エピローグ

 四月二日(火)午後三時、おじさんと久美ちゃんと俺の三人は東京・市ヶ谷の防衛省防衛研究所を訪問した。

 おじさんはスーツを着ている。作業着姿しか見たことのなかった俺にはおじさんのことが、娘の晴れ舞台のために気合を入れて一丁らで上京したド田舎者にしか見えなかった。まあその通りなのだが。

 久美ちゃんと俺は制服姿だ。

 富山高校の制服は上着が独特だ。黒に近い濃紺の胸ぐりがない詰襟で、シーズー犬につけるような小さなリボンが胸元にちょこんとついている。久美ちゃんはまあ平気だろうが、胸の大きい人は上までボタンが閉められるのか疑問に思う。

 雄峰高校の制服は紺のブレザーに白いシャツ、赤いネクタイ、グレーのパンツという超無難な制服で、学ランよりずっと動きやすい。

 防衛省加賀門をくぐってすぐのところに防衛研究所の建物はあった。

 受付で手続きを済まし、しばらく待っていると一人の男がエレベーターから、やあ、と片手を上げてこちらへ歩いてきた。

「やあ久しぶりだね」

「どうもご無沙汰してます」

 男とおじさんは握手を交わした。年齢的にも立場的にも男のほうが上のようだ。

「紹介しよう。地域研究部長の庄司禎雄さんだ」

「はじめまして。高橋久美です」

「はじめまして。結城史郎です」

 俺たちはおじさんに教えられたように挨拶し、おじぎをした。

「ふたりとも高校入学おめでとう。じゃあ、さっそく始めようか」

 おじさんは庄司さんのことをずっと親しみを込めて〈おやじ〉と呼んでいたので、てっきり七〇歳くらいの、ダンブルドア先生のような包容力のある人なのかと俺は思い込んでいた。が、目の前の庄司さんは、歳は五〇くらいで、スーツの上からでも体が引き締まっているのが見て取れ、所作も眼光も鋭く、たとえるならスネイプ先生のような人だった。

 俺たちは会議室に通された。庄司さんは、二分で戻る、と言い残し、別の部屋へ行ってしまった。

「ねえおじさん、なんであの人を〈おやじ〉って呼ぶんですか?」

「ああ見えて、酔っ払うと親父ギャグが止まらないんだ。だから〈おやじ〉なんだ」

「なんだ、そういうことだったんですか」

「庄司さんって怖い人?」と久美ちゃんが訊いた。

「防衛省の人はみんなあれくらいピリピリしとるよ。むしろ優しい部類だ」

 ドアがノックされ、庄司さんが戻ってきた。

「お待たせした。それではまずお二人と契約を交わしたい」

 そう言って庄司さんは俺たちに一枚ずつ契約書を渡した。

「これから話すのは〈特定秘密〉にあたることです。〈特定秘密〉とは〈特定秘密の保護に関する法律〉で定義される用語で、防衛に関する事項のうち〈その漏えいが我が国の安全保障に著しい支障を与えるおそれがあるため、特に秘匿することが必要であるもの〉と定義されています。ここまで大丈夫かな?」

「はい」

「よろしい。法律上、私は秘密を守れる自衛隊員にしか〈特定秘密〉を明かすことができない。だから二人には、まず自衛官となり、かつ秘密を守る契約を交わしてもらう。まあ君たちはまだ十五歳だから、形式的には正式な自衛官ではなくアルバイトのような扱いだが、そんなことはどうでもいい。君たちは秘密を守り、墓場まで持っていくのだ。たとえ結婚して家族ができても秘密はいっさい明かさない。漏らしてしまったら刑務所に最長十年ぶち込まれて君たちの人生が終わる。責任は重い。いいかな?」

「……」

 俺は、はい、と即答できなかった。

「あの、もし契約を拒んだ場合、どうなるんですか?」と久美ちゃんが尋ねた。

「まず契約を交わすメリットから説明しよう。契約を交わすと、防衛省が君たちに給与を支払う。そして万一のことがあっても生活を保証してくれる。実務をやる結城君の場合は高校生ではあり得ないくらいの支払いがあるだろうし、久美さんにも、秘密を守ってくれている、というだけでそれなりの額が支払われる。誠一さんの給与がどれくらいか私は知らないが、おそらく年収で二千万は下らないだろう」

「まあ、そんなところです」とおじさんは答えた。

「私の倍だ。うらやましい」と庄司さんはぼやいた。

「次にご質問の、契約を拒んだ場合だが、久美さん、なぜあなた方のまわりに公安がうろちょろしているかわかりますか?」

「私たちを守るためです」

「それは違う。公安は国家の治安を守るための組織だ。そして久美さんたちが知っている情報は、もしそれが外部に漏れたら国家の治安に関わってくる。だから公安は治安維持のため、外部のよからぬ人間が久美さんたちに接近するのを防ぐと同時に、久美さんたちが外部に情報を漏らさないか常に監視をしている。だから久美さんにとって公安は、味方でもあり、敵にもなりうる両儀的な存在だ」

「だから公安はけっして私たちと親しくなろうとしないんですね」

 それは俺もずっと不思議に思っていたことだ。

「その通りだ。君は賢いね。もしかしたら次に私が言おうとしていることも察しがついているかな?」

「防衛省と契約を交わそうが交わすまいが、公安は一生わたしたちに付きまとう」

「その通りだ。ほれぼれするね。私がもう四〇歳若かったら君に愛の告白をしているところだよ」

「庄司さん、最近はそういうのもセクハラにあたるんですよ」とおじさんが言った。

「お、そうなのか。悪いね。がさつな昭和生まれだもんで」

「庄司さんはダンディだからぜんぜん悪い気はしませんよ」と久美ちゃんが言った。

「君はおじさんキラーだね」

「そう言う庄司さんはJKキラーですね」

「私の負けだ」

「どのみち私たちは秘密を守らなくてはいけない運命にある、ということですね。なんかとってもズルい気がしてなりませんが」

「日本は法治国家なんだ。そして法は君たちのような存在を想定していない。だからしわよせはぜんぶ君たち例外者のほうに来る。法に保護されない君たちは我慢と引き換えに金銭の補償を得る。お金でなあなあにしてよしとするのも法律の定めるところだ。この世に完璧な制度などない」

「わかりました」と久美ちゃんが答えた。

「結城君はどうかな?」

「わかりました」

 そして俺たちは契約書にサインした。

「ありがとう。じゃあ写真を撮るから、契約書を手に持ってそこに立って」

 庄司さんは年季の入ったデジカメで写真を撮った。古いデジカメはネット接続機能がないから安全なんだという。

「サインは偽造しやすいんで、昔はあわせて拇印をとっていたんだが、非人道的だっていうんで写真に変わったんだよ」

 最後に庄司さんは契約書をスキャンし、原本を俺たちに返した。

「じゃあ、いまから〈特定秘密〉を話します」


 石使いは熱した石をマグマや水蒸気が詰まりやすい場所に置き、熱を伝えることで通りをよくする。これはみなさんよくご存知だと思う。

 ではなぜ詰まりやすい場所があるのか? それはその場所が狭窄しているからだ。石の置き場所は、たとえるなら二本の道路の合流地点だ。合流地点ではどうしても車の速度が遅くなる。石使いがやっているのは、合流地点の道幅を広げて車の速度が落ちないようにすることだ。

 ここで、合流地点で大事故があり、車が先に行けなくなったらどうなるかを考える。車は合流地点の前で足止めされ、渋滞の列は長くなる一方となる。そして事故を知った後続の車は迂回路に進路を変え、今度は迂回路が激しく混雑する。もちろん合流地点より先を走る車は一台もない。全体として、車の流れはものすごく悪くなる。しかし車は容赦なく次から次へとやってくる。

 もし石の置かれた場所を攻撃されたら、これとまったく同じことが起きる。あらゆる場所がマグマや水蒸気であふれかえり、いつどこで爆発が起きてもおかしくなくなる。

 さらに悪いことに、マグマや水蒸気はほぼ無限にある。断片的にしか公にされていないが、立山カルデラの数キロメートル地下には、東西南北数十キロメートルという、立山カルデラ全体がすっぽり収まるほどの巨大なマグマ溜まりがある。そして今もなおマグマや水蒸気は泉のようにマントルから湧き出てきている。

 今の立山は、湧き出すマグマや水蒸気と同じ量を地獄谷などに吐き出すことでなんとか均衡を保っている危うい状況なのだ。

 だからもし石の置き場を次々に狙い撃ちされたら、もはや我々に立山が爆発するのを防ぐ手立てはない。立山が爆発したら富山平野は確実に数メートルの土砂で埋まるし、多量の噴煙で近隣県も壊滅的状態になるだろう。

 たった数十発のミサイル攻撃で北陸が消滅してしまう──石使いが防衛省マターであり公安マターなのはこういう理由からなのだ。


    *


 俺たちが防衛研究所を出たのは午後四時半だった。

 帰りの新幹線は東京駅一九時〇四分発だったので、東京駅までの移動を考えても、まだ時間に余裕があった。

「いまから自由行動にする。一八時半に東京駅構内の新幹線乗り場に集合な」とおじさんが言った。

 おじさんと久美ちゃんはお茶の水へハーモニカを買いに行った。おじさんはよく山でハーモニカを吹いている。久美ちゃんが吹いているのは見たことがない。

 俺は有楽町線で永田町まで出て、スマホの地図を頼りにランニングステーションに入った。

 店内には仕事を終えてやってきたスーツ姿の男女が多くいた。子どもは俺ひとりだった。

 俺は受付で八百円を支払うと、リュックからランニングウェアとシューズを出して着替え、タオルを首に巻いて皇居まで歩いた。

 東京でとくに行きたいところもなかった俺は、昨日ふと、皇居を走ってみようと思い立った。石使いの仕事は十一月半ばから五月半ばまで休みなので、俺は体がなまっていたのだ。ちょうどいいや──そう考えると、今度はもう皇居ランが楽しみで仕方なくなっていた。


 ──いまから皇居走ります


 明官さんにそうLINEして、俺は走り始めた。

 早い人はとても早い。遅い人も俺よりは早い。

 仲良くウォーキングしている初老の夫婦よりはかろうじて早いくらいのスピードで、右手に高層ビル、左手に皇居の緑を眺めながら、俺は自分のペースで走り始めた。

 しかしこの〈自分のペース〉というのが走り慣れていない俺にはむずかしい。早すぎがダメなのはもちろん、遅すぎてもダメなのだ。どうやら俺は遅すぎたらしく、だんだん体が重くなってきた。

 スマホを見たらまだ五分しか走っていない。

 明官さんからは親指を立てている人のスタンプが送られてきていた。

 歩いているうちにどうにか息が整うと、俺はピッチを少し早くして再度走り始めた。

 何分か経ち、道を左に曲がって松がたくさん生えている開けたところに出ると、重かった体が急に軽くなった。そして走るのが苦にならなくなった。むしろ気持ちがいい。

 これが自分のペースなんだな──。

 このペースならどこまでも走っていけそうな気がする。こんな気分は初めてだ。

 あいかわらず次から次に抜かれていくが、それすらなぜだか心地いい。

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立山の石使い あかなめ @super-akaname

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