選ばれなかった人
海
選ばれなかった人
雨の匂いがした。
空を見上げると、月には曇が薄く掛かっている。初夏にしては、ひやりと冷たい風。
ポケットに手を突っ込む。そこには、行き場をなくした自転車の鍵があった。盗まれてしまった僕の自転車。高校一年生の頃から乗っている、ぼろぼろのママチャリ。
わざわざそんなものを盗むなんて、物好きなやつがいたもんだ。そんなことを考えてみても、盗まれたママチャリは帰って来ない。今はもう話もしなくなった、父からの入学祝い。
もっと頭が良ければ、父は今も僕と話をしてくれたんだろうか。母は、腫れ物のように僕を扱わなかっただろうか。考えても仕方の無いことばかりが、僕の頭をいっぱいにする。
あぁ、明日は模試があるんだ。大事な模試だ。去年と同じ偏差値じゃあ、きっと両親は今以上に、僕に呆れてしまうだろうから。
受験に失敗した。もう三ヶ月以上も前のことだ。どこの大学も、僕を受け入れてはくれなかった。真面目に勉強していたはずだった。それなのに、僕はだめだった。
駅前にあるコンビニ前の喫煙所で、煙草を吸いながら、空を見上げているサラリーマン。その疲れ切った表情を見ないように、僕は顔を伏せて通り過ぎる。
商店街の中を通ると、照明は必要最低限しか点いていない。そのせいか、中を通る人々の顔は、どこか寂しげに見えた。僕の顔も、きっと同じ。
この商店街には、昔映画館が三つあったんだ。ふと、昔父が教えてくれたことを、思い出した。そう言った彼の表情を、僕は覚えていない。それでも、何処か誇らしげな声だったことは、ぼんやりと覚えている。
商店街を抜けてしまえば、住宅街の寂しさが僕を出迎えてくれる。見捨てられたようなその寂しさに、僕は下を向く。商店街の、僅かな光に背後から照らされた、履き潰れてぼろぼろのスニーカー。買ったときは、白くてぴかぴかとしていたはずなのに。
そう言えば、誰かが新しい靴を買ったと、SNSに投稿していた。ナイキの、赤いスニーカーだった。僕が欲しいと思っていたやつだったから、唇を噛んだんだ。
日を追う毎に、そんな些細な投稿が僕をいらつかせた。
入学式に心を躍らせる同世代。加工されすぎて、元の色味が分からなくなった写真。馬鹿みたいだ。その日入学式だったらしい女子の、きりっとしたスーツ姿の写真には、桜が残っていて良かった。そんな文言が添えられていたような気がする。散ってしまえばいいのに、そんなことを思ったから。偉そうにスーツなんて着やがって、とも。
僕だったら、絶対にスーツなんて着ない。周りと一緒だなんて、死んでも嫌だ。
サークルに入ったら可愛い子がいた。飲み会の写真。彼女ができたという報告。その全てが僕をムカムカとさせた。
そして、予備校で、誰かの授業をさぼった自慢を見たときから、僕はSNSを見ることをやめた。
虚しくなった。そんなことを考えてしまっている自分が、酷く惨めに思えた。
それでも、SNSのアプリを消せないでいるのは、消してしまえば、ひとりぼっちになってしまうような気がしたから。それだけは、嫌だと思えた。
割り切れてしまったら、どれだけ楽だろう?
目の前を、一台のタクシーがさっと通り過ぎていく。歩行者信号は赤から、青へと変わる。
住宅街を抜け、我が家を目指して歩く。途中、音楽大学の施設である、紫色のオペラハウスの前。そこで音大生らしい誰かが、道の真ん中で盛大にゲロを吐いていた。風に乗って、ツンとした臭いがこちらまで漂ってくる。側にいた数人が、げらげらと笑った。
そう言えば、今と似たような写真を、同じクラスのやつが投稿していた。それには沢山のいいねとコメントが着いていて、みんなは何のために大学に行っているんだと、僕は悲しくなったんだ。
少しばかり広い公園に差し掛かる。そこの入り口で、すぐ近くの中学校の制服を着た数人が、何やら話し込んでいるのが見えた。時折聞こえて来る笑い声が、僕のことを笑っている気がして、気味悪く思えた。
自意識過剰。そんな言葉が頭を過ぎる。分かってる。分かっているけど、もしかしたらを考えてしまって、怖くなるんだ。
そんな気持ちを引きずりながら、辿り点いた我が家の前で、僕は足を止める。門扉に手を掛けたまま、動けなくなる。見上げた家は暗い。きっと、みんなもう寝てしまっているんだろう。誰も、僕を待ってはくれていないんだ。
同じく浪人したクラスメイト話では、そいつがどれだけ遅く帰っても、親は起きて待っていてくれるらしい。次の日仕事があるにもかかわらず。参考書だって、問題集だって、欲しいと言えば買ってくれるそうだ。それはきっと、家族が期待してくれているからだ。家族から見切りをつけられた、僕とは違う。
僕は背負っていたリュックサックを下ろして、門扉の中へと放り投げる。どさっと重い音がしたけれど、それだけだ。僕はくるりと家から背を向けて、歩き出す。
夜の散歩。現実逃避を、しよう。
見上げた空には、いつの間にか分厚い曇がかかっている。時折、切れ間から覗く月明かりが、無責任に希望をちらつかせる、人生ってやつみたいに思えた。
反対側の歩道を、一組のカップルが歩いてくる。まだ若い。
暗くて見えなかったその顔が、ぼやけた電灯に照らされる。その男女とも、僕には見覚えがあった。
男の方は昔、高校のクラスメイトだったけれど、いつの間にか学校を辞めていた。背が高くて、顔も整っていたから、女子から人気があった。
その隣で笑っている、自分と同じだと思っていた地味な女子。
手を繋いで歩く二人を見ていると、勝手に裏切られた気がした。仲間はずれだったのは、僕だけだったんだ。僕だけが、誰とも馴染むことができていなかったんだと、今になって知った。
すれ違う二人は、僕のことに少しも気が付いている様子はない。二人からすればきっと、僕なんてどうせ通行人Aでしかなくて。いや、きっと通行人ですらないのだろう。道端に転がっている石と同じ。
そりゃそうだ。道端の石が、誰かに期待されることなんてない。期待しないものに、人は興味なんて持たないのだから。わかりきっていたことなのに、どうしてこんなに苦しくなるのだろう?
足下を、首輪を着けていない猫が駆け抜けていく。毛並みはぼろぼろで、見窄らしい。痩せ細ったその身体は、僕もいつかはあぁなるのだと予感させた。
小さなトンネルを抜けると、突如としてギラギラとした光が目に苦い、ラブホテルが姿を現す。どこかの窓から、カップルがセックスしている姿が見えるんじゃないだろうか。そんな期待をしたけれど、それらしき姿は見えなかった。
信号待ちを良いことに、しばらくぼんやりと見上げていたが、何も変わりやしない。第一、小さな信号だったし、待つ必要なんてなかったのだけれど。
反対側に渡りきったところで、ラブホテルから一台の黒い車が出てくるのが見えた。僕のすぐ隣で止まるそれ。助手席に座っていたのは、僕がよく知る制服を着た可愛い女の子だった。
冷めた目で、助手席からどこかを見つめる彼女を、僕は知っている気がした。目を閉じて記憶の糸を辿ってみる。
熟れた果物を握り潰したような、甘い匂いをまず思い出した。ずるりと、引きずられるように卒業式の日を思い出す。
声を上げて泣く女子グループ。肩を組んで誰かの曲を歌う男子。後輩たちと何やら話し込む者。それぞれが、それぞれの形で、最後の日を惜しんでいる。僕だって、その日は数人の友人とも呼べるかもしれないやつらと、くだらない話をして笑ったりした。その中で、大学にまだ合格していないのは僕だけだったから、きっともう会うことはないだろう。そんなことを考えていた。
別に悲しくもない別れを終え、一人帰路につこうとした時、その甘ったるい匂いに呼び止められたのだ。どんな声音だったかは、少しも覚えていない。ただ、彼女が纏っている、その匂いと同じような、甘ったるい言葉遣いだったことを、強く覚えている。
自分が可愛いことをよく分かっている、甘さの暴力のような、女の子だと思った。
あの後、彼女が探していた男子生徒とは出会えたのだろうか。そして、彼女の思いの丈を、ちゃんと伝えることはできたのだろうか。
信号が青に変わって、彼女を乗せた車が動き出す。この市ではないナンバーの車。よく知っているはずのその地名は、今の僕からすれば、どこか遠くの世界にも似た、虚しい響きがあった。
確かあの時、あの子は二年生だったはずだから、今は三年生か。
勉強しなよ。もう見えなくなった車に向かって、そんなことを呟く。じゃないと僕みたいになるぜ。そんなことを考えて、僕は頬をひきつらせた。
勉強をしてきた。人一倍、やってきたはずだ。僕は高校受験の時でさえも、第一志望の高校に入ることはできなかった。それでも、偏差値としては高い学校に入れたから、親はよくやったと言ってくれた。でも、僕は知っている。深夜、父が僕の学校のパンフレットを見て、重い溜息を吐き出していたことを。
だから頑張った。寝る間を惜しみ、友人と遊ぶことも、恋愛に思いを寄せることもせず、ただひたすらに勉強をし続けた。
それなのに、僕はまた同じ過ちを犯した。いや、今回の方が遥かに酷い。合格通知は一通も僕の元に届くことはなかったのだから。
こんな僕に、生きる価値はあるのだろうか?
死んでしまった方が、良いのではないだろうか?
僕なんかが生きていても、意味がない。仕方がない。それなのに、どうして僕は生きることにしがみつく?
時々、本当に時々だけれど、僕は自分が許せなくなる。世界で一番、醜い生き物のように、見えてしまう。僕の醜悪さには、きっと、どんな犯罪者だろうと敵わない。そんな自分を、許せるわけがないじゃないか。
消えてしまいたかった。
死にたくはないから。
誰の記憶からもいなくなってしまいたかった。
生きていたくは、なかったから。
そんなことを考えていると、まるで、ぽっかりと心に穴が開いてしまったようだった。虚しさだけが、その穴の中には存在している気がした。
なんだかどっと疲れが襲ってきたようで、僕は近くにあった電柱にもたれかかる。すぐ近くを、バイクが大きな音を響かせて消えていく。
電柱には、猫を探しているという旨の書かれた紙が、貼られていた。かなり前に貼られたものらしく、雨風に曝されて、随分とくたびれている。インクが滲んでいるせいで、住所は見えなくなっていた。これじゃあ、見つけたところで連絡なんてできやしない。
ふと、電灯に照らされた隅に、黒い、小さな影を見つけた。誰かが捨てた、ゴミか何かだろうかと近づいていくと、それは子猫の死骸なのだと分かった。だらんと、だらしなく舌を突き出し、横たわった、灰色の子猫の死体。首には、立派な首輪が巻かれている。
貼り紙に書かれている特徴と、一致していた。
しばらくぼんやりとその死体を眺めていると、冷たい何かが、頭のてっぺんを打った。見上げると、今度は右目の辺りを、ぽつりと水滴が打った。さすがに濡れて風邪をひくのは嫌だと、僕は小走りになって、先ほど通ったトンネルを目指す。途中、一度だけ後ろを振り返った。子猫の死体は突然動き出すようなことはなく、ただ、雨に濡れていた。僕は手を合わせてから、その場から逃げるように去った。
最初は小さくて、少なかったそれらは、まるで一つの何かみたいに、形作られていくような気がした。僕がトンネルに入り込んだころにはもう、外の世界は嘘のように霞んで見えなくなっていた。
反対側を見ると、正面と同じように、雨が降っている。まるで、この場所だけが、世界から切り離されてしまったかのようだった。
時折走り抜けていく車があった。それらは、世界に置いてけぼりにされた僕になんて、気にも留めやしない。車は現実から現実へ。何もそんなに焦ることなんてないだろうに。
空を見上げてみようにも、雨はまるで生きているかのように、僕に外の世界を見させてくれはしない。
目を閉じると、雨が地面を強く打ちつける、ぱちぱちという音が鼓膜を揺らした。まるで、僕にいいんだよと言ってくれているような、そんな優しさのある音だと思った。
もしかすると、この世界でこの優しい音を聞いているのは、僕だけかもしれない。そんな気にさえなってしまう。身体は雨に濡れて、重い。足元だって、靴下もスニーカーも水分を多く吸ってしまって、気持ちが悪い。それなのに、不思議と嫌な気持ちにならないのは、この優しい音のおかげかもしれない。
もし、そうだとしたなら、雨は僕を隠してくれているのかもしれない。現実という場所から、こんな、惨めで情けない僕を。
しばらく待ってみても、雨はやみそうにはなかった。どうせなら、もうずっとこのままでもいいのに。そんなことさえ考えてしまう。
このままずっと、雨が降って、僕を隠してくれればいい。
そうすれば、みんな僕のことなんて、けろっと忘れてしまうだろうから。
壁に頭をもたげると、かさりと乾いた音がした。驚いてそちらを見てみる。すると、そこには先ほど電柱に貼り付けられていたものと、全く同じ貼り紙があった。それらは雨に濡れていないせいか、僕がもたれてしまった部分が、黒いシミとなってじわじわ広がっていく。
あいつは誰かに探されているのだな。
もう動かなくなった、小さな子猫の死体を思い出す。哀れだとは思わない。悲しいなとも思わない。いや、思いたくないというのが、本音だろうか。
僕がそんなことを考えてしまうと、きっとあいつに失礼だから。あいつは僕に、そんな風に見て欲しいだなんて、少しも思ってはいないだろう。だから、ここに来る前に手を合わせたのだって、憐憫の思いを込めたわけではないんだ。
空から降ってきている雨は、相変わらずだ。雨脚が強くなることも、弱くなることもしない。ただ、ずっと同じ調子。
あいつは今も雨に打たれている。
でも、僕は自分の足でここに来た。
こんな僕でも、生きているんだ。
そのとき、ふと、僕の人生ってやつには、選択肢があるんだと気が付いた。別にこうして雨宿りなんかしていなくても、あいつと一緒に雨に打たれる選択肢だってあったんだ。それなのに、僕はそれしかないと勝手に決めつけて、こうやって雨宿りをしている。
僕はこうして雨宿りをしている。
生きているんだ。
そう、僕は生きているんだ。
こうやっていろいろなことを選択していくことが、人生ってやつなのかもしれない。
どこかで鳥の鳴き声が聞こえてきた気がして、僕は顔を上げた。
雨雲の切れ間から、瑠璃色の空が覗いている。もう、夜は終わるのだと、僕は頭の片隅で理解した。長いようで、とても短い。短いようで、とても長い。そんな夜が。
夜明けの空は、黒から少しずつ青以外の色を抜かれていくように見えた。そんなことを、僕は初めて知った。
だって僕は、起きたまま夜を超えることなんて、十九年という長い人生の中で、したことがなかったから。選んだことが、なかったから。
太陽はまだ見えないけれど、確実に朝はやって来ている。
そういえば今日は模試だった。
勉強はしていないけれど、不思議と焦りはなかった。
夜明け。
雨音。
子猫の死体。
香水。
ラブホテル。
カップル。
SNS。
自転車。
親。
世界。
さよなら、バイバイ。
僕は僕の人生を選ぶから。
軽くなった心がこそばゆくて、思わず笑みがこぼれた。
〈了〉
選ばれなかった人 海 @Tiat726
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