くるくる

湖ノ上茶屋(コノウエサヤ)

第1話


 風がほんのりと冷たくなった。夏の背中が、少しずつ遠くなっていく。その時は、どんどんと近づいてくる。時計の針は、止まらない。


 いつものように「おはよう」と言い合い、席に着く。だいたい「今日は帰る頃に雨が降るんだってね」なんて、たいして仲良くない人との雑談と変わらない会話から始まる。天気の話題は鉄板だ。同じ地域で生きるものたちの会話においては。

「それじゃ、今日もよろしく」

「うぃっす」

 あなたはパソコンに向き合うと、ひたすら無口になる。共有すべきことや、確認すべきことが生まれるまで、画面とじっと、睨めっこをしてる。

 そんなあなたには、どこか近寄りがたい。

 いつもゾーンに入っているように見えて、声をかけるのは憚られるのだ。

 私が、あなたがどんな状況であれ気負わず声をかけられるようになったのは、夏の初めのことだった。

 後悔したくなくて、雨に濡れて重たくなった靴で地面を強く蹴り走るように、力と、勇気を込めた。

「なーに?」

 あなたの返事は、どこか間が抜けていた。周囲からすればバリアのようなゾーンだけれど、あなたにとってはレジャーシートだったみたい。

 シートの上で、作業をして。誰かがやってきたのなら、ちょっとおやつをつまむくらいの心の余裕があった。

 あなたは、そこで、誰かを待っていた。

 私があなたのシートにそっと腰を下ろしたことを、あなたは喜んでくれた。

 私が話しかけている時に、割り込んでくる人がいた。それは、今なら話しかけられるかも、という希望的観測によるものだった。

 私は、誰かが割り込んできたら、譲った。

 私には、いつでもあなたに声をかけられるという、心の鍵があったから。


 夏は、暑いし、休みがあるから、嫌い。

 お盆のあたりで、強制的に1週間も休ませられるのだ。

 私にはたくさんの休日が必要だった。けれど、休みになると、あなたに会えないから嫌だった。


 どこかにいくでもなく、ダンボールに捨てられないものを詰め始めた。

 そんな話をすると、「早くない?」って聞かれてしまうけれど、追い込みが苦手だからと夏休みの宿題をコツコツと進めるような人間だ。このくらいから始めないと、間に合わないだろうし、心の余裕が削がれてしまう。


 しかし、1週間の全てをダンボールと過ごす気は、さらさらなかった。

 友人がやっているクレープ屋に顔を出す。いつもはチョコレートソースを選ぶけれど、この時はキャラメルソースにした。

「ヤバ、ウマ」

 私は、キャラメルソースのクレープが美味しいことを知り、これからはもう、食べないと決めた。

 店員に顔を覚えてもらえるほどに、通い詰めたカフェに行った。なんてことないアイスコーヒーを、ブラックで飲む。

 香りと味を楽しみながら、これから、心が揺らぎそうな時は、同じものを飲もうと決めた。

 あなたとばったりと出会えないかと期待して、あなたがよく行く街へ、用もなく行った。

 ひまわりを見つけて、写真を撮った。

 あちらこちらを、撮って回った。

 観光客か何かのように、カシャカシャと。

 私の目にも、カメラの目にも、あなたの姿はない。




 いつものように「おはよう」と言い合い、席に着く。「昨日のゲリラ豪雨ヤバかったね」と、なんてことないことを話す。

「それじゃ、今日もよろしく」

「うぃっす」

 休みの間のいろいろな出来事を、ほんの少し、話したかった。タイミングを逃してしまった。けれど、大丈夫。確かにこの手の中に、透明な、見えない鍵があるから。

「ねぇ、休みの間、どこか行ったりした?」

 私はゾーンになんて入れないし、バリアなんてはれなかった。面倒なことを押し付けられるくらいに、ガードが緩かった。

 それでも、作業の合間にあなたが話しかけてくれることは、そうない。

 だから私は、あなたと休みの話ができるのが、すごく、嬉しかった。


「友だちのところでクレープ食べた」

「ああ、何か前に話してたところ?」

「そうそう」

「イチゴチョコでしょ? いや、チョコカスタードかなぁ」

「バナナキャラメル」

「マジで? キャラメル?」

 あなたは、宝物を見つけたかのように、眩しい顔をした。

 私は、その顔を心のシャッターで切り取った。

「どうだった?」

「美味しかった。でも、もう食べない」

「なんで?」

「ないしょ」

 あはは、と笑うと、周囲の探るような視線。

 あなたが屈託なく笑う顔は、そう見られないから。きっとみんな、びっくりしたんだと思う。


 日差しはまだ強烈だけれど、やっぱり風はほんのり冷たい。

 ジメジメとまとわりついてきていた湿気も、どこかへ行ったらしい。

 私は、普段使いのもの以外、ダンボールに詰め終えた。あとはスーツケースに詰め込める程度のものと、捨てていくものくらい。

 家にストックしていた食材も、ほぼゼロだ。正直、今大地震とかきたらヤバい。でも、それでこれからの予定が遅れたりするなら、ちょっといいかも、なんて思う自分がいる。

 現代においては、鍋もフライパンもなくとも、満足がいく食事ができる。出来合いのものを買ってもいいし、配達を頼んでもいい。レンジでチンだけでもどうにかなるのだから、コンロすら要らない。だから調理道具は、割と早い段階で全て詰め込んだ。

 けれど最後に、鍋とフライパンを使いたくなって出した。テープを剥がす時に痛い思いをしたダンボールが、鍋とフライパンよ戻ってこい、と大口を開けて待っている。

 鍋がコトコトしている様子を見るのが好きだし。大したものを作る気はないけれど、最後の自炊をしたかった。

 今日はちょっと早めに起きた。ワンマイルならこれでいいかと思える程度に身なりを整え、コンビニへ行く。ベーコンと食パンと牛乳を買って、小走りで帰る。

 手を洗い、息を整えた。

 夜のうちにコンセントを抜いた冷蔵庫の中で、ほんのりとぬるくなっているラスト1個の卵を取り出す。買ったばかりのベーコン共に、それを焼く。隣では、牛乳を温めた。

 紙皿の上のパンに、ベーコンエッグをのせる。

「いただきます」

 温かい朝食を噛み締めながら、思う。

 いよいよ、最後だ。




 いつものように「おはよう」と言い合い、席に着く。「今日で最後だね」と、しんみりとした話をする。

 パソコンと向かい合っている時は、なんてことない。いつも通りの時間が流れる。

 昼が過ぎ、眠たい時間と、おやつの時間が過ぎ。

 いよいよだ、と思う。

 私は席を立つと、挨拶をしておきたい人の席を回った。別に長ったらしい世間話をするわけではないから、ギリギリの時間に始めたけれど、終業の時間までに終えることができた。

 皆で居酒屋へ行くと、私は主役になった。

「これからも頑張ってね」という、定型文の激励。

 程よくお腹が満ちてきた頃、一言を求められ、私とて定型文を口にした。

 あなたは、皆の前で喋る私を、じぃっと見ていた。

 花束はもらっても困るだろう、大きなものは荷物になるだろう、という配慮により選ばれたという、ボールペンとハンドタオル。

 それを手に、写真におさまる私。

 あなたはその時、プレゼントを選んだのは自分だと、教えてくれなかった。

 私は、プレゼントを選んだのがあなただと、あの場で知りたかった。

 たとえ離ればなれになる運命であれ、心だけは繋がり続けられたのではないかという幻想を、抱き続けずに済んだのではないかと、ひたすら考えてしまうから。

 一声さえあれば、一歩踏み出せたはずなのにと、悔しく思ってしまうから。

 別に、今からでも遅くはない。でも、遅い。

 きっともう、あの朝の幸せはなくて、あなたは画面の向こう側の人になって、あなたのレジャーシートにお邪魔することはできない。

 私にとって、あなたとのあの絶妙な距離感は薪だった。

 恋の炎に焚べる薪。

 私の炎は、これからきっと、小さくなっていくばかりだ。


 新たな世界で生きていくためには、過去の世界の住人である、あなたに縋り付いてはいられないから。


 空っぽの部屋に別れを告げた。

 空っぽの部屋によろしくと言った。

 どんどんと運び込まれるダンボールと、家具家電。

 いちばん最初に開けたのは、調理器具の箱。

 まだ冷蔵庫はぬるい。けれど、コンセントに繋いだそれは、そのうち冷えていくだろう。

 ワンマイルならこれでいいかと思える程度に身なりを整え、スーパーへ行った。明朝までの食料を確保する。

 吸い込まれるようにカフェに立ち寄ると、もうすっかり秋の気配がして、ホットを飲む人が多い中、私はアイスコーヒーを頼む。

 何も入れずに、ブラックで。

 懐かしい味、落ち着く味。

 ここでも、通えば顔を覚えてもらえるのだろうか。

 そんなことを、ふと思う。

 片付いていない家に帰り、手を洗い、呼吸を整えた。

 さっと洗った小鍋に、牛乳を入れて温める。

 隣のコンロで、ベーコンと卵を焼いた。

 違う部屋で、同じメニューを口にする。

 今日の味は、なんだか薄い。




 確かに組織に在籍しているけれど、その場所で私はよそ者だった。

 全員が揃うまでは荷物の片付けでもして待っていてと言われ、私はひとり、環境を整える。

 私がここに来ることは周知の事実だった。自己紹介の時間を待たずに、名前とともにあいさつの言葉をかけてくれる人がいた。

 けれど私はアイドルみたいにすごい記憶力を持っているわけでもないし、新たな場所という人生のうちでも稀な緊張にのまれて、それはほとんど頭に入ってこない。

 結局、さっきの人はどこの誰だろう。

 不安が大きく膨らんで、今にも弾けそうだった。

 ようやくパソコンの設定が整って、チャット画面を開く、と、私は涙を流しそうになった。必死にそれを、堪えた。

 ――おはよう。

 あなたからの、メッセージ。幸せな朝は、続いていた。

『おはよう』

 ――そっちはどう? 慣れた?

『今朝来たばっかりなのに、慣れたはずないでしょ』

 ――そっか。まぁ、気楽に。きっと、すぐ慣れるよ。

 ふぅとひとつ、深呼吸をした。


 自己紹介は得意じゃない。

 胸をバクバクさせながら、なんとかそれをこなす。

 あちらこちらから、名前と「よろしくお願いします」が飛んでくる。時々愉快なコメントが添えられている。

 私は、あなたの言葉を思い出す。

 ぺこりぺこりと頭を下げながら、アイドルになった気分で、握手会でもしているような心地で、たくさんの名前を覚える。

 また、あなたと朝のなんてことないやり取りができるなら、その時「自己紹介でたくさん顔と名前を覚えた!」と言えるように。

 近い将来、「もう慣れた」と言えるように。

 匂いのない、あなたに。


 時計の針は、働き者だ。


 あなたとの朝のやり取りを糧に、私はひたすら、今と、未来と向き合った。秋が過ぎ、冬が来て、桜が咲いて、雨が降り、太陽が眩しい季節まで、ひたすらに駆けた。

 

 夏は、暑いから、嫌い。でも、休みがある。


 お盆の強制休暇をつかって、私は過去をなぞる旅に出た。

 あなたにばったりと会えたなら幸せだけれど、あなたはきっと、その軽い足で、どこか楽しいところにでも行っているだろう。

 久しぶりに、友人がやっているクレープ屋に顔を出す。突然のことに驚きつつも、「じゃあ、アレを作るしかないね」と、バナナキャラメルを作ってくれた。

 それは、今も絶品だった。

 この高揚を味わうためだ。私がこの一年、キャラメルソースを避けたのは。

 日常に戻ったなら、また、私の生活からバナナキャラメルは消える。


 お腹が満ちたら、過去の写真を振り返り、同じ道を歩き始めた。

 どこにも、あなたの姿はない。




 ――おはよう。

 あなたからの、メッセージ。

『おはよう』

 ――休み、何してた?

『そっちに行って、クレープ食べた』

 返信が、なかなかこなかった。ミーティングか何かだろう、と、気にせず自分の作業をこなす。

 ――言ってくれれば、予定空けたのに。

『ちょっと懐かしみに行っただけだから』

 ――懐かしい人じゃなかったかぁ。

 その文字列を、あなたのがっかりした声で、私の脳が再生した。

 幸せ、だった。


 タイミングなんて、いくらでもあった。

 それを互いに手放し続けて、今がある。

 この関係は、今この状態がちょうどいい。

 一歩踏み込んだだけで、きっとトランプタワーが崩れるように、一瞬で、まっさらになってしまう。


『画面越しだけど、頻繁に会ってるし。忙しいかなって思ってさ』

 ――今度来る時は、教えてよ。

『オッケー。じゃあ、ミーティング行ってくる』

 ――お、頑張って。

 窓の外は、まだ夏色。

 だけど、部屋の中には秋色の服を纏い始めた人が、ちらほらといる。

 もう、夏が終わる。

 また、夏が終わる。


 私はきっと来年も、同じことを繰り返す。

 確かな終わりに気づくまで、同じことを繰り返す。

 夏が来るたび思い出す。

 逃げて隠れて、殻にこもる。

 夏の間、過去に囚われた夢を見て。

 夏の終わりに、夢から覚めて。

 諦めと希望を混ぜ合わせ、祈る。


 このまま同じ時が、くるくる廻ればいいのに、と。




〈了〉



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

くるくる 湖ノ上茶屋(コノウエサヤ) @konoue_saya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ