猫へ
僕は走ったところで着く時間は変わらないと思ったけれど、それはこの地下鉄の時間であって、僕の時間ではない――ましてや、猫の時間などでは――と思い直して、それに同意した。列車の進行方向へと猫は滑り出し、僕は走り出した。
ふと、子供の頃読んだ『アルバートおじさんの時間と空間の旅』という本を思い出した。子供向けの特殊相対性理論の本だ。そこでは、時間は観測者のスピードによって伸び縮みする。その本の中でも、二人の観測者の時間が相対的に変化することを並走する列車の比喩で説明していた。ここには僕の乗る地下鉄ひとつきりしかないけれど、ある意味では僕とこの黒猫は並走する二つの列車なのだ。そしてアルバートおじさんの言う通りなら、地下鉄の中でスケボーに乗る猫の時間は、ただ地下鉄に運ばれているだけの僕の時間よりゆっくり進むことになる。地下鉄の中でさえ、時間は一定ではないのだ。黒猫は器用なことに、右の前足と後ろ足を交互にスケボーから振り下ろして、滑らかに加速していく。何だか悔しい気持ちもする。
「慣れたものじゃないか。本当に始めたばかりなの?」
「あなたこそ、随分不格好に走るんですね。スケボーに乗った方がいいんじゃないですか?」
「そう言われちゃうとな。僕も中華街に着いたら買ってみようかな。羨ましいや」
もしかしたら、僕の横を滑っている猫は、地下鉄に乗ってはいないのかもしれない。そもそもスケボーに乗る猫というのもおかしな存在じゃないか。でもそれを確かめる方法はない。これが疲れた僕の逃げ込んだ夢だとしたら? 少なくとも地下鉄が走り続けているうちは、この夢が覚めることはないだろう。そう要請されてしまっているのだから。全ては中華街に着いた時にわかる。地下鉄に乗ったシュレーディンガーのスケボーに乗った猫だ。僕は頭の中にかかる黒いモヤモヤを振り払うように走った。どうせ連れていかれるのなら、地下鉄よりも猫がいい。それはリヴァイアサンに飲み込まれたまま泳いでいくより恐ろしいことかもしれない。これが僕の作り出した猫なら一番怖い。けれども、この街で生きていくためには、僕は猫にならなくてはいけない。この地下鉄の、東京の滑らかさから抜け出すためには、猫のような流体にならなければいけない。
「何か変なことを考えてやしませんか。下あごがひくひくしてて気持ち悪いです」
「失礼な猫だな、君は。こっちは一生懸命走っているんだ」
「考えるより、話しましょうよ。隣には私というものがいるんです。ただひと時の同乗者だとしても、旅は道連れでしょう」
「人はあまり、走りながら、喋るようにはできていないんだ」
「猫はできますよ。ニャーと鳴けばそれでいいんです。喋るなんて大層なことでもないです」
僕は走りながら、どうしたら猫になれるか考えた。この黒猫が言うように、ニャーと鳴けばそれでいいというほど簡単なら、すぐにでも猫になってみたい。僕は自分のはるか先を走る猫を思い描いた。中華街に一匹の猫が走る。よろこびの飛び地、中華街に。資本主義に怯えて生まれたこわがりなつよがりな自分を、柔らかさで包んでみせる。猫になってみることは、やさしくてきもちよくて、そしてやっぱり怖い。
「その調子です。あとは目をパッチリ開けて髭でも伸ばしてみたら、もう一人前の猫ですよ」
黒猫はまだしゃべり続けているようだが、僕は猫になることに夢中で、もう聞いてやいなかった。僕は少しずつ、走っているのではなく猫のような身のこなしで、手すりを、路地裏を、滑り抜けているような気分だった。そうか、この黒猫がスケボーに乗っているのも、そんなに不思議なことではないのかもしれない。スケボーはストリートのカルチャーだし、猫は路地裏を飛び回る生き物だ。こいつも案外、人間になりたい猫なのかもしれない。僕らは似た者同士だ。
「今度、一緒にスケボーをやりにいかないか」
「もちろんいいですけれど、それは私がさっき言ったことでしょう。ちゃんと話聞いててくださいよ」
とか言いつつ、黒猫は満足そうにニャアと鳴いた。それは僕の声だったかもしれないが、たしかに低くていい声だった。
地上に出てみれば、そこは一面の雪景色だった。
「あちゃー、これはスケボー日和ではありませんね。みんなスノボーをしています。これは流行に乗り遅れてしまったかな」
「猫はスノボーもやるのかい。人間顔負けだな」
辺りを見回すと、人影は見当たらず、かわりにニャアニャアと猫たちがスノボーで滑りまわっていた。中には中華街の朝陽門の上から滑り降りようとしている奴もいる。僕はなんだか地下鉄で乗り過ごして随分遠くまで来てしまったような、そんな満足感に打ちひしがれていた。これからどうすればいいのだろう? 黒猫はスケボーに前足をのせたまま、呟いた。
「この世界には人間がいなければいけないと、まだお考えですか?」
僕はなんだかパンクな考え方だなと思った。
ねこまち、中華街ゆき 石川ライカ @hal_inu_
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