とても優しい君へ

 流れる彼女の涙を止める事が出来なかった。


 僕の手の中で、彼女が渡した紙がキュッと小さくなる。

 そこに皺が一つ一つ強く刻まれる度に、彼女の言葉が頭の中で繰り返された。


「貴方は私が望む事に駄目って一度も言った事がないわよね」


 駄目、なんて言う訳がないだろう?

 そんな事を言えば、君が幸せに笑う姿が見られないじゃないか。君が楽しそうに目を輝かせる姿を見られないじゃないか。


 僕はね、君のそんな姿を見たいが為に「良いよ」って言っていたんだよ。


「貴方は、私の全てを肯定してくれたわよね」


 肯定してくれた?

 違う、僕が君を肯定していた訳じゃない。君に否定出来る所なんて一つもないだけだよ。

 芯のある生き方をして、努力を重ね続ける格好いい姿を見せる君の、どこをどう否定するって言うんだ。


 「可愛い」とか伝えていた事も、君はどこか特別な事の様に言ったけれど。僕が君を繋ぎ止める為に必死だったからだよ。

 そのままの想いを伝え続けないと、君は僕の元を去ってしまうと想っていたんだ。


 君は君が思うよりも素敵だから。君の魅力に惹かれる人が多いから。

 そんな君が、僕なんかの隣に居る事が奇跡だったから。


 ……嗚呼、君は分かっていなかったんだな。


 僕は痛い程の優しさなんて、君に向けていなかったんだよ。

 ただ、君にだったんだよ。


 でも、君はそれに気付いていなかったんだな……。

 だからこんな選択をしたんだろう。


 僕はグッと奥歯を噛みしめ、手の平で押し潰されていた彼女の想いを開いた。


「記憶処理・操作 申請書 私、若月深和わかつきみわは記憶処理・操作を申請し、記憶を改変する事をここに同意致します」


 嗚呼、君は本当に人だ。


 入退院を繰り返す闘病生活で、苦しんでいるのは、悲しんでいるのは……君だろうに。

 これ以上迷惑をかけたくないからって、僕を忘れて、たった一人で戦おうとするんだから。

 これ以上苦しみたくないからって、側で看病する僕を切って、たった一人で舵を切ろうとするんだから。


 なぁ。僕がぶつけていたのが優しさじゃなくて、僕の心だと気が付いていたら、君はこんな選択をしないでいてくれたかい?


 こんなにもをしないでいてくれたかい?


 ……いや、君はきっとこうするか。


 今は、記憶消去・改変なんて当たり前だ。

 嫌だと思えば、自分がこうしたいと望めば、記憶を思った様に変えてくれる。


 だから例え、僕の心だと分かっていたとしても、重い病に冒されていなかったとしても。優しい君は、こうするんだろうね。


 嗚呼、本当に君は「優しい」よ。


 優しくないのは、だ。


 この世界も、とても「優しい」よ。


 記憶消去・改変は、鬱病と自殺を撲滅する為に進歩した分野なんだから。

 悪事を働く為に行う事じゃない、誰かを傷つける為に行う事じゃない。


 自ら命を絶つ人をなくそう、命を護ろう。


 そんな優しい想いが、必死になってどんどんと前へ進んでいったんだ。


 なんてだろうか……


 分かっている、分かっているんだよ。


 僕だけが、その優しさと溶け込めないだけだって。


 僕だけが、その優しさを受け入れられないだけだって。


「若月さん」


 僕を呼ぶ声にハッとして頭を上げると、妻を迎えに来た看護師が立っていた。

「記憶作業が終了し、奥様が戻って参ります。なので、大変申し訳ありませんが、ご退出願えますか。今会ってしまいますと、奥様の脳に混乱が起きかねません。何分、改変直後は記憶が乱れやすくなっておりますから」

 申し訳なさそうな顔をしながらも、彼女の口調はひどく淡々としていた。


 僕はよろりと力なく立ち上がり、「ありがとうございました」と頭を下げる。


 ポタポタと、大きな雨粒が病室の床を点々と塗らした。


 この涙も、すぐに消えてしまうのだろうな。


 僕はギュッと唇を噛みしめながら頭を上げ、ふらりふらりと病室を後にした。


 ……僕は残っている。

 でも、この優しさに溶け込めやしないものは、僕だけじゃないんだよ。


「何だと思う?」

 答える者が居ないと言うのに、そっと問いかける。


 君の中から僕が消えようとも、僕の中にはずっとあるものだ……


 僕は堅く拳を作り、一人、道を歩き出した。

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泣く者は一人だけ 椿野れみ @tsubakino_remi06

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