この想いはひそやかなままで

蒼桐大紀

この想いはひそやかなままで

 最初のうちはなんてことのないクラスメイトの一人でしかなかった。

 星野さんは高校のクラスメイトで、たぶん高校に入ってから最初にできた友達だ。長い黒髪はよく手入れをされていて、白いリボンがよく似合っている。くりっとした大きな瞳は少し幼さを添加していたけれど、つつましい口元と綺麗な鼻筋が落ち着いた印象を醸し出している。

 見た目はまるでお嬢様みたいなのに、星野さんは表情豊かにころころと笑い、クラスメイト達とのたわいない会話に花を咲かせる。クラスの中心ではないけれど、そこそこ賑わう場所にいつも身を置いているような人だ。

 対する私は本を唯一の友としているようなメガネ女子で、授業前の空き時間や休み時間はただ本を読んで教室の空気と同化しているような存在だった。もともと非社交的な性格をした私が叩かれないように学校生活をやり遂げるには、存在感の薄い人になって空気だと思われるのが一番安全だと小中学校の九年間を通して思い知ったからだ。

 入学式の翌日から即実践しただけあって、私の空気感はかなり早い段階でクラスメイトに受け入れられていたはずだった。

「おはよっ、長谷見はせみさん」

 そんな私に星野さんは心持ち元気に挨拶をする。

「……ん、おはよ」

 私は本から顔を上げて、それから少し視線をずらしてそう答える。席がすぐ後ろということもあって、挨拶はずっとされてきたけれど最初のうちは一瞬目を合わせて会釈するだけで済んだのだ。女子校で空気をやるにはそのくらいがちょうどいい。

「今日はなに読んでるの?」

 鞄を机に置くわずかな間、星野さんは私に雑談を振ってくる。私は背中に彼女の存在を感じながら、ぽつりぽつりとタイトルや作者を告げる。

 高校入学から二ヶ月が過ぎ、衣替えを終えた私達は少し身軽になった夏服で、少し馴染んだ友達の距離で話していた。

 そうしているうちに、星野さんと親しいクラスメイトが呼び掛けてきて、彼女は私に「じゃ、またね」とひと声おいて喧噪の中に去っていく。

 いつからだろうか。私はその後ろ姿をそっと目で追わずにはいれなくなってしまっていた。



 思い当たるところは一応ちゃんとある。

 あれは四月の終わりのスポーツテストの日だった。元来スポーツテストが大嫌いな私は、その現実から逃避したいあまり前日の夜に一〇〇〇ページはある分厚い本を寝床に持ち込んだ。ところが、睡眠薬のつもりで手に取ったそれが思いのほか面白くて、結局徹夜してしまった。

 そんな状態で苦手な運動をフルコースでやったら結果は火を見るより明らかで、どうにかメニューは消化しきったものの、私は貧血を起こして倒れそうになってしまった。

 そんな私の異変にいち早く気づき、助け起こしてくれたのが星野さんだった。私はこれ以上目立ちたくない一心で、ひとりで保健室へ行こうとしたのだけど、星野さんはそのまま私の腕を肩に回すと、半ば強引に付き添ってくれた。

 折悪しく、養護教諭は席を外していたけれど、星野さんの手際は鮮やかもので、私をベッドに寝かしつけると冷やしたタオルで額をぬぐってくれた。そして事情を聞いた彼女は、大きな目をぱちくりさせる。

「え。それってほんと?」

「本当……。厚い本をあえて選んだんだけど、まさか一〇〇〇ページもあるのを最後まで読んじゃうとは思わなくて」

「ふーん。ねえ、それってもしかして——」

 星野さんはずばりタイトルを口にした。作品は違ったけれどシリーズは同じで、私はそれまで抱いていたイメージとのギャップに少し驚いていた。

「あ、ということはいま二巻目なんだ。うん、いいよね、あの話」

「星野さんも、ああいうの読むの?」

「好きだよぉ。受験終わった後に図書館で見つけてはまっちゃったな。『この世に不思議なことなどなにもないのだよ』なんてね」

 声音を作って悪戯っぽく笑う星野さんは、なんだかいつもより楽しそうに見えた。

 ころころ表情が変わるのは教室で見た姿と変わらなかったけれど、教室にいるときより茶目っ気のある仕草が出ているみたいだった。

 そうして、養護教諭が帰ってくるまで私達は、本や読書についての話だとかこれまで話してこなかった学校についての話だとか、取るに足らない話をしていた。

 保健室を立ち去るとき、扉の隙間からひらひらと手をふる星野さんはお茶目で可愛らしかった。



 その翌日から、星野さんは朝の教室で心なしか元気に私へ挨拶するようになった。鞄を置く短い時間に私とのたわいのない話を少しすると、クラスメイトの中に溶けこんでいく。

 私達は教室のそれぞれのあるべき場所に落ち着き、その配置は放課後まで変わらない。

 それが変わるのは放課後を迎えてからだった。

 私と星野さんはともに図書委員で、放課後になると図書館にいることが多かった。図書委員の中には平然と当番をサボる人もいたし、部活との兼ね合いで代理願いをしてくる人も少なくなかったから、当番のない放課後も図書室に通うような私達にような生徒はそう多くなかった。

 当番のときも代理のときも、私と星野さんはよく一緒にカウンターに座った。返ってくる本、貸し出されていく本をネタにしてするひそひそ話は楽しいものだった。

 ただ、いつしか私はそれだけで満足できなくなっていたのだった。

「ん、どうかしたの?」

「ううん。なんでもない」

 気づくと隣りにいる星野さんを見つめてしまっているときがあった。彼女が容姿に恵まれている——有り体に言えば可愛い——ことは最初からわかっていたことだけど、この頃はその横顔を、その姿をまぶしく感じるにようになっていた。

「最近多いよぉ。もしかしてなにか言いにくいこと? 遠慮しないで話してくれてよ。それとも私じゃ頼りないかな? あーあ、残念」

「そんなことは、なくて。ただ、ちょっとぼうっとしちゃうことがあって……」

「そう。ときどきどきっとするんだよね。長谷見さんに嫌われちゃったんじゃないかって」

「そんな私が嫌うなんて、ないよ。星野さんこそ……」

「うん、私もそうだよ。だって、長谷見さんと話してるの楽しいし、好きだから」


 ——好き


 言葉にすればたったひと言。でもそのたったひと言が私には言えない。

 私の抱いている想いが憧れや友達としての好きなのではなく、恋慕うほうの好きなのだと彼女に告げることはできなかった。

 いくらここが女子校だと言っても、校内にそういう関係の人たちがいるという噂が絶えなくても、星野さんがそうだとは限らないからだ。

 想いを告げて拒絶される恐れもあったけれど、その怖さよりも私の身勝手な〝好き〟で彼女を怖がらせてしまったり悩ませたりしたくはなかったから。

 いまはこうして見ているだけで、そばにいられるだけでよかった。

 だけど、もしあなたの心を知れるとしたら、もしあなたが言う〝好き〟が私と同じだったとしたら、私はあなたに心を見せることができるのに……。

 そう思わずにはいられなかった。

 いまの関係を壊しかねない怖さが私の片想いを私の中の秘密にさせていた。



「じゃあね、長谷見さん」

「うん、さよなら星野さん」

 いまにも空が泣き出しそうな六月のある日、私達は校門の前で別れた。ちょっと用ができちゃったから、と早足に駅を目指す彼女を見送って、私は同じ道を歩きはじめた。

(雨が降りそうだから私も付き合うよ)

 そんな気の聞いた言葉は、私の口からは出てこない。意外と足が速い彼女に私のペースに合わせさせるのは申し訳なかったから。

「……星野さん、か」

 曲がり角の向こうに消えた後ろ姿を思って、ぽつりつぶやく。

 星野さん。星野沙夜香さやかさん。

 もしほかのクラスメイトのように「沙夜香」と呼んでみたのなら、「沙夜香って呼んでもいい?」と言えたのなら、いまの距離感は変わってしまうのだろうか。変えることができるのだろうか。

 呼び方を変えることよりも、変えたことで関係に変化が出るかどうかが気になって、結局言い出せていないことだった。

「あ」

 私の頬に雫が落ちてきた。

 粒の大きい六月の雨が降り始めた。傘を持っていないので、駅までの道を急ぐ。ローファーでアスファルトを蹴って、スクールバッグを左肩に担ぐようにしながら、ようやく見慣れてきた帰り道を小走りに進む。

 角を曲がって路地を進み、バスのロータリーを望む駅前通りに足を踏み入れる。

 信号は赤。交差点で私は足を止めた。

 周りの景色は雨で煙り始めていて、通り過ぎる車が跳ね返した雫が頬をかすめる。

 濡れた頬を手で乱暴に払ったときだった。

 横断歩道の向こう側、駅のガード下に星野さんがいるのに気づいた。

(よかった。濡れなかったかな)

 そんなことを思ったのもつかの間、彼女の向かいに男の子の姿があることに気づいた。近くの高校の制服を着ている。黒いズボンに白いシャツが映えていた。背が高くて、立ち姿から姿勢が良いのがわかる。そこそこの長さに切り揃えた黒髪からは、整っていながら柔和な顔立ちが覗いていた。たぶん笑顔で、きっと優しい笑顔なんだと思う。

 だって、星野さんが笑っているから。

 星野さんは少し背伸びをして、男の子の鼻頭に手を伸ばすとちょんと突っついた。それから腰に手を当てて右人差し指を立ててなにかを言うと、男の子が大げさな仕草で頭を垂れた。そうして彼は持っていた傘を開いて、星野さんを招き入れる。

 目の前をまた車が走り去っていった。大きなトラックに私の視界は遮られ、そうしている間に星野さん達は駅から繁華街のほうへと歩き出していた。寄り添って歩く後ろ姿が見えた。

 雨は一定のリズムを刻み、静かに街を濡らしていた。

 信号が変わる。鳥のささやきが流れだし、止まっていた人達が動き出しても私はその場に立ちつくしていた。

 かすんでいく交差点の先に、遠ざかる星野さんの姿を見送っていた。



 二人の影が見えなくなって、もう一度信号を見送ってから私は歩きはじめた。

 あれがたぶん、現実なんだろう。

 そうはわかっていても、私は冷めるどころか自分の中で熱が強くなるのを感じていた。あの日、四月の終わりに星野さんの手から伝わってきたぬくもりにも似たほのかな熱だった。

 私が抱いてしまった想いの熱だった。

 想いは、めぐり、こがれ、消えなくて、渦巻いていた。

 悲しいとは思わなかった。

 もともと心のどこかで諦めていたからなのかもしれない。この片想いはきっとむくわれない。そんな風に心のどこかでわかっていたからなのかもしれない。

(バカみたいだよね)

 私はそれでもまだ星野さんを見ていたい、と思っていた。明日からも、そしてきっとその先も。

 だけどそれには、この想いを知られるわけにはいかなかった。誰にも知られない秘密にしておかなければならなかった。

 頬を伝う雫は雨なのか涙なのかわからなくなっていたけれど、それでよかった。それがよかった。

 むくわれことがなくても、この想いはまだ抱いていたいから。

 だから、この想いはひそやかなままで。

 雫がまた跳ねて、涙雨が流れた。

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この想いはひそやかなままで 蒼桐大紀 @aogiritaiki

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