赤影 五
壊滅的打撃から三日経ち、日付は十九日になった。
その間毎日、金沢のモグリの医者は包帯を交換しにやってきた。
唐はミイラ男状態から脱し、視力も回復して、ふつうに歩き回れるようになった。ただ調子に乗って激しく動くと体のあちこちの傷からまだ出血してしまう。
李はのどの腫れが少し引いた。痛み止めはもう服用できないので、今はベッドの上で痛みにじっと耐えている。
顎を骨折した周、足に深傷を負った張の病状は変わらないが、体の疲労はかなり取れた。
高橋は顔を四箇所削がれたが、口を破ることはなく、また衰弱もしていたので、それ以上拷問を受けることはなかった。高橋の頬を削いだ林自身も拷問を好まなかった。
「李さん」
「なんだ周」
「いま、李さんと張さん以外は動けるんだが、どうする?」
「どうする、って?」
「こいつの娘を拷問して吐かせる、ってのはどうかな?」と、周は高橋を睨みながら日本語で言った。
「ふーん。高橋さんや、このアイディア、どう思うかい?」
李はベッドの上から床に転がる高橋を見下ろして言った。〈わかった、話すから娘には手を出すな〉とでも言ってくれれば大助かりだ、と李は思った。
が、高橋は
「まあ、いいんじゃないか」
とだけ言った。
そして、
「そんなことより、さっきから天井裏にネズミが這っているようだが、このラブホは大丈夫なのか?」
と薄ら笑いしながら言った。
何を言ってるんだ、という表情でみなが天井を見上げる。衰弱して頭がおかしくなったのか、と誰もが思った。
「いや、本当にネズミが……」
と、天井板が外れ、上からスーツの男二人が落ちてきた。
赤影一味は天井板に体を圧され、埃に視界を奪われた。
「ちくしょう!」と林が叫んだ。
「奴らだ!」と唐が口を大きく開いた。高橋宅の監視カメラに映っていた、あの謎のスーツ集団だ。
ドアも蹴破られ、これもスーツの男たちが、どどどどっ、と部屋へ押し入ってきた。
男たちは真っ先に唐へ大きな銃のような武器を構え、ドンという音とともに網を発射した。唐の体は網で覆われ、身動きが取れなくなった。と同時に男たちは唐の体を金属の鎖でぐるぐる巻きに縛って身柄を拘束した。
周は武器の縄鏢を携行していなかった。が、あったとしてもこの狭いラブホの部屋では役に立たなかっただろう。彼は正面から警棒で攻めてくる男に対処しているときに背後からスタンガンを喰らい、次の瞬間には荒縄でぐるぐる巻きにされてしまった。
スーツの男たちにとって武術の心得のない林を捉えるのは容易なことだった。そして全身打撲の李は抵抗すること自体ができないまま、おなじく荒縄に巻かれて拘束された。
男たちは高橋を保護した。
「君たち、ありがとう」
「もう大丈夫です」と男のうちの一人が言った。
「いや、別室に女が三人いる。足を負傷しているやつは痒くなる息を吐くから気をつけてくれ」
「承知しています」
「あとの二人については何も知らない」
「気をつけます」
そう話していると、部屋の入り口にすでに眼帯の女・王淑燕が立っていた。
「闭上眼睛(目を閉じて)」
王がそう言うと赤影のメンバーはみな固く目を閉じ、王から顔を背けた。
それを確認して、王は左目の眼帯を外した。
王の左目からは、赤、緑、青の強烈な光が一秒に何十回という暴力的なスピードで激しく明滅した。王を警戒して凝視していたスーツの男たちはもれなく口から泡を吹いて倒れてしまった。
王は左目の義眼の光を見た者にてんかん発作を生じさせることができる。どれほど相手の戦闘力が強くても、どれほど相手が武装していても、この光の前にはまったくの無力だ。そして少なくとも十五分は意識が戻らない。
王は唐の鎖をほどき、ハサミで網を切った。
「王、サンキュー」と唐は言った。
自由になった唐は李、林、周の荒縄をほどいた。
「こいつら縛るか?」と周は李に尋ねた。
「いや急ごう。またスーツ集団が湧いてくるかもしない。俺たちはここを去らなくてはいけない」
唐はてんかん発作で硬直した高橋を抱え、周は張を背負った。
「そうだ、林。高橋の服を持ってきてくれ」
「〈OK牧場〉」
ほかのメンバーは自分の財布とスマホと薬だけを持ち、全員がハイエースに乗り込んだ。
「どこへ向かう?」と運転席の王は尋ねた。
「競輪場へ行ってくれ」
「競輪場?」
「ああ。あそこなら妙なナリでも怪しまれない」
ナビによれば、競輪場までは三〇分だった。王はアクセルを踏んだ。
陳が張の肩を抱いている。車の揺れが傷口に響いて、張は終始顔を歪めていた。
「李さん。さっきも訊いたが、これからどうする?」と周が言った。
「人質と引き換えに情報をいただく。それができないのなら子供か誰かをさらって吐かせる。それくらいしかできることがない」
「できるのか?」
「あるいは、高橋を捨てて逃げる。この件からは手を引く」
「なんだって? 頼が殺されたんだぞ」と周が李に食ってかかった。
林が周を制止する。
「〈赤影〉は戦闘集団じゃないんだ。戦闘はあくまで非常手段でしかない。范冰冰じゃないが〈立つ鳥跡を濁さず〉がモットーのスパイなんだよ」
「今さらそんなことを言うか?」と、周は林の細い腕を軽く払って腹立たしげに言った。
「もう一度訊く。できるのか?」
「人質と引き換えに情報をいただいたあと、連中を王のやつで全滅させる。あるいは連中を王のやつで全滅させ、高橋の代わりをさらう。できるかできないかは王しだいだ」
「連中はどこにいる?」
「わからない。が、それなら電話をすればいい」と、李は高橋のほうを見た。
やがて競輪場に着いたが、今日はレースをやっていないらしく、広い駐車場に車はほとんどいなかった。
「悪い。しくじった」と李が謝った。
「まあいいさ、外の空気は気持ちいい」と、王が運転席から降りて伸びをしながら言った。
「なぜか飯屋もやってそうだ」
「競輪場以外にもちょっとした施設があるらしい」と李が遠くを眺めて言った。
「みんな、とりあえずトイレに行こう」と陳が言った。
「林、高橋は目が覚めたか」と李が訊いた。
「ああ」
「じゃあ、拘束を解いて服を着せてやってくれ」
「〈OK牧場〉」
林はペンチで高橋の縄を切った。
「服は自分で着れるだろう」と林は高橋に言った。
「パンツはないんだな」
「あとで買ってやるよ」
「ありがとう。ノーパンで外に出るのは中学生のとき以来だ」
「中学生のときはパンツを履かなかったのか?」
「パンツを履かないで女子の隣に立つというのはなかなか癖になるスリルだった」
「勃ったりしないのかよ」
「そうなったら手を前で組んでなにごともないフリをする。それもまたスリルだ」
そうやって服を着終えた高橋が車から降りる。最後に張が、左肩を陳に支えられ、痛む左足を庇いながらゆっくりと降り、杖代わりのさすまたの片割れを地面につく。
全員はトイレに行ったあと、流動食しか食べられない李と周を除き、〈的中おむすび屋〉でおにぎりとそばを食べた。ギャンブル客向けの質素な食事だったが、みなコンビニ弁当が続いていたので自然と顔がほころんだ。唐は山菜そばを三杯立て続けに食べた。おにぎりは結構おいしかったので一〇個ほど持ち帰った。
「高橋さんよ」と唐が話しかける。
「あんたはいくら脅しても秘密を話さないってことは十分わかった。きっとあんたなりの事情だか義理だかがあるんだろう。だから、なんでそこまでして秘密を守るのか、なんて訊いたところで時間の無駄だってのも俺にはわかる。だから俺はそんなことは訊かない」
「あんたはスパイ失格だな」
フフ、と唐は笑った。
「俺には二つの秘密がある。ひとつはこの俺の体だ。それについてはもうあんたにはだいたいバレている」
「あんたは何をされても痛くない」
「まあ、ほかにもあるが、だいたいそんなところだ」
「もうひとつの秘密は?」
「それは、俺がこんな体になったいきさつだ」
「人民解放軍か何かにいじくられたんだろ?」
「そんな単純な話じゃない。それに、俺はいきさつを断片的にしか知らないが、それを全部知りたいとも思わないし、誰かに言おうとも思わない。それを俺は最近まで、全部を知ろうとしたら殺されるから、外部にバラしたら殺されるから、だと思い込んでいた。が、そうではなかった」
「興味深い話だ」
「知ろうとしたら、そしてバラしたら、どうなるのかわからないから、俺はそうしないのだ、と最近気づいたんだ」
「やれやれ、中国人は大変だな」
「おまえにもこういう、中国的な恐怖はあるのか?」
「俺はクリスチャンなんだ」
「ほう、日本人には珍しいな。それがどうかしたのか?」
「俺はむかし、秘密に押しつぶされそうになっていたんだよ。そんなとき叔母さんが教会に連れてってくれたんだ。神様に悩み事を聞いてもらえば少しは楽になるよ、って。俺はキリスト教なんてただの迷信だと思っていたが、叔母さんのことは好きだったからしぶしぶついていった。あんた、教会には行ったことがあるか?」
「中国で教会なんて見たことないね」
「教会では牧師さんが説教するんだが、このときは殉教について説いていた。キリストには十二人の弟子がいたんだが、このうち裏切り者のユダを除いた十一人のうち、十人も殉教しているんだ。それも犬死にのような形で。まったく、神もへったくれもありゃしねえ、って俺は思ったね。だってキリストに出会ってなかったら、彼らは平穏な生涯が送れたはずなんだから。これじゃあ神は神でも、疫病神だ」
「おまえの言うとおりだ」
「だが牧師さんは言うんだ──彼らの傍らにはずっとキリストの助力があった。だから彼らはキリストとともに信仰を貫くことができた。そして最後には救われたのだ、って。なるほど、神は伴走者なのか、上ではなく、横にいるのか──なんかそういうのが、変な話だが、ストンと腑に落ちたんだ。それからだな、俺が荷を軽く感じるようになったのは」
「面白いな。そういう非合理的な発想を中国人は行わない」
「そうだよな。中国には〈天〉があるだけだ」
「娘もクリスチャンなのか?」
「いいや」
「じゃあ、もろいな」
「残念だが娘はなんにも知らないよ」
「それは信用ならんな」と李が二人の背後から言った。「やってみないとわからない」
「そう思うのは当たり前だ」と高橋は言った。「習近平だってそう思うはずだ」
李は高橋の左肩に左手を置いた。
「高橋さんや、俺たちは車に戻ったらあんたの奥さんやお嬢さんたちと話がしたいんだが、スマホのロックを解除してくれないかい?」
李の右手には高橋のスマホがあった。
「まだ時間が早い。まだ家にはいないだろうし、これから夕飯の支度で忙しくなる」
食堂の時計は四時ちょうどを指していた。
「あんたに拒否権はない」と李は高橋の耳元で囁いた。
「ここを出よう」と林が李に声をかけた。
「そうだな」と李が言った。
ハイエースの中で、誠一は妻・美代子に電話をかけた。
電話の向こうは無言だった。
「あー、もしもし美代ちゃん。僕だけど、いまいい?」
「……誠一! 無事なんけ?」
「ああ、パンツがないほかはだいたい無事ちゃ。心配かけるね」
「そう、よかったあ! いま仕事中だからちょっと移動するね」
あのクソ女、こんなかわいい声も出すのか、と林が独り言をつぶやいた。
「あ、もしもし。今どこにおるん?」
「あいかわらず人質のままちゃ」
「え?」
「いま犯人と変わるから」
李がスマホを奪い取った。
「奥さん、はじめまして。私はザ・ワールドです」
「……」
「ひとつ取引をしましょう」
「……何?」
「あなた方は高橋誠一さんの職務情報を我々に開示する。我々は高橋誠一さんの身柄をあなた方に引き渡す」
電話の相手が沈黙する。李はそのまま待った。
「……いいでしょう」
「ありがとう。なんならいま教えてくれれば、旦那さんはすぐにでも解放しましょう」
「そんな都合のいい話は受けられない」
女は即答した。李は苦笑いした。
「それに、私はあなたたちの求める情報をなにも知らない」
「じゃあ誰が知ってる?」
「知っている人間を明日早朝呼び寄せる」
「今からじゃダメなのか?」
「彼は居酒屋の店長をやっている。仕事が終わるのは〇時過ぎで、しかもくたびれ果てている。明日早朝というのは最短で実現可能な日時だということを理解してほしい」
きっと時間稼ぎのための嘘だぜ、と林が耳打つ。
「ところで奥さん、あなたはクリスチャンですか?」
「いいえ」
女の返事に迷いはなかった。
「わかりました。あなたは秘密を知らないようですね。では明日、我々は何時にどこへ行けばいいですか?」
「立山砂防事務所の奥の駐車場に朝六時」
「このあいだの場所ですね。あなた方に地の利はないですが、かまわないんですね」
「あそこは車で行きやすく、人目もつかない。それに明日は土曜日、職員が来る心配もない」
「お気遣い感謝します。それでは明日」
「ザ・ワールドさん、あなたには勝算があるようですね」
「奥さん、あなたはすてきな方だ。ウチのメンバーにスカウトしたいくらいです」
女が電話を切った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます