第24話 思わぬ横やり
辞令の交付は異動の一週間前だが、内示は一か月前に通知される。全国に拠点があるため、遠方への異動も考慮し一定の準備期間が確保されている。今回恭介の異動は四月一日付なので、三月一日に内示されることになる。内示を受けると、社内外の引継ぎや引っ越しの手続きを実施していいことになっている。
内示まで二週間を切った二月の半ば、所長の中本が慌てた様子で恭介のデスクへやってきた。
「ちょっと時間ありますか。マズいことになった」
「一体何事ですか」
「ここではちょっと。会議室へお願いします」
中本はそう言うと、そのまま引き返してフロアの一番奥にある会議室に入っていった。恭介も後に続いて会議室に入ると、中本がすぐに言った。
「佐藤さんの後任に決まっていた中野さん、本社の営業本部に行くことになるみたいです」
恭介は中本が何を言っているのかよく分からず、思ったことをそのまま口にした。
「一体何をおっしゃっているのでしょうか」
「なので、佐藤さん後任で来るはずだった中野さんが、急きょ本社に行くことに変わったということです」
「ちょっと待ってください、辞令の十日前ですよ。こんな直前であり得ないでしょう。一体何があったんですか」
「どうやら本社営業本部の大川本部長が中野さんと懇意にしていて、次の定期異動で営業本部の重要ポストに引っ張るつもりだったらしいです。中野さんから大分行きを聞いて人事部に怒鳴り込んだらしい」
いまの営業本部長の大川は伊藤の後任者で、伊藤をライバル視しているともっぱらの評判だ。恭介はこれまで大川と直接関わったことはなかったが、その剛腕ぶりは有名だった。今回の人事が伊藤の立ち上げる新組織に絡んだ動きで、ただでさえ伊藤が目立つうえに、その穴埋めに自分の子飼いの管理者が充てられたことがよほど気に入らなかったようだ。
「中野さんについて、ずいぶん前に大川本部長と人事部の間で次の定期異動の口約束があったみたいで、人事部側も強気に出られなくてこっちに泣きついてきた」
「こっちに泣きつかれても困ります。どうするんですか」
「人事部には中野さんが無理なら誰を出せるのか、すぐリストアップくれといってある。ただ定期異動の時期ではないイレギュラーなタイミングだから人事部も悩んでいるようだ」
「わかりました。あまり時間はありませんが後任者情報を待ちましょうか。営業部長の後任なしはあり得ないですから、よろしくお願いします」
定期異動の際は全社的に大勢が異動するため、直前まで二転三転することは多々あるが、今回は新組織に異動する十数名のみである。イレギュラーな時期とはいえ人事部の調整があまりにお粗末である。伊藤か徳永に直接聞いてみようかと考えたが、ちゃんと後任が付けば収まることなのでそれを待つことにした。
二日後、中本が一枚の書類を手にやってきた。
「人事部から佐藤さんの後任にどうかと送ってきたんですが、この人知ってますか」
渡されたのは人事部が管理している社員情報の資料だった。そこにはキツネのような細い顔に前時代的な大きな眼鏡をかけた男の顔写真があった。長い会社生活で、特に営業系の社員は多かれ少なかれ関わることがあり、関りがなくても名前くらいは知っているが、そこに書かれた名前も顔も恭介は全く知らなかった
「誰ですかこれ。全く知らないです。どこの所属の方ですか」
そう言って改めて資料を確認すると、研究開発本部知財管理センタ担当課長とあった。年齢は恭介より二つ上だ。これまでの経歴をみると、二十代のころに一年半ほど仙台の営業所にいたようだが、それ以降は研究開発本部内の部署を転々としていた。
「これはダメですよね」
中本が同意を求めるように言ったので、
「これはダメでしょう」
と恭介はオウム返しに答えた。
「小規模営業所とはいえ営業現場の責任者ですからね。全くといっていいほど経験のない人だと難しいと思います。正直これでは私も安心して引継ぎできないです」
「やっぱりそうですよね。人事部には一旦NGで返します。ただイレギュラーな時期と辞令交付直前ということもあって、人事部の調整も相当難しいみたいです」
「だとしてもそれなりの人を付けてくれないと。これなら私が残った方がましです」
「さすがにそういうわけにはいかないでしょう。新しい部署ができるのは決まっているし」
「最悪の場合はという話です。その場合は伊藤さんと話す必要がありますが」
最近よく考える営業現場への想いが頭をかすめた。最悪の場合とはいったものの、こんな人事が通るくらいなら自分が残ることを考える余地があるかもしれない。
「とりあえず人事部にはよくよく言ってみてください」
中本は自席に戻っていった。それにしてもこのタイミングでの後任者の変更とよくわからない人選、どうも動きがおかしい。徳永なら何か事情を掴んでいるにちがいない。恭介は一度徳永と話してみようと席を立ち、人目につかないところへ移動すると携帯電話を取り出した。
徳永の携帯番号にかけるとしばらく呼び出し音が続いたあと声が聞こえた。
「佐藤さんお疲れ様です。電話かかってくるんじゃないかと思っていました」
「ということは今起きていること知っているんだね」
「大川のおっさん、わざとこのタイミングを狙って横やりを入れたみたいです」
大川本部長も新組織の立ち上げは当然知っていて、それ伴う異動者の情報も把握していたが、早くに動くと対処されてしまうので、わざと内示ぎりぎりのタイミングで後任調整ができない状況にして、新組織の体制を切り崩そうという魂胆だった。
「でも人事部から別の後任者の候補は出ているんですよね」
「出てはいるけど、それがちょっとね」
恭介は先ほど中本から見せられた情報をかいつまんで話した。
「それはまずいですね。佐藤さんの後任ですから、それなりの人でないと務まらないでしょう。どうなるんでしょう」
「イレギュラーな時期でもあるから目立ってしまったのかもしれない。少し時間を置くのがいいのかも」
「それはどういう意味ですか。四月には新しい組織が立ち上がるのは止められませよ」
「もちろん組織の立ち上げは止められないけど、必ずしも私が行かなければいけないかというとそんなこともないでしょう」
「それは困ります。佐藤さんは西日本側の統括ポストですよ。伊藤さんが黙っていないでしょう」
「それもそうだけど、やっぱり大分のことを考えるとこの後任者には任せられない」
恭介は近頃考えていた地域の営業拠点への思いを徳永に話した。
「おっしゃることはわかります。効率化やコストを求めるなら拠点を集約すればいいですが、それでも全都道府県に拠点を置いているのは顧客接点を維持するためです。地域密着の営業拠点はわが社の生命線でもありますから重要性はよくわかります」
本社で全社的な政策を検討することの多い徳永なら、徹底的に効率化を求めることを考えているかと勝手に思っていたが、以外にも恭介の考えに同意した。『営業拠点わが社の生命線』という言葉が恭介に響いた。
「よくThink Gobaly,Act Locallyというけど、地域によって事情は違うんだから、やっぱり地域のことは地域で考えないといけない。やり方は世界規模であるものを利用すればいい。スターバックスはずいぶん前からThink locally, act regionally, leverage globallyて言ってるよ」
「確かにそうかもしれませんね。佐藤さんのような人が現場には必要なんでしょうね」
「特に地域のつながりがつよい地方都市では、二、三年ではなかなか仕事にならない。今後は幹部層の長期配置も考えるべきだろう」
「それも一理あります。ただ全社的にリモートワーク推進、単身赴任をなくすと言っていますし、幹部層も家族があったり、考慮すべきところは多々ありそうです」
一面的な意見だけでは判断しない徳永らしい答えだった。
「とにかく、四月のことは伊藤さんとも一度話してみるよ」
そう言って徳永との電話を切ると、すぐに伊藤の直通番号に電話をかけた。
翌日中本に声をかけ、一緒に会議室へ入った。席につくなり恭介は言った。
「やはり私が大分に残ることにします」
「それは最悪の場合と言っていたはずですが、本当にいいんですか」
「はい。さすがにあの人に引継ぎする自信はありません。大川本部長の策略にはまったようでその点は癪ですが」
「今朝本社の伊藤から連絡がありました。伊藤も経過を知っていてやむを得ないという判断だったようです。次の定期異動では必ずと言っていました」
「すみません。実は昨日伊藤さんと徳永とそれぞれ電話で話をしました。伊藤さんもわかってくれました」
「ただ伊藤から一つ提案があって、大分に残ったとしても新組織に兼務発令することで、月に何回かは大阪へ来てほしいとのことです。それなら大川本部長も口出しできないし、大阪へは出張旅費で行けることになりますし」
伊藤は恭介の単身赴任が続くことになることも考え、そのような手を打ってくれていた。新組織に正式に配置されるのは少し先になるが、兼務できれば動きは常に把握できる。伊藤の配慮が心にしみ、もうしばらく大分での業務も頑張ろうという気持ちになれた。
その夜、恭介は佐知子に電話をかけた。普段はメッセンジャーでやり取りしていて、電話をかけることはめったにないが、このことは文字で伝えることではないと思った。佐知子はすぐに出た。
「電話なんで珍しい。何かあったの」
「何かないと電話しちゃダメか。確かに何かあったと言えばあった」
「どうしたの」
「四月の異動がなくなった。もうしばらく大分にいることになると思う」
「一体どういうこと。何かやらかしたの」
恭介は事の顛末を説明した。
「そうなんだ。大きな会社って大変ね。私は絶対何かやらかしたのがバレたんだと思ったわ。あの女将とのこととか」
「そのことは勘弁してよ」
佐知子は笑っていた。佐知子が笑ってくれることが恭介にとっては何よりも力になる。
「もうしばらく単身赴任が続くことになるけど申し訳ない」
「一生続くわけじゃないし、時間は過ぎていくからまた頑張りましょう」
佐知子にそう言われて、電話をかけるときの不安な気持ちが、いまはすっきりしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます