第25話 二度泣き
『東日本本社デジタルガバメント推進室室長付 西日本担当統括部長を命ず』
その年の年末に中本からそのように内示を受け、恭介は中本に深く頭を下げた。四月の異動がなくなり、結局十か月遅れて一月の定期異動での異動となった。後任は福岡営業所から来ることが決まった。大分の佐伯出身らしく九州内の営業所を中心に異動していたため恭介とは面識がなかったが、地元出身者が来てくれることに営業所内も大きな期待を寄せていた。大川本部長も二度も邪魔することはなかったようだが、今となってはあの横やりがあってむしろよかったのかもしれない。
四月、恭介の異動がなくなったことは、ある意味事件のようにあっと言う間に営業所内に広まった。営業所の社員たちからは単身赴任が続くことに同情的ながらも、多くの社員から感謝の言葉をかけられた。
「佐藤さんには申し訳ないですが、残ってもらえて本当にうれしいです」
「正直佐藤さんの後に変な人がきたらどうしようかと、気が気でなかったです」
など恭介にとってはありがたい言葉ばかりだった。これまで誠実に仕事に向き合ってきたことが報われたような気がした。これまでの職場では感じたことのないあたたかさだった。都市部のドライな雰囲気と違ってこれも地方のいいところかもしれない。
夏を過ぎてお客さまと話をしていても変化があった。
「私も大分で四年目になりました」
「そうですか、やっぱり大分はいいでしょう。例の件、進めていきましょう」
と明らかにこれまでと違う反応がみえた。結果的に三年と四か月での異動となってしまい、新たな案件も動いている中で大分を離れてしまうことが心苦しくもあった。しかしどこかで区切りをつけなければならない。新組織の業務も徐々に軌道に乗り、そろそろ恭介も兼務の状態では動きづらくなってきていた。
十二月になり、ここまま夢の屋の夕希に何も言わずに出て行くわけにはいかないので、何とか時間を作ろうしたが引継ぎの準備でバタバタして時間はあっという間に過ぎてしまった。どう頑張っても平日は別府へ行ってゆっくり話す時間はなさそうだったので、恭介は日曜日に日帰り温泉に入るのを名目に夢の屋へ行くことにした。昼のチェックイン前の時間なら夕希も少しは話ができるだろう。あくまでプライベートなのでわざわざ電話してアポをとるわけにもいかないが、話す時間はほしいという勝手な思いでメールだけしておいた。
日曜日、恭介は電車とバスを乗り継いで夢の屋に向かった。昼前に着いたので、先に風呂に入ることにしてフロントで料金を払った。
「あら佐藤さん、お久しぶりですね」
顔なじみのフロント係が気づいて声をかけてきた。
「ごぶさたしてしまってすみません。来月異動で大阪に戻ることになりまして、最後にもう一度ここのお風呂に入りたくて」
「えっ、そうなんですか。それはさびしいですね。夕希さんはご存じなんでしょうか。お越しになったこと伝えておきます」
「いえいえ、お忙しいと思いますので、お気遣いなく」
そうは言いながら夕希と話すつもりで来たので、フロント係の言葉に期待していた。
外の風はまだ冷たかったが、少し熱めの露天風呂で大きく伸びをした。首まで湯に浸かって吸い込まれそうなほど快晴の空を見上げると、大分での約三年半の様々な出来事が走馬灯のように思い出された。辞令が出た後も引継ぎなどでバタバタして感傷的になる時間もなかったが、この温泉にもう簡単には入れなくなると思うと初めて大分を離れることへの実感がわいてきた。
たっぷり一時間湯に浸かって噴き出た汗を流して、さっぱりした気分で恭介はロビーに戻り、昼食をとるためロビー横のレストランに入った。定番のとり天定食を注文して、夕希がいないか周りを見渡したが、夕希の姿は見えなかった。そして定食を食べ終え、食後のコーヒーを頼んだとき、和服姿の夕希がロビーのほうから向かってくるのが見えた。
「佐藤さん、お久しぶりです。この度はご栄転おめでとうございます」
そう言って夕希が丁寧にお辞儀したので、恭介も慌てて立ち上がった。
「忙しい時に勝手に来てすみません。平日はどうしても時間が取れなくて」
恭介は自分でも何を言っているのかわからないまま、口からでた言葉をそのまま話した。夕希が恭介の向かい側の椅子に座った。
「四月に本社に新しい部署が立ち上がっていて、そこへ行くことになりました」
「大阪に戻られるんですね。よかったじゃないですか」
「いえ、大分では本当にいい経験をさせてもらって、わが社の地方拠点の重要さを改めて実感することができました。実は大分へ異動になった経緯はいろいろあったのですが、今となっては大分に来られて本当に良かったと思いっています」
夕希との間に少しの沈黙が流れ、夕希は窓の向こうに見える別府湾を眺めていた。青空に反射する水面は穏やかだった。
「以前にお話をいただいていたこと、返事をしていなかったことがずっと気になっていました」
「そのことならもういいんです。佐藤さんにはご家族もいまの会社も守るべきものがたくさんあるじゃないですか。それが正解だと思いますよ」
「力になれなくてすみません」
「十分力になっていただきました。お陰様で今では別府の若手経営者のつながりがどんどん広がって、別府を盛り上げるアイデアがたくさん出てきています。佐藤さんがきっかけを作っていただいたおかげで、地域のことはそこに住んでいるものが考えないといけないと気づけたんです。ここからは自分たちの力で頑張ってみます」
「そう言っていただけるとありがたいです。でも何かあればいつでも連絡してください。後任者に言っておきますから」
「ありがとうございます。それに佐藤さんは大分みたいな田舎にいるより、本社で大きな仕事をされるのが似合っていると思いますよ。」
「いえ、実はこの旅館を一緒にやってみないかというお話をいただいて、本気で考えた時期がありました。妻にも話したらあなたとの仲を疑われて険悪になりましてね」
恭介は小さく笑って言った。
「あらあらそれは大変」
「でもそうやって本気で考えたからこそ、いまの会社でやりたい仕事を続けていこうと思えたのも事実です。残りの会社人生を考えるいい機会になったと思います」
「一つ約束してください」
夕希は恭介を真っすぐにみて言った。
「必ずまたこの夢の屋に泊まりに来てください。奥様と一緒に」
「わかりました。必ず来ますから、お元気で頑張ってください」
チェックインの時間が近くなり、夕希も仕事に戻っていった。恭介も残りのコーヒーを飲み干し、すっきりした気分で夢の屋を後にした。
新型感染症禍で大規模な送別会はできないものの、限られた人数での送別会をいくつか開いてもらうことができた。引っ越しの手配も完了し、年末の仕事納めの日、恭介は大分での勤務の最終日を迎えていた。年始からは新たな職場での勤務となる。朝礼の場で営業所の社員全員を集めて挨拶の場が設けられた。
「皆さん約三年半大変お世話になりました。大分に来た時、大分の二度泣きという言葉を教えてもらいました。大分でたくさんの経験をさせていただき今まさにその言葉を実感しています。新型感染症禍でなかなか思うようにいかないことも多く、私自身も感染してしまい、その時は本当に泣きたいくらい辛かったので、実際は三度泣きかもしれません」
努めて明るく話そうとそう言うと、何人かの社員が笑ってくれた。
「本当に皆さんの温かさを感じた三年半でした。わが社の強みは各地域の現場の力です。次は本社での業務になりますが、そのことを忘れず、少しでも皆さんのためになるよう頑張りたいと思います。これからもよろしくお願いいたします」
拍手とともに所長の中本から記念品と花束が渡された。ここまでしてもらえると予想していなかっただけに、さすがに恭介もこみ上げてくるものがあったがグッと我慢した。
昼前に会社を出て、駅前からバスに乗り込み空港に向かい、何度も乗ったボンバルディアのプロペラ機で大分空港を離陸した。
窓の下には穏やかな伊予灘が広がっていた。
「二度泣きか」
恭介はつぶやいた。あらぬ疑いでの異動、見知らぬ大分での仕事、初めて離れて暮らす佐知子との関係、新型感染症ウィルスへの感染、夢の屋の夕希との関係など、大分での三年半で泣きたいと思うことは何度もあった。しかし長い人生の中で、辛いことや泣きたいことはこれまでにもたくさんあった。しかしその度に新たな気づきや発見があり、人は強くなり大きくなるのではないだろうか。泣きたいときは何度でも泣けばいい。大分の二度泣きとはそういう意味なのかもしれない、恭介はしばらく乗ることはないだろうプロペラの振動を感じるシートに身を任せ目を閉じた。
三度泣き おんせん @nmktm3100
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