寂しさを確かめ合おう

池田エマ

秘密

 人はみんな秘密を隠しながら生きている。隣の席の同僚はどんなに忙しい時期でも必ず定時に退勤する空気が読めない営業マンだが、実は不労所得だけで生活できる金持ちだ。課のマドンナの彼女はとにかく美人で皆に優しく仕事もできるが、うちの課長と不倫をしている。事務の女性社員は潔癖でとにかく男嫌いで有名だが、長年付き合ってる恋人がいる。

 人はみんな秘密を隠しながら生きている。地味で冴えない営業マンと言われる俺、木崎圭太(きざきけいた)も、例に漏れずすごい秘密を抱えて生きているのだ。


 最近、陸怜斗(りくれいと)と会えていない。テレビをつければどこかのチャンネルでは必ず見かけるし、駅の広告や雑誌の表紙、SNSで流れてくるCMでも見かけるが、怜斗本人と直接会えていないという意味だ。

 顔良しスタイル良し性格良しの今をときめく人気俳優、陸怜斗と俺みたいな凡人がどうして会えるのか。それは俺と怜斗は幼馴染兼恋人で、同棲しているからに他ならない。


 怜斗が忙しいのはいつものことだが、実は俺の方もここ数週間忙しくしていた。もうすぐ発売になる新商品の発売研修や顧客への告知訪問と社内の資料の入れ替えなど、とにかく目が回るような忙しさだ。終電で帰ることもザラにある。

 怜斗の方は最近朝の帯番組にレギュラー出演が決まり、めちゃくちゃ早く寝てめちゃくちゃ早く家を出ていく。俺が早起き出来れば顔を合わせられるのだろうが、俺の肉体も疲労で限界でこれ以上睡眠時間を削るのは難しい。

 結果的に俺は怜斗と全然会えていないことになっている。同じ家に住んでいるのに、だ。


 家に帰ればお互いの生活の痕跡は残っている。乾き切ってない風呂場とか、食洗機の中の食器や、増える洗濯物。部屋に香る香水の残り香や、ゴミがまとめられていたり、たまに用意されている朝食だったり。そういうもので生存確認はしていても、やはりどこか欠けているような気持ちになる。


 怜斗と恋人になってからもこういうすれ違いは何度も経験しているし、珍しいことじゃない。初めてのことでもないのに、何故か今回は耐え難く感じてしまった。忙しくて気が立っているから癒しが欲しいのかもしれない。

 とにかく毎日モヤモヤして気分が悪くて、この不快な感情をなんとかして欲しくて、怜斗に会いたくてたまらなくなる。何度も怜斗に会いたいとメッセージを送りそうになって、仕事の邪魔をしたくないという理性で何度も踏みとどまってきた。俺の仕事が忙しくなかったら。怜斗の仕事が早朝じゃなければ。隙あればそんなたらればを考えてしまうから末期かもしれない。


 どうしようもなくぐちゃぐちゃな感情を引きずって過ごした今週も、やっと終わりが見えてきた。たまにはゆっくり風呂に入って酒を飲んで寝てしまいたいと思っていた金曜日の夜、俺の願いも虚しく会社の飲み会に強制連行された。ただでさえ遅くまで仕事をしたというのにだ。うちの会社はいい加減労基に通報されて欲しい。

 新商品発売の決起会という名の飲み会は、終電どころか始発まで拘束されるのが弊社の伝統だ。例に漏れず、朝日を拝んでから解散になった。


 始発に揺られ自宅最寄り駅で降りて徒歩10分。今日は昼飯を作るのも怠くて、弁当で済ませようとコンビニに寄った。怜斗が知ったら小言を言われそうな食生活だが、繁忙期は仕方ない。

 土曜日の早朝のコンビニは、あまり客もいなくて静かだ。弁当コーナーに向かう最短ルートは店員が品出しかなにかをしていて通れなかったので、仕方なく雑誌コーナーを経由して向かうことにした。なんの気なしに雑誌の表紙を見ていると、そこによく知る顔を見つけて足を止める。


「怜斗だ」


 雑誌に疎い俺でも知っている雑誌の表紙で、怜斗が優雅に微笑んでいた。余所行きの笑顔だと思うのに、それでも近くで見たいと思ってしまう。まるで砂漠でオアシスを見つけた人みたいに無意識に手を伸ばしていた。

 早朝のコンビニで雑誌を両手で持って表紙だけ見つめるサラリーマンは、とても不気味な人間だっただろう。それでも俺は雑誌をなかなか手放すことができなかった。

 散々迷ってから雑誌を買うのはやめて弁当だけ買ってコンビニを出る。あれが家にあるのはなんだか怜斗に悪い気がしたからだ。本物に早く会いたい。

 土日もロケだと言っていた怜斗は、家に帰ってももう居なくて、またすれ違いになってしまった。


 新商品が発売したらしたで忙しくなるのはどうしてだろう。それだけ俺から商品を買ってくれる顧客がいるということでありがたいことではあるが、相変わらず終電か終電一本前ぐらいの電車で帰宅する日々は俺のメンタルを着実に削っていた。

 仕事で疲れた日はコンビニに寄って怜斗の雑誌の表紙を見てから帰るのが、ここ最近の日々のルーティンになりつつあった。怜斗には相変わらず会えていない。それでも雑誌の表紙で微笑む怜斗を見ればまた頑張れる気がしたのだ。


「お兄さん、その雑誌好きなの?」


 ある日、いつものように寄り道をして雑誌を見ていたら、人に話しかけられた。耳に馴染む優しい声だ。俺が聞き間違えるはずのないその声の主は、俺だけに見えるようマスクをずらして笑顔をこちらに向けていた。表紙の余所行きの笑顔じゃない、本物の笑顔だ。


「れい……」


 名前を呼びそうになって必死で飲み込んだ。これから仕事に向かうところだろう。こんなところで騒ぎになったらお互い困る。そう頭では理解していても、気を抜けば抱き締めてしまいそうになる。数週間ぶりの怜斗はやっぱり綺麗で、俺の好きな顔で笑っていた。


「雑誌というか、表紙の男が好きなんだよ」

「ああ、彼イケメンだよね」


 シレッと自分で自分を褒める怜斗に笑いながら、俺は怜斗を真っ直ぐ見て言った。


「世界一の男だからな」

「世界一なの? 彼、まだ海外には行ったことないはずだけど」


 ああ、本当に久しぶりの怜斗だ。言い回しや会話のテンポが心地よい。耳に馴染む優しい声も、笑う時に細くなる目も、全部好きだと思う。


 触れ合いたいという気持ちを押し込めて、俺は怜斗から目を逸らした。堪え性のない俺が怜斗に縋ってしまわないよう精一杯の抵抗だった。怜斗はそれをわかっているのか、視線を逸らした俺を咎めることはなかった。


「俺にとっては世界一だから」


 そう言えば、隣から満足そうな声で「そうなんだ」と返ってきた。当たり前だろ、という言葉は飲み込む。怜斗の隣は空気が柔らかい気がした。それだけで息がしやすくて、肩の力が抜ける。寄り道した甲斐があった。


 そろそろ帰ろうかと鞄を抱え直すと、不意に怜斗が口を開いた。


「寂しくさせて、ごめんね」

「え?」


 その言葉に驚いて怜斗を見た。怜斗は外の景色を見ているようだった。つられて外を見ると、中が見えないようになっている車が駐車場に入ってくるところだった。怜斗の迎えの車が来たらしい。


「さみしい、って、別に俺は……」


 寂しいなんて思っていなかった。俺はただ怜斗と会えないからモヤモヤして、気分が悪くて、息苦しかっただけで。


「俺は、さみしかった、のか?」


 この感情に名前をつけるなら、それがピッタリな気がした。そうか、俺は怜斗に会えなくて寂しかったのか。


 怜斗は今度は俺を見て目を細めた。目を細めて甘く笑う。その美しさを惜しげも無く俺に差し出して、寂しさを肯定するのだ。全力で俺を怜斗がいないとダメな男に躾けていく。なんて酷いやつだ。もう充分、怜斗に会えない俺はダメになっていたのに。


「次の休み、いつだ?」

「明後日」

「じゃあ、死ぬ気で早く帰る」


 この寂しさは、確かめ合うしかないのだ。怜斗に会って、抱き締めてキスをして、寂しいという感情の答え合わせをしたい。寂しかったと言い合って、この感情の消し方を教え合いたい。


「待ってる」


 そう言った怜斗は俺のよく知る顔で眉を下げて笑っていた。

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