君には隠し事ができない

天柳李海

君には隠し事ができない

「忘れ物か。今頃、海軍省で困っているでしょうね」


 エルシーア海軍所属、ロワールハイネス号の副長ジャーヴィスは、書類入れを机上からつまみあげ、切れ長の目を細めながら視線を虚空に彷徨わせた。


 任務を終え帰港した船は、三日以内に航海日誌と諸々の書類を海軍省へ提出しなければならないきまりだ。適切な航海が行われたか、専門の機関で監査を受けるためだ。


 三才年下の上官――艦長のシャイン・グラヴェールが忘れた書類は、ロワールハイネス号の船籍登録書だった。船の戸籍とも言える大切な書類なのだが、ジャーヴィスはそれを咎める気はなかった。


 ロワールハイネス号は大きな試練を伴った航海を終えて、昨日アスラトルに帰港したばかり。シャイン自身も右手首を折る負傷を抱え、港に着く前日まで高い熱を出して寝台に臥せっていた。幸い熱も下がり回復期に入ったのだが、まだ万全の体調とはいえない。本当なら仕事など後回しにして、彼には休養が必要なのだ。


「一緒に点検すべきでしたね。まあ、あの人の性分はわかっていますが」


 ジャーヴィスは書類入れを持ったまま、今から一時間前のことを思い返した。

 時を告げる船鐘が鳴り終わった16時。シャインがジャーヴィスに黙って船を降り、出かけたのは知っている。


 ただ気になったのは、甲板で見かけた彼が、普段着ているケープがついた青い航海服ではなく純白の正装姿だったことだ。これは将官以上の高位者と会うつもりであるということが推測できる。

 帰港報告だけならわざわざ正装する必要もない。海軍省の専門の窓口へ、書類を一式提出するだけでよいのだから。


 ジャーヴィスは書類入れを小脇に抱えた。『船籍登録書』は航海日誌の次に大切な書類である。部下として、艦長が忘れた重要書類を届けるのは当然の義務だろう。 

 取りあえず彼の所へ行くはできた。

 ジャーヴィスは急いで艦長室を後にした。



 ◇



 ジャーヴィスはロワールハイネス号の舷門げんもんから突堤へと降り立った。

 日は傾きつつあり、赤味を帯びた光が周囲を照らしている。

 その光の中で赤い飾り布を髪に巻いた、十七、八才ぐらいの少女が立っていた。

 緩く巻かれた栗色の髪が肩に流れ、少女のあどけなさを残しつつも、それが女性としての艶っぽさを醸し出していた。


「あの。すみません」

「何かご用ですか?」


 ジャーヴィスは戸惑いながら少女に訊ねた。

 ここは軍港である。少女はどうみても一般人だった。


「私、フェメリア通りにある花屋『緑の籠』のアルメと申します。あの、グラヴェール艦長さまは船にいらっしゃいますか?」


 ジャーヴィスは眉間をしかめ首を振った。


「今は不在だ。私もこれから艦長の所へ行くので、伝言なら承るが?」


 アルメは一瞬顔を曇らせたが、黒いスカートのポケットに手を入れ、白い封筒をそこから取り出した。


「それではこちらをグラヴェール艦長さまにお渡しして頂けますでしょうか。花を納品したら船にお届けするようにと承っていましたので」

「確かに」

「では、私はこれで失礼いたします」


 アルメはジャーヴィスに会釈して、足早に突堤を歩いていった。

 その先には一台の小型の馬車が止まっていた。アルメはそれに乗り、エルドロイン河沿いの道を北に街へ向かって走っていった。

 ジャーヴィスは白い封筒を持ったまま首を捻った。


「花か。まあ、あの人は変わってるからな」


 ジャーヴィスは封筒をなくさないように、書類入れの中にそれをはさんだ。


「さて、急がないと」


 ジャーヴィスは足早に海軍省へと向かった。




 ◇◇◇



「えっ。それは本当ですか?」

「はい。グラヴェール艦長ですが、今日はこちらに来られてはいませんよ」


 海軍省の総務部に向かったジャーヴィスは、書類入れを持ったまま窓口で絶句した。


「今から一時間前に船を降りたのですが……本当に艦長は来てないんですか?」


 二十代後半の若い窓口の女性は肩をそびやかし、残念そうに目を伏せた。


「私だってお会いできるならお会いしたかったですわよ。受付時間ももう終わりだから、今日お越しになっても書類を受理できません……ああ、悔しい」


 ジャーヴィスは唇を噛みしめながら唸った。

 脳裏を白い正装を纏ったシャインの姿が浮かんだ。

 きっと彼は将官の誰かと面会していて、まだ話が終わっていないのだろう。


「あの……ジャーヴィス中尉でしたっけ?」


 女性は金縁の眼鏡に手を添えて、じっとジャーヴィスの顔を見ていた。


「ああ。そうだが」


 窓口の女性は周囲を見回し、声を潜めた。

 怪訝な表情を浮かべ、ジャーヴィスを手招きする。


「グラヴェール艦長のあの、本当ですの?」

「噂?」


 ジャーヴィスは首を傾げながら聞き返した。


「えっ、ご存知ないんですか?」

「どういうことかわからないんだが」


 窓口の女性は囁き声で呟いた。


「先月、海軍のファスガード号とエルガード号が海賊に襲われて、双方沈んだ事は知ってます?」

「それは勿論」

「船が沈んだのは海賊のせいじゃないんです」

「……!」


 ジャーヴィスは顔を強ばらせた。


「なんでも、艦隊司令官のラフェール提督や、ファスガード号のルウム艦長が亡くなった後、指揮を執っていたのは、あのお若いグラヴェール艦長だったそうじゃないですか」


 ジャーヴィスは呆れたように呟いた。


「当然だ。提督とルウム艦長は最初の砲撃で亡くなられた。居合わせたグラヴェール艦長は、ファスガード号副長のイストリア大尉より上位の少佐だ。指揮を引き継ぐのは何もおかしいことではない」


「で、でも。イストリア大尉はこんなことを言ってるそうですよ? グラヴェール艦長は提督の剣を奪い、ファスガード号の指揮権を無理矢理自分のものにしたんだと。イストリア大尉はグラヴェール艦長に脅されて、仕方なく彼の命令に従ったんだって……」


「――違う!」


 ジャーヴィスは我知らず大声を張り上げていた。


「う、うわっ! 中尉、お願いだから叫ばないで下さいっ。これはあくまでも『噂』で……」


 窓口の女性は顔を青白くさせながら、周囲の様子を伺った。

 ジャーヴィスはいらいらと女性を睨みつけた。


「噂だって? あなたはやけに詳しいな? 何故そんな話を知っている? ファスガード号の乗組員には箝口令かんこうれいが発せられていて、その件に関して口外するのは禁止されてるんだぞ!」

「そ、それは……その」


 女性はジャーヴィスの今にも怒りだしそうな剣幕に唇を震わせながら、そっと金縁の眼鏡に手をやった。


「私の恋人が、ファスガード号に砲撃されたエルガード号に乗ってたんです。でも、彼。帰って来なかった。船と一緒に沈んじゃったんです」


 女性は潤んできた瞳を伏せジャーヴィスから顔を背けた。


「私、参謀部の知り合いに頼んで、エルガード号が何故沈んだのか調べてもらったの。だって本当のことが知りたかったから! でないと私、どうしても納得できなかったから! 彼が帰って来ないなんて今でも信じられないから!」


 ジャーヴィスは黙ったまま女性を見つめていた。

 彼女の気持ちはわからなくもない。突然恋人の死を告げられ、遺体も戻らないというのに、その事実だけをいきなり受け入れろというのは残酷で無理というもの。


「あなたの気持ちはわかった。だがこの件に関してはまだ調査が始まったばかりだ。だから人前で話さない方があなたのためだぞ」


 女性は顔を上げた。白い頬に涙の筋が細くついていた。


「あなたもグラヴェール艦長を庇うのね? 部下らしく。参謀部はエルガード号が沈んだのは海賊のせいだなんて言ってるけどそれは嘘。グラヴェール艦長がエルガード号に残っている生存者を確認せず、砲撃を命じたのはファスガード号の士官達がみんな証言しているのよ? それなのに参謀部はその事実を認めない。いえ、事実を隠したがっているわけはわかってるわ。グラヴェール艦長はあの参謀司令の息子だから……」

「やめないか」


 ジャーヴィスは腹の底から低く唸る声で呟いた。

 女性はジャーヴィスの剣幕にひるむことなく眼鏡の奥の瞳を細めた。


「私が嘘をついているというのですか?」


「そうじゃない。だがあの時私もファスガード号に乗っていて負傷した身だから、これだけは言っておく」


 女性はきっと唇を噛みしめたままジャーヴィスを見上げた。

 その目は何が一体真実なのか、戸惑い途方に暮れる幼い少女のようであった。


「あの方がいなかったら、ファスガード号の人間も救われなかっただろう。指揮官を失った艦ほど悲惨なものはないんだ。命令系統は伝わらず、水兵達は右往左往するばかり。そしてエルガード号の生存者だと? 彼等はファスガード号が沈没するだけの砲撃をしてきたんだ。先にな。グラヴェール艦長は海賊に船を奪われないために沈める決断をしたんだ。悪いが、私には彼等が味方だったとは思えない」


 女性は無言で席を立った。

 そしてジャーヴィスに向かって首を振った。


「私の恋人は海賊じゃなかった。ひょっとしたら、海賊にすでに殺されていたかもしれないけれど……理由がどうであれ、グラヴェール艦長が味方の船を砲撃した事実は消えない」


 ジャーヴィスは言い返さずその場に立ち尽くしていた。

 女性の言う事は確かに無視できない部分があるからだ。


「黙ってるけど、あなたは彼を信じているのね」


 俯いた女性は再び金縁の眼鏡に手をやり、力なく微笑んだ。


「もう一言だけ言わせてくれ。私が彼と同じ立場であったなら、私もきっと――」

「じゃ今日はもう終わりですから、お引き取り下さい」


 女性はジャーヴィスの言葉を最後まで聞かず、窓口に灰色のカーテンを引いて姿を消した。


「おい……!」


 ジャーヴィスは暫しカーテンが引かれた窓口の前に立っていた。

 意外な場所で意外な話を聞かされただけに、頭の中が少しこんがらがっている。

 けれどいつまでもここにいたって仕方ない。

 窓口の女性はいなくなってしまったし、受付時間も終了した。シャインが今日ここへ来ることはないだろう。


 ジャーヴィスは額に手をやり小さく溜息をつくと、書類を抱えたまま部屋から外に出た。海軍省へ来たのは余計なことだったようだ。

 そう。余計な事だった。

 虚しさを抱えつつ、再び船に戻ろうと思った時、抱えていた書類入れから白い封筒が滑り落ちた。花屋の娘に言付かったあの封筒である。


「おっと、いけない」


 ジャーヴィスはそれを拾い上げた。だが封筒から一枚の紙がひらりと宙を舞い絨毯の上に落ちた。封がしてあったわけではなかったらしい。再び手を伸ばして紙切れを拾った。それは二つに折り曲げられていたが、ジャーヴィスは無意識のうちに折り曲げられていた紙を広げていた。


「ふむ。思った通り、花代の請求書のようだな。って……えっ?」


 ジャーヴィスは一瞬、紙に書かれた数字の桁を目で追った。


「20万5千リュール……だと?」


 ジャーヴィスは手紙を持ったままそれを睨み付けた。

 花も高額な商品があるのだろうが、贈答用であってもせいぜい1万リュールぐらいが相場である。

 ジャーヴィスは腑に落ちないまま、花屋の請求書を封筒の中に収めた。

 気になる事があった。




 ◇◇◇



 海軍省を出てジャーヴィスは辻馬車を拾い、フェメリア通りの『緑の籠』の前で降りた。見覚えのある少女が、店の軒先に並べられた切り花の世話をしている。


「いらっしゃいませ……あ、貴方さまは」


 少女アルメはジャーヴィスに気づきにっこりと微笑んだ。


「先程は失礼いたしました。あの、何か?」


「すまない。艦長は私に行き先を告げず船を降りてしまってね。それで私も彼を探しているのだ。ひょっとしたら、花の届け先に行っているかもしれない。支障がなければ教えてもらえないだろうか」


「ええと……中央の『大聖堂』です。15時に花を届けるように承っておりました」

「そうか。あ、ちなみに艦長はどんな花を注文したのだろう。いや、花代が高額だったので気になってね」


 一瞬アルメの表情に影がよぎった。


「……黒百合です」



 ジャーヴィスはアルメに礼を述べて花屋を後にした。

 そしてすっかり日が暮れたアスラトルの街を、大通りに沿って北に歩いて行った。

 ――かなり早足で。

 街の中心にそびえる『大聖堂』には十分ほどでたどりついた。すでに時は18時をすぎていた。太陽を司るアルヴィーズ神を祀る『大聖堂』故、日が沈むと参拝客の姿はいなくなる。


 ジャーヴィスは金箔が張り付けられた鉄の門扉をくぐり、聖堂の入口へと近付いた。扉は大きな青銅製で、女性の姿をした太陽神が剣を握り、地下の亡者達の王・ミディールと戦う様が見事なレリーフとして刻まれている。

 すべてを見通す光を持つアルヴィーズは正義の象徴でもある。


 ジャーヴィスは自然と背筋を伸ばし、息を整えて青銅の扉を開けた。白い石で組まれた聖堂は、街中の住人が参拝に来る場でもあるのでとても広い。優に数百名が収容できる。

 年代を感じさせる木の長椅子が行く列も並び、前方のちょうど丸天井の真下に当たる所が広場のような円形となっている。天井からぶら下げられた無数の金の燭台は、赤々と蝋燭の火が灯されていた。


 ジャーヴィスは夕方に聖堂を訪れたことがなかったので、昼間とはまた違う光と影の織りなす荘厳な空気にただ溜息を漏らした。

 けれど聖堂は確かに普段とは違っていたのだ。

 聖堂には神々の姿を模した彫像は置かれていない。太陽神は薔薇窓から差し込む光こそが御神体とされているので、そこが一番神聖な場所であった。

 けれど今は、その場所を囲むようにして、まるで黒い闇のような塊がいくつも置かれていた。


 いや。違う。

 蝋燭の明かりに目が慣れると、それはたくさんの黒百合で囲まれているのがわかった。同時にジャーヴィスは息を詰めた。

 黒百合と蝋燭は死者を悼むために捧げられる供物だ。

 その――


 およそ二百はあるおびただしい数の黒百合のそばで、誰かが両膝をついて祈りを捧げていた。淡い金髪を首の後ろで三つ編みにした、純白の海軍の正装姿の青年。

 黒百合の作り出す影の中で、その白はなんだかとても痛々しく見えた。


 ジャーヴィスは静かに前方へ足を進めた。

 『彼』がいつ気付いて後ろを振り返るか。

 けれどそんな事はどうでもいい。とりあえず所在が掴めて良かった。


 安堵しながらもジャーヴィスは無言でシャインの半歩後方で片膝をついた。

 揺れる蝋燭の仄かな明かりのせいか、ちらりと見えたシャインの横顔は纏う海軍の正装と同じように色を失い、目蓋は閉ざされ口は固く結ばれている。


 本来胸の前で組まれるべき両手は、白い手袋をはめた左手のみが一輪の黒百合を握りしめてその位置にあった。右手は手首の負傷のせいで動かす事ができないからだ。


 ジャーヴィスは意を決して口を開くことにした。

 シャインの祈りを邪魔する気はない。ただ、全てを背負い込もうとする彼の姿を見続けるのが忍びなかっただけだ。

 けれど口を開く前に、シャインが静かに目蓋を開けた。蝋燭の揺れる明かりの中で、みるみるその表情が強ばっていく。


「ジャーヴィス」


 喉の奥から無理矢理絞り出した掠れ声。余程驚いたのか、胸の前に添えられていた左手から黒百合の花がはらりと落ちた。同時にシャインは顔を俯かせ、前に傾いだ体を支えるために左手を大理石の床に置いた。


「艦長」


 ジャーヴィスは咄嗟に彼の肩に手をかけた。


「……離してくれ」

「しかし」

「大丈夫だから」


 シャインの声はジャーヴィスを突き放すように鋭かった。

 ジャーヴィスは乾いてきた唇を噛みしめた。

 そしてゆっくりとシャインの肩から手を離した。


『これは……あなたのせいじゃない』


 唇の先まで出かかったその言葉を、ジャーヴィスは無理矢理喉の奥へ飲み込んだ。

 今のシャインにとって擁護の言葉などどれほど虚しく響くことか。

 自らの意志で、こうなる結果を選んだ彼には。


 あの夜。ファスガード号の指揮を委任され、海軍の僚船を沈める選択をたった一人でなさねばならなかったのだ。

 生きる者と死ぬ者を彼が『選択』した。

 焼けた剣で心臓を抉られるよりも辛い事だろう。

 彼に必要なのは慰めの言葉ではない。


「私も、一緒に赦しを乞わせて下さい。失った命と失わせた命のために」


 シャインの今は昏い光を宿す青緑の瞳が大きく見開かれた。


「赦しだって? ……俺は、俺はそんなことをここで乞う資格などない」


 シャインは疲れたように小さく頭を振った。


「そんなことを乞うために、ここにいるんじゃないんだよ」


 ジャーヴィスは何も言えなかった。

 シャインの背負ったものが不意に見えたからである。それは供えられているおびただしい黒百合の花の数が物語っていた。


 物言わぬ黒百合は死者の魂と同じである。

 自ら失わせた命を前にして、シャインはただ祈り続ける。

 赦しではなく、その魂の平安を祈る。

 常夜の闇に迷わず、慈悲の光に導かれ、再び輪廻の輪に戻り、愛しい人達のそばに還る事だけを願い、祈る。 


 ジャーヴィスは静かに立ち上がった。

 悔しいがここで自分ができることは何もない。


「お邪魔してすみませんでした」


 シャインは無言で顔を伏せたままだった。だが蝋燭の光を受けて鈍く輝く淡い金髪が僅かに揺れた。頷くように。


「必ず船にお戻り下さい。お待ちしていますから」


 それだけを静かに告げて、ジャーヴィスはシャインから離れた。

 『あなたには帰る場所がある』

 それを思い出して欲しかったから。


 ジャーヴィスは聖堂の出入口の扉まで近付き振り返った。

 覆い被さるような黒百合の花の影で、白い正装姿のシャインは、まるで闇を照らす唯一の灯火のようだった。

 さながら迷える魂を導く光のように。



 ◇◇◇



(シャインside)


 シャインはふと目を開けた。

 周囲は押し寄せるような圧迫感を伴った闇が、壁のように取り巻いている。

 シャインは咄嗟に何度も瞬きした。

 自分が本当に目を開いているのかどうかわからなかったからだ。

 だが気を鎮めて、再度はっきりと目を見開いた。

 そこはすっかり日が暮れて薄暗くなった『大聖堂』の中で、闇だと思ったのは、およそ二百はあるおびただしい数の黒百合の花だった。


 シャインは両膝をついたまま、しばし黒百合の花を見つめていた。

 けれど花は何も答えず沈黙を守るのみ――。

 物言わぬ死者と同じように。


 シャインは再び頭を垂れた。

 赦しを乞うつもりではなく。

 今はただ、犠牲となった人々の魂の安息しか祈れない。

 けれどその祈りすら、まともに口にすることができなかった。

 自分にはその行為すらおこがましく思えたのだ。

 多くの人達を海に沈めた自分が、彼等の安息を祈る、だなんて。


「グラヴェール艦長」


 背後で柔らかな声が呼びかけてきた。

 シャインは左手を床について体の安定をとりながら振り返った。

 そこには緋色の長衣を纏った総髪の神官が立っていた。

 大聖堂を管理している年輩の神官長だ。

 神官長は肩掛けの緋衣を手で押さえながら、シャインが膝をついている聖堂内で最も神聖な場所へしずしずと歩いてきた。


「長い間祈られていましたが、お心は鎮まりましたか」


 シャインは口元をひきしめ、首を小さく横に振った。

 生きている限り、心が鎮まることなどない。

 贖罪の日々はこれからずっと続いていくのだ。


「いえ……けれど献花をさせて頂き、ありがとうございました」


 シャインはゆっくりと立ち上がり、白い髪を滝のように背に流した神官長に一礼した。膝に走った鈍い痛みだけがこの場にいた時間の長さを思い出させた。



 ◇



 聖堂で献花をすれば、気持ちの整理がつくと思われた。

 けれどそれは反対に、自分の犯した罪の大きさを再認識することになった。

 死者の数だけ供えられるおびただしい数の黒百合。

 それは沈黙を守ったままじっとシャインを見つめていた。


「……」


 聖堂を出たシャインはふらりと近くに立っている街灯へ左手を伸ばした。

 いつしか額には冷たい汗が浮き、どきどきと鼓動が早くなっている。

 沈黙がこれほど恐ろしいとは思わなかった。

 まだ罵倒されたり殴られた方がいい。

 そうやって心の痛みをぶつけてくれるほうがいい。

 『沈黙』は肯定も否定もしない。

 シャインの祈りも届いているのかいないのかわからない。

 シャインは街灯に寄りかかったまま目を閉じた。

 この罪を抱えて、自分は生きていけるのだろうか。

 

『今日は必ず船にお戻り下さい。お待ちしていますから』


「ジャーヴィス?」


 シャインは目を開き、街灯が石畳の上に丸く落とす明かりを凝視した。

 通りに人影は見当たらなかったが、シャインはふと思い出した。

 ジャーヴィスが聖堂に来た事を。


 『何故だ。何故、君はあそこに来た?』


 どうしてだかわからないが、ジャーヴィスには知られたくない事に限ってばれてしまう。大聖堂での献花の件も一切話していないのに、彼は今宵現れた。

 まるでシャインを探していたかのように。


「……本当に、どうしてだろうね?」


 唇を歪ませ、シャインは引きつった笑みを浮かべた。

 しかも聖堂に現れたジャーヴィスは、いつもの高飛車な彼らしくなかった。

『今日は必ず船にお戻り下さい。お待ちしていますから』だなんて。


「ひどいな。まるで俺が一晩中、聖堂に籠るとでも思ったのかな」


 急に笑いが込み上げてきて、シャインは左手で脇腹を押さえた。

 そうしなければ大声を上げて、笑い出してしまいそうになったからだ。

 ひとしきり息を詰めて笑いを殺し、シャインは街灯から離れ、ふらりとよろめきながら歩き始めた。


 戻れと言われたら、戻るもんかと思うのが天の邪鬼の心理だ。

 けれど酒が飲めないシャインは、気を紛らわせるために盛り場には行けない。第一、白い海軍の正装姿でそんな店には入れない。

 かといって、一晩中街を歩き回るのも無意味だ。

 明日こそは海軍省に赴いて、ロワールハイネス号の帰港報告のための書類を出しに行かなくてはならない。結局シャインは船へ戻る事にした。



 ◇◇◇



 軍港の突堤に係留されているロワールハイネス号には、現在シャインとジャーヴィスの二人しか乗っていない。水兵達には下船命令が出ていた。シャイン達が船に残っているのは、単に書類仕事や、船の設備に異常がないか確認する作業があるためで、それも大方終わっていた。


 シャインがロワールハイネス号に戻ったのは午後9時頃だ。

 待っていると宣言した通り、ジャーヴィスは船にいるようだ。

 船の中間部分には舷門げんもんと呼ばれる出入口がある。

 ここは扉のように開閉できて、ここから突堤まで木の渡り板が渡してある。

 部外者など勝手に乗船しないように、普段木の渡り板は船内に引き込まれているが、今夜はまるでシャインの帰りを待っているかのように、それは設置されていた。


 予想では部屋でジャーヴィスが待っているのではないかと思っていた。

 だが艦長室には執務机の上に置かれたランプに灯がつけられているだけだった。

 ジャーヴィスの姿はない。


「……」


 拍子抜けしたシャインは、首に巻いた白い飾り襟を外した。

 落ち着ける場所に戻ってきて安心したせいか、急に息苦しさを感じたのだ。

 ついでにこの堅苦しい正装も脱いでしまおう。

 そう思った時、部屋の扉を叩く音がした。


「ジャーヴィスかい?」

「……はい」

「入ってくれ」

「失礼します」


 艦長室の扉が開いた時、林檎の香りを思わせるシルヴァンティーのそれが流れてきた。シャインは机の側で立ったまま、ジャーヴィスが茶の入った白いカップを応接机に置くのを見た。


 余談だが、応接机の右隣にある長椅子はいつもクッションが置かれていて、シャインの寝台代わりになっている。ジャーヴィスはそちら側にカップを置いた。

 白い湯気をあげるシルヴァンティーは作り置きではない。爽やかな林檎を思わせる香りが漂っているので淹れ立てだとわかる。

 同時に、ジャーヴィスの姿が部屋になかった理由もわかった。

 シャインはお気に入りの長椅子へ腰を下ろした。


「淹れ立てをありがとう。でも俺が帰って来るタイミングがよくわかったね?」


 ジャーヴィスの強ばった顔が一瞬弛んだ。

 どことなく緊張していたようにも思えるその面は、シャインがカップに口をつけると安堵したように穏やかなものへと変わった。

 ジャーヴィスははにかんだように目を伏せた。


「突堤を歩いて来られる姿を見ましたので。それから湯を湧かせば、部屋に戻られる頃に淹れ立てをお持ちできますから」


 シャインはカップを机に置いた。


「心配かけて、すまなかった」

「えっ」


 狼狽したジャーヴィスを見上げて、シャインは薄く笑った。

 そう。

 自分は思っている以上に、多くの人から支えられて生きているのだ。

 生かされているのだ。

 それを忘れてはならない。どんな時も。


「ねえジャーヴィス副長。不思議に思ってたんだけど、どうして俺は君に隠し事ができないんだろう? 今夜だって君が大聖堂に現れた時、思わず息が止まる程驚いたんだよ?」


 シャインがそう訊ねると、ジャーヴィスは冴え冴えとした青い瞳に鋭利な光を灯らせて、不敵ともとれる笑みを顔に浮かべた。


「当然じゃないですか。『あなた』の副官は『わたし』なんですから。今更、寝ぼけた事を仰らないで下さい。グラヴェール艦長」

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