高橋久美 六
父と三郎さんは目を閉じていたので気絶を免れていた。
「久美、久しぶりだな。会えてうれしいちゃ」
父はにこやかに話しかけてきた。
「言いたいことがあるの」
私がそう言うと、どうぞごゆっくり、と三郎さんは気を利かせて遠くに離れ、二人だけにしてくれた。あるいは単に面倒なことに巻き込まれるのが嫌だっただけなのかもしれないが。
「で、なんだい?」
は?
いったいなぜこの人は不思議そうな顔をするんだ?
「なんであんなことをしたの?」
「あんなことって?」
まだしらばっくれている。
「意識を失った私に覆い被さったでしょ」
「なにを言っとるんだ?」
「体は動かなかったけど、意識は少しあったんだから」
「だから何なんだい?」
「ごまかさないで! あれはレイプ以外の何者でもない!」
こんなことを口にすること自体が屈辱だった。
わたしはずっと騙されていたのだ。愛されている証拠だと思っていたことが、すべて嘘だったのだ。私は生まれて初めて悔し涙を流した。
すると父は暗い表情になった。
「さっき『覆い被さった』って言ったよな」
「そう、たしかにあなたは私に覆い被さった」
あのおぞましい感覚は忘れたくても忘れられない。
「それは、露骨な物言いで悪いんだが、正常位ってやつだな」
正常位ってやつだな、だと? この人は何を言ってるんだ。
「僕はね、知っとると思うが、右肩を落石でやられて、以来右肩に力が入らない」
「知っとるよ」
「だから僕は、正常位の体勢がとれない」
「うそ……」
いや、あれが思い違いだったはずはない。たしかにこの男は、私に覆い被さっていた──。
「自分の娘にこんなことを訊きたくはないんだが、その男は覆い被さって、どっちの手で久美を触っとったか思い出せるかい?」
私は吐きそうな記憶を思い起こす。そう、あれは向かって左。だから右手。……ずっと右手だった。
おかしい──。
「僕は左利きなんだよ。久美のその表情だと右手のようだね」
「どういうこと?」
私は愕然となった。
「久美はそれ以前に、誰かおかしな人間に会ってなかったかい?」
「ニセ刑事」
「そいつが犯人だ。今日の連中の中に似た男はいなかったかい?」
「……一番似てるのは、父さんを掴んでいた、そして母さんにナイフを投げた、あの男……」
自分で言っていて思った──あの男はニセ刑事と瓜二つだ。
「あいつは臆病な小者だった。拷問すらろくにできないゴミクソだ」
父さんが怒っている。怒っている父さんを見るのは初めてだ。
「そして記憶をちょっとだけあやつれる」
なんだって?
そんなことができていいのか?
私はあんな男にレイプされ、記憶までいじられていたのか……。
あんな生々しい記憶を……。
「ちくしょう! もう少しだけ早くわかってれば、ナイフを奪って八つ裂きにしてやったのに!」
こんな乱暴なことを言う父さんも初めて見る。だが、なぜかとても父さんらしい気がしてくる。
「久美、辛かったな。僕はこの辛さをぜんぜん分かつことができない。それが悔しい」
私は俯く父さんの手を取った。ヒゲだらけの父さんの顔の、ところどころが削がれて痛々しい。
しかし私は父さんをハグできなかった。
あの忌まわしいニセモノの記憶は容赦なくよみがえり、私を呪う。
土田さんは、やめてと言ったのにやめてもらえなかったと言っていた。優雅に見えるあの人は、そこからどうやって心を立て直したのだろう。
私はもっと強くなりたい。
*
私とゆきしろは公安の車で家まで送られた。他の人はみんな怪我をしていたので、〈おやじ〉の差配により自衛隊のヘリで富山駐屯地まで運ばれた。立山砂防事務所の屋上がヘリポートになっているのだ。
私が家に着いたのは夜だった。
無人の家にひとりきりで、スマホもないという状況はじつに侘しいものだった。
しかも学校は今日から夏休みで、もう友達と会う機会もない。
私は汗臭くなった服を廊下に脱ぎ散らし、シャワーを浴びようとした。ちょうどそのとき固定電話が鳴った。母さんからだった。
「あたしは抗生物質飲んで、月曜の朝に異常がなければ帰れる。誠一はかなり衰弱しとるから一週間くらい入院だってよ」
土田さん、石目さん、SATの二人はもうなんともないという。三郎さんは石目さんに放り投げられたとき肩を脱臼して一週間は運転ができないらしい。
「悪いけどごはんは自分でなんとかして。なんならユキシロ君んちに行ってもいいから」
「いいよ。自分でやれるよ」
と言いつつ、けっきょく私は消費期限切れの〈ミリ飯〉を温めることしかしなかった。
私はシャワーを浴び終えると、服を着ないことに決めた。さいわい生理は昨日で終わっていた。
せっかく家に一人きりなのだ。今晩は裸で過ごすのだ。
裸の私は二階の自室に上がると、裸で数学の問題を解いた。陰毛を指でくるくる巻きながら空間図形の切り口を考えた。
裸で小難しい評論文の過去問を解き、裸で貧困問題について書かれた英文の問題文を読み、裸で英語のリスニング問題を聴き、裸で英単語を覚えた。私はからまっておかしくなった陰毛をブチブチ引き抜いた。
私は裸で階下に降り、母さんのパソコンを開いた。そしてプライベートモードでブラウザを開くと、ティーンズラブ漫画の無料サンプルを漁った。が、どれも露骨すぎてグッとくるものはなかった。こういうとき〈推し〉がいると都合がいいのだろうが、私にはまるっきりいないし、誰かを推したい、という気持ち自体いまだに理解できないでいる。
なんだか皮膚がベタベタしてきたので、もう一度かるくシャワーを浴び、今度は服を着た。そしてすぐ寝た。
*
翌朝、私は端的にさびしかったので、朝から近所の大山図書館に出かけた。ここなら誰か一人くらいは知っている人が勉強しに来ると思ったからだ。
私は開館と同時に入ると、存在に気づいてもらえるよう、自習室の出入り口に一番近い席をとった。
それからほどなくして、うおっ、という野太い声がした。目の前には末上くんが立っていた。
「お、おい、生きとったんか?」
そのとなりには日俣がいた。二人はつきあっていたのか……。
日俣は怒ったような顔をして私の手首を握ると、ちょっと、と言って自習室の外まで私を強引に引っ張った。そして私は壁際へ乱暴に追いやられた。
「もう、急に学校来んようになるし、LINEもSMSも電話も通じんし、一体どうしたんけ? みんな心配しとるよ!」
バレー部だった日俣は私より頭ひとつ背が高い。だからいま起きているのはまさに〈壁ドン〉だった。
母さんだったらこんな時どんな嘘をつくだろうか──。
「
日俣は困った顔をして、そして吹き出した。
「なにそれ! クミってそんなにドジっ子だっけ?」
「そうだよ。運動神経お化けの日俣にはわからんよ」
「いまもスマホはないの?」
「ない」
「じゃあ、いまクラスのLINEグループにクミの生存確認を送るね。ほら、写真撮るからピースして笑って」
はいはい。
私は言われるがままにした。
「うわっ、反応がすごいよ」
そう驚く日俣のスマホ画面には次から次にメッセージの吹き出しが現れていた。
十時半ごろナギとハルが連れ立って図書館にやってきた。いつもは止めどなくぺちゃくちゃ喋るふたりが、この日は無言のまま、ぎゅうっ、と私にハグしてきた。
私も自然と腕に力が入った。
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