第2話 贖罪

 街灯の淡白な明りが、花井のうつろな背中を照らした。場所は、銚子市黒生町。小畑新町から徒歩でニ十分ほど北上したところにある街区だ。犬を利用してのちんちん連呼、それに端を発した浜辺との気まずい別れ。その後、彼は夢遊病者のようになって市内をさまよっていたのだった。

 ウミネコの鳴き声が聞こえる。港の近くまで来てしまったのだ。海を見やれば足が止まった。刻一刻と夜の黒に染められていく青は、落ちくぼんだ瞳を釘付けにした。

 さざ波の音すら飲み込むような真っ黒な海が出来上がって、ようやく、花井は帰路につけるだけの分別を取り戻した。

 踵を返し、冴えてきた頭で歩けば、一歩を踏み出すごとに体が沈んでいく感覚に襲われた。後悔の念が重しになっている。

 「浜辺さん。ごめんなさい」

 そうささやくたびに、重しは重量を増していった。余りにもささやき過ぎて、自宅まで辿り着いたときには這う寸前だった。

 自宅の二階を見上げる。妹の部屋は電気が点いていた。ドアチャイムを押す。少しして、インターホンから冷めた声が聞こえた。

 「何? 鍵、失くしたわけ?」

 インターホンのカメラ越しに兄を見やる妹の目は、不快を宿していた。花井陽菜、小畑新町中学校に通う三年生。好きなもの、太巻き寿司、バニラ・ニンジャ、猫。嫌いなもの、ゴキブリ、下ネタ、兄。

 「そうじゃないよ。おかえりなさい、って言われながら優しくドアを開けてもらいたい気分なだけ」花井は本心を口にした。「罪深い僕なんかでも、一時くらいは慰めが欲しいんだ」

 「キモい」陽菜の声もまた、本心だった。「ドアくらい自分で開けろよ」

 平生であれば陽菜の辛辣な声に快感を見い出す花井も、この時ばかりは涙を飲む他なかった。それでも、言動の一致しないツンデレ要素を期待し、その儚い希望を糧にして、彼は玄関ドアが開かれるのを待ち続けた。

 五分ほど待ち続けた。希望がついえるには十分すぎる時間だった。とうとう自力で玄関ドアを開け、「ただいま」と悲痛な声を出す。おかえり、の声はなく、涙を浮かべた微笑みは哀れだった。

 哀れを引きずりながら、花井は二階に上がった。自室に入り、制服姿のままベッドに身を投げる。シングルベッドの孤独なきしみが骨身に染みた。

 「僕はどうして、ちんちん、なんて卑猥な言葉を浜辺さんに浴びせかけてしまったんだろう?」枕に顔をうずめて、言う。「欲情の余りに我を失っていたとはいえ、あそこまで躊躇いもなくちんちんを連呼できるなんて、まともじゃない。浜辺さんに対する思いやりの欠如は言うに及ばず、ちんちんを発語することに何の抵抗も抱かない下品な性質も問題だ」

 花井は仰向けになり、天井を見詰めた。やがて、見慣れた木目が男性器の形に見えてきて、激しい憤りを覚える。

 「こういう性質だ! こういう性質なんだ。物事を性的に捉える習性が染み付いてしまっているんだ。発想そのものが、下品。この感性は、先天的なもの? いや、そうじゃない。僕にだって無垢な時代はあった。この感性は、後天的なものだ」

 肢体がうずいて、横たえたままでは持て余し、六畳の自室をぐるぐると歩き出す。

 「そうだ。僕は作られたちんちん野郎。僕は被害者だ。僕を堕落させた原因こそが、浜辺さんを辱めた真の加害者なんだ・・・・・・人間関係。そう、人間関係もとい友人関係だ。ちんちんなどの卑猥な単語を平然と使い合う下ネタ塗れの友人関係こそが、僕の内面を汚し、羞恥心の欠片もないモンスターを作り出したんだ」常軌を逸した飛躍で、自論は続く。「思い返してみれば、僕の友人は皆、ちんちんという単語を好んで使用していた節がある。むしろ、ちんちん以外の単語を使用したことがあるのかさえ疑わしい。ありとあらゆる品詞を、ちんちんだけで済ませていたような気さえする。結局のところ、ちんちんだけで成立してしまうようなコミュニケーションに浸かり切っていたことが、僕をちんちん野郎たらしめる要因なのだ。僕が真人間になるには、今ある全ての友人関係を解消する以外に道はないんだ」

 驚異的なまでの責任転嫁は、一種の自己防衛であった。すなわち、現実逃避だ。浜辺を傷付けてしまった及び浜辺に嫌われてしまった、という自分で拵えた現実からの逃避。罪悪感と客観視を併せ持つ、善良な人間ゆえに陥る現象。

 勢いよく、スラックスのポケットからスマホを取り出す。ディスプレイに向けられる目は見開かれ、妄信の危険な色が露だった。

 「僕は人間関係の断捨離を敢行するぞ。僕をちんちん野郎に仕立て上げた下品な友人たちと縁を切るんだ。そうすれば、僕は浜辺さんに相応しい人間になれる。その第一歩として、親友の柿崎に絶縁宣言をするぞ。ラインのトークなんか使わずに、通話で直接、もう僕には関わらないでくれ! って言ってやるぞ」

 荒々しい手付きで鳴らされた呼出音は、短く途絶えた。そうして、後には正統派のハンサムボイスが続いた。

 「どうした、花井?」

 森川智之氏を思わせる声だった。魅惑の音波に耳から犯され、抗い難く、花井の心は揺れ動いた。

 『柿崎! 中学から付き合いのある柿崎! 顔が良くて、身長も高くって、頭も良くて、僕が知らない性の情報をたくさん提供してくれる無二の親友、柿崎!』湧き上がってくる友情の念が、正常な倫理観の呼び水となった。『僕は、最低の上に最低な人間だ! 浜辺さんに不快な思いをさせた罪、その責を柿崎たちになすり付けようとするなんて! 柿崎も、他の友達も、皆、何も悪くないのに! 悪いのは、僕なのに! 浜辺さんに対してちんちんを連呼してしまったのは、全て、僕の思慮のなさが原因だというのに!』

 真実への回帰が成されて、涙ながらの声があふれ出す。

 「ごめん! ごめんね、柿崎! 僕たち、これからもずっと親友だから! さようなら!」

 柿崎の困惑を置き去りにして、言葉の勢いそのままに通話を終了する。こんな独り善がりにさえ清々しい気分を抱いてしまう浅ましさを自覚することもなく、花井の心はすぐさま親友から離れ、愛しい彼女にのみ注がれた。

 「浜辺さん、ごめんなさい! 全部、僕が悪いんです! だから、僕は自らを罰するよ! 綺麗な体となって、君に許してもらうため!」

 なおも独り善がりな決意表明、その後にある手持ち無沙汰を感じるより早く、花井の意識はノックもなく開かれた自室のドアに向けられた。

 ドアを開いたのは陽菜だった。

 「うるさいんですけど」

 小さな口から発せられた侮蔑の響きを含んだ声に、心をくじかれる。それでいて、体だけは嗜好に忠実な反応を示し、花井は物欲しげな瞳で陽菜を見詰めたのだった。

 Tシャツにショートパンツという服装が、胸のふくらみと細いながらも丸みを帯びた腿を強調していた。陽菜ももう十四歳なんだ・・・・・・と実兄が感慨にふけってしまうほど、少女から女へ変わる間近の妖艶は刺激的だった。

 「私が受験生だってこと、忘れんなよ」

 「まだ五月じゃないか」危険な感情を振り払うように、努めて語気を強める。「受験生だなんて大袈裟だよ」

 陽菜は大きなため息をついた。

 「あんた、そんな思考でよく君ヶ浜高校に受かれたね。今更ながら、尊敬する」

 見え見えな嫌味に気付くことなく、花井は、「ありがとう」と返した。

 陽菜は再び大きなため息をついた。

 「うるさくしたことは謝るよ。ごめん、陽菜。でも、陽菜だって悪いよ。ノックもせずにドアを開けるなんて」

 抗議に舌打ちを返す。それから、ドアを強く閉め、陽菜は自分の部屋に戻った。

 「少し前までは、お兄ちゃん子だったのにな・・・・・・」

 寂しい心の内が声になれば、自然と美しい思い出が蘇った。家族で行ったヤマサ夏祭りの帰り、海鹿島駅を出てすぐのところで下駄の鼻緒が切れた妹。「お兄ちゃんにおんぶしてほしい」の声に従順だった兄。小柄な妹は軽く、涼しい夜風に背中を押されるのも相まって、兄の足は勇みつつ速まった。家に着いても妹は兄の背から降りたがらず、延々と愚図った挙句、「お兄ちゃんが好きなんだもん!」と号泣した。兄は、失神しそうになるくらい嬉しかった。あの日、陽菜は八歳だった。

 余りにも鮮明に思い出が蘇ったものだから、今現在も八歳の陽菜を負ぶっている錯覚があって、そんな幻の温もりを、花井は愛でた。愛でて、愛でて、幸福のなかにあれば一層と罪の意識は強まっていく。やがて、自分はちんちんの咎人なのだ、という自責の念から安楽な幻を消し去って、次に生み出した幻は、贖罪の三角木馬だった。

 幻でしかない三角木馬にまたがる、そんなことが可能なのか? 答えは、可能だ。卓越した想像力があれば、可能だ。一流のボクサーが行うシャドーボクシングしかり、一流のパフォーマーが演じるエア・ギターしかり、幻と戯れる事象は人類史において無数に観測されている。極限まで想像力を研ぎ澄ました人物に至っては、人間サイズのカマキリとダメージ有りの格闘までしでかす始末だ。人間の脳とは、そういう物なのである。そうして、花井もまた、優れた想像力を有していた。

 三角木馬にまたがって、数分が経過する。肛門に感じる鈍い痛みは確かなものだ。しかし、この程度の罰では生温いと花井は判断し、更に厳しく自分を責めるべく想像力のギアを一段上げた。自らを鞭打ちの刑に処すのだ。もちろん、三角木馬にまたがったままで。鞭を握る幻は、壇蜜氏だ。映画、甘い鞭、の公開当時の姿を幻に落とし込んでいる。

 鞭打ちは早いペースで数十打に及んだ。花井の想像力程度では裂傷なんて出来るはずもない。しかし、鋭い痛みは全身を苛んでいる。それでもなお、生温いと感じるマゾの悪癖。度し難くも、純粋だった。脳に詰まった知識を総動員して、相応の罰を捻り出そうとする。生みの苦しみ、果ては難産で、熟考の末、暗闇に差した光は一本の映画だった。

 「007だ」苦悶から解き放たれて、言った。「カジノ・ロワイヤルだ。金玉拷問だ」

 ここで言う007/カジノ・ロワイヤルは、ダニエル・クレイグ主演のものだ。この作品には、ジェームズ・ボンドがロープの瘤で睾丸を複数回に渡って強打されるシーンがある。花井の指すところは、正にそれだった。

 「金玉拷問だ」大事なことだから、二度言った。

 映画の再現よろしく全裸となって、すけべ椅子の幻に深く座り、睾丸を強打する役割の人物を想像すれば、もう準備万端だった。マッツ・ミケルセンの幻に女性の代役を立てないところに、罪を償おうとする花井の誠意がうかがえる。

 「見事な体だな」花井の華奢な体を指して、マッツ・ミケルセンの幻が言った。

 恥じらう花井を尻目に、ロープの瘤が空を舞った。空を切る音、それさえもが幻聴として花井を苛む。情け容赦ない回転力によって増していく威力。ごくり、と唾を飲み込むのと睾丸を強打されたのは、ほぼ同時だった。くどいようだが、幻の一撃である。それでさえ、歯を食いしばらなければ漏れ出てしまうほどの悲鳴がこみ上げてきたのだった。

 「これは、厳しい」冷や汗で額が濡れている。「罰に相応しい厳しさだ。償えるその時まで、打たれ続けよう」

 既に腹はくくった。有言実行で睾丸を打たれ続ける。打たれ続けて、いつしか花井は笑っていた。ジェームズ・ボンドもまた、そうであったように。致し方ないのだ。自然の摂理として、睾丸を打たれ続けたら笑うしかないのだ。しかし、それでいい。その笑いにの先には虚無感があって、滑稽なまでに喪失した独り善がりの血潮は、柔軟な少年の心に悟りをもたらすのだから・・・・・・。

 『自己満足なんだ。自責や反省なんて』淀みのなくなった思考で、花井は思った。『僕が今すべきことは、金玉拷問なんかじゃなくて、浜辺さんに謝罪することじゃないか。大事なのは僕の気持ちじゃなくて、浜辺さんの気持ちなんだから』

 もう、幻は消え去っていた。現実と向き合う心持ちが整ったから。痴態の先にある真理を、花井は手にしたのだ。失敗は発明の母であり、痴態は真理の父である。内側に広がるばかりの独り善がり、そんな遠回りがあったからこその、思いやりの深さ。唯、優しさのみで、彼は浜辺だけを思えた。

 花井はスマホを手に取った。浜辺に謝罪をするために。直近の一時間で彼がとった唯一全うな行為だ。しかし、哀れかな。優しい気持ちに突き動かされるばかりに見落としていた欠落が、彼に本物の苦しみを与えることになろうとは。

 「僕は、浜辺さんのラインも、メールアドレスも、電話番号も、何も知らない」

 遅延にも程がある気付きだった。浜辺とは今日、付き合い始めたばかりなのだ。それ以前は単なるクラスメイトで、挨拶を交わす程度の関係しか築けていなかったのだ。付き合えた幸運に舞い上がり、連絡先の交換という事務的な作業を失念していた自らに憎悪を抱きながら、謝罪の叶わぬ袋小路になげいて、花井は天を仰いだ。

 「浜辺さん!」真っ暗なスマホ画面に向かって、自ずと叫んでいた。「ごめんなさい!」

 独り善がりから脱して、なおも独り善がりしか許されない苦悶。花井はもう一度、愛しい人の名を叫ぼうとした。しかし、その叫びは陽菜の怒声によって押し止められた。

 「うるさくすんなって言ったじゃん!」

 再び、ドアはノックもなく開かれていた。だから、悲劇が起きるのは必然だった。

 金玉拷問の余韻で、亀の頭は上を向いていた。それを目撃して、陽菜は表情と言葉を失った。

 沈黙が、あった。花井にとっては全身に剣山を押し当てられるような痛すぎる沈黙だった。そうして、耐えかねて、平静を装いながら発した声は、「ノックしなきゃ駄目じゃないか」だった。

 「本当に無理」

 嫌悪と悲痛だけで構成された声をこぼし、視線を落とす。それから、そっとドアを閉める。

 廊下を踏む陽菜の足音が嗚咽のように聞こえて、花井の胸は痛んだ。

 姿見に映る全裸の自分と目が合って、破廉恥を強く自覚し、部屋着をまとう。椅子に座る。深呼吸をする。そこから始まるのが思考の整理だった。

 『僕はどう生きるか。この惨状にあって、どう生きるか。まず、浜辺さんへの謝罪に関して、どう生きるか。これはもう、今日中の謝罪は諦めざるを得ない。連絡手段が皆無なのだから、止むを得ない。明日、学校で、出会い頭にすぐ、心から謝罪しよう・・・・・・よし、次に考えるべきは、陽菜への対応に関して、どう生きるか。故意ではなかったにせよ、裸を見せてしまった以上は何らかの対応があって然るべきだろう。陽菜が僕の裸で心の傷を負ってしまっている可能性が無いとは言い切れない以上、陽菜を放置しておくなんてことは有り得ないのだから。では、具体的にどのような対応をとるべきか? 裸を見せた僕、裸を見せられた陽菜。加害者と被害者。兄として、いや、人間として、今、僕が陽菜に対してとるべき対応は、謝罪しかない。誠心誠意の謝罪をして、少しでも陽菜の心の傷が癒えるようにするのが僕の責務だ。正直、釈然としないところはある。僕は自室というプライベートな空間で裸になっていたわけで、ここに落ち度はない。落ち度があったのは、ノックをせずにドアを開けた陽菜のほうだ。それなのに、僕のほうが一方的に謝罪をするというのは不条理な話だ。考えようによっては、裸を見られた僕のほうが被害者なわけで、むしろ謝罪すべきは陽菜のほうであるとも言える。でも、落ち度の有無が一体全体、何だと言うのだろう? そんな血の通わない冷たい論理が一体全体、何だと言うのだろう? 一つの真実として、僕は裸を見られても全く心に傷を負っていない。そうして、一つの可能性として、陽菜は僕の裸を見たことで心の傷を負っているかもしれないんだ。今、陽菜は自分の部屋で泣いているかもしれないんだ。だったら、僕は謝る。それで少しでも陽菜が楽になるなら、いくらでも謝る。僕はそう生きるか』

 花井の心根を現す決断だった。良く言えばお人好し、悪く言ってもお人好し。しかし、気持ちの良い人間ではある。これでいいのだ。

 決断が済んで十秒後にはもう、陽菜の部屋のドアを優しくノックしていた。良くも悪くも良心に躊躇はなく、行動が早いのだ。

 ノックに対して返事は無かった。

 「ごめん。陽菜。ごめんね」

 ドア越しの謝罪にも返事は無かった。

 少しの間、ドアの前で佇む。その後にあった、「大丈夫?」の声は、木漏れ日みたいに温かかった。

 「大丈夫だから、もういいよ」

 素直な響きは、穏やかだった。嫌悪のない、親しみに満ちた声だった。それで十分、陽菜の心境を窺い知れた花井は胸を撫で下ろし、同時に、謝罪の重要性と効力を実感した。その実感によって、彼の決断にブレが生じる。

 『明日、学校で謝罪すればいい? なんて悠長な! なんたる日和見か! 一夜もの間、浜辺さんに苦痛を味わわせたままにしておくなんて、人間のやることじゃない! 悪鬼の所業だ! 今すぐにでも、彼女の苦しみを取り払ってあげたい! 否! あげたい、なんて希望ではなく、あげる、んだ! あげるんだ! 否! あげる、なんて上から目線ではなく、もらう、んだ! もらうんだ! 彼女の苦しみを取り払わせてもらうんだ! 浜辺さん、待ってて! 僕、今すぐ謝罪するから! 今すぐ君の傷を癒すから!』

 直近の成功体験からくる謝罪信仰だった。謝罪すれば万事解決、という安直。人の営み、人の心がそうも単純なものである筈もない。そんなことは花井も承知している。それでも、耳に残る陽菜の穏やかな声が追い風となって、謝罪の暴走列車は快速を飛ばした。

 自室に戻り、スマホを操作する。クラスメイトの島田に電話をかけたのだ。花井の魂胆は、こうだ。浜辺と一緒にクラス委員をしている島田なら彼女の連絡先を知っているだろうと目星を付け、その情報を彼から引き出そうというのだ。個人情報への配慮が欠如している行為、しかし動機が善意100%である以上、罪悪感は働かなかった。

 呼出音が鳴り始めた。ちょうどその時、ドアチャイムも鳴り響いた。

 「陽菜! 僕が出るよ!」

 言って、すぐに電話を切る。ズボンがポケットの無い作りだったから、Tシャツの胸ポケットにスマホを仕舞って、一階へ降りた。

 インターホンのモニターを見る。そこには、肩で息をする柿崎の姿が映っていた。

 柿崎の様子に尋常ならざるものを感じた花井は、サンダルをつっかけ、素早く玄関ドアを開けた。

 「どうしたの、柿崎!? 何かあったの!?」

 花井を見やり、柿崎の険しい形相に安堵の色が差した。

 「さっきの電話が気掛かりで・・・・・・」荒い呼吸を整えながら続ける。「駆け付けた」

 柿崎の発言は事実だった。花井からの一方的な通話を受けてすぐ、彼は徒歩四十分の距離を十五分で走破してきたのだ。自転車の存在を失念するほど必死になって。メロスだってセリヌンティウスのためにここまで必死には走らなかっただろう。

 親友が自分の身を案じて駆け付けてくれた、そんな青春染みた展開をすんなりと受け入れる若さで、花井は感激した。汗さえ清涼飲料水のように煌めかせる柿崎の整った顔立ちが、感激に拍車を掛ける。こんなにも美しい男が自分を大事に思ってくれているのだと、誇らしい気持ちにさえなる。

 「ありがとう、柿崎」あふれ出した声は震えていた。「柿崎が来てくれて、嬉しいよ」

 「何か、悩みでもあったりするのか?」

 際限なく注がれる心配の念に、もはや恐縮すらして、唯、柿崎を安心させたい一心で、「大丈夫。悩みも問題も、何にもないよ」と口にした。

 柿崎はまじまじと花井を見詰めた。親友の真意を探ろうという意図が垣間見える、透過作用を有するかのような視線だった。

 花井は、気恥ずかしさを覚えて半身に構え、柿崎から目を逸らした。

 柿崎は、笑みを浮かべた。それは、己のお節介に対する自嘲だった。

 「それなら、いいんだ」十七歳の少年のものとは思えない、大人びた口振りだった。「まあ、何かあったら相談してくれよ」

 汗にぬれた豊かな前髪をかき上げれば、当然、盛期ルネサンスに見る彫刻のような端正かつエロチックな額が露になる。異性愛者の花井でさえ色気を感じてしまうほどに見事な額だった。

 「それじゃあ、俺は帰るよ」

 「せっかく来てくれたのに? 上がっていってよ。ホットミルクでも出すからさ」

 「いや、帰るよ。シコってる最中に飛び出してきたから、帰って続きを済ませたいんだ」

 「それは、デリケートなときに紛らわしい電話をかけてしまって、すまなかったね」

 「気にするな」

 柿崎が背を向けると、花井は一歩前に出て、「ごめん。一つだけ聞いていいかな?」と会話を続けた。

 振り返り、「何だ?」と言う柿崎。

 「浜辺さんの連絡先、柿崎は知ってたりする?」

 「浜辺って、あの学校一の美人って噂の浜辺さんのことか?」

 「そう。その浜辺さんで間違いないよ」嬉しさと恥ずかしさと心細さとを感じながら、言った。「美形つながりで、柿崎なら浜辺さんと連絡を取ってるんじゃないかと思って聞いてみたんだけど」

 「なんじゃ、そりゃ」呆れながらも、愛玩動物に向けるような思いやりに満ちた瞳で花井を見やる柿崎だった。「生憎、俺と浜辺さんに接点はないよ」

 「そう・・・・・・」

 ストレートに表現された落胆から花井の切羽詰まった精神状態を読み取って、彼の身を案じるばかりに冷静を欠き、柿崎は踏み込むという選択をしてしまう。

 「どうして浜辺さんの連絡先を知りたがる?」

 そんな愛情の発露でさえ対象を苦しめる結果となってしまうのが人間関係の難解である。すなわち、花井の心中に葛藤が生じたということ。『浜辺さんと付き合い始めたことから、ちんちんによる現在の惨状まで、全てを包み隠さず柿崎に話そう』と考えたところまでは安楽だった。しかし、その後に沸き上がった、『でも、彼女のいない柿崎に対して彼女が出来た旨を伝えることは酷じゃないかしら。ましてや、彼女との内輪の問題まで話して聞かせるなんて、リアルの充実を鼻にかけたマウントになってしまうんじゃないかしら』という配慮の情が、悲しいかな、告白と沈黙を天秤に乗せた苦役の引き金となってしまったのだ。

 昨日まで恋愛弱者であった花井には、恋愛弱者の気持ちが当然、理解できた。性の対象と愛し合えない虚無感、それから生じる孤独で卑屈な諦観。恋愛経験がないことは決して不幸ではない。それでも、それでもだ。心身が温みを知らない現実は、悲しい。どれだけ強がっても、誤魔化しても、時代が恋愛を必要としなくなってさえ、悲しくて、泣きたくなる。花井だって、人肌恋しい夜には枕をぬらしてきたのだ。そんな悲しく弱った心に、他人の幸福な恋愛事情を突き付けられるのは、瘡蓋に焼きごてを押し当てられるのと同義。親友の瘡蓋にそんな仕打ち、到底、出来っこない。しかしながら、全てをありのまま話すべき、という気持ちも拭いきれずにいる。親友だからこそ、隠し事はないほうが良いとも考える。例え、話を聞かされた相手が苦痛に悶えることになろうとも、正直であることが美徳だとも思う。何よりも、単純に、柿崎のアドバイスが欲しい。ちんちんのトラブル、そのゲームチェンジャーになり得る情報が欲しい。人間の悲しき性、利己。それに乱される心も確かにあるのだ・・・・・・告白か、沈黙か。どちらに転んでも切ないチョイス。葛藤が、続いた。

 ちりちりと、街灯の明りが明滅して、柿崎の背景が瞬いた。彼はまた、笑みを浮かべていた。情を刺激する類の、わずかな悲愴を抱いた笑みだった。

 「柿崎」花井は意を決した。思考ではなく、感情に判断を委ねながら。「僕がどうして浜辺さんの連絡先を必要としているのか、その理由は、言えない。どんな拷問を受けたって、それだけは言えない。でも、これだけは言える。悪意によって浜辺さんの連絡先を聞いたわけでは決してない。だから、安心して、柿崎」

 告白と沈黙のあいだ。正しく、花井の発言はそれだった。利己を切り捨てた、誠実かつ慎み深い言霊。柿崎、痛み入る。これで痛み入らぬような心ない人間ではないのだ。己の心情を気遣われたのだと完全に理解して、不快を覚えるはずもなく、また、過ぎた老婆心なども抱こうはずもない。唯、親友の言霊を信じて、求められれば全力で助力しようというメンタルセットで、精神衛生上の落着を見る。だから、「分かったよ。花井」の声は清々しい響きさえ有していた。

 長い睫毛に縁どられた茶色い瞳は、花井の姿を名残惜しそうに色こく映して、それから、帰路の暗がりへと向けられた。歩き様に片手を挙げれば、その細く長い指は軽やかに舞った。

 「また明日、学校でね。銚子のグッドルッキングガイ」余りに華麗な柿崎の後姿に辛抱堪らなくなって、花井は無意識に発語していた。「グッドルッキング、ナイスガイ」

 「おう」という声が闇夜に消えた。やがて、柿崎の姿も闇夜に消えた。

 「あんなにも良い男なのに、どうして彼女がいないんだろう?」

 イケメン俳優も顔負けの美男子に全くと言っていいほど女っ気がない不自然を、改めて言葉にしてみても謎が深まるばかりで、思案は不毛の一途で、それでも、そんな不毛に没入してしまう。柿崎に彼女が出来るよう自分に何か力になれることはないだろうか? というお節介を発動して、没入してしまう。花井は、気付いていない。彼女が出来た幸福、そのお裾分けをしたいという上から目線の慈悲に似た無慈悲が、柿崎に対する不要は詮索につながっていることに気付いていない。そう、彼は無意識のうちに、のろけていたのだ。更には、現在の困難を一時でも忘れたいという自衛本能も働いている。浜辺さんと付き合えた、という都合の良い部分だけを味わっていたいという脳内の確証バイアスである。そんな脳の働きを助長するのに、柿崎へのお節介はお誂え向きだった。

 上から目線で人のことをあれこれ考えるのは、気持ち良い。気持ち良いのだ。幸福の一面にすっかり浸っているから、気持ち良さも倍増である。そんな有様だから、いつしか自衛本能も消え去って、柿崎への善意も消え去って、愉悦を貪っていた。自室に戻るのも忘れ、玄関を上がってすぐの廊下で延々と。

 浅ましい行為に罰はあるのか? 罰は、なかった。しかしながら、慰めはあった。花井の下品な思考を終了させる現象が起こったのだ・・・・・・スマホのバイブレーションが、彼の乳首を刺激したのだ。男だって乳首が性感帯になり得るわけで、正しくそのバイブレーションは実のある快感の触媒だった。

 性感帯への不意打ちに、思わず喘いでしまった、花井。恥ずかしさ、それさえも快感の糧にして、呼吸を乱しつつ胸ポケットからスマホを取り出す。スマホにはラインの通知が一件届いていた。花井が所属する君ヶ浜高等学校漫画部の部長、井上からのラインだった。そのメッセージを読んでみる。

 

 浜辺さんに君の連絡先を聞かれたので、教えました。直に、アイ、というアカウントから連絡がくるはずです。


 我が目を疑い、もう一度メッセージを読んでみた。三度目には、一文字一文字の画数までなぞりながら読み切った。そうして、ようやく、激しく取り乱す。

 『浜辺さんが連絡をくれる! この僕に!』

 リアルな刺激は花井の意識を困難な現状へと立ち戻らせた。歓喜はすぐに不安へと変わった。

 『わざわざ人から連絡先を聞いてまで、今すぐ僕と話したがる理由。そんなの、僕に別れを告げるためとしか考えられない。ちんちんの危険人物である僕に対面で別れを切り出すのが怖いから、ラインで別れを告げようという至極全うな行為。責められない。浜辺さんを責められっこない。僕が浜辺さんの立場でも、そうする・・・・・・ああ! こんなにも、こんなにも僕は浜辺さんに恐怖を植え付けてしまったのか! 大好きな浜辺さんに、本当に酷いことをしてしまったんだ! せめて、きちんと謝って、少しでも浜辺さんの気持ちが楽になるようにしよう! そうして、甘んじて別れを受け入れよう! 加害者の僕には、それしか出来ない!』

 スマホを胸ポケットに戻し、その場で、廊下で、玄関に背を向けたまま正座する。両目を閉じる。介錯を待つ武士の心地。浜辺と別れることは、花井にとって死と同義だった。付き合えて一日足らずではあるが、浜辺を好いてきた時間は一年を超えるのだ。一個人の感情として積み重ねてきた恋慕は富士の頂より高く、なおも天井知らずであったのだ。

 花井の頬を、一筋の涙が伝った。

 数分が立ち、スマホのバイブレーションが再び花井の乳首を刺激した。バイブレーションは一向に収まらない。トークではなく、通話だ。

 『浜辺さんからの通話が、僕の乳首を刺激し続けている!』

 そう思えば、雄の性は猛り狂い、快感に身もだえる他なかった。

 永遠に乳首を刺激され続けていたい、そんな欲望に抗う尊い謝罪の精神を以て、立ち上がり、スマホを抜き取る。そうして、スマホの画面をきちんと見ぬままに、勢いよく通話アイコンをスワイプした。

 「興奮しすぎて、あんなことをしてしまったんです! 本当に、ごめんなさい!」前置きも何もなく、思いの丈だけが言葉になった。感情のむき出しである。「僕は、優しくて綺麗な君が大好きです! どうかこれからも僕の彼女でいてください!」

 甘んじて別れを受け入れよう! などという潔い考えは、土壇場であっさりと霧散していた。別れたくない・・・・・・これからも一緒に居たい・・・・・・好き・・・・・・。擦れたところもなく清潔な、シャボン玉みたいな本心。それを自覚して、花井は唯々、浜辺の声を待った。

 花井側の受話口が、小さく震える。

 「そんな、俺、困るよ。俺、花井君のことは友達だと思っていたのに」

 立派な喉仏を連想させる低い声だった。

 驚き、スマホを耳元から離して画面をきちんと見てみれば、通話相手のアカウント名が、島田ッチ、になっていた。

 血の気が、引いた。恐る恐るの体で、スマホを耳元に戻す。

 「俺、どうしていいか、分かんないよ。俺、女の子とだって付き合ったことないんだから。それに、綺麗だなんて言われたのも、初めてだし。でも、嬉しい。すごく、嬉しかったりしたんだな。俺、花井君とだったら・・・・・・」

 平常であれば昭和のガキ大将みたいに快活な島田の、初々しく恥じらう異常に危機感を覚え、花井は続きの声を遮った。

 「島田君、ごめん! 今の僕の発言は間違いなんだ」

 その一言で、空気が凍て付いた。スマホを持つ手さえかじかむ。喉さえ凍え、島田は一言も返せなかった。

 「事情は明日、学校で説明するね。それじゃあ、切るよ、島田君。また明日ね」

 ああ無情。島田の、友達の困惑を感じ取りつつも、浜辺からくる連絡を優先して通話を終了した、レ・ミゼラブル。ユゴーもびっくり。しかし、やむを得ない。友達よりも彼女を優先する、その行為は子供から大人へと成長した証なのだから。成長は残酷だが、全て等しく喜ばしいものなのだから。

 再び、スマホを胸ポケットに戻し、その場で、廊下で、玄関に背を向けたまま正座する。両目を閉じる。

 フローリングの廊下はひんやりとしていて、短パンによる剥き出しのすねが冷えた。二階で勉強している陽菜の小さな息遣いさえもが聞こえる静けさにあって、一秒さえもが永遠のように感じられる。雪原で春を待つ野ウサギの心持ちで、花井は浜辺を求めた。

 孤独は不安を強める。次第に、浜辺が遠のいていく感覚が強まっていく。

 「恋焦がれ、待ちぼうけるは、春の人、約束もなく、夏を待つかも」

 即興で短歌を詠み、薄ら笑う。

 「浜辺さんからの連絡がすぐにあるとは限らないのに、こうしてスタンバっている僕のなんと愚かであろうことか。友達も多くて勤勉で多忙な浜辺さんが、僕への連絡を最優先にして行動してくれるなどと、思い上がりも甚だしい。僕に関する事なんか優先順位が低くて当然じゃないか。夕食、お風呂、勉強、友達とのコミュニケーション、そういったあれこれの合間に、ちょこっと出来たその隙間時間に、僕に連絡をくれたら光栄の至り。それくらいの謙虚さがなくてどうする、花井潤。そもそも、連絡をいただける確証さえないのだから、座して待つなどという行為は滑稽でしかないではないか」

 そうつぶやきつつも、正座を続ける。足がしびれ、下半身が冷え切り、己の思い上がりに憤り、孤独に気が狂いそうになっても、それでも、座して浜辺を思い続ける。

 「好きなんだ、浜辺さん。君が僕の全てなんだ。僕の体も、心も、時間も、君のためだけにある。愚行であったとしても、僕は君からの連絡を永遠に待つよ」

 意志の成就、その刹那にバイブレーションというミラクル。電動歯ブラシを乳首に宛がわれるがごとき衝撃。淫らな善がり声がもれ出る。上体が前に倒れ、図らずとも四つん這いになった。

 浜辺さんからの通話だ! と花井は確信できた。井上からのバイブレーション、島田からのバイブレーション、それらとは全く異質な震えかたをスマホがしていたからだ・・・・・・少なくとも、花井にはそう感じられたのだ。

 『浜辺さんからのバイブレーションには、乳首の内側にある心のドアを優しくノックしてくれるような快感があるのだ!』

 継続する振動に合わせて、花井の体も震えた。浜辺から与えられる刺激にシンクロする現象、それに喜びを見出す。快感は歓喜への架け橋なのだと、身を以て知る。

 善がり狂った果てに絶頂へと至った花井は、心残りもなくスマホを胸ポケットから抜き取り、通話アイコンをスワイプできた。

 「もしもし」感情を上手に抑制できた声だった。島田との通話で犯した失敗から、花井も学んでいた。「花井です」

 「あの、浜辺です」

 可憐な声だった。開花したばかりの桜みたいな声。

 浜辺の声を聞くだけで、花井の心身はぬくぬくした。

 「浜辺さん」桜の花びらが散ってしまわぬようにと、慎重に、丁寧に、発語した。「浜辺さん」

 「ごめんなさい。勝手に花井君の連絡先を聞いたりしちゃって」

 浜辺さんに謝罪をさせてしまった! と嘆く。謝罪すべきは僕のほうなのに! と憤る。

 「全然、気にしないで。浜辺さんとスマホでお話しが出来て、僕、すごく嬉しいから」

 優しい、と素直に思えて、浜辺は小さく安堵の息を吐いた。彼氏のものとはいえ人の連絡先を無断で聞き出す行為に罪悪感を抱かぬほど彼女は良識の欠如した人間ではない。だからこそ、花井の言葉は慰めの作用を持ったのだった。

 『私、本当に、花井君が好きだ』

 浜辺の自室は八畳の広さを有し、落ち着いたインテリアで統一されている。そんな部屋の中央に立って、スマホに両手を添えて話す彼女は、トップス、ボトムス共に淡い色合いのスウェットという装い。窓から入り込んだ夜風が下ろした髪を小さく揺する。一見、大人びた少女。しかし、その顔をよく見てみれば、頬が真っ赤で、歳相応の少女だった。

 「ありがとう」 

 「僕のほうこそ、ありがとう」

 二人は、ささやくように笑い合った。

 浜辺は自室の隅にあるシングルベッドに腰を下ろした。

 「少し、話しがしたくて。今、時間、大丈夫?」

 「幾らでも、幾らでも時間があります。僕は」

 従順を示されて、恥ずかしさのうちにもぎこちない愉悦がにじみ、素足の指が艶めかしく踊った。

 「私、今日のことを謝りたくて花井君に電話したの」

 「謝る? なんで? 浜辺さんが?」

 「だって、私、花井君を下校に誘っておいて、それなのに、一方的にさよならなんて言って、すごく、失礼なことをしちゃったから。だから、ごめんなさい」

 電話口でさえ、浜辺は頭を下げた。彼女もまた、この宵の口に悩み苦しんでいたのだ。それは、花井のちんちん連呼によって負ったストレスによるものではなく、偏に、花井に不快な思いをさせてしまったのではないか? という不安によるものだった。彼氏を案じる優しい心、しかしその根っこには、彼に嫌われたくない、という利己的な情もしっかりと存在している。恋愛における利他と利己、この二つの混合を彼女は持て余し、結果として、第三者から彼氏の連絡先を入手するという強行があり、今の謝罪もあるのだった。

 「私、少しでも早く謝りたくて、それで、勝手に連絡先まで聞いちゃって。自己満足だよね、こんなの。私、花井君のことをちゃんと考えられてない。ごめんなさい」

 言い終えてすぐ、自らの発言を後悔する。

 『自己満足とか、花井君のことをちゃんと考えられてないとか、こんなことを言われたら花井君が困ってしまう』

 制御不能に陥っている言動、そんな初も止むなし。生まれ持った美貌と磨き上げた教養によって、十六歳ながら既に受けた愛の告白が二桁に達する恋愛強者。それでも、花井こそが生まれて初めて付き合った相手である以上、強者の強みなど生かしようもなく、月並みな失敗や後悔は避けて通れぬ通過儀礼。であるからして、筆者はこう言ってやりたい。恋する乙女よ、うんと空回れ! その失敗や後悔があなたをより一層、魅力的にする! と声を大にして言ってやりたい・・・・・・しかし、そんな声は当然、浜辺には届かない。よって、浜辺、苦しむ。経験が未来への肥やしになるなどとは露とも思えず、現状が全てであり、一切の余裕がなく、自らの発言で閉口し、唯、彼氏のリアクションを待つのみの少女に成り果てる。それもまた、恋愛かな。

 スマホを持つ手、その握りが強まっている。両目まで閉じてしまっている。いじらしい、大変にいじらしい浜辺の仕草。彼女を一刻も早く楽にしてやるのが務めだろうに、花井、ここでまさかの沈黙。慎重が過ぎて、発語できない事態に彼は陥っていたのだ。普段から言葉の選択を怠り、感情のみで話しているツケが回ってきている。分からない。今の彼女に適した言葉が分からない。考えれば考えるほど分からなくなる。

 お互いのか細い息吹だけが聞こえる。世界に二人きりのような沈黙。

 徐に、浜辺は目を開いた。足の爪が少し伸びていることに気付いて、その後には、「ごめんなさい」という声が自ずとこぼれていた。

 慎重な諸葛孔明でさえ、三顧乃礼には応じたのだ。浜辺の、ごめんなさい、はこれで四度目。三度を超えている。花井の鈍感を揺り動かすのには、もう十分だった。

 「謝るのは僕のほうだよ!」思考をかなぐり捨て、感情を解き放った。結局、未熟な花井には感情以外のコミュニケーションツールなど有る筈もないのだ。「僕が悪いんだ! 浜辺さんを不快にするようなことをしたから! あんな閑静な住宅街のど真ん中で、浜辺さんをちんちん責めにした僕が悪いんだ! ごめんなさい! 本当にごめんなさい! 僕、浜辺さんのことが大好きだから、興奮しちゃって、訳が分からなくなっちゃって、それで、ちんちんを馬鹿みたいにおねだりしちゃったんだ、浜辺さんに! ちんちんを求めるばかりに、浜辺さんの気持ちを一切考えられなくなっていたんだ! 浜辺さんを傷付けるつもりなんてなかったのに、ちんちんばっかりになっちゃって、ごめんなさい! 全部、僕が悪いんです! 浜辺さんは何にも悪くないんです! どうか、許してください! もう二度と、ちんちんをおねだりしたりしないから、僕を嫌いにならないでください! ごめんなさい、浜辺さん! 大好きなんです、浜辺さんが!」

 言葉の校閲など皆無だった。理性を焼き尽くす感情、正しく熱情であった。

 熱情、それを美徳と解釈するためには大いなる心の余裕が必要となる。前述の通り、浜辺には一切の余裕がない。彼女が花井の熱情を混沌と解釈したのは、必然だった。

 好意を寄せられている、それは理解できた。謝罪の意も汲み取った。しかし、なぜに再びのちんちん連呼? という疑念が拭えない。一生懸命がゆえに空回ったのだ、と肯定的にとらえようとする感情と、日に2度ちんちん連呼するバカがいるか、と否定的にとらえようとする理性とがせめぎ合う。この決着には時間がかかるであろうと即断した浜辺は、早くも手慣れてしまった、「気持ちの整理ができてから、また電話していい?」という逃げ口上を披露し、これまたすぐに、自らの発言を後悔してしまうのだった。

 気持ちの整理、というワードを、花井は拒絶と解釈した。一瞬で心を絶望に支配されるも、当然の報いであるという自覚があったために、彼は断腸の思いで、「お電話、待っています」という声を絞り出した。

 引き留めてもらえなかった、などと考えてしまう自分に嫌悪しつつ、引っ込みのつかないまま、「それじゃあ、一回、切るね」と言い、浜辺は通話の終了アイコンを宙ぶらりんな指先で押した。

 『また、やっちゃった。また、自分からお願いしたことを自分で勝手に打ち切って、逃げちゃった。また、花井君に失礼なことをしちゃった』

 スマホが、ベッドの上に落ちた。枕に顔面をうずめる。シーツのたるみを握り締める。

 「好きな人と関わるの、どうしてこんなに下手なんだろう、私」

 ささやきは枕に吸収されて、浜辺自身の耳にも届かなかった。

 少し強まった夜風で、スウェットパンツの裾がなびいている。それに気付いてさえ窓を閉められないほど、浜辺の落ち込みは激しかった。

 一方の花井はというと、廊下のフローリングに顔面をこすり付けながら、自分自身に憤っていた。

 『また、やっちゃった。また、自ら理知をかなぐり捨てて、ちんちんを連呼しちゃった。また、浜辺さんに嫌な思いをさせちゃった』

 既に床への着地を済ませているスマホ、その画面に灯っていた光が消えた。鼻尖が痛むのも構わず、一層と強くフローリングに顔面を押し当てる。さまよう手が空をつかみ、無益なまま握り締められる。

 『浜辺さんを傷付ける、憎き花井潤め!』

 己で己を名指しする程の強い憎しみ。合法であったならば即刻ハラキリに踏み切ったであろう自責の念。

 憎悪に支配される時間ほど苦しいものはない。しかし、苦しみは無限ではない。救いは、ある。

 憎悪は、やがて悲哀に変わる。悲哀は、やがて慈愛に変わる。その循環が若さゆえに速く、いつの間にか花井は自己を忘却して、唯、浜辺の心中のみを案じていた。

 「どうか、浜辺さんが今という時を安らかに過ごせていますように」

 希望だけが残ったのであった。パンドラの箱がそうであったように。そうしてようやく、フローリングから顔面を離せる。四つん這いのときが終わり、二足歩行の生物らしく立ち上がれる。そうして、何の気なしに振り向き、土間で立ち尽くす両親と目が合って、希望は再びついえたのだった。

 「潤」顔面蒼白の母親が、言った。「浜辺さんて、どなたなの? ちんちんをおねだりしたって、一体、何の話なの? ちんちん責めって、一体、何の話なの?」

 「潤」母親同様、今にも卒倒してしまいそうな父親が、言った。「潤」

 両親の様子と発言から、花井は浜辺との通話内容を両親に聞かれていたのだと察した。その察しは、正しい。数分前に帰宅した両親は二人とも、花井と浜辺の通話の一部始終を耳にしていたのだから。もっと言うならば、息子がスマホのバイブレーションで善がっている現場すらも目撃していたのだから。

 もしも、帰宅してすぐに両親が花井へ声をかけていたならば、こんな悲劇は起こらなかっただろう。廊下で正座という尋常ではない様子に唖然としてしまったがために、「ただいま」を言えなかったことが悔やまれる。もしも、花井が両親の帰宅に気付いていたならば、こんな悲劇は起こらなかっただろう。浜辺のみに意識を集中する余り両親の帰宅に気付けず、「おかえり」を言えなかったことが悔やまれる。

 両親は共にフルタイムで働いている。二人ともスーツ姿だ。数日前にまとめてクリーニングに出したというのに、もうスーツがへたっている。しかしそのスーツは、息子の痴態を目撃するまではシャキッとしていたのだ。スーツは着用者の精神状態を表す、その証明となり得る事例である。つまり何が言いたいかというと、息子が性的な悪行を犯してしまった、という誤解? によって二人が受けた精神的ショックは計り知れないということだ。

 「母さん、父さん、違うんだ」自ずと、両親から目を逸らしていた。スマホを拾う。それから、言葉を続ける。「浜辺さんっていうのは、クラスメイトの女の子で、それから、ちんちんっていうのは、決して卑猥なものではないんだ」

 「卑猥じゃないちんちんがどこにあるっていうの!」

 彼女が怒鳴ったのはいつ以来のことだろう? そう、それは花井がまだ小学二年生だったころだ。道路に飛び出して車にひかれそうになった花井を怒鳴ったあの日以来、彼女は一度も声を荒げたことなどなかったのだ。

 怒鳴るという行為に不慣れな母親は、自身の声によって一層とパニックを強めた。

 「ちんちんは卑猥なの! 潤! ちんちんは卑猥なのよ!」道路は危ないの! 潤! 道路は危ないのよ! と言って聞かせたあの日と同等の熱量だった。「卑猥なの!」

 『潤が! あの可愛かった潤が! セミの抜け殻さえ可哀相だと言って土に埋め、お墓を作ってあげていた、あの優しかった潤が!』ちんちんは卑猥であると口で説く、それと全く同時に脳内では別の考えを巡らせる、女性脳の神秘。『クラスメイトの女の子を、ちんちん責め! ちんちん責めって、そういうことでしょう!? ちんちんで責めるっていったら、そういうことしかないでしょう!? そういうことしかないじゃない! なんてこと! どうしてこんなことに!? 何がいけなかったの!? 幼少期に与えたおもちゃが適切ではなかったの!? 読み聞かせていた絵本が適切ではなかったの!? 小学四年生のころから少年ジャンプを買い与えてしまったことが適切ではなかったの!? 中学二年生のときにスマホとパソコンを買い与えてしまったことが適切ではなかったの!? 国内旅行ばかりで海外に連れて行ってあげられなかったことが適切ではなかったの!? ああ! 潤が女の子に酷いことをしてしまうなんて! 信じられない!』

 思考の末に理性は消え去って、もはや本能のみで母親は口を動かすのだった。

 「卑猥! ちんちん! 卑猥!」

 「ママ、落ち着いて」妻の震える肩にそっと手を置いて、息子を真っすぐに見詰める彼の目は、無想転生の境地にあるかのような哀しみを宿していた。「まずは私が潤と二人で話しをするよ。母親の前だときちんと話せないこともあるだろうしね」

 「違うんだ。違うんだよ」未だに両親を直視できぬままで、花井は言った。「ちんちん責めっていうのは、母さんと父さんが思っているようなものではないんだ。二人が思っているよりもフレンドリーな、平和的なちんちんなんだ」

 弁明にならない声は慰めにもならなかった。母親は膝から崩れ落ち、顔を両手で覆ってむせび泣いた。

 「潤。父さん最近、潤ときちんと話せる時間を作ってやれなかったよな」

 少し放任して自立心を養おう、と己で設けたここ一年間の息子に対する教育方針を省みて、後悔ばかりが募り、父親もまた、泣いた。

 『潤はまだ高校生じゃないか! まだ子供なんだ! まだまだ一緒の時間が必要だったんだ! 何が放任して自立心を養おうだ、偉そうに! 父親としてもっと関わってやるべきだったのに、私って奴は!』

 「潤」涙をぬぐった。「父さんの目を、ちゃんと見てくれないか?」

 言われて、素直に従う。それが、まずかった。唯でさえ自身の尊厳が失われるか否かの危機的状況にあってテンパっているというのに、ケンシロウみたいな目をしっかりと見据えてしまったなら哀しみが伝染してしまい、唯一の命綱である言葉を発する気力さえ失ってしまう。

 甘えた笑顔を、花井は無意識に作っていた。それしかもう、出来なかった。

 「陽菜」花井の後方に見える階段、その中段に佇む陽菜に目を向けながら、父親は言った。「お母さんを、お願いできるかな」

 陽菜は花井を見下ろしていた。その視線はもはや人間に向けられる類のものではなかった。ゴキブリにだって、もっと尊重する視線を向けるであろう。両親と兄のやり取りを盗み聞きしていたことで、彼女もまた、クラスメイトの女の子をちんちん責め、という情報を得ていたのだった。

 陽菜は母親のそばへ駆け寄り、それから、母親の体を支えつつ立たせてやり、「コーヒー入れてあげるから、行こう、お母さん」と声をかけ、なおもむせび泣き続ける母親と共にダイニングへと移動していった。

 「潤。リビングで話をしよう。父さん、潤の話、何でも聞くからな」

 息子の肩を優しく抱き、壊れ物を扱うようにしてリビングへと誘導する、父親。息子は一切、抵抗しなかった。

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