天藍

津多 時ロウ

天藍

「――先生、この青いお空の上にはいったい何があるの?」

「この青い空の上にはね、お月様とお星様の世界があるんだ」

「お月様にはウサギさんとかぐや姫が住んでるのよね。わたし、知ってる」

「そうそう、よく知ってるね。あとはね、お釈迦様も月に住んでいるらしいよ」

「へえ、そうなんだ。ねえ、先生」

「うん?」

「ウサギさんもかぐや姫もお釈迦様も、青いお空を見てるのかな?」

「そうだね」

「わたしのお父さんとお母さんも?」

「そうだね。きっと」


 あれは、いつの頃だったろう。

 その場しのぎの嘘で調子を合わせることに、後ろめたさを感じていたあの日の私も、もうすっかり白髪が目立つ年齢になっていた。

 あれから何年か後の私は、世の中にすっかりと疲れ果てて教職を辞し、運よく市立図書館の職員として採用してもらえた。まれに取り沙汰されるように給料は良くないが、大好きな匂いに囲まれて過ごすことで、満ち足りた日々を送れているように思う。


 この青い空の上には何があるのか?

 あのときの子のように問われれば、多くは当然のように「宇宙がある」と答えるだろう。当たり前だ。それが真理で常識なのだから。


 ――でも。

 でも、宇宙の存在を知らなければ何と答えるだろうか。

 極楽がある、天国がある、神の国がある、仏の国がある、夜の国がある、星の国がある。

 或いは、この青がどこまでも続いていると答える人もいるだろう。

 常識は、当たり前は、変わるのだ。時代によって、人によって。


 私は今でも後悔している。

 なぜあのとき、空の上には宇宙があると答えなかったのか、なぜ真実を教えなかったのかと。

 あの子があの後どうなったのかは、全く分からない。

 せめて、私が吐いた些細な嘘に傷つけられることなく、真っ直ぐに成長していることを祈るばかりだ。


「ねえ、お父さん」

「なんだい?」


 ある日の図書館で、父と幼い子供の会話が、やけにはっきりと私の耳に流れてきた。


「青いお空の上には何があるの?」

「この青い空の上にはね、お月様とお星様の世界があるんだよ」

「お月様にはウサギさんとかぐや姫さまが住んでるのよね。わたし、知ってる」

「そうだよ。よく知ってるね」

「ねえ、お父さん」

「うん」

「ウサギさんもかぐや姫さまも、青いお空を見てるのかな?」

「そうだね」

「お母さんも?」

「そうだね。きっと」


 私の目に映る、この一面の青い空の上には何があるのか。

 本当は、空に果てなどというものはなくて、きっとどこまでも青く、美しく、そして優しい。



『天藍』 ―完―

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天藍 津多 時ロウ @tsuda_jiro

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