ねこまち、中華街ゆき

石川ライカ

海へ

 プラスチックの、温かくもなく冷たくもない人工的な窪みに頭を傾け、転がし、定位置を探す。地下鉄の長い座席の端っこを陣取り、頭がほのかに固定されると、自動的に身体がその滑らかなへこみに馴染んでいく。この時、壁に対して身体は車両の進行方向になければならない。自分の身体を押し出して運んでくれるものがこの壁、この手触りなのだと実感することができれば、その壁もまたひとときの座席となる。車内は静かだ。ドアの隙間を埋める固いゴムの隙間から抑え込まれた轟音が微かに響いている。顔を上げると窓の向こうには黒い抽象画が見える。そこには風とともに無数の筆跡が走っている。横一文字の線が線で無くなるほどに重なり合って、まるで速度そのものを表現しているようだ。眺めている僕には体感できない闇や空気や加速度がそこには渦巻いており、左右どちらに進んでいるのか方向感覚すら曖昧になってゆく。いや、その暗い画面に表現されているのは速度ではない。僕が感じているのはもはや速度ではなく、微分された加速度そのものではないのか。そうであるならば、方向ベクトルを見失ってしまうのも仕方あるまい。加速度が変化した時だけ――車体が加速したり減速したりする時だけ――僕の身体は温度のない壁に押し出されたり逃げられたりするのだ。僕が心地よく眠ろうとする時、僕の身体と意識はどんどん微分されて、そこには変化の割合しか残らない。

 僕は眠っている。地下鉄は揺れ、絶えず僕と壁は一体化していることを確認し続けている。おそらく僕は起きている。半睡といってもいいかもしれない。電車は揺れ、臀部や足の裏から振動が持ち上がってくるのが心地よい。僕は闇を想う――僕の背後の窓の向こうにある闇を。暗いトンネルの中で、一直線に地下鉄は走ってゆく。真っ暗な地中に、長い身体をくねらせたリヴァイアサンが、悠々と泳いでいる。同時に僕はこの車両の節々を夢想する。回転する車輪、軋む連結部分、擦れるパンタグラフ。しかし僕を包んでいるのは風の音だけだ。その外側には圧倒的な無音が、滑ってゆく。地下を走る巨大な怪物と僕の頬に伝わる柔らかな振動との圧倒的な矛盾。僕の想像力は容易く断ち切られてしまう。それも否定しようのない心地よさによって。細やかな振動は微分され、微分され続けて僕に伝わる。僕は変化の割合の変化の割合の変化の割合の……その果てにある振動を感じているに過ぎない。距離も速度も失って、僕は半睡のままどこかに運ばれていく。地下鉄ほど安心できる霊柩車もないだろう。昔は寝台特急というものが走っていた。列車は僕らに眠りにつくことを要請する。

 僕が目を開くと、眩しい視界に何かが上から落ちてきた。黒い影は速度に反して柔らかに降り立ち、まるで重力の影響を受けていないようだった。目が慣れてくると、黄色い瞳が僕の目を捉えた。向かいの座席の上に黒猫が座っていた。

「横浜にスケボーができるいい場所を知りませんか」

 その声は猫が発したようにも、そうでないようにも思えた。少し低い、落ち着いた声だ。この猫はどこからやってきたのだろう。もしかしたら僕の頭の中から? それはちょっとやだな。

「たしか新横浜の方に、無料で滑れるスケボーパークがあると聞いたことがあります。あなたが乗るんですか?」

「ええ。まあ乗るって言っても、まだ始めたばかりですが」

 黒猫はすこし気恥ずかしそうに答えた。車両に人影は見当たらない。これなら声を出して会話していても迷惑に思われることはないだろう。

「猫にスケボーなんて、なんだか意外な組み合わせですね。最近は多いんですか?」

「オリンピックがあったじゃないですか。あれから猫の間でもブームになりまして、わりといます。僕なんか少し出遅れた方ですね。この足を見てください、まだツルツルでしょ?」

 たしかに、足の裏の肉球は場違いなほどきれいなピンク色をしている。黒猫は座席に立てかけていたスケボーを床に転がすと、音もなく飛び乗った。

「あなたも、行きませんか。走りましょう、走った方が、早く着くでしょう?」

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