分岐点

@ikuyu

短編

窓から入ってくる風が心地好い。秋晴れの空。今日は絶好の行楽日和。

狭い山道を走る車。私たちを見下ろすように立つ山々は一面が紅葉し、照り返し輝く葉の赤は、目に痛かった。


「寒いからさ、窓、閉めて良い?」


隣でハンドルを操作する彼が、助手席に座る私に声をかける。視線は向けず、前を向いたまま。


彼のハンドルを握る手は、寒いと言ったにも関わらず、じっとりと汗ばんでいた。背も不自然に強ばっている。


その姿は、猛獣に恐れて手綱を固く握る、調教師のようだった。


ほんの数秒、ハンドルから手を離しても、視線を横に向けたとしても、事故なんて起きないのになぁ。

漠然とそう思う。


私は免許なんて持ってない。

だから、お気楽にそう批判できるのかもしれない。


けれど、彼に見えないようにしてそっとため息をつく。


運転は得意だって、聞いてたんだけどな。


私の溜め息をくしゃみだと勘違いした彼が私に話しかける。変わらず、視線は前に向いたまま。


「やっぱり、風が入って冷えたんじゃない?閉めるよ。縁から手を離して」


私が窓の縁にかけていた手を下ろせば、音もなくするりと窓は閉じられた。


再び沈黙が車内を支配する。


今時あり得ないが、私たちが今走っている山道は電波が悪く、さっきからカーナビも勿論スマホも電波が届かない状態が続いていた。


「暇だね~」


「…まゆかは運転してないから、そう思うだろうけど、俺は結構大変だよ…?

幸い、事前に何となく道はわかってたけど、山道だからか、舗装もガタガタだし…」


内容の割には、彼の声のトーンは明るかった。彼は前から私にドライブデートを何度も提案してきたから。


今のも、彼なりのアピールだろう。

私は笑顔でごめんね、ありがとう。と返す。


彼も喜んでいるようだけれど、変わらず目線を私に向けることはない。


「…暇だからさ、何か面白い話をしようよ~」


「面白い話…?何かあったかな…

そういうまゆかは何かあるの?」


「まぁ、言い出しっぺだからね!

でも、単純に最近あった面白いことはここに来るまで全部話しちゃったから、趣向を変えて、頭を使う話でも良いかな?

最後まで私の話を聞いてくれたら、良いことあるよ!」


「おぉ~良いことか…

それで頭を使って、面白い話?クイズとか…?」


彼は少し首を捻りながら答える。


「ざんね~ん!クイズじゃないよ!でも、もしかしたら近いのかも…?


思考実験って、知ってる?」


「あ~聞いたことあるかも。

トロッコ問題とかそういうのだよね」


やっぱり、知っていたか。私は内心で舌を出す。有名だもんね。


「そう!じゃあ、とりあえずヒビキ君も知ってるトロッコ問題を考えようよ!


あなたの目の前には、暴走したトロッコが走っています。

このままでは線路に立つ5人が轢かれてしまいます。

しかし、あなたが分岐点を変えれば、線路が切り替わり、1人が轢かれます。

あなたはどうしますか?」


「…トロッコを止める術はないんだよね?」


「ないと思うね~あるのが1番だけど。

さぁ、ヒビキ君はどうする~?」


ハンドルが右に切られ、体がソファに沈む。前を見れば、道路がぐねぐねと曲がっており、急なカーブが幾重に続いていた。斜面も傾斜が少しきつい。


「…そうだな。もし5人の中に知り合いがいないんだったら、線路を切り替える…かな……」


躊躇いが感じられる声。


「私と一緒だね。


でもさ、残り1人の方が知り合いで、5人が見知らぬ人だったら、どうする?」


隣から少しぎょっとしているような気配を感じる。


「…知り合いの程度にもよるかな」


「じゃあ、それが私だったら~?」


間髪入れずに答える。

途端に彼が安堵したのが伝わってくる。


「勿論、切り替えるさ。

何、まゆか、そんなに愛されてるか心配だったの?」


えへへ。と私は頬をかく。でも、彼は私の顔を見もしない。

頬をかく手を膝の上へと戻し、視線を下げ、私は再び口を開く。


「でもね…聞きたい1番はそれじゃなくて…


もしかしたら、ヒビキ君を嫌な気持ちにさせちゃうかもなんだけど」


「……何?」


「トロッコが轢くのが、私か私たちの子どもだったら、どうする?

…ちなみに変えなければ私が轢かれちゃうね。


私は、線路を変えずにそのまま私を轢いて欲しいなって思うんだけど」


ぐるり。彼の顔が私に向く。今日、車に乗ってから初めて真正面から私を見ている。

質問の意図を掴みかねた表情。


私は手をお腹に添え、彼に笑顔で答える。


「できちゃった」



目的地まであと少しの地点で休憩のために私たちは車を止めた。私たちは手袋とマフラーをして車を降りる。

確か、ここは何とかの滝という名所だったはず。

ぼんやりと辺りを見渡す私。前方から水音が聞こえる。


対照的に彼は、さっきからはしゃいでいた。

しきりに私のお腹に手を翳したり、上着を掛けようとしたりしてくる。


「…知らなかった。まさか妊娠してるなんて…

じゃあ、俺たちの結婚はでき婚になるな…


名前は何にしようか!?」


「ははっ、ヒビキ君は気が早いなぁ~


それでね。

私があんな話をしたのには理由があって…


私、子どもを産めないかもしれないの。

正確には産めるとは思うんだけど、私の体が持たないかもって。


まぁ現代だし、医療技術の進歩も目覚ましいから、大丈夫だとは思う。

けれど、そのもしもがあった時、どちらを助けるかは、ヒビキ君に決めて欲しいんだ」


彼から背を向け、滝へと向かう階段に近づきながら言葉をかける。私の表情は見られたくないから。


背後から彼が落ち葉を踏み進む音が聞こえる。ふいに彼が私を抱き締めた。温かい。


「だから、まゆかはあんなことを聞いたんだ…


まゆかはもし自分が死ぬとしても、産みたいの…?」


「産みたい。絶対に、産みたい」


「……それなら、俺はまゆかに堕ろせとは言えない…よ。だって、そうならない可能性の方が圧倒的に高いんだろ?


もし実際の場面で医師からまゆかと子どもを天秤に掛けられたら、まゆかの意志は尊重出来ないかもだけど…」


私は彼のお腹に自分の顔を埋める。思わず震えてしまう肩。彼はそのまま何も言わずに私の頭をゆっくりと撫でた。

彼の手は、温かかった。


2人で階段を登った先には立派な滝が広がっていた。私たちの他には誰もいない。


「特等席だね、まゆか」


その言葉に頷いて、私たちはベンチに腰掛ける。


滝の名前は相変わらず思い出せない。

まぁ、良いか。重要なのはそこじゃないから。

滝壺へと水が勢い良く吸い込まれる。水面に浮かぶ紅葉。写真映えする場所だ。

それなのに、私にはその光景がとても侘しいもののように思えた。

一筋、涙が頬を伝う。


良かった。彼には見られてない。


元気のない私の様子を気にしてか、彼が立ち上がる。


「滝の近くは流石に寒いな…まゆかも冷えちゃっただろ?温かい飲み物でも、俺買ってくるよ」


慌てて私も立ち上がる。


「いいよ!いいよ!ヒビキ君は座ってて~!

私、お手洗いも行きたいから!何が良い?お茶?それともコーヒー?」


それなら2人で買いに行こうかという彼を無理やり引き留める。ずっと運転をしてくれたから、これぐらいは。と。


「お待たせ~」


「遅かったね…ずっと座ってて冷えちゃった。何買って来てくれたの?」


「コーヒー!あっ!ちょっと、待って。今開けるから」


「おぉ!王道~ありがとう。まゆかは?」


「私はミネラルウォーター!」


彼はええっと声を出す。温かいのは全部カフェイン入りでと話すと彼はしたり顔で頷いた。


「うーん、美味しくない。やっぱりコーヒーは豆から入れないとね」



再び私たちは車に乗り込み、目的地へと目指す。


「そういえばまゆかは何でここに行きたいと思ったの?

まぁ道中、色々観光できる所があるからっていうのは分かったんだけどさ」


「え~知らないの?」


「勿体ぶるね。何?」


「目的地の場所にある山寺、結構なパワースポットなんだよ!」


「あ~女の子ってそういうの好きだよね。俺も嫌いじゃないけど。そっか…それで」


「そうそう!YouTubeとかでもよく取り上げられてるんだよ。ここは間違いないって」


「…じゃあ、安産祈願しないとね。バッチリだ」


「…………」


「何?ごめん、聞こえなかった」


「ん?…ナイショ!」


他愛もない話をしている内に車は目的地の山寺へと着いた。山道の脇に駐車スペースがあったので車はそこに止める。私はミネラルウォーターを車内に残し、代わりにコーヒーを手にとって車を出た。


残念。冷たい。さっきまで火傷しそうなほど熱かったはずのコーヒーはもうすっかり熱を失っていた。


山寺へは急な階段を登らなければならなかった。ゴールは見えない。私は階段をずんずんと進んで行く。


「ちょっと!ちょっと!待って、まゆか…」


私は振り向かずに声をかける。でも、足は止めない。


「あ~ごめんね。歩くの早いよね。でも事前に頼んでおいた、ご祈祷の時間が迫ってて…」


息を荒くしながら、彼が私を追ってくる。


「そうなんだ!さすがまゆか、安産祈願をもう頼んでたんだ…


気持ちは分かるんだけど、もうちょっと、ゆっくり…」


「残念、私が頼んだのは安産祈願じゃないよ」


えっ。後ろで止まる音が聞こえた。

私は構わず話続ける。


「私たちの出会いはさ、大学のテニスサークルだったよね。


新入生歓迎会の時はほとんど喋れなかったけど、その後、授業で一緒になって仲良くなったよね」


「…そうだけど」


「ヒビキ君はクラスでもだったけど、サークルでも割りとモテてたよね」


「何、焼きもち?ごめん、本当にさっきから話が見えないんだけど。浮気でも疑ってるの?


まゆか、何だかさっきから変だよ…



確かに今まで彼女がいたことはあるよ。でも、それはまゆかも一緒だろ?


むしろ、俺よりまゆかの方がモテモテだったじゃないか」


私はくるりと振り返る。その時に、偶々手に持っていたコーヒーの缶を落としてしまう。

私のすぐ背後に迫っていた彼は、運悪く缶を踏み、体勢を崩してしまう。


彼は私の差し出した手に必死ですがり付く。私が手を振りほどけば、階段を転がり落ちて行くのかな。


「瀬羽井まいか。知ってるでしょ」


途端に彼の顔色が青くなる。そのまま階段へと座り込む。


「…死ぬかと、思った。ありがとう、まゆか…俺の手をとっさに掴んでくれて」


ふーん。そうやって受け取るんだ。


「ねぇ、答えて。瀬羽井まいか、付き合ってたでしょ?」


「…そうだよ!付き合ってたよ。彼女とも。でも、彼女とは1年前には別れてる!それから2度と連絡も取ってない!


何だよ!俺が死にそうな目にあってる時に、何でそんなこと聞くんだよ!おかしいよ、お前!


あっ…ごめん言いすぎた…


でも俺、君の子どもの父親になるんだよ…?」



「……彼女に子どもを堕ろさせておいて、よくそんな言葉が言えるね」


彼の顔色の変化は劇的だった。青かった顔が一瞬赤くなったかと思うと、すぐに土気色に変わった。


「……何でそれを…

というか、まいかも子どもを堕ろすことには、納得してた」


「嘘ばっかり………


彼女は最後まで嫌だ。あなたには迷惑をかけない。父親はいらないって言ってた。


それなのに、あなたは彼女の親に金を握らせて無理やり!」


「だから何だよ!じゃあ、堕ろさせなかった方が良いって言うのか!

付き合ってたって言っても、あいつが一方的に俺に付きまとってただけだよ」


「本当、嘘ばっかり。

もう良いよ。何も言わなくて」


私は彼を置いて階段を昇る。彼の手が私の肩を掴んだ。


「ちょっと待って。説明させて。まゆか絶対何か勘違いしてるから」


私はその手を振り払う。説明?何だろう。彼が堕胎させたこと以上に重要なことってあるのかな。

一心不乱に登り続ければ、山寺の入り口の門が見えた。


彼は私にずっと声をかけている。

階段を登り終えた私は後ろを向かずに口を開く。


「さっきは言わなかったけど、ご祈祷は供養。

水子供養、だから」


さっきまであんなに煩かった声が止んだ。


「………あと、妊娠したって言うのは嘘」


「……は………はぁ?」


ぐいと無理やり私の顔が彼へと向けられる。肩を強く揺さぶられる。痛い。


「痛い…」


「マジで言ってる…?嘘だろ。俺、本当に…


言って良いことと、悪いことがあるだろ!!」


「彼氏が元カノを堕胎させたのは言わなくて良いことなんだ」


「それは…」


「言えるタイミングはいつでもあったよね?私が指摘しなかったら、ずっと黙ってるつもりだった?結婚してもずっと?

…冗談じゃない。無理だよ、私たち」


「だからって、こんな騙し討ちみたいに」


「何?謝れば良いの?ヒビキ君、ごめんね。これで良い?


…私が言わなかったら、ずっと秘密にして明かしてなんかくれなかったでしょ。


いい加減、離して」


振り払ってそのまま境内へと駆け出す。

一瞬呆けていた彼も、すぐ私の後ろを追った。


「ごめん。謝るから、やり直そう?」


「謝るのは、私にじゃ、ないでしょ。

まいかにでしょ」


「…ずっと気になってたけど、まゆかはまいかの何なんだよ!」


「…姉」


彼の目が大きく見開かれる。私は踵を返し、本殿へと向かう。彼がそれ以上、私に近寄ることも声をかけることもなかった。



「小梨まゆかさん、ですか」


はい。と私は返事をする。

良かった。開始時間まではまだ5分ほどある。


ほっと一息つく私に、お坊さんが尋ねる。


「今回のご祈祷の内容は、お2人のご冥福をお祈りすることで問題なかったでしょうか」


「はい。問題ありません。

まいかの子どもと、瀬羽井まいか。

2人でお願いいたします」


読経は静かに始まった。本殿の中には私しかいない。当然か。平日のお昼だもんね。


手を合わせ、2人に祈る。脳裏に浮かぶのは、私の妹…まいかの姿だった。


まいかと私は血の繋がった姉妹だった。年齢は3歳差で、お世辞にも仲の良い姉妹とは言えなかった。両親の離婚で、離れて暮らすようになるまでは。


私は母親に引き取られ、名字を瀬羽井から母の旧姓である小梨に変えた。彼女はそのまま父親の元で暮らした。


彼女と会うのは、月に1回の時もあれば、3ヶ月に1回のことも、半年に1回のこともあった。


特に両親が離婚したのが、私が中学3年生の時だっため、受験もあり、私は妹にあまり構えなかった。


付かず離れず、取り敢えず生きているのは知っているけど、何が好きなのか、誰と付き合っているのかは、まるで分からない。

そんな関係が暫く続いた。


関係性が変わったのは、まいかが大学生になった時だった。


入学した大学はそれぞれ異なったけれど、私が所属していたテニスサークルに彼女も入部したのだ。


入って早々に幽霊部員になっていた私がまいかの入部を知ったのは、LINEに瀬羽井という珍しい名字が目に飛び込んだからだ。


それからは失った時間を取り戻すかのように、私たちは急速に仲良くなっていった。


次第に仲を深めるにつれ、彼女は父親の元で苦労していることも何となく察した。


お洒落好きで、おしゃまで、口煩かったはずの妹は、いつしか服装もメイクも気を配らない、地味な大学生へと変貌を遂げていた。



彼女の様子に異常を覚えたのは、春が終わり、夏の暑さがすぐそこまで迫っている時だった。


彼女は異常に人を怯えるようになった。


最初は暑いし、人混みが苦手なのかなとしか思わなかった。


ゆっくりと、ゆっくりと、彼女は変わっていった。


蝉が鳴き終わる頃には、一日中カーテンを閉め切り、部屋から一歩も出て来なくなった。


流石におかしいと思い、部屋に乗り込んだ私に彼女は少し膨らんだお腹を擦りながら、食べ過ぎちゃってと言って笑った。


暗い、笑顔だった。




気がつけば祈祷は終わっていた。

私は境内を後にする。どうしても確認しなければならないことがあったから。


彼が車を停めていた山道脇の駐車スペースへと向かう。そこに、車は無かった。


私はそのまま、地面にへたりこんだ。




「このお腹はどうしたの!?」


「その…好きな人の子どもで…」


「でも、まいか、付き合ってる人なんていないって…まさかテニサー!?」


「…っ、違うの!あの人たちは、その…」


「お願い…誰にも言わないから、秘密にするから、本当こと言って…?お願い」


「………実は、お酒を飲まされて、その後の記憶が不鮮明で…

でも私…実は誰に……犯されたか…覚えて…て」


「私、大丈夫だよ。大丈夫だから、お姉ちゃん。なんとか…するから…」


精神的に不安定な妹を独りにさせまいと、気を配っていたつもりだった。つもり、だった。


「いやいや、まいかちゃんも同意してたよね?それに申し訳ないけどあの時、ヤったのは俺だけじゃないし」


「…それは」


「ごめん…次の授業があるんだよね。それに、ここで話すようなことじゃないでしょ。次、俺に会いに来たら訴えるから、じゃ」


出入口で私はその男とすれ違う。こいつが、まいかを…


私が就活だの、単位だの、今思えばくだらないことに明け暮れている間に、まいかはぺしゃんこになっていた。

お腹みたいに。


「お父さんが、お父さんが…私の赤ちゃんを…」


私は何も言えなかった。正直なことを言えば、子どもはまいかのためにも、堕ろすべきだと思っていたから。


けれど、私が間違っていた。

子どもを失ってからのまいかは急速に色褪せていった。彼女が喪失したのは、子どもだけじゃない。きっと活力とか、希望とか、そういうものもだ。


そして、彼女はある日、置き手紙を遺して、失踪した。


失踪者を探し続け、私はある日、唐突に彼女を見つけた。変わり果てた姿だった。


彼女だと特定出来たのは、はるか昔、まだ両親が離婚する前にお揃いで買ったご当地ストラップを遺体が握っていたからだ。

ご丁寧に「まいか」と書かれていた。


まゆかの名前のストラップは無いのに、まいかはあってズルいと両親に訴えた、いつかの記憶が甦った。



地面から立ち上がり、裾についた泥を払う。

山寺へと続く階段の元まで戻れば、市街地へと向かう別の道に行けるはずだ。スマホも車を降りてからは使えている。 


彼は疑問に思わなかったのだろうか。

いくら山中とはいえ、この現代日本でスマホすら使えなくなることがあるなんて。現代には妨害電波なんていう、便利なものがあるのに。


1度。たった1度でも良いから、まいかを思い出し、謝ってくれれば、止めるつもりだった。


まいかに謝らなくとも、子どもを堕胎させたことがあることを自白してくれれば、良かった。


読経に、付き合ってくれれば、良かった。


でも、そのどれもを彼は選んでくれなかったから。


コーヒーには睡眠薬を混ぜた。

スマホを見る。恐らく、効果が出ている時間だろう。


いろは坂のような急カーブをブレーキ無しで下ればどうなるかは、火を見るよりも明らかだ。


まいかはきっと復讐なんて、望まない。

彼女を助けられなかった私も死んでしまえば良い。


瞼を閉じれば、まいかの姿が浮かぶ。


「お姉ちゃん、私ね、もう2度と子どもが…」


私はそっと首を振る。


「あの人は知っちゃったよね…!?どうしよう…」


大丈夫だよ、まいか。


「どうして…皆、何もかも、私から、取り上げて行くの!?」


まいかの秘密を知る人たちは、もう。


お坊さんには交通事故で亡くなったと伝えた。知られなければ、それは、きっと無かったことと同じ、だから。

そうすることでしか、私はまいかを守れないから。


空を仰ぐ。澄んだ秋晴れの空に鰯雲。

どこかで山鳩が鳴く、穏やかな日。

私の足下の落葉は泥と砂にまみれている。

それでも、その葉はどこまでも、どこまでも、赤く色付いていた。

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