ふたりの真実

長船 改

ふたりの真実


 人は誰しもが心の中に秘密を抱えている。

 それは人には言えない過去であったり、自分の病であったり、境遇であったり、悩みであったり。

 そして多くの場合、それらはひたすらに隠し通されるものである。


 しかし彼らの場合は――。



「あなた、今日は晩御飯は?」


 美和子はエプロンで手を拭きながら、玄関へと向かう夫を追いかけた。その後ろをトテトテと、5歳になる娘の真夏が続く。


「今日はいらないよ。久々に友達と会うんでね。それとついでに親父の具合も見て来るよ。」


 靴べらを戻しつつ、幸次郎は答えた。その視線の先で、良く手入れをされた革靴が光沢を放っている。


「私もお世話に行きたい所なのだけど……。」

「義姉さんがいるし手は足りているから大丈夫だよ。君は気にしなくていい。」

「そうね……。」


 美和子は一瞬、沈んだような表情を見せかけたが、すぐに気を取り直したようで、傍らにいる真夏に視線を送った。真夏はそれに気付くと、目の前に置いてある鞄を手にした。 

 

「ぱぱ、いってらっしゃい。」

「うん、ありがとう。」


 真夏が鞄を重たそうに差し出してくるのを、幸次郎は愛おしそうに、くしゃくしゃとした笑顔で受け取った。

 それから彼は美和子と行ってきますのキスを交わす。この儀式は結婚してからの約10年、ほとんど毎日欠かした事はなかった。


「それじゃあ、行ってきます。」


 そう言って、幸次郎は玄関の扉を開けた。

 幸せという言葉をそのまま体現したような家族の姿が、そこにはあった。


~~~


 その日の夜。

 瀬名幸次郎の姿は、とある日本料理屋の個室にあった。その向かいにはひとりの女性が座している。女性は名を榊夏美(旧姓:橋本)といった。ふたりは同い年であった。


「それじゃあ、1年ぶりの再会に乾杯。」

「乾杯。」


 ゆったりと料理を楽しみながら、ふたりはお互いの近況を報告しあった。


「先ほど、親父の具合を見に行ってね。」

「どこかお悪いの?」

「あぁ。入院している。もう自分で呼吸するのも難しいらしくてね。とうとう呼吸器がついたよ。……だから、そろそろだと思う。」

「そう……。」


 夏美は淡々と相槌を打った。そこに、友人の父親や友人を心配するような気色はまるでない。

 そしてそれは幸次郎も同じであった。


「私の方はお義父様が、昨年の年の瀬に亡くなったわ。」

「知っているよ。なにせ榊建設の会長だからね。という事は、もう?」

「えぇ。私達の予想通り。」

「だと思ったよ。の性格を考えれば。」


 苦笑いを浮かべつつ、幸次郎はグラスを軽くあおった。

 ふたりの会話は穏やかそのものであった。会話の内容を考慮しなければ、旧交を温める男女のそれに映っただろう。


「この1年は長かったんじゃないかい?」


 幸次郎が言った。


「そうでもないわ。けっこう慌ただしかった。

 会社内の派閥が完全に二分されて、あの人が閑職に飛ばされる所までは予想通りだったけれど、それからというもの、あの人、荒れに荒れちゃってね。今は私と息子の幸貴こうきは実家に戻っているの。」

「……それは、大丈夫だった?暴力を振るわれたりはしなかった?」

「えぇ。あの人、あれで臆病だから、人に対して高圧的にはなれても、暴力は振るえないのよ。物に当たるだけ。その破片が当たって怪我はしたけれど……。でももうこれで障害は無くなったも同然よ。」

「やられたんじゃないか……!まったく……君のお父上があんな男との縁談を持ち掛けなければ。……殺してやりたいくらいだ。」

「縁談に関しては言いっこなしよ。あなたの所だってそうだったんだから。」

「それは……。でも君の方が2年早かった。」


 幸次郎が見せた怒りと若干の恨み節。夏美はグラスで口元を隠しつつ、秘かに微笑を浮かべた。


「アルコールが回っているんじゃない?お茶でも持ってきてもらいましょ。」


 しかしそう提案した夏美の表情からはすでに笑みは消え去っており、至極平然とした様子で彼女は店員を呼び、お茶を持ってくるように頼んだ。

 ほどなくして店員がお茶を持ってくると、ふたりは再び食事を進めた。この間、ふたりに特に目立った会話はなく、せいぜいが今口にした料理の感想を言い合う程度のものだった……。


 ふたりが店を出る頃には、時刻は夜の9時を過ぎていた。

 もう10月だと言うのに、外はまだ明るさと熱を微かに残している。

 

「それじゃあ今日はこの辺で。」

「あぁ、幸貴くんによろしく。」

「真夏ちゃんにもね。」

「こっちの方が片付いたら、連絡するよ。」

「分かった。じゃあね。」

「あぁ。それじゃあ。」


 別れの言葉を交わしたふたりは、ほんの数瞬の間、見つめ合った。

 そうしてどちらからともなく微笑むと、握手をするでもなく、手を振るでもなく、ただ2、3度頷き合っただけで、そのまま互いに背を向けて歩き出したのだった。


 幸次郎の父、幸一が亡くなったのは、それから約3週間後の事であった――。


~~~


 義父である幸一の死に、美和子は泣き崩れた。通夜の際も、美和子は時折涙を見せた。それを見た義姉は「同情を引いて自分の立場を確保するつもりだ。」と周囲に漏らしていた。


 妻がそんな人間ではないと知っている幸次郎は、心底、美和子の事を気の毒に思った。


 そもそもが望まぬ結婚だったのである。幸次郎と美和子はお互いの家のために無理やりに結婚をさせられた。それでも美和子は幸次郎を愛そうと努め、子を作り、完全に家庭に入った。父・幸一の世話を申し出ようとしたのも、彼女の優しさと、瀬名家の一員にならなければという責任感から来るものだった。


 しかし、そんな瀬名家の都合などはもはや無用の長物だ。


(これからは自由だ。お前も。俺も。)

 

 もう家柄や序列に縛られる必要などない。そのために心を苦しませる事もない。


 諸悪の根源たる瀬名幸一はすでにいのである。 


~~~


 通夜の晩、幸次郎と兄の幸太郎は、斎場の一室で秘かに膝を突き合わせていた。


 斎場に泊まり込んでいるのは兄弟ふたりと、兄・幸太郎の妻、それから瀬名家の親戚筋の中でも特に繋がりが深く、瀬名商事にも携わっている人間たちだった。

 美和子と娘の真夏は帰宅している。幸次郎がそうさせたのだ。斎場に泊まれば間違いなく感じたであろう心労を気遣っての事だった。


「考えてみれば、こうしてふたりっきりでじっくり話すのは久々だな、兄貴。」


 幸次郎が言った。会社でも父の病室でも、必ずそばには誰かがいて、気を落ち着けて話す事などは出来なかった。


「幸次郎。先に言っておくぞ。親父が死んだ以上、俺は社長として好きなようにやるからな。」


 兄の言葉に、幸次郎は「分かってるよ」と言って何度もうなずいた。


 "親父が死んだら好きなようにやる"


 それは幸太郎の口癖であった。上昇志向の強い彼にとって、保守的な父の存在はわずらわしい以外の何物でもなかったのである。


「兄貴は何度も機会を潰されてきたからな。逃したものの中には、大きなチャンスもあったんだろう?」

「ふん。忘れるもんか。あの日々の屈辱は……。」


 幸太郎は思わず歯ぎしりをしてみせた。そこには父に対する憎しみすら含まれていた。

 幸次郎はそんな兄の好戦的な性格をずっと好ましく思っていた。そしてそんな兄だからこそ、自分の思うように出来る、と。


「親父は兄貴を社長に、俺を専務取締役にと言っているそうだな?」


 幸太郎は、弟のその言動に不審そうな目を向けた。


「そうだ。役員会でも承認の運びとなるだろうな。だけど、どうした。そんな事はお前だってとっくに分かっている事だろう?」

「あぁ、勿論さ。ところで――。」


~~~ 


「それで、結局あなたはどうなったの?」


 目の前でぐつぐつと煮え立つすき焼きの様子を見ながら、夏美は幸次郎に問いかけた。

 

 瀬名幸一の死去から半年。瀬名商事の陣容も一新し、その過程で起こると思われた混乱もほとんど見られる事はなかった。すべては新社長・瀬名幸太郎の辣腕によるものである。

 しかし、その傍らに幸次郎の姿はなかった。

 

「うちの会社で来年、今あるのとは別で新しくエネルギー事業を立ち上げる話が出ていてね。俺はそこの相談役に就任する事になった。」

「よくお兄さんを説得できたわね。」

「話は簡単だったよ。」


 幸次郎は鍋から肉を引き上げると、小鉢に割り入れた溶き卵に何度かくぐらせて、ゆっくりと口へと運んで行った。口の中に広がる牛肉の甘味と、濃厚な出汁と卵の風味。しかし舌鼓をうつ彼の表情は、どこか愉快そうだった。


「兄貴も兄弟経営は難しいと感じていたようでね。"肉親である俺に歯止めをかけられるよりも、別の人間……それも瀬名家の人間ではなく、まったくの外部から招聘した方が兄貴にとってはやりやすいんじゃないか?"と、まぁそんな事を言ったら、渡りに船とばかりに了承してくれたよ。」 

「あの人も変わらないわね。」

「それは僕も、と受け取っていいのかい?」

よ。」


 ふたりは声を上げて笑った。

 これまで約10年もの間、ふたりの中でこのように笑い声が起こるなどは有り得なかった。

 それだけ今度の一件は、ふたりにとって決定的なものだったのである。 


「……けれど、今までよく奥さまに気付かれなかったわね。」


 夏美の言葉に、はたと、幸次郎の箸の動きが止まった。


「勘づいてはいると思うよ。美和子はあれで勘が鋭いからな。」


 幸次郎はまっすぐに夏美を見据えた。あくまでも冷静に、物事を捉えている目だった。


「……そう。」

「だけど、証拠がない。僕たちは手を繋ぎもしなければ、キスもしていない。ただ時折ご飯を一緒に食べる、それだけの関係だ。そうだろう?」

「えぇ、そしてそれは最後まで変わらないわ。」

「その通り。だから大丈夫だ。」


 そう言って、幸次郎は再び鍋の中の肉を摘まんだ。


 ふたりの脳裏に、あの若かった頃の思い出がよぎってゆく。


 幼少の頃は野山を駆け巡って遊ぶ、幼馴染の関係だった。しかし成長するにつれ、互いに互いを男女として意識するようになっていった。

 中学に上がった事をきっかけにして、ふたりは交際を始めた。

 成績は極めて優秀、さらに容姿端麗のふたりとあって、ふたりの仲を阻む者など誰もいなかった。


 ふたりが将来を誓い合うのは必然だった。


 しかしふたりが高校に進学したある日、突然夏美は両親によって知らぬ間に縁談をまとめられ、そのまま結婚させられてしまった。それは両親が自分たちの会社を守るために選んだ、文字通りの人身御供であった。

 夏美は涙ながらに幸次郎に別離を告げた。そして明くる日には地元を離れ、遠くへと旅立ってしまったのだった。


 だが、これは表向きの事情である。ただの歴史に過ぎない。


 失意の中、夏美が別れを告げたあの日、幸次郎はある提案を持ちかけていた。


『今は無理かもしれない。だけど大人になって、お互いを縛る鎖がほどけかけた時。その時になってもまだ僕たちに想いが残っていれば。その時こそ、一緒になろう。』


 幸次郎は、自身もまた父によって無理矢理に結婚させられるであろう事を予感していたのである。そしてその予感の通り、それから約2年後、幸次郎は見合いの果てに望まぬ結婚を強いられた。相手は現在の妻である美和子であり、数年後、愛娘の真夏が生まれたのだった。


「当時は、あなたの事を恐ろしく思ったものだわ。でも成人式後に開かれた中学校の同窓会。あの時にあなたに再会して確信したの。私にはあなたしかいないって。それは子供が生まれても変わる事はなかった。」

「僕もだ。だからここまで耐える事が出来たんだ。」


 幸次郎と夏美は見つめ合う。ほんのわずか漏れ出てしまった熱を、その目に忍ばせて。


 幸次郎の鞄の中には一枚の離婚届が入っている。すでに夏美は独身に戻っている。


 この離婚が成立してしまえば、晴れてふたりは結婚ができるのだ。

 幼き日の誓いが、ようやく果たされるのである……。


 夜空はどんよりと雲が覆い、今にも降り出しそうでもあり、また月が顔を覗かせそうでもあった。

 ふたりは並び立って歩き出す。


「あなたの奥さまには何てお詫びすればいいのかしらね……。」

「俺もそこだけは予想できなかった。もっと酷い女だったら、こちらも容赦なく冷酷になれたのに。」

「やめておく?」

「まさか。それに、美和子を瀬名家に縛り付けていたのもまた事実なんだ。しっかりと慰謝料は払うさ。相場の2~3倍出してもいいとさえ思っている。俺は、それだけの事をしたんだ。」

「いいえ。よ。」

「そうか。……そうだな。」

「ええ……。」


 ふたりの手はまだ結ばれないまま。

 その関係もまだ、秘密のままである。

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