顔だった。
『父さんたら、小じわの一本一本までくたびれちゃって』
一緒に暮らしていても、父親の顔をまじまじと見る機会なんてそうそうない。記憶にある顔とは別人のような中年、その痛ましさに情が湧く。
『父さんを、悲しませたくない』
純粋な思いやりだけを以てして、現状の打開策を練る。浜辺の貞操は守護られている、その事実を正確に伝えなければ・・・・・・練る、練る、練る、練れば練るほど、まずい。それは、まずい。ねるねるねるねではないのだ。策とは、練れば練るほどうまくなるものではないのだ。策士策に溺れる、それすなわち、人類の常識。
案の定、花井、思考がこんがらがる。もはやパニック状態と遜色ない。そうして、彼は口走った。
「ちんちんを見せてとお願いしたんです」
主語が見事に欠けていた。これには智昭も、混乱。
生まれてこの方、一度も煙草を吸ったことがない。そうだというのに、無性に煙草が吸いたくなる。口の寂しさを紛らわしたい一心で、ポケットから取り出したのど飴を、智昭はなめた。
「潤も、のど飴、なめるかい?」
穏やかな声が、冷静の呼び水となった。
「うん。一つ、もらうよ」クリアな声。「父さん」
ころころころころ、のど飴を転がす父子。ころころころころ、ころころころころ。
「潤」12ラウンド目に挑むボクサー並に、智昭は疲弊していた。「ちんちんを見たいなんて言われたら、誰だって困ってしまうよ」
「でも、父さん!」若さゆえに、まだまだ元気一杯な花井。「ちんちんは未遂に終わったよ! 浜辺さんはちゃんとちんちんを拒否してくれたんだ!」
「潤。落ち着いて、話を整理しような」深呼吸を挟む。「ちんちん責め、っていうのは、ちんちんを見せてとしつこく迫ったこと、と解釈していいんだね?」
「うん。うん」全てを理解してもらえた、という誤解からくる安堵の声。「うん。そうだよ。そうなんだよ。父さん」
「決して、浜辺さんに物理的な乱暴を働いたということではないんだね?」
「当り前じゃないか!」勢いよく立ち上がる。「大好きな浜辺さんにそんなことをしたりするもんか! 僕たちはプラトニックな関係だよ! 今日、付き合い始めたばかりなんだから! まだ手だって繋いでないんだよ!」
天を仰ぐ智昭。ソファにそっと座り直す花井。
「潤。その、聞きづらいことなんだけど、浜辺さんというのは、クラスメイトの、女子、ということで正しいんだよね?」
「うん」顔を真っ赤にして。「クラスで一番、素敵な女の子だよ」
「そう、だね」微笑み、ささやく。「女の子は、女の子だ。ちんちんの有無は、関係ない」
まるで隠れた妖精を探すかのように、智昭は部屋中に視線を泳がせた。
「父さん。もう一つ、のど飴をもらっていい?」
「いいよ。潤」
のど飴を手渡す。
「潤。どんなに親しい人が相手でも、ちんちんを見せて、なんて言ってはいけないよ」
わんぱくな五歳児に言って聞かせるような言葉を口にして、情けなさの余り、顔を両手で覆ってしまう。花井もまた、情けなさの余り、涙目になった。
「なんだって、ちんちんを見せて、なんて言ってしまったんだい、潤は」
「理性のブレーキが大破していたんです」こぼれ落ちた涙がソファに染みを作った。「浜辺さんの恥じらう姿を見たい一心で」
「相手の気持ちを、ちゃんと考えなさいね」
「反省してる」しゃくり上げて、口の中ののど飴が飛び出た。「もう二度と浜辺さんに嫌な思いはさせない」
智昭は席を立ち、カーペットの上に落ちたのど飴を拾い、それをティッシュにくるんでごみ箱に捨てた。その後は、泣き止むまでずっと、息子の背中をさすってやった。
「さっきは、浜辺さんと電話していたんだよね」泣き止んだのを見計らって、言う。「何度も謝っていたけれど、浜辺さんは許してくれたのかい?」
「後で、もう一度、電話してくれるって・・・・・・」また、泣き出す。「僕、きっと、嫌われた」
どんなに大きくなったって、親にとって子供はいつまでも子供なのだ。まだ赤ちゃんだったころ、優しく抱いてあげたようにして、智昭は息子を抱き締めた。
「潤。今度はちゃんと浜辺さんの気持ちに寄り添って謝るんだよ」
父親と息子、これ以上のやり取りは野暮というもの。だから、これでフィニッシュだった。
智昭はリビングを去った。少しして、花井もリビングを出た。
二階へ上がり、自室に入る。座布団を敷き、その上にスマホを置く。そうして、正座。浜辺からの連絡を待つ。
良好な精神状態だった。涙は心のデトックスなのだ。父親に優しく諭されたのも精神の安定に一役買っている。今、浜辺から連絡があったならば、十中八九、真っ当な対応が可能だ。しかし、悲劇かな、満を持したときほど無事となる自然の摂理。五分待ち、十分待ち、未だに浜辺からの連絡はないのだった。
しびれを切らす、それすなわち、心の乱れ。スマホを手に取る、それすなわち、悪手の兆し。
『僕から電話を掛けるのが、筋なのかしら?』弱い心が、自らを不必要な苦しみに追い込む。『また電話してくれる、という浜辺さんのご厚意に甘えることは、怠惰なのではないかしら? 謝罪すべき咎人は僕のほうなのに、お声が掛かるのを待つことは、非道ではないかしら?』
不安を原動力とした衝動で、花井は浜辺に電話をかけた。
無機質な呼出音で、寒村の牧場を連想してしまう。冷たい風に吹かれた錯覚があって、花井は身震いした。
『また電話する、という浜辺さんの問いに、僕は承知の旨を伝えたのだ! それでいて、この電話である! これは、約束の反故と同義! 浜辺さんの気持ちも、都合も、何もかもを無視した独り善がりに他ならない! 父さんから注意を受けてさえ、僕はちんちんを連呼した時分からまるで成長していない!』
後悔は、どこに立つ? そう、後に立つ。ゆえに、後悔。
『でも、今ならまだ取り返しがつく。浜辺さんが電話に出る前なら、やり直しがきく。今すぐ電話を切るんだ、花井潤。そうして、浜辺さんからの電話を忍んで待つのだ。全て、浜辺さんの都合が優先。浜辺さんファーストが僕の行動原理。謝罪も贖罪も、僕の望むタイミングではなく、浜辺さんの望むタイミングで・・・・・・』
苦慮の最中に、呼出音は切れていた。
「あの、花井君、だよね?」
良質な綿棒みたいな声に耳をくすぐられる。そんな不意打ち同然の刺激に、花井は芯から震えた。
「そうです。花井潤です」上擦った声が飛び出す。「ごめんなさい。僕のほうから電話をかけてしまって」
「そんな、謝らないで。こっちから電話をかけるって一方的に言った私が悪いんだから」浜辺の声もまた、上擦っていた。「電話をくれて、ありがとう、花井君。嬉しい、です」
その声は、慈愛の女神が咎人の魂に注ぐ清らかな聖水だった。花井の魂は洗われ、恍惚の空へと舞い上がった。
愛しくて愛しくて、今すぐに抱き締めたかった。しかし、浜辺とは1キロメートルの距離で隔たれている。電波のみの希薄なつながりで、体が凍える。そうして、温みを求める本能で、花井は幻を抱き締めた。エアハグである。
「夕飯、食べるって」
突然、ドア越しに声をかけられて、花井は飛び上がった。
「先に食べちゃって」
その声に舌打ちだけを返して、陽菜は一階へと降りていった。
「どうしたの?」
「どうもしないよ。妹が話しかけてきただけ」
「妹がいるんだ」
「浜辺さんは、一人っ子?」
「私も、妹がいるよ」
歯切れの悪い声に、後は続かなかった。
五秒程度の沈黙でさえ居たたまれなくなる二人。経験不足からくる不要な焦燥。若い二人にアドバイスをすることが叶うならば、筆者はこう言ってやりたい。沈黙とは共同作業! 黙した空気を食指に変えて互いの心を愛撫するのだ! と言ってやりたい。
「今日は一緒に下校してくれてありがとう」沈黙を破ることだけを目的とした声だった。「すごく楽しかった」
「僕もすごく楽しかった。ありがとう・・・・・・ごめんね。今日は何度も卑猥な言葉を浴びせかけてしまって」
『ぶり返してしまった!』浜辺、このタイミングで後悔。『花井君が酷く自分を責めていたから、もう下校でのことには触れないようにしようと決めていたのに、会話が始まって一分も立たないうちから、触れてしまった!』
悪いのは私だよ、という声が喉まで出かかる。
『駄目! それだとさっきの通話と同じ展開になる!』
謝罪は容易であり、免罪は困難なのだ。電話口であるにもかかわらず深々と頭を下げる花井は一見したところ誠実。しかしその実態は、浜辺を免罪の袋小路に追い込む安直にすぎない。無論、今回のちんちん責め事案、浜辺が許す立場にある。それでも、自ら誘った下校デートを自ら打ち切った事実、犬の芸を卑猥に解釈してしまった事実、この二つの負い目が重く心にのしかかり、「気にしてないよ」の一言さえ尊大であると錯覚してしまっている以上、発せられる言葉など皆無なのだ。
「ごめんなさい。浜辺さん。本当にごめんなさい」
なおも追い込む。善意のみでこれほどの仕打ち、度し難い天然であった。
ナナカマドの葉擦れ、そんなささやかな夜音さえ耳に届く。しかし、どちらの耳に届いたのかまでは分からぬ二人。いつか思い出になる夜。
困惑の最中に、浜辺は、己の感情と花井の感情、その二つを天秤にかけてみた。そうして、花井の感情に大きく傾く。この結果は、彼女に喜びを与えた。
『花井君が望むものを与えてあげたい』
己をないがしろにして他人に奉仕する、そんな劇薬同然の快感に、浜辺、初挑戦。強すぎる愛情ゆえに、判断基準さえ定まってしまえば、もう何のためらいもなかった。
「気にしてないよ」
その声は、初な乳液よりも清潔だった。必然、花井、エクスタシー。ナイル川の流音を聞いたエジプト人だって、これ程までにしっかりと琴線に触れられたりはしないだろう。
『よかった! 浜辺さん、嫌な思いをしていなかったんだ! 傷付いていなかったんだ!』
余りに素直なため、言葉を額縁通りに受け取る。気にしてないよ、の裏にあった葛藤や、言葉の要素が何であるのか、そんなものは露ほども考えず、一瞬で幸福になれる。そうして、幸福は周囲に伝染するもの。よかった、という声に、浜辺も幸福を得られたのだから、万事良し! 万事良しではないか・・・・・・。
痴態の嵐は過去のものとなった。緊張が緩み、和む。正座をしていた花井も、ようやく足を崩す。二人は慎み深く笑った。
「花井君。その、花井君は、映画って、観る?」
いつまでも笑い合っているだけでは流石に場が持たず、浜辺は当たり障りのない話題を振った。それを天の慈悲として享受した花井が、飛びつく。
「僕、映画が好きで、よく観ています。一番好きな映画は、ボクと空と麦畑、です」
「リン・ラムジー! 私もあの監督の作品、大好き!」
大好き! のフレーズが猛烈に刺激的で、花井は失神しそうになった。
「浜辺さんは・・・・・・」必死になって意識を保ち、言う。「一番好きな映画って、なに?」
「秘密と嘘、っていう映画が一番好き」
「いいね。マイク・リー監督の映画はどれも最高だよね」
「嬉しい! 花井君もマイク・リーが好きなんだ!」
「僕も、僕も嬉しい」
ニ十分ほど、映画について話し合う。それは、共感が混じり合う至福の時間だった。
映画の話が終わってからは、好きな漫画の話になった。映画の話とは違い共感に彩られたものではなかったが、それでも、互いの見識が広がる有意義な時間だった。これも所要時間はニ十分ほどで、しかし二人の体感はまだ話し始めて二分ほどであり、漫画の話が終わってからも様々な話題について話し合い、無限に等しい快楽は若い魂を満たし続けた。
耳は、性感帯である。愛撫し合う、愛撫し合う。会話を、貪る。
永遠に言葉を紡ぎ合っていたい、そう思えば、有限の命の儚さが身に染みる。二人は幸福を噛み締めた。
夢中になっていたから、ドアがノックされたことに花井は気付かなかった。
「潤。夕ご飯、いい加減に食べちゃいなさい」
その声で、会話は途切れた。
スマホを離し、「もう少ししたら食べるよ」と言う。
音を頼りに、母親が一階へ降りたのを確認して、スマホを耳元に戻す。
「花井君、夕ご飯まだだったんだ」
「聞こえちゃった?」
「うん。聞こえた」恥じ入った声。「私、楽しくて、全然気が回ってなかった」
「僕も、楽しくて、お腹が空いていることさえ忘れてた」
お腹が、ぐう、と鳴った。見事なまでの、ぐう、だった。
「今日はもう、終わりにしなきゃ、だね。明日も、会えるから」
名残惜しさよりも気遣いを優先して絞り出した声。その健気は、花井の心を打った。
「好きだよ、浜辺さん」自然と、心が言葉になっていた。「世界で一番、君が好きだよ」
浜辺は、沈黙した。雪解け水に濡れるユキツバキの蕾みたいな沈黙だった。
開花を告げるのは、ウグイスの清涼な調べ。満開の、露出した雌しべから流れ出る香りは、私も好き、の一言。
さよならなんて言えなかった。無言で、時々照れたように笑って、電話を切れぬまま、時間は過ぎた。
「電話、切れないね」
「うん。切れない」
「せーの! で一緒に切ってみる?」
そんな愛らしいことを言われたら、もう座っていることさえかなわない。花井は仰向けになった。漏れた涙が頬をつたう。感涙であった。
「そうだね。せーの! で一緒に切ろう」
「それじゃあ、いくよ・・・・・・」
せーの! の声が綺麗に重なる。そうして、二人とも電話を切らなかった。
浜辺が悪戯っぽく笑う。花井は幸せ過ぎて気が狂いそうになった。
もう一度、せーの! の声を重ね合い、それでも電話を切らないで、結局、電話を切るためには同じことを更にもう一度、必要とした。
真っ暗になったスマホの画面に、花井はキスをした。舌は使わない純情なキスだった。
満足するまで通話の余韻にひたり、唇から離したスマホをポケットに入れ、一階へ降りた。ダイニングに入る。そこには母親だけがいた。
ダイニングテーブルには、近所のコンビニで売っている焼肉弁当と、食器に盛られたコブサラダが並んでいた。
「チンする、潤?」
ダイニングチェアに座っていた母親、花井佳織、四十二歳は、息子を見やり、言った。
「自分でチンするよ。母さんは座ってて。仕事で疲れてるんだから」
言葉通りに、弁当を電子レンジで温める。
「潤」息子の後姿へ注ぐ眼差しは、霧中にあるかのように覚束なかった。「浜辺さん、ていう子には、ちゃんと謝れたの?」
温め過ぎた弁当を難儀しつつテーブルまで運び、ダイニングチェアに座ってから、「父さんから話を聞いたんだね」と言う。
「ええ。聞きました」
事実だった。智昭は、花井とリビングで話し合った全てを、ありのまま佳織に伝えていた。どこぞのフランス人とは訳が違う、明瞭なありのままを。
部屋着の上に身に付けたエプロン、その裾を佳織は握った。
「ちゃんと謝れたよ」淀みのない満面の笑顔で。「そしたら浜辺さん、気にしてないよ、って教えてくれた」
「仲直りできた、ってこと?」
「うん。僕たち、すっかりラブラブさ」
「そう・・・・・・」俯いてしまって、ハッとして、顔を上げる。「よかったね」
焼肉の強いにおいが広がる。
「いただきます」
肉を口に運ぶ息子をまじまじと見れば、佳織の胸中はさざめいた。
『潤、あなたがトランスジェンダーの子と恋愛をするなんて、母さん、想像さえしていなかった!』
佳織は、大学生の頃にニューヨーク・ニューヨークを文庫本で読んでいる。性の多様性に対する理解はその時に培われ、以降もジェンダー全般に関する情報を積極的に収集し、今日までLGBTQ+を肯定して生きてきた。そんな彼女でさえ、実の息子が男性の体を持った人物と恋愛していると認知した際には激しく心を乱してしまう、ジェンダー後進国の現実。創作物やニュースでしか知らないLGBTQ+の世界、その実体験の欠如こそが、理解を簡単に粉砕してしまう。
苦しんでしまっている己を、佳織は深く恥じた。潤に恋人ができたことをどうして喜んであげられないの!? と自責する。それでも、息子かわいさで、先回りの心配を止められない。潤の人間関係に影響が出たりしないかしら? 潤は正しい知識を持ってお付き合いができるの? 結婚はどうするの? 子供はどうするの? ああ、私、最低だ! 無理解な人間と同じようなことばかりを考えてしまっている! でも、本当に、どうするの!? 潤の人生はどうなってしまうの!?
「やっぱりローソンの豚肉は最高だね」
母親の苦悶にも、誤解にも、一切気が付かない鈍感で、花井は肉を口に運び続けた。
やがて、焼肉弁当もコブサラダも完食。空の容器をごみ箱に捨て、使った食器を流しに置く花井。
「お風呂、入れるかな?」
「お風呂・・・・・・」落ちくぼんだ瞳を無闇に動かし、佳織は言った。「浴槽は、私、洗ってない。たぶん、パパも陽菜も」
「それじゃあ、シャワーだけ浴びちゃうね」
「潤」ダイニングを出て行こうとする花井に向けて、言葉を絞り出す。「一番大事なのは、あなたたちの気持ちだから、母さん、二人のこと応援するね」
どこまで本心であるのか、自分でもはっきりとは分からぬままで、それを誤魔化すために、佳織は微笑んだ。
「ありがとう! 母さん!」
案の定、言葉の裏を読むことがなかった花井は、第三者からの容認によって強まった交際の現実感に舞い上がり、スキップで浴室へと向かった。
浮かれた気持ちそのままに、浴室に隣接する脱衣所のドアを勢いよく開く。そうして、湯をぬぐっていた全裸の智昭と目が合って、しかし全く動じることなく、花井は寛容に満ちた笑顔を作った。
「わお! 父さん!」
「うお!? 潤!」
過剰な速さで局部を隠す。昨日までは、男同士、隠すものなんてナニもなかったのに。
「潤。駄目じゃないか」抑揚が乱れた声。「ドアを開ける前にノックをしなくちゃ」
「ごめんよ」
らんらんとした声で言って、ドアを閉める。
智昭が脱衣所から出てくるのを待つ間、収まる気配すら見せない心身の高揚を原動力として、花井はカチャーシーを舞って過ごした。
「潤。お待たせ」脱衣所から出てきた智昭。「お風呂、どうぞ」
「ありがとう」
花井は脱衣所に入り、ドアを閉めた。
ドア越しに、話しかける智昭。
「浜辺さんには、ちゃんと謝れた?」
「うん」
「許してもらえた?」
「ちんちんを見せてって言われたこと、浜辺さん、気にしてなかったみたい。僕たち、これからもお付き合いを続けていくよ」
とうにキャパシティーをオーバーしていた。だから、「よかったね」の一言を発する以外、智昭にできることはなかった。
智昭の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、軽やかに衣服を脱ぎ捨てた。生まれたままの姿になると一層、上機嫌になる。上機嫌が過ぎて、フラフープを回す要領で腰を動かし、男性器で風車ごっこをしてしまう始末だ。絵に描いたような有頂天である。
浴室に入り、シャワーを浴びる。それだけで、ハードなボディパーカッションを行っているかのように錯覚し、五体がリズムを刻みだす。髪の毛も体も、リズムに合わせて洗う。自ずと、鼻歌も奏でていた。君といつまでも、の替え歌だ。
「幸せだなァ 僕は浜辺さんと付き合えている今が一番幸せなんだ 僕は死ぬまで浜辺さんを離さないぞ いいだろ」
心情が歌声になっている。ずっと恋焦がれてきた人と付き合えて、時が立つほど幸福感が増していく、童貞のサガ。曇った鏡にうっすら映る花井の顔は、果てしなく綻んでいた。
浴室を出て湯をぬぐい、自室に戻ってベッドに身を投げた。枕に顔をうずめれば、暗闇に浜辺の可憐な姿が浮かび出て、全身が火照る。
恋の熱量は幸福感と比例する、それらと共に性的欲求も比例する、正しく愛のトライアングル。本能の摂理に抗えるはずもなく、花井はパソコンに吸い寄せられた。
パソコンを起動し、世界遺産映像集、という偽名を与えられたフォルダを開く。イグアスの滝、というこれまた偽名を与えられたWMVファイルをダブルクリックすれば、下北沢の主婦を自称する三十歳の女性がインタビューに応じる映像がモニターに流れ始める。
経験人数は? というQに対して、「夫と、他に二人くらいです」というAが返された。以降も淫らなQ&Aが繰り返され、動画が始まって十分、到頭、自称下北沢の主婦は衣服を脱ぎ始めた。そのタイミングで、花井もズボンとトランクスを脱ぎ捨てた。
愛の如意棒に手を伸ばし、刹那に、強い罪悪感を覚える。
『何をしようとしている、僕は!? 浜辺さんという人がありながら、何をしようとした、僕は!? 天使のように素敵な浜辺さんとの交際一日目に、下北沢の主婦で精を吐き出そうとする所業! これは、浜辺さんに対する裏切り行為ではあるまいか!? 不貞を働くのと同義ではあるまいか!? 浜辺さんへの恋慕を心の片隅に追いやり、下北沢の主婦のエロスに精の拠り所を求める所業、そんなこと、例え僕の性欲が許しても、僕の感情が許しはしない! いや、真に重要なことは僕の感情ではなく、浜辺さんの気持ちだ! 付き合い始めたばかりの彼氏が他の女性をオカズに精を吐き出す、その現実にさらされる浜辺さんの気持ちにこそ僕は心を配らなければならない! 浜辺さんが嫌な思いをすることなど、あってはならないのだから! オナニーなんてバレっこない、バレなければいい、そんな悪魔のささやきに僕は耳を貸さないぞ! 裏切りは姿なき毒となって大事な人を蝕んでいくものなのだ! 僕にとって、浜辺さんの幸福こそが全て! 浜辺さんを泣かせるなど論外! 浜辺さんの彼氏という誉を受けた以上、他の女性に欲情するなど有り得ない! 僕は断固、下北沢の主婦を拒否する!』
決意が固まるや否や、閉じるボタンをクリックし、動画を終了する。
「これでいい。これでいいんだ」
ウォーキングを終えた直後のような清々しさで、額ににじんだ汗をぬぐう。
「僕の全ては浜辺さんの物。すなわち、僕の精も浜辺さんの物なのだ。僕は、浜辺さん以外の人では決して精を吐き出したりしない」
貞操を守護った実績に鼻高々で、生じた傲慢は無遠慮に浜辺のエッチな姿を妄想させた。必然、愛の如意棒が反応を示す。下北沢の主婦に対しての反応よりも膨大が顕著で、ひとりでに包皮がむける様は、動植物の戯れがそうであるように、切実だった。
愛の如意棒に手を伸ばし、刹那に、またしても、強い罪悪感を覚える。
『何をしようとしている、僕は!? 浜辺さんを慰み者にして、何をしようとした、僕は!? 汚れのない絹のような浜辺さんとの交際一日目に、浜辺さんの妄想で精を吐き出そうとする所業! これは、浜辺さんに対する裏切り行為ではあるまいか!? 一方的な性交渉と同義ではあるまいか!? 浜辺さんの純情な精神を心の片隅に追いやり、浜辺さんの色情まみれな肉体に精の拠り所を求める所業、そんなこと、例え僕の性欲が許しても、僕の感情が許しはしない! いや、真に重要なことは僕の感情ではなく、浜辺さんの気持ちだ! 付き合い始めたばかりの彼氏が自分をオカズに精を吐き出す、その現実にさらされる浜辺さんの気持ちにこそ僕は心を配らなければならない! 浜辺さんが嫌な思いをすることなど、あってはならないのだから! オナニーなんてバレっこない、バレなければいい、そんな悪魔のささやきに僕は耳を貸さないぞ! 裏切りは霧中の邪となって大事な人を辱めていくものなのだ! 浜辺さんを愛でることが僕の全てで、辱めるなど論外! 浜辺さんの彼氏という幸福を得た以上、浜辺さんをオナニーで汚すなど有り得ない! 僕は断固、エッチな妄想を拒否する!』
「浜辺さんと同意の上でエッチなことが出来るその日まで、僕は己に射精禁止を課す」
強い決意は、声になっていた。
愛さえあればどんな困難も乗り越えられる気がした。愛は偉大だった。同時に、愛は混沌でもあった。
再びベッドに身を投げる。目をつぶり、プラトニックな思考を以て浜辺の姿を思い描く。
依然としてそそり立つ愛の如意棒、それに構うことなく、花井は幻の頬を優しくさするのだった。
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