自転車乗りと二人乗り

黒本聖南

◆◆◆

 トキワさんといえば、通っている高校の近辺でよく見掛ける、二十歳くらいの髪の長いお兄さんで、いつもママチャリを乗り回しているけれど、一度として同じママチャリに跨がっている所を見たことがない。


『この町って至る所で違法駐輪してるじゃん? 選り取り見取り』


 そんなことを、駅の傍にあるコンビニ前のガードレールに腰掛けて、友人なのかちょっと柄の悪そうな人に、ボルトカッターを軽く振り回しながら彼が話しているのを、ちょっと離れた所から目撃したことがある。

 ──相棒は若干錆びたボルトカッター。彼はどうやら、自転車泥棒常習犯らしい。

 ぼくはこれまで彼と直接話したことはなかった。その姿を見掛けるたびに目で追ってしまうだけ。トキワという名前も盗み聞きで知った。

 かなり気を使っているのか、いやに艶々とした黒髪は腰の中ほどまであり、いつも縛らずそのままにしていて、風に吹かれて髪の毛が口に入るたびに鬱陶しそうにしているのを目にするから、縛れば解決するのにとか思うんだけど、話し掛けるような機会もなく、多分そろそろ一年が経つ。

 元はと言えばその髪だ。やけに綺麗な黒髪の人がいるなと思ったら男で、何だ男かと思ったら、通学中にもしくは下校中によく見掛けるなと気付いて、あれいつも乗り回してる自転車違うな、とか思ったら自転車泥棒だったと知った。親しくなりたい相手じゃない、なるべく関わらない方がいい。なのにこの目が追ってしまうのは、憎たらしいほどに魅力的な黒髪のせいだろうか。

 なんてことを思いながら、ぼくは現在、トキワさんと見慣れない景色の中を二人乗りしていた。きっと盗んだ自転車で。


「災難だったね少年。万引き犯と間違われるなんて」

「……そう、ですね」

「本屋さんって万引き多いみたいだから、ピリピリすんのも分かるけどさ、こんな真面目そうな高校生がやるわけないのにね」

「……こんな見た目の奴ほど怪しいって、言われました」

「偏見うっぜー」


 ただ、商店街を歩いていただけだった。

 本屋さんの前を通りかかったら同じ高校の制服の奴とぶつかって、それでつい足を止めたら、そいつを追い掛けて店から出てきた店主に肩を掴まれて、お前だろうって怒鳴りつけられた。

 勘違いだ、犯人はあっちに逃げたと言ってくれる人もいたけれど、店主は頑なにぼくを犯人と決めつけて、警察を呼べとか言うし、どうしたらいいんだろうと内心テンパってたら、ちょっといい? ってぼくらに声を掛けてきた人がいた。それがまさかのトキワさんで、人の良さそうな笑みを浮かべながら、片腕で誰かの頭を挟んでの登場だった。


『なんかさ、おれが乗ってた自転車にぶつかってきたんだけど、こいつ、万引き犯なんでしょ? 知らんおばちゃんに言われてここまで連れてきたけど、違うの?』


 そうそうそいつ、なんてオーディエンスの声に、やっぱりと、トキワさんは呑気な声で言うなり、万引き犯を腕から解放してすぐ蹴り飛ばしていた。何故か万引き犯は動かない。片腕に挟む前に何かしたんだろうか、たとえば相棒で、なんて。身に纏う白Tに血飛沫は付着してなかったから多分大丈夫。


『警察にはこっちを渡してよね、おっちゃん。……おっちゃん?』


 返事をしない店主に苛立ったのか、笑みを浮かべたまま目を不快そうに細めて近付くトキワさん。店主は怒りに赤黒く顔を染め、ぼくを彼の方へと突き飛ばした。トキワさんは避けずにぼくを受け止めてくれて、店主に告げる。


『取り敢えず、この子もらうね』


 どうぞどうぞの声と同時にぼくはトキワさんに手を掴まれ、商店街の出入口まで連れていかれ、そこに停めてあったママチャリの荷台を指差された。


『送るよ、家どこ?』

『……えっ』


 存在は知っていても、話したのは今日が始めてのお兄さん。そんな人に家がどこにあるのか伝えるのはちょっと抵抗があったし、そもそも、そこから駅六つ分離れていたから、自転車だと遠い。

 平気ですけっこうですと言い続ける内に、トキワさんの目がまた細くなっているのに気付いて口を閉じた。怒らせてしまったのかもしれない。怒らせたかったわけじゃないのに。

 多分善意で言ってくれているのに、申し訳ないことをしたかもしれないと俯くぼくに、一言、きっとこれが最後とばかりに、でもどこかやれやれって感じで、トキワさんはぼくに乗ってと促してきた。

 ……断り続けたのが申し訳なくて、ぼくは荷台に乗った。

 その細い腰に腕を回すのは恥ずかしいから、荷台の後ろ部分を掴んで、足を車輪に巻き込まれないよう気を付けながら少し開く。


『門限とかある?』

『ない、です』

『じゃあちょっと気晴らしに、土手の方に行かない? 嫌な記憶は水に流して帰ろうよ』


 それでいいですと返せば、トキワさんはすぐに自転車を漕ぎ始め、ぼくを商店街から引き離す。──それで今、ぼくらは土手にいた。ロードバイクやランニングする人達の中、ぼくらの姿はひどく浮いているんだろうな。

 トキワさんの髪からは、良いにおいがしていた。

 土手の草のにおいよりも強く鼻に届くのは、至近距離にいるせいだろうか。爽やかで、どことなく酸味がある気がする。柑橘系のシャンプーでも使っているのか。毛が風に吹かれるたびにぼくの顔を弱々しく叩いてくるから、やっぱり縛ってほしかった。


「でさ、少年」


 いきなり話し掛けられてびっくりしたせいか、すぐに返事をできなかった。そんなぼくに構わず、トキワさんは続きを口にした。


「おれのこと、知ってる?」

「……えっと」


 確かに知ってる。知って、いるけれど、そうですと素直に口にするのは、何となく気恥ずかしい。


「どうして、ですか」


 質問に質問で返すのは良くないなんてよく耳にするけれど、じゃあ、なんて返せばいい。


「なんかさ、おれのこと見た瞬間、きみがかなりびっくりした顔してたからさ、おれのこと知ってんのかなって」

「……ああ、そうですか」

「それにトキワさんとか呟いてたし」

「……っ!」


 全然、全く、記憶にない。

 トキワさんと話す機会なんてこの先きっとないと思ってきたから、驚いてついうっかり名前を口にしたのか。


「おれってもしかして有名人? ちょっとそうなるとまずいんだよね、よそに引っ越さないとかも」

「……有名かどうかは、ちょっと分からないです」

「そっか。有名じゃないと嬉しいな」

「……」


 なら、何で知ってるの、とか訊かれたら、もうどうしたらいいのか。

 無言の時間がしばし続いた。

 川の音は耳に届かない。野球少年やサッカー少年の怒声、小さな子供達や大きなお友達の奇声、それらばかりを耳は拾う。空は橙色に染まり、夕焼けチャイムも間もなく鳴るだろう。

 もう、帰るべきだ。

 駅から離れてしまったけど、スマホがあるからなんとかなるだろうし、定期にもいくらかお金はある、いつもと違う駅からでも帰れるはず。


「あの……下ろしてください」

「帰りたいの?」

「……はい」

「分かった。それなら、せめて駅まで送らせて」

「そんな、迷惑じゃ」

「暇だからいいって。子供が気にしない」


 トキワさんは軽やかに笑うと、適当な坂道を颯爽と登っていく。そのタイミングで、夕焼けチャイムが鳴った。急ぐねと一言告げて、トキワさんは速度を上げる。

 顔に触れる黒髪、柑橘系のにおい。

 自転車を降りればもう終わりだ。

 登りきったその後は、町の中を走り抜け、すれちがう人が多くなるたびに視線が刺さる。もうこの辺で、道なら分かりますと言ったら、本当にいいの? と自転車が止まったから、返事の代わりに荷台から降りた。


「乗せて頂き、ありがとうございます。……その、どうして後ろに乗せてくれたんですか?」


 何となく最後に訊いてみたら、


「たまには人を後ろに乗せて走りたくなったから。それだけ」


 と返された。そんなこともあるのか。後ろに乗るのは大丈夫だったけど、ぼくが誰かを後ろに乗せて漕ぐのは、考えると少し怖い。何か起きたらどうしよう、なんて。

 じゃあね、なんて言われたから、ありがとうございます、ともう一度お礼を言う。トキワさんはぼくに背中を向けてペダルを漕ぎ出す。

 離れていくその瞬間に、何となく、何も考えずに、呟いた。


「……髪、縛った方がいいですよ」


 返事はなかった。背中はあっという間に遠ざかる。だから聞こえてないと思っていた。思って、いたのに。

 ──翌日、艶やかな黒髪を、どこに売っているのか、紫色のヘアゴムで縛ったトキワさんと遭遇した。

 以前見掛けた時みたいに、彼はコンビニ前のガードレールに腰掛けていた。今日は一人だったらしい。ぼくの存在に気付いて、昨日振り、なんて声を掛けられた。


「縛った方がいいって言うから縛ったよ、似合う?」

「……似合います」


 お世辞じゃなくて本当に、よく似合っている。

 ぼくの言葉にトキワさんは嬉しそうに笑った。


「いーね、これ。自転車乗ってる時、よく髪の毛が口の中に入ってきてさ、毎度鬱陶しかったんだよね。でも縛ったら全然そんなことなくて、もっと早く縛れば良かったよ。あんがとね、少年」

「いえ……」


 想定外に喜んでもらえたことを、嬉しく思うべきか。まあでも、髪を縛ってないの気になってたから、解決して、良かったんだろう、うん。


「では、ぼくはこれで」

「うん、またね」


 またね? ……社交辞令かな。

 ええ、またと返して、ぼくは足早にその場を去る。


 これ以降トキワさんとは、たまに会ったら立ち話をするような仲になるんだけど、それはまた別の話。

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自転車乗りと二人乗り 黒本聖南 @black_book

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