結城史郎 六

 仕事から戻ると、「ほら、大事なモノが届いとるよ」と久美ちゃんが箱を渡した。明官さんからの小包だった。

 俺はあせった。明官さんとのことは久美ちゃんに知られてはいけないことだったからだ。

 しかし久美ちゃんは「隠さんでいい。だいたいは知っとる」と言った。その表情に怒気はなく、逆にニヤけた様子もなく、しかし冷徹でもなく、たんに感情がなかった。

 これに限らず、水谷出張所に来てからの久美ちゃんには生気がまるでない。学校でボス面していたときとは大違いだ。まあ、あんなに仲の良かったお父さんが誘拐されたのだからぜんぜん無理もないことだが。

「あの、おじさんには内緒な」

「ちゃんと説明せんとね」

 ああ。おじさんが戻ってきたらきっとちゃんと説明する。

 俺は箱を持って男部屋に入り、中を開けた。

 中身はあの、つねに涙目の〈おぱんちゅうさぎ〉のぬいぐるみだった。あのときしまむらで買ったやつだろうか。

 一緒に短い手紙が入っていた。


 これは結城くんを心配する僕の化身です。

 僕の涙がこぼれないよう、いつもそばに持ち歩いてください。


 きれいな楷書だった。

 俺は明官さんから初めてもらった手書きの手紙を二つに折って、タブレット本体とケースの間に挟んだ。そして〈おぱんちゅうさぎ〉とすこしのあいだ向き合ったあと、汚れないようポリ袋に包んでリュックに入れた。


    *


 その日の夕食後、美代子おばさんから報告があった。

「けさ公安が突入しましたが、残念ながら返り討ちに遭いました。もうGPSのバッテリーが切れていて、敵がどこにいるのかはわかりません。が、誠一は無事です。夕方四時に私の携帯へ、誠一自身から電話がありました。そして敵に電話が代わり、明日早朝六時に立山砂防事務所の駐車場で取引をすることになりました。十六日に戦闘が行われたのと同じ場所です」

 美代子さんは小声で、しかし落ち着き払って言った。

 みんなは自然と手が止まっていた。

「取引とは、高橋誠一の身柄と、高橋誠一の職務情報の交換です」

 今回は人質交換ではない。タイミングをどうするのだろうか。情報をぜんぶ開示したらおじさんが帰ってくるのだろうか──いや、それはない。

「三郎さん。あなたが職務情報を伝える役です」

「ちょっと、なに勝手に決めてんスか!」

「現実問題として、石使いの仕事ぜんぶを知っているのはこの中で三郎さんだけです。三郎さんは誠一のかつての仕事仲間で、いまは居酒屋の店長という設定です。夜遅く店を閉め、朝駆けつけた、ということになっています」

「で、自分が眠そうな顔でべらべら〈秘密〉を話せばいいんスか? まさかね」

「誠一と三郎さんを交換します」

「冗談じゃない! 俺、帰ります!」

「最後まで話を聞いて。誠一と三郎さんは同時に交換します。敵の手から誠一が離れ、三郎さんが敵の手に渡らない間に手を打ちます。立塚さん、できますか?」

「僕と摺出寺が〈アンプ〉で敵の目を潰します。同時に四人までいけます。敵は何人ですか?」

「公安によると七人で、うち一人は足を引きずっていたといいます」

「私たちはその女ひとりにやられました。真っ先に動けないようにしないといけません」と石目さんが言った。

「公安もその女にやられたんですか?」と立塚さんが尋ねた。

「眼帯をした女にやられたと言っています。眼帯の下の目が光って、あとは全員記憶が飛んでいるそうです」と美代子さんが言った。

「じゃあ、まずはその二人だな」と立塚さんが言った。

「じゃあ俺、誠一さんの近くの人間を二人やります」と摺出寺さんが言った。

「あとの三人はどうします?」

「三秒ください。三秒後に、三人の目をつぶします」

「三郎さんは、敵が混乱しているうちに誠一を連れてこちら側へ逃げてください。石目さん、サポートをお願いします。土田さんは子どもたちの護衛をお願いします」

「子どもたちを連れて行くんですか!」と土田さんは声を上げた。ほかの人も、ありえない、という表情をしていた。

「あす土曜日は水谷に人がいません。そこに子どもたちだけを残していくのは危険です。それに、この子たちには石使いという仕事に付いてまわる危険を知っておいてほしいのです。戦闘に参加しろというのではありません。物陰に隠れてじっとしているだけでいい。空気を共有してほしいのです」

「しかしそれはあまりに危険です」と土田さんが訴える。

「離れた場所で公安が身を潜めています。子どもたちには防犯ブザーを与えるので、危なくなったら鳴らせばいいです。公安が駆けつけます」

「やはり子どもたちは水谷にいてもらったほうがいいんじゃないでしょうか」と石目さんが言った。

 俺は考えた。

 もし大人たちが全員やられ、三郎さんが連れ去られるようなことになれば、おじさんが身を挺して守ってきた〈秘密〉がぜんぶ知られてしまうかもしれない。俺の力でそうなるのを食い止められるとはとても思えないが、もしかしたら、もしかしたらなにかできるかもしれない。だから俺が水谷出張所で安穏としているあいだにそんなことがおきてしまったら、俺は一生〈もしかしたら〉と悔やみ続けることになってしまうだろう。

「俺、行きます」と俺は言った。

「私も行きます。父には言いたいことがある」と久美ちゃんも言った。

「お前らほんとにいいのか? カッコつけとるだけじゃないんけ?」と三郎さんが言った。「ちがうって? ……わかったよ、俺も行くよ。仕方ねえなア」

「三郎さん、ありがとう」と美代子さんが言った。

「ちゃんと倉庫の中で大人しく隠れているのよ」と土田さんが言った。

「午前四時にここを出発します。事務所駐車場には五時すぎに到着すると思いますが、時間になるまでは倉庫で待機します。今日は早めに寝てください」

 俺はスマホを出し、わるいけど今晩は早く寝るからLINEはできません、と明官さんにメッセージを送った。


    *


 俺は三時半に起きて着替え、薬と〈おぱんちゅうさぎ〉を入れたリュックを背負い、表に出た。そしてハイラックスとSATのセダンの二台に分乗して水谷を出発した。あと二時間後には戦闘なのだが、俺にはあまりに現実感がなさすぎた。だから俺は緊張することもなく、車中では眠っていた。

 駐車場に着いたのは五時半だった。東に広がる立山連峰が朝日を遮り、外はほぼ真っ暗だった。

 あたりは静まり返っていたが、敵はすでに潜んでいるかもしれないので、SATの二人が先頭に立って周りを慎重に見回しながら全員で倉庫まで進んだ。

 鍵を開け中に入ると、とりあえず一息つきましょうと石目さんが言い、電気ポットで湯を沸かして人数分の紙コップをとり出し、甘いインスタントコーヒーを用意してくれた。

 眠い頭に砂糖が沁みる。

 みんなは床にしゃがみ込み、無言でコーヒーをすすった。

 美代子おばさんが口を開いた。

「これを飲み終わったら、土田さんと子どもたち以外は表に出ましょう」

 いよいよだ。いよいよおじさんが帰ってくる。長い長い五日間だった。

 SATの立塚さん、摺出寺さん、そして土田さんが腕に〈アンプ〉を装着し、メガネをかけて動作確認をする。

「けっこうモーター音が響きますね」と俺は言った。キュイーンという、歯医者のドリル音をそのまま大きくしたような甲高い音だ。昨日もこの音を聞いたはずなのだが、やはり朝の静けさの中では印象がぜんぜんちがう。

「回転数がすごいからね」と摺出寺さんが言った。「何回転か知らないけど」

 腕にこんなものをはめていると敵に警戒されるので、SATの二人はダボダボの上着をはおって腕を隠した。

 みんなは倉庫のそとに出た。

 俺たち三人は倉庫の壁にもたれている。出入り口に近いところに土田さん、その隣に俺、そして奥に久美ちゃん。倉庫の壁は町工場によくある一枚ペラの波型スレートだ。スレートはセメントに繊維を混ぜて固めたもので、岩石に近い物質だ。

「これじゃあ外の様子が見えないね」と土田さんが言ったので、俺は、じゃあ穴あけますよ、と言った。

「この辺でいいですか?」

「いいけど……」

 俺は人差し指を壁につけると、〈祈り〉の要領で壁を粉末に変え、直径一センチほどの覗き穴を開けた。

「すごいね。うん、よく見える」

「岩石っぽいヤツならだいたいいけます」

 久美ちゃんも自分でやり始めたが、なかなか開かない。

「俺、やろうか?」

「……お願い」

 そして自分用の覗き穴と合わせて俺は三つの穴を開けた。


 敵は六時ちょうどに歩いて現れた。

 東の空は明るんでいるだけで、辺りはまだ薄暗い。

 人数は五人──痩せた男が二人、大男が一人、眼帯の女、そして誠一おじさん。

 中年の痩せた男が前に出て何か話しかけている。その後ろにもう一人の若い痩せた男がいて、手を縛られたおじさんを左手で掴み、右手には短刀を持っている。眼帯の女は大男がガードしていてほとんど姿は見えない。

 俺は耳を澄ませた。

「あなたの言っていた居酒屋の店長さんはどちらですか?」

「ここにいます」と美代子さんが言った。

「その男は本当に知っているのですか?」

「ええ、以前高橋誠一といっしょに仕事をしていました」

「証拠は?」

「誠一にこの人の名前を訊いてください。この男はその名前の免許証を持っています」

 ナイフを持った男がおじさんに名前を言うよう促した。おじさんは、高橋三郎だ、と言った。そして三郎さんは石目さんと一緒に中年の痩せた男に近づくと、免許証を見せた。

「どっちも高橋なんだな。まあいいだろう。高橋誠一と交換だ」

 若い痩せた男はおじさんにナイフを突きつけたまま三郎さんに近づいていった。

 一瞬で交換するつもりだ。これではSATの二人が目潰しする時間がない。

「こっちは丸腰だ。そっちもナイフをしまいな」と石目さんが言った。

「……ああ、いいだろう」

 男はナイフケースにナイフをしまった。

「じゃあ、五、四、三、二、一、ハイで交換だ」と石目さんが言った。時間を稼ぐ気だ。

「長いな。三、二、一、ハイにしろ」

「OK。じゃあ数える」

 三

 二

 一

 ハイ!

 痩せた男がおじさんの手を離した瞬間、石目さんはおじさんの腕を掴み、SATの後ろに放り投げた。

 と同時に三郎さんの尻を蹴り押し、若い痩せた男もろとも地面に倒した。

 混乱に乗じてSATの二人がけたたましいモーター音をあげ、砂を〈アンプ〉のトルネードに乗せて男三人の目を潰した。

 痩せた男は二人とも身悶えしたが、大男は動じなかった。

 石目さんは三郎さんを片手でぐいと掴み起こし、おじさんのいるほうへ放り投げた。三郎さんは尻から落ちてそのまま転がっていった。

 立塚さんは横に動いて女の目を狙いにいった。

 が、視界を奪われた大男はモーター音で立塚さんの位置を把握し、女をガードした。

 摺出寺さんは大男の足首にスライディングして地面に倒した。

 眼帯の女があらわになった。

 立塚さんは女の目を狙った。

 が、女が眼帯を外すほうが早かった。

 立塚さんは逆に強烈な光を浴びせられて気絶した。

 摺出寺さんはすばやく起き上がると立塚さんを抱えて退いた。そして立塚さんを地面に寝かすと〈アンプ〉を女のほうへ構えた。

 が、物陰から筋肉質の男が現れ、紐のついたナイフを摺出寺さんに投じた。

 摺出寺さんはとっさに右腕の〈アンプ〉で身を守った。そして左手で紐を掴んだ。

 石目さんが加勢しにきて紐を引っ張る。

 が、筋肉質の男はとつぜん紐を離した。拍子に摺出寺さんと石目さんは後方へ転がされた。

 そこへ女が光を浴びせた。

 摺出寺さんと石目さんは気絶したが、その直前に石目さんは縄を地面に這わせて女の足に絡めていた。

 女は痩せた男の上に倒れた。

「クソッ」

 若い痩せた男が目をぬぐいながら起き上がり、ナイフを投じた。

 美代子さんが倒れた。

「ざまあみやがれ!」

 俺は悲鳴が出そうになった。

 横では久美ちゃんが立ち上がり、今にも飛び出していきそうになっていた。それを俺は制止した。

 おじさんと三郎さん以外、もう誰もいない。

 圧倒的不利の中、土田さんが〈アンプ〉のスイッチを入れて外に出た。

 十秒とかからなかった。

 痩せた若い男、大男、痩せた中年男の順に、土田さんは〈アンプ〉に乗せたガラス片で手首を切った。

 たちまち三人の男は血まみれになって倒れた。

 〈アンプ〉から伸びる無数のガラス片は淡い朝日に照らされ、まるで輝く鞭のようだった

 筋肉質の男までは〈アンプ〉の鞭は届かなかったが、代わりに針状のガラスをいくつも投げつけた。そのひとつが目に入ったのか、男はその場に崩れ落ちてはげしくうめいた。

 眼帯の女がゆっくり起き上がろうとしていた。

 土田さんは倉庫の中に戻って息を整えた。

 そして言った。

「〈アンプ〉はね、目で見たものに命中するようにできているの。だからあの女の目を潰すには、あの目を見ないといけない」

「でも、そしたら……」

「そう。防犯ブザーを鳴らして」

 土田さんは出た。

 激しく明滅する女の左目にガラス片が次々と刺さる。

 光は止んだが、土田さんはその場に倒れ伏した。

 俺と久美ちゃんは防犯ブザーのボタンを押した。

 が、二つとも鳴らない。

「電池切れだ!」

 久美ちゃんは放心していた。

 こうなったら、俺があの女をぶっ倒さないと……。

 そう考えていると、倉庫の出入り口に明滅する光が挿し込んできた。

 女の左目は無事だった──。

 足音がする。

 もう、目を固く閉じたままタックルをかますしかない。

 俺は深呼吸し、耳を澄ませた。

 女はゾンビのような足どりでゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。

 俺は目を閉じたまま外に出た。

 耳を澄ませ。

 チャンスは一回だけだ。

 と、遠くから駆けてくる足音が聞こえてきた。

「結城くん!」

 俺はおもわず目を開けた。

 どうしてここに?

 女は後ろを振り返っていた。

「!」

 俺の体は女に飛びかかっていた。

 そして女の左目を手で覆い、夢中で〈祈り〉を浴びせていた。

 女の義眼が砂のように砕けるのがわかった。

「明官さん!」


 女が倒れたのを確認して、隠れていた公安の人たちがわらわらと姿を現した。そして倒れていた敵五人全員を縛って連行していった。前回あの女に一瞬で全滅させられたので、女が倒れるまではうかつに近づけなかったのだという。彼らにも生活があり、命も惜しいはずなので、尤もなことだと思うことに俺はした。

 敵は七人いたはずだが、二人は車で逃げたようだ。あのハイエースはどこにも見当たらなかった。

 気絶した大人たちも公安の人たちが運んでいった。美代子さんは、敵のナイフの投げ方が下手だったおかげで、腹の脂肪層を一センチほど傷つけただけで済んだ、と自分で言っていた。

 明官さんと俺は、公安のじゃまにならないよう隅っこに立って、公安が手際よく働く様子を眺めていた。

「明官さん、どうしてここがわかったんけ?」

「じつは〈おぱんちゅうさぎ〉の中に余っていたAirTagを入れていたんです。昨日の位置は山奥だったから行くのは無理でしたけど、今朝見たら立山駅の近くだったから、あ、ここなら行けるな、じゃあ、これは行くしかないな、と思って始発で来たんです」

「明官さんのおかげで命拾いしたっちゃ」

「勇者みたいでかっこよかったですよ」

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