亥之子餅。

「くそっ……罠だったか……」


 僕は、王国から魔王討伐の命を受けた、誇り高き勇者。……しかし今、油断して入った遺跡の中で、絶体絶命の危機を迎えていた。

 瓦礫が散乱するその部屋に足を踏み入れた瞬間、突然身体が言うことを聞かなくなり、その場に倒れ込んでしまったのだ。直接何かに四肢を拘束されたわけではないのに、一体どうして、首から下は一寸たりとも動かない。まるで自分の身体の所有権を失ったかのように、ここから脱出することを拒否されてしまう。

 毒ガスか、あるいは催眠の類か。

「一体どうしたら……」

 焦りで身体が熱くなる。それでも僕の身体はそっぽを向いて動いてくれない。


 目の前には、天井に迫るほど巨大な毛むくじゃらの怪物————。

 どこから現れたのか、舌なめずりをしながらにじり寄ってくる。


 追い払うにも倒すにも、身体が動かなくては手も足も出ない。手に握られた聖剣も、今となっては無用の長物だ。

 のっそり、のっそり……。

 巨体を揺らしながら近づいてくる。

 ヴゥゥゥゥ……。

 次第に、怪物の唸るような奇怪な声が大きくなる。

 やがて足元までたどり着くと、そのままずっしりと僕の身体にのしかかる。重みが胸を押し付けて、呼吸が詰まる。

 怪物は僕の顔に近づいて、あんぐりと口を開けた。わずか数センチ先で光るのは、鋭く大きな牙が2本。

 ああ、もはやこれまでか…………。


 ————死を覚悟した瞬間、はっとして目が覚める。

 見慣れた天井。そこら中に物が散乱した自分の部屋。

 飼い猫のナナが身体の上に乗っかって、僕の鼻先をぺろぺろと舐めている。

 きょとんとしていると、ナナは悠々と大きな欠伸あくびをした。口から顔を覗かせる、2本の鋭い犬歯。

 いつの間にか握っていたテレビのリモコンを部屋の隅に放り投げ、もふもふのナナに頬を擦りつける。


「…………罠だったかぁ~~~~」


 僕はナナを抱えたまま、再び現代が生んだ罠――のなかにもぐりこんだ。


<了>

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亥之子餅。 @ockeys_monologues

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