水槽姫⑤
胸の奥に溜まった重い空気を吐き出し、ゆっくりと椅子から立ち上がる。そのとき、水槽の中でこちらを心配そうに見つめる少女と目が合った。心配することはないんだよと、笑いかけるが、うまく笑えている自信はなかった。
夜になると朝から降り続いていた雨も上がり、
今夜は星がよく見えそうだと、少女が入っている水槽をそっと抱きかかえ、縁側に腰掛ける。
外に出ると、雨が上がったからだろうか。今までどこかに隠れていた虫たちが、ちろりちろりと愉快に唄っているのが聞こえる。
空を見上げると、まるで鬼に喰われてしまったかのような細い月と、それの周りを笑っているかのように、楽し気に瞬く星々を見ることができた。
「そろそろ……」
呟いたその言葉が、自分でも分かるほど哀愁を含んでいた。
「この村には遠い昔から代々語り継がれているお話があります」
抱えた水槽を覗き込むと、水面の下で少女がこちらを見上げていた。揺れる水面のせいで、彼女の表情をうかがうことはできなかった。ただ、それでも水槽の中に転がる色の鮮やかさは、主張するかのようにはっきりと輝いて見えた。
「この村には昔から鬼が出ると言い伝えられています。ですが、やはり西洋の技術が入り込んできた世の中です。それはこの村とて例外ではありません。だから、時間が経つにつれ、その信憑性も少しずつ薄れていき、やがて寝物語の一つに成り下がりました。ですが、一つだけ」
そこで、ぶっつりと言葉を句切る。それは自らの言葉を確かめるためであったのか、それともこの話題を話すことに抵抗があったのかは分からない。だが、話さなければ、と思った。息を深く吸い込み、心を落ち着ける。
「この村では昔から、若い女の生け贄を水槽姫と呼び、鬼に捧げてきました。それは鬼という存在が、この村では神に近しい存在であるからです。だから、病気が蔓延すればそのたびに生け贄を捧げましたし、飢饉などの災いが起きても同じように生け贄を捧げました。ですが、自ら水槽姫になりたいなどと志願する愚か者はおりません。当然です。やはり、自分の身は可愛いものですから。そこで考えられたのが、まだ物心のついていない娘を世間から隔離し、そして、必要に応じて一人ずつ、鬼に差し出していくことでした」
風が吹いて、いたずらに髪を揺らしては何事もなかったかのように消えていく。普段なら苛立ちを覚えるはずのそれが、今日はさほど気にならなかった。
「鬼に生け贄として差し出す年齢は十七から十八の娘と決まっております。もし、幸運にも災いが起こらず、選ばれた娘が決められた年齢を超えてしまった場合、その娘は無事解放され、次の娘が水槽姫に選ばれます。そんなことは、今までなかったそうですが。それに、その年齢の娘がいなければ、町まで行って買ってくれば根本的な解決にはならないものの、少しは災いが和らぐのだそうです」
水槽から顔を逸らし、空を仰ぐ。どうやら、無意識のうちに話し込んでしまっていたらしい。月の位置は先ほど見たときよりも高くなっているように思えた。
「もうお分かりでしょうが、私が今年の水槽姫――つまり、貴女様に喰われる生け贄でございます」
憎々しげに言葉を発して、手に抱いた、丸い水槽に視線を落とす。そして、ふっと目を閉じた途端、声が聞こえた。それと同時に、虫たちの唄が、ぴたりとやんだ。
「今年の贄は嫌に
まるで砂でこすったかのようなざらざらとした声が、鼓膜を揺らした。その声の主が、水槽から顔を出した少女であることは、見なくても分かった。
「その通りです。私は遠くの町で買われ、水槽姫となるためにこの村へ連れてこられた人間です」
私の言葉を聞き届けると、少女はぎゃっぎゃっと錆びた鉄を叩くような、耳障りな声で笑った。
「そうかそうか。道理でこの村の人間共からは感じられぬ知性を感じるはずだ」
それから少女は耳元まで裂けた口をがちがちと楽しげに鳴らした。
「嬉しいのですか?」
首を傾げて尋ねると、少女は深い夜のように黒い目をぎょろりと動かして、私を睨んだ。そこにかつての可愛らしさは、もう感じられなかった。
「当たり前のことを。賢しい人間を食べるときほど心が躍ることはない。賢しければ賢しいほど、わしに喰われるときに見せる表情は愉快そのもの。この村出の贄はみな間抜け面をして喰われるのみだからな。そんな食事など、楽しく感じる方が難しいわ」
少女の言葉に、こくりと頷く。
「この命が、少しでも誰かの役に立つのなら、私はそれだけで幸せです」
昔を、思い出した。家が苦しくなったからと、親に売られたその日を。
私が幼い頃、家が華族の家系であったために、花よ蝶よと、多くの愛情を受けて育てられた。女子にもかかわらず、一流の教育を受け、様々な芸術をたしなんだ。毎日が華やかで、楽しかった。
それほどわがままを言う方ではなかったけれど、それでも何か欲しいものや、学びたいことがあれば、両親は文句の一つもなく与えてくれた。それが満たされた、贅沢な暮らしであったことを知ったのは、戦火で全てを失った後のことだった。
財産は全て焼けて無くなり、財産目当てで近づいてきた人間は手の平を返すように離れていった。それだけではない。親戚までもがやっかいものとして、私たち家族を切り捨てた。
財産が燃えてしまったのは偶然敵国がばらまいた爆弾が被弾したからではないと知ったのは、私がこの村に連れて来られる前。
路頭に迷った両親は過去の栄華を忘れられず、少しでも元の生活を取り戻そうとして私を売った。
そのときの顔は忘れようにも忘れることはできない。ひどく、嬉しそうな、目だったことを覚えている。実の娘を、ただの物であるかのように扱う、その目が怖かった。だが、それ以上に私を売って手に入れたお金を握りしめ、下卑た笑みを浮かべる二人が気味悪かった。
「自分の命が金で取引される程度のものであるのなら、私の命を、少しでも良い物として受け取ってくれる存在に渡してしまった方がいい」
少女の目をじっと睨み付け、ぽつりぽつりと確かめるように言葉を紡ぐ。
「覚悟は、できています」
少女は、そっと目を閉じると、相変わらず耳障りな声で「そうか」と呟いた。
「では、お前を喰らう前に、いくつか聞きたいことがある」
「なんでしょうか?」
思いもしなかったことに、訝しみの視線を少女へと向ける。
「お前は、村の者からわしについて何も聞かされていなかったのか?」
その言葉に、そっと首を左右に振る。
「いいえ。もちろん聞いておりました。鬼が現れるときは、幼い少女の姿をして現れるのだと」
さすがに格好については聞かされていなかった。それでも彼女を一目見たときに、そうだと思った。それは、根拠の無い、自信であったのだけれど。
「では、何故逃げようとしなかった。逃げても無駄だと思ったからか?」
「先ほども申しました通り、私の命が誰かのためになるのなら、それが、金銭で取引される程度の人間である、私の幸せでありますので。ですから、逃げようとは少しも考えませんでした」
自分がお人好しの馬鹿者であり、運命を受け入れるしかない弱者であることは分かっていた。けれど、今の気持ちは嘘ではないのだと、自分だけが知っていた。
「くだらん。そんな理由なら、聞かぬ方がましだった」
そう言って、少女はぎゃっぎゃっと先ほどよりも楽しそうに笑う。
「水槽のようなこの場所で村人に生け贄として飼われ、その運命を受け入れるお前こそ、今まで喰らってきたどの贄より。水槽姫と呼ぶにふさわしいのう」
彼女の言葉が、じんわりと身体中に響き、私の顔に笑みが浮かぶ。それがどのような感情によるものなのかは、自分でさえ分からなかった。
「どうか、私を、お食べくださいませ」
その言葉に、少女の口が、嬉しそうにゆがんでいく。
あぁ。私の身体が、お口に合えば、良いのだけれど。
私を食べるためにと大きく開かれた口は、今まで見たどの闇よりも深く、暗いものに見えた。
そっと目を閉じたその時、ぱくりと、優しい暗闇が、私を飲み込んだ。
〈了〉
水槽姫 海 @Tiat726
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