紅葉綴る・続
森陰五十鈴
由来
薄汚れたガラス戸を引いて古びた校舎から外に出ると、途端に膜がかっていた喧騒が飛び込んできた。向かいに
黄色の並木の通りを下りた先の広場では、簡素な舞台が造られていて、そこで有志がギターを鳴らしている。歌を拾うマイクの音質はあまり良くなく、くぐもった歌声が構内に響き渡っていた。
私はタイルの割れた階段を下り、人の流れの中に入った。手にした冊子を落とさないようにしっかりと胸に抱きかかえる。人にぶつからないよう小幅で歩きながら、ゆっくりと流れを泳いでいく。途中美味しそうなうどんの出汁の匂いが漂ってきたが、振り払う。今は、この腕の中の冊子を届けるのが先だ。
多くの人が下の広場に向かう中、私は人混みを掻き分けて道を真っ直ぐに進んでいった。流れが緩やかになり、人通りが
門の外を出ただけで、祭りの喧騒が遠ざかった気がした。歩く人など全く見えない住宅街の通りを、下っていく。他人に
ほどなくして、木でできた門が見えてきた。そこは小さなお寺で、私の目的地。白木の門をくぐると、砂利を踏み鳴らして敷地の奥へ。お堂の脇を右側に抜け、赤々とした細い紅葉の木の前に立ち止まると、辺りを見回した。
……いない。
首を傾げながら、なんとなくその先の墓地を覗き込んでみる。
――いた。
檀家の墓が均等に置かれた通路の奥、一際古びた墓があった。一般的な御影石とは違い、そこらの岩を切り出したような素っ気ない墓。花も生けられていないそこに、青年が座り込んでいた。白いシャツ姿。墓にもたれ、階段に足を投げ出して、あらぬほうを見つめている。
「先輩!」
目的の人物を見つけ、私は声を張り上げた。少しだけ小走りになって、その人物の下へ行く。
「鈴ちゃん、どうしたの?」
先輩は呆けた様子で私を見上げた。
「どうしたの、じゃないですよ。私、待ってたんですよ?」
そうして抱えていた冊子を差し出せば、先輩は白いシャツの腕を持ち上げて受け取った。
「そうか。学園祭、今日だったね」
「……です」
渡した冊子は、私が所属している大学の文芸部の発行した文芸誌だ。毎年学園祭のときに、ちょっとした価格で文芸誌を配布している。私はさっきまで売り子の当番だったのだが、その間に待てども待てどもこの先輩がやってこなかったから、こうして自ら渡しに来たというわけだ。
「お手数をかけたね。ありがとう」
先輩はパラパラと文芸誌を
「今回は、お題が〝紅葉〟っていうこともあって、雰囲気が統一されているんですよ。ファンタジー、恋愛、歴史もの……ジャンルはいろいろなんですけれど、みんな和風ものばかり書いていて」
非常にまとまった文集になったのではないか、と部員全員が自負していた。
「鈴ちゃんのは? どうだったの?」
恥ずかしいことに、先輩は私の作品の評価を訊いてきた。
「まあ、部員のみんなからの評判は良かったですよ。怪しい雰囲気が素敵だね、って言ってくれた人もいて」
そうか、と先輩は嬉しそうに小さく笑った。
「モデルになった甲斐があるというものかな」
そう、今回私が書いた物語は、目の前の先輩をモデルにしたものだった。紅葉から生まれたという、人ならざる存在であるこのヒトを。
「あとでゆっくり読ませてもらうよ」
そう言って先輩は、綿のズボンの膝の上に文芸誌を置いた。
このヒトは私の作品をどう評価するのか。胸の動悸を覚えながらも、私には一つ気に懸かることがあった。
「ところで先輩。いくらなんでも他人のお墓に、そんな風に座るのはどうかと思うんですが。
先輩は墓の前に足を投げ出して、まるでソファーか何かのように
「誰も僕のことは気にしないよ」
それは、多くの人が視えるわけではないので、そうかもしれないが。
「それに、他人のお墓というわけでもないんだよ。ここは、僕の〝母〟が眠っている墓だからね」
私は先輩の背後の墓石を見た。そこには何も刻まれていない。ただ石が墓の形で置かれているだけのようにしか見えなかった。
が、そもそもそんなことは関係ない。このヒトは、人間ではないのだ。紅葉から生まれた。〝母親〟などいるはずもない。
先輩は、私の疑問を瞬時に読み取って、くつくつと笑った。
「僕が生まれたきっかけについては、もちろん知っているね?」
「確か、このお寺の墓地の入口にあるあの紅葉で、人が首を
「その首を括った人が〝母〟なのさ。もちろんきっかけってだけで、
なるほど、そういうことだったのか。納得する。
そうなると、今度は好奇心が湧き上がってくるわけで。
「どういう人だったんですか?」
と、私は疑問を口にするのだった。
「さてね。知らないよ。僕は彼女が死んでから生まれたわけだから」
そうだったか、と私は赤面する。神通力のようなもので分かったりするのではないか、と思ったが、違ったか。
「でも、死んでからのことは覚えてる」
私は身を乗り出した。……
先輩は、私の興味を感じ取って、話す気になったらしい。墓に寄り掛かるような体勢を正した。私は、そんな先輩の前にしゃがみ込む。
「この墓はね、無縁仏が合祀されているんだ」
「無縁仏……じゃあ?」
「彼女の身元は不明だよ」
先輩が生まれた朝。首吊りに気付いた寺の住職は、慌てて警察を呼んだ。ご遺体は警察によって降ろされ、一旦は警察署に運ばれたが、ほどなくして寺に戻されたらしい。
「身元を示すものが何もなかったらしい。親族、友人……縁者を見つけることができないまま、腐敗する前に弔いに出されることになったんだ」
そうして彼女は火葬され、骨を砕かれてこの墓の下に埋葬された。
「胎の中の、小さな命と一緒にね」
雷が落ちたような衝撃を受けた。その女性は、妊娠していたのだ。
「子どもがいるのに……どうして」
首を括ったということは、自ら死を選んだということだろう。それだけでも信じられないのに、新しい命を宿していながら選んだ道が、私には理解できなかった。
先輩が私の疑問に答えることはなかった。彼は〝母〟の死後のことしか知らないからだ。
「いろいろな理由が考えられるけれど……妊娠中に心が病むことは、珍しいことではないみたいだよ」
墓石を振り返り、ただそれだけを付け加える。
私は、その女性のことを思った。どんな人生を送ったのか、何が彼女に決断をさせたのか、想像すらできはしない。ただ、この小さな寺の墓地の片隅で忘れ去られてしまうのが、とても哀れで居た堪れなくなった。
墓に手を合わせる。そして女性と、生まれてこれなかった命の冥福を祈った。
「……帰ります」
立ち上がる。先輩は頷き、手を振った。
「またね」
私は踵を返す。帰り道に綺麗な御影石の脇を通り、あの素っ気ない墓を思って嘆息した。
入口の、先輩が生まれた紅葉の前で、振り返る。先輩はまた寛いだ格好に戻り、私たちの文芸誌を広げていた。
その姿に、ふと疑問が
尋ねてみたい気もしたが、なんだか野暮なようにも感じられて、私は寺の外に出た。
大学に戻る坂を上る私の足は、重かった。やはり考えてしまうのだ。女性のことを。子どものことを。先輩のことを。
そして、文筆家としての使命感が、私の胸の奥で燃えていた。
紅葉から生まれた
死してなおこの世の苦しみに繋ぎ止められた、〝母〟の話。
書こう、と思った。肉付けは私の虚妄となるが、彼女を形にしたかった。そうすることが私なりの供養であると思ったし、せめて物語の中で救ってあげたいと思った。
救われる話にしようと思った。
今すぐ書きたい気持ちに囚われるが、大学に戻らなければならなかった。学園祭の喧騒の中に戻るのは億劫だったが、当番を終えたとはいえ、部の仲間には、少し抜ける、としか伝えていないのだ。このまま行方不明になるわけにはいかない。
大学の校門が見えてくると、それに伴い誰かの演奏も聴こえてきた。ロックンロール。学園祭はまだまだ盛り上がっている。
紅葉綴る・続 森陰五十鈴 @morisuzu
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