変態紳士によろしく

はんすけ

プロローグ

 「花井君」

 黄金色に染まる空を見詰めていた少年の耳を、清潔な声が愛撫した。彼は身震いして、それから、清潔な声の主を見上げた。空よりも澄んだ美しさが、そこにはあった。

 「浜辺さん」

 少女の名を口にしただけで、花井の舌はとろけた。

 窓から入り込んできた風が、流星群を束ねたような浜辺の黒髪を小さく乱した。出来立ての夕日が差して、彼女の華奢な体は教室に際立った。

 「花井君は、徒歩通学だよね?」

 「そうだよ。銚子市民だからね」

 「銚子の、どの辺に住んでいるの?」

 「小畑新町だよ」

 もう帰りのホームルームが終わっていたから、教室には空いている席が幾つも見られた。窓際にある花井の席、その前後も隣も既に空いている。しかし、他人の席を勝手に拝借するような性質を持ち合わせていない浜辺は直立したままだった。

 直立する細い脚、その可憐な様に、花井が備える紳士の良心は痛んだ。

 花井は勢いよく席を立った。浜辺の慎ましい旋毛が僅かに覗けて、見惚れる。

 浜辺が軽く顔を上げ、旋毛は隠れた。

 「浜辺さん。ごめんね。気が利かなくて。どうぞ、僕の席に座って。大丈夫。僕、お尻はいつも清潔にしているから、ばっちくないよ」

 「いいよ。気を使わないで」

 「気なんて使ってないよ。当然のことをしようとしているだけ。懐で温めておいた草履じゃないけれど、臀部で温めておいた椅子、どうか座ってよ」

 奇をてらっての発言であるのか否か、浜辺には判断がつかなかった。花井の表情が真剣そのものであったが故に。

 十六歳の少女が淡い困惑に陥れば、促されるがままにする以外、道はなかった。そうして、花井は、ごくりと唾を飲み込んだ。余りにも、浜辺の座する姿が魅力的だったから。貝殻を踏むヴィーナスの素足みたいなエロチックが彼女の着席にはあったのだ。

 「私の家も、小畑新町にあるの。ねえ、花井君。一緒に、下校してほしいんだけど、いいかな?」

 耳を疑う。生れて初めて異性から下校の誘いを受けた現実に、全てを疑う。疑って、疑って、疑いが尽きることはなく、それでいて、舞い上がる。

 『浜辺さんが僕のような男を下校に誘ってくれた!』

 喜悦は疑心を消し去る劇薬だった。

 喜びが強すぎて、花井は放心し、立ち尽くした。

 「もしかして、花井君、都合が悪かったりする?」

 浜辺の顔に憂いを見つけて、花井は、放心している場合じゃない! と奮い立った。

 「都合が悪いなんてことないよ。むしろ、都合が良いくらいだよ。僕は、浜辺さんと一緒に下校したくて下校したくて堪らないんだ。浜辺さんと下校できるなら、例え地雷原を突っ切ることになったって構わないくらいだよ」

 またしても、浜辺は花井の発言に困惑した。困惑して、しかし愉快な愛情が理性を振り切り、「それじゃ、一緒に帰ろう」と溢れ出た声は興奮が露だった。

 席を立とうとした浜辺に、花井が右手を差し出す。驚きがあり、それから、照れがあって、その手は優しく握られた。

 

 潮の香りから遠ざかっていく何時もの帰路で、浜辺と一緒に歩けていることは、幸福だった。無信仰の花井でさえ、思いつく限りの神仏に心中で礼を言ってしまうほど、幸福だった。

 踏切警報機が鳴った。花井たちの前方で遮断桿が下りた。

 銚子電鉄の味わい深い車両が通過する。浜辺は左手でスカートを抑えた。微風の悪戯すらも警戒する上品な振る舞いだ。小さな手が健気で、花井の心臓は踏切警報機よりも大きな音で早鐘を打った。

 踏切警報機が鳴りやみ、心臓の早鐘は止まぬまま、遮断桿が上がった。

 ゆっくりな歩調、口早な声。今日の数学の授業は難しかったね! 学校に野良猫が入り込んだんだって! 学食に新メニューが出たんだよ! といった具合の毒にも薬にもならない話。口を動かし続けるほど、花井は快感を強めていった。自慰を覚えた猿のように。

 カラスが、鳴いた。ふと、冷静さを取り戻す。そうして、ようやく、独り善がりを自覚する。

 聞きに徹することが紳士の作法だと、本能は知っていた。だから、花井は大いに恥じた。口を結ぶ。結んで、君の話を聞くよ! という雰囲気を全力で発する。

 「ねえ、花井君。ほら、オオマツヨイグサ」

 大雨の轟音が去った後にある小鳥のさえずりみたいな声だった。浜辺は道路沿いの畑を指差していた。そこにはオオマツヨイグサがたくさん植えられていた。

 「まだ五月なのに、もう開花してるんだ」花井の相づちだった。

 「それに、まだ明るいのにね」

 四枚のハート型の花びら、その中央で絡み合う雄しべと雌しべを見詰めれば、自ずと体の芯が熱くなる。

 「綺麗だね」

 「浜辺さんのほうが綺麗だよ」

 浜辺の顔にあった幼さが、隠れた。

 「さっきも学校で、席を譲ってくれたり、立とうとしたら手を差し出してくれたり。花井君って、私が思ってたよりもずっと女の子に慣れてる感じなんだね。告白も、素敵だったし」

 「僕は、浜辺さんが生まれて初めて付き合った人だよ」

 純粋な声は、隠れた幼さに光を当てた。浜辺は笑った。その笑いを、花井は愛おしく思い、同時に、エッチだとも思った。人間としてだけではなく動物としても彼女に惹かれているのだと自覚する。そうして、ほんの数時間前に告白を受け入れてもらえた幸運を強く思い返し、彼は天を仰いだのだった。


 君ヶ浜高等学校に通う二年生、浜辺娃は、優れた美貌と人格を有する必然として男子に持てた。生徒会長を務めた美形エリート村山冬彦、Jリーグ入りが確実とされているイケメンストライカー草野健斗、銚子のジョングクと呼ばれる宮田優希、そういった君ヶ浜高等学校の恋愛強者たちでさえもが彼女を恋愛ハンティングの標的と定めているほどに、持てた。

 君ヶ浜高等学校は生徒数450人ほどの規模である。噂が浸透するには十分な規模だ。恋愛弱者たちは、恋愛強者たちが浜辺を狙っていると知り、彼女に恋慕を抱きながらも、「浜辺さんは誰と付き合うことになると思う? 僕は村山先輩と付き合うことになると思うんだよね」などと卑屈なよもやま話に甘んじ、自分自身で設けた身の程に合った距離から彼女へとむなしい視線を向けるだけなのだった。花井潤も、そんな恋愛弱者の一人だった。この日までは。

 時は昼休みにまで遡る。学食で食事を済ませた花井は、校舎の屋上へ向かっていた。屋上から眺められる太平洋は絶景で、屋上が立ち入り禁止になってさえ生徒の出入りは一定数あり続け、ルールは半ば形骸化しているのだった。

 屋上へ出るためのスチールドアを開ける。青空に浮かぶ小さな雲が海風に吹かれて西へと流れていく。そんな雲が作った日陰に、浜辺は立っていた。

 花井が浜辺に近付き、彼女は彼の存在に気付いた。屋上に、二人きり。

 「花井君」

 「浜辺さん。意外だな。浜辺さんみたいな真面目な人が校則を破って屋上にいるなんて」

 「私は真面目じゃないよ。一年生の頃からずっと、週に一度くらいは屋上に来ているし」

 「それなら、僕と一緒だね」

 浜辺は海を見詰めた。その様子が、花井の目には普段の彼女と違って見えた。いつも明るくて誰にでも笑顔を向ける彼女とは違う女の子に見えた。

 雲が動いて、陽光が浜辺を照らした。光り輝く美貌。花井は、海なんか見ていなかった。彼は、彼女だけを見ていた。

 「浜辺さん」

 「何、花井君?」

 「僕、初めて会った時からずっと、浜辺さんのことが好きでした。僕と、付き合ってください」

 気持ちが、あふれ出た。こびり付いていた卑屈な気持ちを消し去ってしまうほど、瞬間に湧き上がった素直な気持ちは強かった。

 浜辺は、花井を真っすぐに見詰めた。彼女の瞳は潤んでいた。

 「私も、ずっと、花井君が好きだった。私、喜んで、花井君の彼女になる」

 一際強い風が吹いて、浜辺の髪がなびいた。潮の香りが満ちる。

 流れる雲を追いかけるようにして、ヒバリが青空の彼方へ飛んでいった。


 カラスの群れが夕日に向かって飛んでいった。

 「どうしたの、花井君? 空を見たまま黙っちゃって」

 「ちょっと、昼休みのことを思い出してて」

 慎ましい所作で、浜辺はオオマツヨイグサの花びらに触れた。頬を赤らめながら。その赤色を見つけて、花井は甘酸っぱい気持ちで一杯になった。

 気が済むまで花を愛でて、歩き出したその歩調は前よりももっとゆっくりだった。

 「私に付き合って、帰り道、遠回りになってない?」

 「大丈夫だよ。僕、登下校はいつもこの道を通っているよ」

 「それなら下校の時、そこのプリマモーレに入ったこと、ある?」

 プリマモーレとは、小畑新町にある喫茶店のことだ。

 「ないよ。入ってみたいとは常々思っているんだけど、いつも女の人のお客さんばっかりで、緊張しちゃって、なかなか入れずにいるんだ」

 「男の人のお客さんも結構いるよ」

 「浜辺さんは、よくプリマモーレにいくの?」

 「バイトがない日の下校のときは、いつもプリマモーレでコーヒーを飲むようにしてる」

 「かっこいいね。僕も下校のときに喫茶店でコーヒーを飲むようなお洒落な人間になりたいな」

 「ねえ、花井君。これから、プリマモーレでお茶しない?」

 愛しい彼女との飲食、それを想像しただけで花井の脳髄はしびれた。

 『例えば、浜辺さんがカフェ・オ・レを注文し、僕がホットミルクを注文したとする。僕たちは、自分の飲み物を半分くらい飲み進める。そうすると、浜辺さんが尋ねてくるんだ。ホットミルク美味しい? って。僕はすかさず声を返す。浜辺さんのカフェ・オ・レと僕のミルク交換する? って。僕の提案を浜辺さんは承諾する。僕は、浜辺さんのカフェ・オ・レをすすり、言う。浜辺さんの美味しい味がするね、って。浜辺さんは頬を染め、僕のミルクを口に含み、それから、僕のミルクをごくんと飲み込む。そうして、言うのだ。花井君のミルク暖かくて美味しいね、って』

 血潮がたぎって、肉体が熱を帯びた。だから、語気を強めて言うのだ。

 「浜辺さん、入ろう。プリマモーレに入ろう。是非、入ろう」

 プリマモーレの店舗はレンガ積みの平屋で、周囲にある平凡な住宅よりも広い敷地面積を有していた。テラス席が三か所設置されていて、そのうちの二か所は使用されている。一か所は派手な身なりの女性が一人で、もう一か所は君ヶ浜高等学校の制服を着た女子が三人で。

 女の花園みたいな雰囲気に委縮した花井は、浜辺の後ろに隠れるようにしてプリマモーレの正面出入口まで歩いていったが、閉じられた木製ドアのそばまで来るとさっと前に出て、浜辺より早く真鍮の取っ手をつかみ、そのまま外開きのドアをゆっくり開いて、「どうぞ、浜辺さん」と促した。

 毒気のないレディファーストを受けて、浜辺は礼を言おうと試みたが、恥じらいの余りに口がもじょもじょと動いてしまい、「ありがとう」の一言を発するのにさえ数秒を要したのだった。

 店内で使われている照明器具は全部で四台。全てフロアスタンドで、そのどれもが仄かな暖色を発している。採光窓の数が多く、人工の光よりも自然の光のほうが店内を明るくしている割合が大きい。店内に数多くある観葉植物はどれも生き生きとしている。カウンター席とテーブル席があり、それらの席の半分以上は使用されていた。カウンター席のそばには大きな蓄音機が置かれている。レコードがくるくると回って、女性の歌声が程よい音量で流れ出ている。

 「いらっしゃいませ。浜辺様」

 カウンター内でドリップしている男が、言った。整った顔をした長身の、身に纏っている真っ赤なタキシードが全く嫌らしくない男だった。

 「そちらのお客様は」タキシードの赤よりも情熱的な瞳で、花井を見やる。「当店は初めてでございますね」

 「僕が初めてって、分かるものなんですか?」

 「当店に一度でもお越しいただいたことのあるお客様のお顔は、全て覚えておりますから」

 整った顔で、微笑む。男色の気がない花井でもドキッとしてしまう微笑みだった。

 「こちらはメニューになります。どうぞ」

 差し出されたメニュー表を受け取り、ざっと目を通す。300円もあれば優雅な時間を過ごせる店だと理解する。同時に、ホットミルクは提供していない店なのだとも理解する。

 「浜辺さんは、メニュー表、見なくて大丈夫なの?」

 「私はアメリカーノのホットって決めてるから、大丈夫だよ」

 「それなら、僕はカフェ・オ・レのホットにしようかな」

 花井がメニュー表を返している間に、浜辺は財布を取り出した。

 「このお店、先払いなんだ」

 言いながら、花井も財布を取り出す。そうして、財布の中を見て、目を疑う。十円玉が8枚と五円玉が2枚しか入っていない。疲れ目かもしれない、そう思って目をギュッと強くつぶってみる。それから、再び財布の中を見て、90円しかないことを再確認して、愕然とする。

 「思い出した」花井はつぶやいた。「僕、今日の昼食は、390円のシーフードカレーと新メニューの醤油グラノーラ280円を注文したんだ」

 過去の自分に対して、激しい怒りを覚える。物珍しさに踊らされて新メニューに手を出した自分、欲張ってシーフードカレーを諦めなかった自分。やがて怒りは憎しみに変わって、歯を食いしばれば、その童顔はひどく歪むのだった。

 「花井君、お金、無いの?」

 迷子に話し掛ける清純な乙女みたいな声だった。その声を受けて、花井は首を縦に振った。情けなさの余り、涙腺がしめる。

 「それなら、私が御馳走するよ」

 その声には一切の躊躇がなかった。

 「駄目だよ。浜辺さんにお金を出してもらう訳にはいかないよ」

 「じゃあ、私が立て替えておく」

 「浜辺さん。僕は好きな女の子からお金をもらったり借りたりはしないよ」

 心からの断言だった。

 浜辺は、実は自分が迷子だったのだと気付いた清純な乙女みたいな目で花井を見詰めた。

 「浜辺さん。僕のことは気にしないで、アメリカーノを楽しんで。僕は、浜辺さんの向かいに座って、アメリカーノを飲む浜辺さんを凝視してるから。僕はそれだけで満足だから」

 気持ち悪いセリフ、それさえもが愛おしく、どん詰まりの袋小路にあって、浜辺はうろたえることしか出来なかった。

 「花井様」真っ赤なタキシード、その襟もとから覗くシャツの白が清涼な声で揺れた。「お幾らまででしたらお支払いが可能なのか、お聞きしてもよろしいでしょうか?」

 「90円までです」

 羞恥の極みで声がにじんでいた。

 「花井様。当店では近々、新商品の販売を予定しております。まだ試作段階のリベリカ種のコーヒーでよろしければ、90円でご提供が可能でございますが、いかがなさいましょう?」

 正しく、捨てる神あれば拾う神あり。花井は感激した。真っ赤なタキシードを着た拾う神の足下に身を投げたくなるほどに。

 「ありがとうございます。是非、90円でそれをください」

 「かしこまりました」

 「あの、それで・・・・・・」主に上半身をもじもじさせながら、言う。「贅沢を言える立場でないことは重々承知しているんですが、そのコーヒーにミルクを入れてもらっても、いいですか?」

 「かしこまりました」

 物乞い同然の人物からの要求に微塵も嫌悪を抱かない、果てしなく寛大な声だった。

 含みのない笑顔を向けられて、花井は、将来はこんな大人になりたい! と心の底から思った。

 支払いが済んでから、二人はテーブル席に向かい合って座った。

 浜辺の卵型の顔をまじまじと見詰めてみる。ヴィーナスが丹精込めて作り上げた箱庭みたいな額、SNSではお目にかかれない天然の大きな目、鼻筋が細く鼻先が小さい造形美の頂点みたいな鼻、小さな顔のサイズと完璧に調和している敏感そうな耳、桜の花びらを重ねたような人好きのする口、Eラインを実現している奥ゆかしい顎。それら美の結晶を、花井は視線で愛でた。

 浜辺は、頬を染め、俯いた。恥ずかしさがシンクロして、窓から見える住宅街へと視線を泳がし、手の指を落ち着きなく動かしてしまう、花井。

 「このレコードの曲、英語だから何を言ってるのかよく分からないけど、素敵だね。なんて曲なんだろう?」

 恥ずかしさを持て余し、発した声は裏返っていた。

 「ミスティ、って曲だよ。歌っているのは、サラ・ヴォーン」

 「これって、ジャズなの?」

 「ジャズだよ」

 「すごいね、浜辺さん。ジャズの曲名とか歌手の名前がさらっと出てくるなんて。かっこいいね」

 「このお店に通うようになってから、ちょっと覚えただけだよ」

 「どのくらい通っているの?」

 「一年くらいだよ」

 「そうなんだ」

 それで、会話は途絶えた。

 沈黙が一分ほど続いた。その一分が、花井には一年に感じられて、浜辺には一秒に感じられた。

 「思えば、不思議だな」沈黙に耐えかねて。「僕、浜辺さんと登下校の道が同じはずなのに、今まで一度も学校の外で浜辺さんを見かけたことがないや」

 「私、バイトがある日はすぐに下校しちゃうし、逆にバイトがない日は遅くまで学校にいたりするから、それで花井君とは下校の時間がかぶらなかったのかも」

 「そうか。そうかもね。それなら、登校の時は、僕がいつも遅刻ぎりぎりに家を出ていて、浜辺さんは時間に余裕をもって家を出ているから、一度も会うことがなかったって感じかな」

 「私、時間に余裕をもって行動するような真面目な人じゃないよ」

 「謙遜することはないよ。浜辺さんは真面目を絵に描いたような素敵な人だよ」

 浜辺は、薄らと笑った。

 再びの、沈黙。そうして再び、耐えかねる。

 「また新しいお客さんが入ってきたし、あの真っ赤なタキシードの店員さん一人じゃ手が回らなくなっちゃうんじゃないかな。店長さんとか、手助けにこないのかな?」

 「あの真っ赤なタキシードの人が店長さんなんだよ」

 「そうなの? すごく若いからバイトの大学生だと思ってたよ」

 「店長さん、確かもう38歳だよ」

 「38歳!? すごいなあ。及川光博さん並に若く見える人だなあ」

 浜辺が声を出して笑って、花井は胸をなでおろした。

 「店長さんとはいっても、一人じゃ大変じゃないかな?」

 「大丈夫だよ。休みの日はもっとお客さんが多いけど、店長さん、いつも一人で滞りなくお店を回してるから」

 花井は、店長の仕事を丁寧に観察してみた。なるほど。ながら、が上手い。ドリップしながら注文を聞くなんて初歩は朝飯前で、ドリップしながらレジ打ちをしたり、ドリップしながら食器を下げたり洗ったり、ドリップしながらデザートの盛り付けをしたりと、常にドリップしている印象を抱かせるほど要領が良い。男性の体でありながら女性脳を持っている。これには花井も感心する他なかった。

 ほどなくして、花井たちのテーブルにコーヒーが運ばれた。その際にもドリップを止めない店長に一層と感心を強めた花井だった。

 カップから昇る湯気が、サラ・ヴォーンの優しくも力強い歌声に共鳴して美しく揺らめいた。

 「いただきます」

 二人の声が重なった。

 湯気で、お互いが霞がかって見えた。目を凝らして見詰め合えば、お互いの笑みが見つけられた。

 コーヒーカップを手に取り、アメリカーノをすする。音一つ立てない上品なすすりかた。

 浜辺を見習い、花井も音を立てずにコーヒーを飲もうと試みた。慎重に慎重を重ねてすすってみる。しかし、口をどんなふうに使っても音が漏れ出てしまう。

 無音に執着して、一心不乱にすすり続ける。まるでゲームに夢中になる小学生だ。花井潤、十六歳。一説によれば、男の精神年齢は実年齢より十歳低いという。ならば彼は、まだ六歳。痴態を演じるのも無理はない。

 花井が無音でコーヒーをすすろうと努力しているのだと、浜辺は察していた。眼前で繰り広げられる幼稚な行為。しかし、彼女は呆れたりしない。痴態さえも、好きな人が演じるのであれば愛おしい。だから、しばらくの間は幸せな気持ちで許容できたのだ。しかし、余りにも長く放置されると孤独感がにじんできて、不満混じりの不安を覚えてしまうもの。そうして漏れ出た、「ずっとすすってるね」の声は小さなとげを有していた。

 とげが突き刺さり、クリアになった瞳で、浜辺を見る。後は、自己嫌悪に陥るしかない。

 『僕は自分がつくづく嫌になった! 浜辺さんをないがしろにしてコーヒーをすすり続けるなんて、正気の沙汰じゃない!』

 頭を下げる。テーブルに額がつくほどに。

 「浜辺さん、ごめんね。君みたいな素敵な人が目の前にいてくれるのに、コーヒーにばっかり夢中になってしまって。君と過ごせる幸せな時間を、僕はこれからもっと大事にするよ」

 そんな強い愛情表現までは求めていなかった。言わせてしまった感の後悔が生じる。しかし、後悔なんかよりも喜悦のほうがよっぽど浜辺の心を乱していた。持て余すほどの喜悦を抱えたままアメリカーノをすすり、僅かな音を漏らす。彼女は口元に手を当てて、目を伏せた。

 徐に、花井は自身のコーヒーカップの中を見てみた。コーヒーの残りは僅かだ。

 「浜辺さん。僕のコーヒー、ちょっとしか残ってないんだけど、飲んでみる?」

 「いいの?」

 「うん。とても美味しいコーヒーだからね。浜辺さんにも飲んでもらいたいんだ」

 「それじゃあ、私のアメリカーノと取り換えっこしよう」

 「浜辺さんのアメリカーノ、まだ半分くらい残っているし、これじゃ平等な取り換えっこにならないよ。少しだけ味わわせてもらったら、残りは返すね」

 「全部飲んじゃって大丈夫だよ。私はもう十分だから」

 「分かった。ありがとう。いただくね」

 二客のコーヒーカップがテーブル上ですれ違った。お互いに引っ込めようとした手、その指先が少しだけ触れて、二人ははにかんだ。

 綻ぶ唇を飲み口に当て、浜辺は存分にコーヒーを味わった。

 「どう、浜辺さん。僕のミルク入りのコーヒー、おいしい?」

 「おいしい! これがメニューに載ったら、毎回、注文しちゃう」

 その声がカリヨンベルの音色に聞こえて、花井は幸福感に包まれ、脱力した。

 「浜辺さんにおいしく味わってもらえて」ふにゃふにゃな声だった。「よかったよ、僕」

 声と同じくふにゃふにゃな手で、コーヒーカップを持つ。それから、これは浜辺さんが口をつけたアメリカーノなんだ! と意識する。コーヒーカップを持つ手が、力んだ。全身がわなわなと震えて、その震えを力に変換し、一息でアメリカーノを喉に流し込む。少しぬるくなっていたからこそできた芸当だ。

 「ありがとう、浜辺さん」飲み干してすぐ、言う。「浜辺さんの味がして、とてもおいしかったよ」

 得てして愛情表現とはフィーリングなのだ。言葉のチョイスに問題があったとしても、その言葉に付属する表情や仕草、それらが親愛に満ちているならば大抵のものは肯定されてしまう。浜辺もまた、花井の言葉を度外視し、彼が向けてくれる愛情だけを汲み取ったのだった。

 視線を赤い糸に見立てた、恋愛の共同あやとり。絡み合う、解れ合う、絡み合う、解れ合う、絡み合う・・・・・・。いつまでも、こうしていたい。けれど、空になった二客のコーヒーカップが二人の間にある以上、否応なしに幸せな時間の終わりを意識してしまう。店を出れば、直に別れがくる。離れたくない、しかし、離れなければならない、でもやっぱり、離れたくない。ジレンマで、二人の尻は椅子と戯れた。

 恋慕によってがんじがらめになる少年少女、彼等に保護者然とした目を向けるのは、店長。老婆心が働く、38歳。ドリップは止めない、その体で、二人に歩み寄る。

 「浜辺様。ご都合がよろしければ、久しぶりに家のジャンボと遊んでやってくださいませんか? もちろん、花井様もご一緒に」

 「花井君」瞳がきらきらと輝く。「ジャンボっていうのは店長さんが飼っているシベリアン・ハスキーのことなんだけど、花井君は、犬、平気?」

 「僕、前世は犬だったと思うんだ」食い込み気味の声だった。「だから、犬は大好きだよ」

 二人の時間が延命され、なおかつ、犬と遊ぶというイベントまでも得た、幸運の極地。感動を伴うほどの興奮で、二人は歳相応にはしゃいだ。

 「店長さん。お家、お邪魔させてもらいます」

 店長は微笑み、うなづいた。素晴らしいアシストを決めた人間の正しい所作だった。

 感極まって、花井は店長に握手を求めた。彼はちゃんと理解していた。このゴールはアシストの賜物だと理解していた。

 欧米のビジネスマンを超越する反応速度で、店長は花井の求めに応じた。高身長らしい大きな手が、まだあどけなさの残る小さな手を包み込む。

 花井は、ありったけの感謝を込めて、「ありがとうございました」と言った。店長は、これ以上ないってくらいの満足を秘めて、「どういたしまして」と言った。

 店を出る際にも花井は感謝の意を表し、深く頭を下げ、それよりも更に深く、店長は頭を下げたのだった。

 長い影を引き連れて、少し歩く。それから、浜辺は、「店長さんの家はプリマモーレから歩いて五分くらいのところにあるから、すぐに着くよ」と言った。

 二人の影が重なり合った。そんな影とは対照的に、手は触れるか触れないかの距離でまごつき続ける。

 ちょっとした豪邸の角を曲がると、前方から小畑新町中学校の制服を着た男子三人が歩いてきた。三人は浜辺を見るや否や、もじもじして、はにかんだ。

 すれ違い様、三人の内の一人が、「勃起しちゃった」と零した。

 性的な声に対して耳ざとい花井は、浜辺の心中を案じ、彼女を注視した。彼女に動じる様子は皆無で、可憐な耳が卑猥な言葉に犯されなかったことを察し、胸をなで下ろす。そうした安堵のなかで、彼は一つの疑問を抱いた。

 「そういえば、浜辺さんて小畑新町中学校の生徒じゃなかったよね? この辺に住んでる子はみんな小畑新町中学校に通うんだけど、浜辺さんは私立の中学校に通っていたのかな?」

 「私、中学を卒業するまでは山梨県に住んでいたんだよ」

 「山梨か。僕の父方の祖父母の家も山梨にあるんだよ」

 浜辺は、じっと花井を見詰め、それから、寂しげに微笑んだ。その寂しさを、花井は見落とした。

 「浜辺さん。銚子に引っ越してきたとき、こっちに知り合いはいたの?」

 「知っている人はいたけど」浜辺はもう、ネガティブな感情を表してはいなかった。「一緒に時間を過ごせるような人は、いなかった。だから、高校が始まるまではずっと一人で散歩をしたりしてた」

 「寂しくなかった?」

 「寂しかったよ。でも、ジャンボに出会ってからは寂しくなくなった」

 「ジャンボとはどうやって出会ったの?」

 「花井君は、ハーフガーデン・ポケットに行ったことはある?」

 「何度か行ったことがあるよ」

 「あそこにドッグランがあるでしょ。そこで、私は初めてジャンボを見たの。すごくハンサムな顔立ちをしているのに仕草の一つ一つが可愛くて、私、一目惚れしちゃって、ずっとジャンボを見詰めてた。そうしたら、プリマモーレの店長さんが声をかけてくれたの。色々話をした後、店長さんはジャンボとの散歩に同行させてくれて、私にリードも持たせてくれた。ジャンボは、私を気遣って穏やかな歩調で歩いてくれた。それがとても嬉しくて、すごく救われたんだ」

 美しい思い出を回想すれば自ずと綻んでしまうもの。そんな優しい顔付きに、花井は見入った。

 「楽しい散歩が終わって、別れ際に店長さんが言ってくれたの。またジャンボに会ってやってください、って。それで、自宅の住所まで教えてくれて。私、ジャンボに会いに行くのは図々しいことかなって思ったんだけど、でも、どうしてもジャンボとまた会いたくて、結局、数日後に店長さんの家を訪ねた。店長さんは嫌な顔一つしないで、私をジャンボと遊ばせてくれた。それからずっと、私はジャンボにちょこちょこ会いに行ってるの」

 「浜辺さんにとって、ジャンボは銚子で出来た初めての友達なんだね」

 浜辺は恥ずかしがりながら頷いた。

 閑静な住宅街に良いにおいが漂った。それは、夕飯の準備に精を出す家々から漂ってくるカレーやシチューなどのにおいだった。

 浜辺の言った通り、店長の家には五分ほどで到着した。

 門扉に近付くと、犬の鳴き声が聞こえてきた。怒りや警戒の類ではないとはっきり分かるほど、好意に満ちた鳴き声だ。

 浜辺が門扉を開け、二人は店長の家の敷地に入った。

 家屋は、モダンなデザインの平屋。芝の広がる庭には所々に花が植えられている。生け垣にも花がたくさん咲いていて、ちょっとした花園のようだ。木製の犬小屋も花びらに飾られて美しい。

 犬小屋に取り付けられているリード、それを引きちぎりそうな勢いで一匹の犬が浜辺に近付こうとしている。引き締まった体つきの、毛並みも良い、若さに溢れたシベリアン・ハスキーだ。尻尾の振り乱しかたが尋常じゃない。歓喜の興奮だ。

 「ジャンボ。会いたかったよ」

 初な母親が発したかのような声だった。犬が好む類の声だ。耳から征服されて、ジャンボは一瞬で脱力した。

 浜辺はジャンボのそばにしゃがみ込んだ。それから、両手を使って首周りをわしゃわしゃと刺激してやった。

 赤ちゃんプレイに興じる特殊性癖の男みたいな鳴き声が、ジャンボの口から漏れ出た。その様に、花井は嫉妬を覚えた。

 甘え切ったジャンボは、ひっくり返り、お腹をさらした。ペニスまでもが丸見えだ。

 「ジャンボは甘えんぼさんだね」

 徹底的に、甘やかす。お腹を優しくさすってやる。同時にあごの下をこちょこちょしてあげる大盤振る舞い。

 与えられる刺激を余すことなく貪り、ジャンボは快感の絶頂へと昇っていく。

 「僕も触りたいな、ジャンボ」愛情満載のスキンシップを許容できなくなり、妨害の意図のみを以てして、言った。「僕が触るよ」

 犬に嫉妬する人間がいようとは思いもしない浜辺は、ジャンボの可愛さをシェアしたい一心で、「ジャンボ、人懐っこいから初対面の人に触られても喜ぶと思うよ」と言い、立ち上がった。

 テクニカルな手が離れ、刺激が失われる、寸止め同然の仕打ち。ひっくり返ったまま、浜辺に対して続きを催促する。そんな犬の感情を読み取ることなく、無遠慮な手を伸ばす花井。

 優しくお腹をさすってやる。ジャンボは、嫌がったりしない。それどころか、無反応。あごの下をこちょこちょしてあげる。無反応。浜辺に触られていた時の面影は消え去って、その顔は能面みたいに寒々しかった。

 決して不器用ではない手付きにさえ、雄の手というだけで歯牙に掛けない、人間を選ぶ愛玩動物。雌だけを求めている。だから、ジャンボは花井に目を向けることさえせず、浜辺だけを見詰めていた。

 「ジャンボ、可愛いでしょ」

 同調を求められていると理解しつつも、返した声は、「僕のほうが可愛いよ」という剥き出しの本心だった。そんな花井の心理は、弟が出来て赤ちゃん返りしてしまった幼児の心理によく似ている。すなわち、好きな人の愛情を独占したい欲求。独占欲の裏返しは、喪失への不安である。ジャンボを可愛いと認めてしまえば浜辺の心が自分から離れてしまうかもしれない、という妄想レベルの不安感。故に飛び出してしまった、僕のほうが可愛いよ、の声は責められるものではない。責められるものではないが、理解されるものでもない。浜辺の困惑が、それを物語っていた。

 単純な同意が返ってくるものだと予期していたから、犬への対抗心を示された場合のリアクションなんて用意していなかった。日々、クラス委員長としてクラスメイトたちの要領を得ない言動に対応している浜辺が、コミュニケーション能力に問題を抱えた少女のようになって、立ち尽くし、口だけをまごまごと動かす、非常な様相。そうして、必死に絞り出した笑みは無策な御愛想だった。

 浜辺の困惑を察する。しかし、花井は何の対処も講じられない。前言を撤回し改めてジャンボの可愛いさに共感を示す。そんな安楽な処置さえ、尾を引く不安によって封じられていた。

 十数秒もの間、二人は口をきけず、目も合わせられなかった。そんな場の停滞にしびれを切らしたのは、ジャンボだった。ごろりと体を転がし、地を踏んだ四足歩行で徐に浜辺の脚へと近付き、目前の無防備な膝裏を大胆になめたのだ。

 膝裏が性感帯になり得る事実など知る由もない少女は、くすぐったさに似た快感で身震いし、色っぽい声を漏らした。その官能は、少年の眼を引き付けた。

 視姦にも似た眼差しを注ぐ。理性を覆い隠す本能で、女の恥部をねぶる純粋無垢。正しく、変態紳士。花井は微笑んだ。「可愛いね」と本心をささやきながら。

 自身の反応が性的なものであったことを、浜辺は自覚していた。その上で、「可愛いね」の声を浴びせられたとあっては、もう居た堪れない。だから、ごまかしだけを目的として発した声は、ひたすらに早口だった。

 「ジャンボってお利口で芸が色々できるんだよ」言いながら、ジャンボと向き合う。「ジャンボ、お座り」

 命じられて、ジャンボは素早く従った。

 続けざまに、命令が下される。お手、おかわり、伏せ。それらも、ジャンボは従順にこなした。

 「よく出来たね! えらいね!」

 ご褒美として顔の周りをわしゃわしゃと刺激してやる。浜辺の細い指先が豊かな上毛に隠れるたび、ジャンボは恍惚の表情を浮かべ、ささめくように鳴いた。

 「本当にお利口さんだね」

 「そうでしょ」

 「他にも何か芸が出来そうだね」

 「出来るよ。おまわりとかハイタッチとか」

 「ちんちん、は出来ないのかな?」

 強い風が吹き抜けた。庭の花々が揺れ動いた。舞った芝が浜辺の頬をかすめた。

 「出来るよ」

 「本当に!? すごいや! 僕、ちんちんって見たことがないんだ! 浜辺さん、僕にちんちんを見せてよ!」

 瞳を輝かせながら落ち着きなく上体を揺らす、少年。自らお座りの体勢に戻り舌を出し息も荒い、犬。催促の挟み撃ちだった。

 浜辺は深呼吸をした。そうして絞り出した、「ジャンボ、ちんちん」の声は余りにも小さく、儚かった。

 犬の聴力が人間よりも優れていることは科学的根拠のある事実。しかし、ここに不可思議な事態が起こった。犬のジャンボでさえ聞き取れなかった浜辺の声を、人間である花井が聞き取ったのだ・・・・・・聞き取った、という表現は的確ではないかもしれない。読み取った、という表現のほうがこの人知の及ばぬ事象を表現するに適しているだろう。彼は、補完したのだ。彼女の紅潮した頬、潤った瞳、震えた小鼻、よじった肢体、それらを用いて、ちんちん、という声を補完したのだ。一流の読唇術をも凌駕する、以心伝心に似た好意の観察眼。それによって得た情報は、彼の脳に強烈な刺激を与えた。

 『浜辺さんが、ちんちん、って言った!』欲情がたぎり、心の声が漏れ出る寸前までいった。『綺麗で、人望があって、頭も良くて、運動も出来て、そんな完璧な浜辺さんが、閑静な住宅街のど真ん中で、ちんちん、って言った!』

 小学四年生の頃を思い出す。犬吠埼の海岸でエッチな本を拾い、生まれて初めて女性の裸を見た、あの夏の日を思い出す。汗が一瞬で蒸発したほどの興奮を得た思い出、それが霞んでしまうほどに現在の興奮は強かった。

 「浜辺さん。もっと大きな声で、ちんちん、って言わなくちゃ」激しい鼻息が声の抑揚を乱す。「ジャンボも命令が聞こえなくて困っているよ。ほら、浜辺さん。ちんちん、って大きな声で言って。ジャンボ、ちんちん、って言って。ジャンボちんちん、って言って」

 覆い隠されていた理性は、行方不明になっていた。悪意のない狡猾さでちんちんを連呼する狂気。唯ひたすらに、夢中だった。好きな女の子の恥ずかしがる様を見たい一心だった。花井は生粋のマゾヒストである。しかし、マゾヒズムとサディズムは表裏一体。そうして、性癖はきっかけ一つで簡単に裏返るものなのだ。今の彼は、生粋のサディストと同質だった。

 執拗に求められるちんちんが、犬の芸から逸脱した性的なものであることは、浜辺の理解するところだった。理解していて、しかし花井に対する恐れや怒りが一向に湧いてこない自身の心の動きに戸惑う。可愛い、と思ってしまう自分がいる。嬉しい、と思ってしまう自分がいる。

 『私に、ちんちん、って言わせたいためだけに、花井君、こんなに必死になっている。ずっと好きだった人が、私だけに夢中になっている』

 下腹部が、熱を帯びる。恋愛感情ゆえの寛大な許容で、わいせつ行為さえもが愛情表現として肯定されていた。

 好きな男を喜ばせたい欲求が、瞬間、恥ずかしさを上回った。その勢いを利用して発した、「ちん」の声が自分の耳にも淫らに聞こえて、続くもう一つの、ちん、は音にできなかった。

 ちんちんの動作に移りかけていたジャンボは、寸止め同然の声に翻弄され、挙げた両の前足を低い位置で持て余した。

 浜辺は、甘えを含んだ瞳を花井に向けた。その瞳は、淀みのない微笑を映して、揺れた。

 「駄目だよ、浜辺さん。ちん、じゃ駄目だよ。ちゃんとした、ちんちん、でなくちゃ許さないよ」

 無慈悲な声を浴びて、色のある吐息を奏でてしまう。確かな快感があったのだ。

 欲望に忠実な人間であれば、この段階でたがが外れ、とことんまで乱れたことだろう。しかし、浜辺は違った。従来から学業や就業で己を厳しく律している彼女は、興奮の傍らにさえ冷静な部分を有していて、情事の流れに心身を委ねたりはしなかった。僅かでも冷静であれば、ふとした瞬間に客観性を得られ、現状をふかん的に捕らえられるもの。ジャンボの小さな鳴き声がきっかけとなって、痴態の沼から抜け出た頭は、性によって暴走する花井、および自分自身の様相を認知できた。

 『おかしくなっている。私も、花井君も。ちんちん、そんな単語一つを舐って、淫乱になってしまっている。体が生暖かい靄に包まれたみたいにぼやけてしまって、花井君の、いつもとは別人みたいに大人びた声と目になぞられた部分だけがはっきりと裸の実体を持って、激しく脈打つ。認めたくないけれど、これは快楽なんだ。こんなことで、私は・・・・・・花井君は、私のエッチな反応を見たくてちんちんを要求してきたんだ。でも、恐らく私の反応は、過剰すぎる。恥じらう程度の控えめな反応を、彼は求めていたに違いない。善がってしまう、こんな変態みたいな反応は、きっと、彼の望むものではない。だって、彼は私のことを真面目だと評価しているんだから。その真面目さを素敵だと評価しているんだから。彼に、失望されたくない。不真面目な、破廉恥な女子だと思われたくない。彼に、嫌われたくない。でも、今の火照った体で、心で、もう一度エッチなアクションを起こされた場合、私は痴態を演じずにいられる? 自信は、ない。一度、仕切り直して心身を落ち着かせない限り、自信なんてない。仕切り直すにしても、彼のそばにいたらドキドキしてしまって、いつまでも落ち着きなんて取り戻せない。それならば、今後のためにも欲張らず、取り返しのつかないぼろが出る前に別れてしまうのが、最良。まだ一緒に居たいけれど、今日のところは、ここまでにしたほうがいい』

 即席のロジック、それをすぐさま行動に反映する決断力が浜辺にはあった。

 「大分、暗くなってきたね。そろそろ、帰ろう」

 「そう? まだ明るいと思うけどな。それに、まだちんちんが済んでないんだから、帰れないよ」

 「もう十分、暗いよ。だから今日は、ここで別れよう」エロス塗れの命令口調に身震いしてしまいそうになるのを全身全霊で抑えながら、言った。「今日はもう、さよならにしよう」

 主従関係に似たパワーバランスを作り出していた魔法の言葉、ちんちん、を無視された事実に激しく動揺した花井は、本来の弱気な性格に立ち返り、二の句も継げぬまま、浜辺に従う他なくなった。

 「ジャンボ、バイバイ。また遊びにくるね」

 手を振り、立ち去っていく浜辺の背中を、ジャンボは潤んだ瞳で見詰め、悲しみを込めて鳴いた。

 店長の家の庭を出て、浜辺は門扉を静かに、それでいて素早く閉めた。その姿に違和感を覚えられるくらいには、花井ももう冷静だった。理性の遅すぎた帰還である。現状のまま別れることは危険だと、彼は認識した。わいせつな発言の穴埋め無しでは今後の恋人関係に支障を来すと認識した。だから、彼女のうなじに向かって放った、「家まで送るね」の声は切実だった。

 切実な声は、浜辺の琴線に触れた。しかし、情に絆されて利を捨てるほど彼女はぼんくらではなかった。既成の考えに準じることが最もリスクの少ない選択になると、彼女は既に人間社会から学んでいる。ぼろが出る前に別れてしまうのが最良、その考えに準じるのが、また最良。現に、家まで送るね、の声音にさえ欲情の熱を強めてしまう自分がいるのだ。クールダウンは、やはり急務だった。

 「大丈夫だよ。家、すぐ近くだから。それじゃあ、また明日、学校でね」

 好き過ぎていた。それ故に、心証への配慮が過ぎて、真っ赤な顔を今更ながら隠し、別れの言葉を宙にかなぐり捨てる形で、浜辺は走り出した。

 咄嗟に、浜辺の背中に伸ばした手は、力なく舞って終わった。遠ざかっていく後姿に絶望を幻視して、花井は言葉を失った。

 やがて、浜辺は突き当たりを曲がり、花井の視界から消えた。

 一人取り残されて、立ち尽くすことすら出来ず、両膝が崩れ落ち、そうして、四つん這いになる。

 『ちんちんの連呼を浴びせられて不快にならない女の子なんていないだろう!』罪悪感で、心が叫んだ。『彼氏とはいえ、節度というものがある! 僕は、最低のことをしてしまった! セクハラでモラハラの、最悪なちんちん行為! 去り際に、浜辺さんは顔を見せてさえくれなかった! そうして、逃げ出したんだ! 当然だ! 当然の、正当な反応だ! 大好きな浜辺さんに怖い思いをさせてしまって、嫌な思いをさせてしまって、嫌われて当然だ、僕のようなちんちん野郎は! 今すぐに、謝罪したい! でも、追いかけてしまえば増々、彼女を恐怖させてしまうだろう! ちんちん狂いの変態彼氏に追ってこられて恐怖しないわけがないのだから! ああ! 打つ手なし! 浜辺さんに負わせてしまった心の傷、それを慰める手段も資格も加害者の僕にはある訳がないんだ! だから、願うしかない! 浜辺さんの心の傷が小さなものでありますように、と! 祈るしかない! 浜辺さんの心の傷が早く消え去りますように、と! ささやくしかない!』

 一匹の蟻が、花井の顔の真下にやって来る。蟻は、自分の体よりも大きなパンくずを持っていた。

 花井は、蟻が涙で濡れないように前腕で両目を押さえた。

 「ごめんなさい。浜辺さん」

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