紅葉綴る・続

森陰五十鈴

由来

 薄汚れたガラス戸を引いて古びた校舎から外に出ると、途端に膜がかっていた喧騒が飛び込んできた。向かいに銀杏いちょうの木が植えられた道は、普段では見られないほどに人の往来が多い。それもそのはずで、今日は大学の学園祭。あらゆる研究室やサークルが屋台を作り、各々食べ物を販売している。往来の人たちは、そんな食べ物を目当てに集まった人たちだ。

 黄色の並木の通りを下りた先の広場では、簡素な舞台が造られていて、そこで有志がギターを鳴らしている。歌を拾うマイクの音質はあまり良くなく、くぐもった歌声が構内に響き渡っていた。


 私はタイルの割れた階段を下り、人の流れの中に入った。手にした冊子を落とさないようにしっかりと胸に抱きかかえる。人にぶつからないよう小幅で歩きながら、ゆっくりと流れを泳いでいく。途中美味しそうなうどんの出汁の匂いが漂ってきたが、振り払う。今は、この腕の中の冊子を届けるのが先だ。

 多くの人が下の広場に向かう中、私は人混みを掻き分けて道を真っ直ぐに進んでいった。流れが緩やかになり、人通りがまばらになると、ほっと息を吐く。それから築三十年にはなるだろう灰色の校舎の横を通り抜け、東門から敷地の外に出た。


 門の外を出ただけで、祭りの喧騒が遠ざかった気がした。歩く人など全く見えない住宅街の通りを、下っていく。他人にわずらわされない自分の歩幅で歩くことができる。それがどれほど楽なことか。


 ほどなくして、木でできた門が見えてきた。そこは小さなお寺で、私の目的地。白木の門をくぐると、砂利を踏み鳴らして敷地の奥へ。お堂の脇を右側に抜け、赤々とした細い紅葉の木の前に立ち止まると、辺りを見回した。

 ……いない。

 首を傾げながら、なんとなくその先の墓地を覗き込んでみる。

 ――いた。

 檀家の墓が均等に置かれた通路の奥、一際古びた墓があった。一般的な御影石とは違い、そこらの岩を切り出したような素っ気ない墓。花も生けられていないそこに、青年が座り込んでいた。白いシャツ姿。墓にもたれ、階段に足を投げ出して、あらぬほうを見つめている。


「先輩!」


 目的の人物を見つけ、私は声を張り上げた。少しだけ小走りになって、その人物の下へ行く。


「鈴ちゃん、どうしたの?」


 先輩は呆けた様子で私を見上げた。


「どうしたの、じゃないですよ。私、待ってたんですよ?」


 そうして抱えていた冊子を差し出せば、先輩は白いシャツの腕を持ち上げて受け取った。


「そうか。学園祭、今日だったね」

「……です」


 渡した冊子は、私が所属している大学の文芸部の発行した文芸誌だ。毎年学園祭のときに、ちょっとした価格で文芸誌を配布している。私はさっきまで売り子の当番だったのだが、その間に待てども待てどもこの先輩がやってこなかったから、こうして自ら渡しに来たというわけだ。


「お手数をかけたね。ありがとう」


 先輩はパラパラと文芸誌をめくった。白いページに黒い文字が踊る。部員の数は十三。だから十三に及ぶ短編が、その冊子には綴じられている。その中には、もちろん私の短編も。


「今回は、お題が〝紅葉〟っていうこともあって、雰囲気が統一されているんですよ。ファンタジー、恋愛、歴史もの……ジャンルはいろいろなんですけれど、みんな和風ものばかり書いていて」


 非常にまとまった文集になったのではないか、と部員全員が自負していた。


「鈴ちゃんのは? どうだったの?」


 恥ずかしいことに、先輩は私の作品の評価を訊いてきた。


「まあ、部員のみんなからの評判は良かったですよ。怪しい雰囲気が素敵だね、って言ってくれた人もいて」


 そうか、と先輩は嬉しそうに小さく笑った。


「モデルになった甲斐があるというものかな」


 そう、今回私が書いた物語は、目の前の先輩をモデルにしたものだった。紅葉から生まれたという、人ならざる存在であるこのヒトを。


「あとでゆっくり読ませてもらうよ」


 そう言って先輩は、綿のズボンの膝の上に文芸誌を置いた。

 このヒトは私の作品をどう評価するのか。胸の動悸を覚えながらも、私には一つ気に懸かることがあった。


「ところで先輩。いくらなんでも他人のお墓に、そんな風に座るのはどうかと思うんですが。


 先輩は墓の前に足を投げ出して、まるでソファーか何かのようにくつろいで座っている。墓場で寛ぐというのもどうかとは思うが、その感性についてはこのヒトが人間ではないから良しとしておいて、それでも不敬なことには変わりないのでは、と私は思う。


「誰も僕のことは気にしないよ」


 それは、多くの人が視えるわけではないので、そうかもしれないが。


「それに、他人のお墓というわけでもないんだよ。ここは、僕の〝母〟が眠っている墓だからね」


 私は先輩の背後の墓石を見た。そこには何も刻まれていない。ただ石が墓の形で置かれているだけのようにしか見えなかった。

 が、そもそもそんなことは関係ない。このヒトは、人間ではないのだ。紅葉から生まれた。〝母親〟などいるはずもない。

 先輩は、私の疑問を瞬時に読み取って、くつくつと笑った。


「僕が生まれたきっかけについては、もちろん知っているね?」

「確か、このお寺の墓地の入口にあるあの紅葉で、人が首をくくったのが原因だ、と……」

「その首を括った人が〝母〟なのさ。もちろんきっかけってだけで、はらから産まれてきたわけじゃないから、便宜上そう呼んでいるに過ぎないけどね」


 なるほど、そういうことだったのか。納得する。

 そうなると、今度は好奇心が湧き上がってくるわけで。


「どういう人だったんですか?」


 と、私は疑問を口にするのだった。


「さてね。知らないよ。僕は彼女が死んでから生まれたわけだから」


 そうだったか、と私は赤面する。神通力のようなもので分かったりするのではないか、と思ったが、違ったか。


「でも、死んでからのことは覚えてる」


 私は身を乗り出した。……いささか、不謹慎だとも思いながら。

 先輩は、私の興味を感じ取って、話す気になったらしい。墓に寄り掛かるような体勢を正した。私は、そんな先輩の前にしゃがみ込む。


「この墓はね、無縁仏が合祀されているんだ」

「無縁仏……じゃあ?」

「彼女の身元は不明だよ」


 先輩が生まれた朝。首吊りに気付いた寺の住職は、慌てて警察を呼んだ。ご遺体は警察によって降ろされ、一旦は警察署に運ばれたが、ほどなくして寺に戻されたらしい。


「身元を示すものが何もなかったらしい。親族、友人……縁者を見つけることができないまま、腐敗する前に弔いに出されることになったんだ」


 そうして彼女は火葬され、骨を砕かれてこの墓の下に埋葬された。


「胎の中の、小さな命と一緒にね」


 雷が落ちたような衝撃を受けた。その女性は、妊娠していたのだ。


「子どもがいるのに……どうして」


 首を括ったということは、自ら死を選んだということだろう。それだけでも信じられないのに、新しい命を宿していながら選んだ道が、私には理解できなかった。

 先輩が私の疑問に答えることはなかった。彼は〝母〟の死後のことしか知らないからだ。


「いろいろな理由が考えられるけれど……妊娠中に心が病むことは、珍しいことではないみたいだよ」


 墓石を振り返り、ただそれだけを付け加える。

 私は、その女性のことを思った。どんな人生を送ったのか、何が彼女に決断をさせたのか、想像すらできはしない。ただ、この小さな寺の墓地の片隅で忘れ去られてしまうのが、とても哀れで居た堪れなくなった。

 墓に手を合わせる。そして女性と、生まれてこれなかった命の冥福を祈った。


「……帰ります」


 立ち上がる。先輩は頷き、手を振った。


「またね」


 私は踵を返す。帰り道に綺麗な御影石の脇を通り、あの素っ気ない墓を思って嘆息した。

 入口の、先輩が生まれた紅葉の前で、振り返る。先輩はまた寛いだ格好に戻り、私たちの文芸誌を広げていた。

 その姿に、ふと疑問がよぎる。彼は何故、〝母〟の墓の前にいるのだろうか。

 尋ねてみたい気もしたが、なんだか野暮なようにも感じられて、私は寺の外に出た。


 大学に戻る坂を上る私の足は、重かった。やはり考えてしまうのだ。女性のことを。子どものことを。先輩のことを。

 そして、文筆家としての使命感が、私の胸の奥で燃えていた。


 紅葉から生まれた妖者あやかしもの。その起源。

 死してなおこの世の苦しみに繋ぎ止められた、〝母〟の話。


 書こう、と思った。肉付けは私の虚妄となるが、彼女を形にしたかった。そうすることが私なりの供養であると思ったし、せめて物語の中で救ってあげたいと思った。

 救われる話にしようと思った。

 今すぐ書きたい気持ちに囚われるが、大学に戻らなければならなかった。学園祭の喧騒の中に戻るのは億劫だったが、当番を終えたとはいえ、部の仲間には、少し抜ける、としか伝えていないのだ。このまま行方不明になるわけにはいかない。

 大学の校門が見えてくると、それに伴い誰かの演奏も聴こえてきた。ロックンロール。学園祭はまだまだ盛り上がっている。

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