高橋久美 五
水谷出張所での初めての朝、早く目が覚めた私はシャワーを浴びた。
しかしいくら体を洗っても、体の芯に巣食う薄汚さがいっこうに落ちない。私はいっそのこと、薄汚い男にナイフを突き立て、薄汚い返り血を浴び続けていたかった。
そのいっぽうで、そんな精神状態はおかしい、少し休むべきだ、と冷静に分析する医師役の自分もまた存在した。私は医師役の自分に促されて、シャワーを止め、髪を乾かし、浴室を出た。
建物の中では砂防ダム工事に従事する人が仕事の準備をする音でざわついていた。私は逃げるように女部屋に戻った。
母さんもいつもの作業着を着て仕事に行く用意をしていた。土田さんは細身のジーンズに黒のTシャツで、ベージュのパーカーを羽織っていた。私は学校のジャージだ。
「長いシャワーだったね」と母さんが言った。
「今日はだらだらしてる」私は生乾きの髪に櫛を通しながら言った。
「スマホがないけど、だらだらできる?」
家から持ってきた暇つぶしは入試の過去問集だけだ。
「ユキシロ君にタブレット借りる?」
「なんであいつがタブレット持ってんの?」
「あれで勉強しとるらしいよ」
「あいつが?」
なんかムカついたので、私はタブレットを借りないことにした。
「今日は寝てる」
「あんまり土田さんを困らせるんじゃないよ」
母さんは、あとはよろしくおねがいします、と土田さんに言って職場(といってもここが職場だが)に出かけた。事務所行きのトロッコが来るまで連絡所(トロッコの駅のような場所)を掃除したりするらしい。
土田さんと私は女部屋から母さんを見送り、ドアを閉めた。
私は脱力するように布団の上であぐらをかくと、心がざわざわとうごめくのをじっとやり過ごした。
「久美さんは正しいと思うよ。頭が混乱した時は寝るに限る」と土田さんが言った。
「……ありがとうございます」
私は布団を被った。水谷出張所は標高が千メートル以上あるので、朝晩は夏でもすこし肌寒い。
目を閉じて頭に浮かんでくるのは昨日のろくでもない朝のことばかりだ。
あれはほんとうに起きたことなのだろうか?
あの眼帯の女に、私はいったいなにをされたのだろうか?
そして、体にしつこく残るあの嫌な感覚は私の錯覚なのだろうか?
「久美さん、嫌な夢でも見てるの?」
「……あ、土田さん、いま何時ですか?」
「十一時半。さっき〈ミリ飯〉が届いたよ」
三時間も寝てしまった。しかも寝覚めは最悪だ。
「シャワー浴びてきます」
「お湯で軽く流すだけにしなさい。それ以上せっけんなんかを使うと肌がボロボロになっちゃうよ」
「むしろ塩素消毒したいくらいなんですけど」
ああ、私はいったい何を言っているんだ。
「ねえ久美さん、〈ミリ飯〉を持って散歩にいきましょう。すこしは気が晴れるかもしれないよ」
「……」
気なんか晴れるのだろうか。しかし部屋にいても何もやる気がしないし、これ以上寝ても気持ち悪くなるだけだ。それに土田さんが私をもてあましている。
「久美さん、この辺知ってるんでしょ。案内してくれるとうれしいな」
「……はい」
私が返事をすると土田さんはノートパソコンを閉じた。
私たちはヘルメットと熊よけの鈴を借りると、〈ミリ飯〉と水とタオルの入ったリュックを背負い、首に〈自衛隊〉と書かれたネームストラップをぶら下げて建物の外に出た。
たしかに部屋の中にいるよりはずいぶんましだ。
私たちはかつてトロッコ軌道だった背丈ほどのトンネルをくぐって二〇分ほど歩き、
「こんな近くにあったのね」と土田さんが言った。
「水谷出張所はもともとこれを作るためにできた基地なんです」
「そうなの」
私たちは橋の上から滝のような堰堤を見下ろす。
「こいつが土石流を食い止めています。美術品じゃないけれど、重要文化財です。これがなかったら富山平野は土石流で死にます」
「うつくしいよね」
土田さんはうっとりした表情で橋の下を見下ろしている。
「え? この無骨なコンクリートがですか?」
「重機のない戦時中に、こんなべらぼうなものを作ろうと考えた設計者がまず凄いし、それを人力だけで完成させた土木のプロの人たちも凄い。でもそれだけじゃない。仕組みが凄く理にかなっていて、すでに八〇年も現役で、富山市に凄く役立っている。ほんとうに〈凄い〉のオンパレードで、ここにあるべきものが、まさに理想的な形をともなって、現にここにある。それってもう、完全に奇跡なんだよ。だからこの堰堤は涙が出るほどうつくしい」
それは比喩ではなく、土田さんはほんとうに涙ぐんでいた。
私はここを、たんに昔の人が作ったコンクリートの堤防だと思っていた。優れた技術で作られたから重要文化財なんだと思っていた。社会のテストだったら、そう書けばマルがもらえるだろう。だが、それで満足してしまう自分にはなにか致命的に欠けているものがあるんじゃないか、と不安になることが近頃増えてきた。それは教科書を理解して問題集を解いてもぜったいに身につかない類の知恵だ。
「四二〇段の階段を降りると下から勇姿を眺められますが」
「それはキツいから遠慮しとく」と土田さんは笑った。
「どこか座ってごはんできるとこ知らない?」
「この辺は基本、工事現場ですから。……あ、立山温泉跡地に休憩所とトイレがあります」
「歩いてどれくらい?」
「一時間弱です」
「じゃあ案内おねがい」
私たちは常願寺川の石だらけの河原を歩き、未舗装のじゃり道を歩いて、舗装された林道に出た。林道は一般車が通らないので車は少ないが、かわりに猿がいたりする。
「ペース大丈夫ですか?」
「大丈夫だけど、暑いね」
「もう少しです」
土田さんはパーカーを腰に巻き、私はジャージの上を腰に巻いた。二人とも首からタオルをぶら下げて、汗を拭いたり、虫を払ったりしながら歩いた。
そうして私たちはイスと屋根だけの休憩所に着いた。
「ああ、いい運動した。じゃあごはんにしようか」
「あの、自衛隊のレーション、食べたことありますか?」
「〈レーション〉って〈ミリ飯〉のこと? もちろんないよ」
「ご飯が四〇〇グラムもあるんですよ。しかも餅米」
「とんでもないね。じゃあ半分こしましょう。あたしは米は一〇〇グラムでいいから、久美さん三〇〇グラム食べて」
「そんなに食べれません。〈半分こ〉と言ったら二〇〇グラムずつです」
「久美さんは数学が得意なんだね」
「これは算数ですよ」
「がんばって食べましょう」
タコライスの袋もあったが、協議の結果、私たちは麻婆豆腐+蟹チャーハンの袋を開けることにした。
加熱用ポリ袋の底にヒートパックを敷き、米パック二つを横に並べ、麻婆豆腐のレトルトパウチを米の上に置く。そして指定量の水をポリ袋に注ぎ、すばやくポリ袋の口を縛る。そして二〇分待つ。
「土田さん、すいませんがタイマーで二〇分セットお願いします。私スマホがないんです」
「OK。久美さん慣れてるね」
「消費期限切れのものを父がもらってくるんです」
土田さんが、ふふ、と微笑んだ。
「お父さん、もうすぐ助かるからね」
「……」
「二〇分って長いね」
「ええ」
「ねえ久美さん、岩を砕くの見せてよ」
「砕くだなんて。小石がちょっと粉を吹くだけです」
「いいからさァ」
そう言って土田さんは白っぽい小石を拾って私に手渡した。
私は小石を右の手のひらで包むと、目を閉じ、手の中で小石が粉吹き芋になるイメージを浮かべた。
握っている手の感覚がすうっと消えたら、目を閉じたままその状態を維持する。右手首から先がなくなったような感覚をそのまま受け入れ、なにも考えず、ただ呼吸だけに意識を向ける。
が、夏山にはたくさんの虫がいる。耳元で羽音はするし、腕や足首は刺されて痒くなる。そうして集中は解けてしまい、右手に感覚が戻る。手を開くと、わずかに土埃がついているだけだ。
「ぜんぜんダメですね。小学生の頃がまだマシでした」
「ちゃんと練習しないとね」
「いや、練習しても意味ないですから」
「あたしに貸して」
私は小石を土田さんに渡した。
土田さんは左手の手のひらに小石を置き、左手の下に右手を添えた。
白っぽかった小石は黒っぽく変わり、軽石のように穴だらけになった。そして右手には直径一センチほどの小さなガラス玉ができあがっていた。
「はいプレゼント。純粋な二酸化ケイ素よ」
「……ありがとうございます」
「ガラスの美術作品って、運んでるとよく欠けたりヒビが入ったりするのよ。そういうとき、二酸化ケイ素を分子レベルでバラバラにしてこっそり補修するの」
「二酸化ケイ素とか、分子レベルとか、なんでそんなに詳しく知っているんですか?」
「話すと長いんだけど、二〇分までまだあるからいいよね」
土田さんはこんなことを話してくれた。
場所は東京、季節は冬で、土田さんは大学二年生、二〇歳になったばかりだった。土田さんは友だちに、すごい手品師がいるからいっしょに見に行こう、と誘われ、新宿のマジックバーに連れて行かれた。
その手品師は四〇歳くらいのとても小柄な女性で、〈ハカイダーみどり〉と名乗っていた。彼女は金属以外のありとあらゆる小さいものを手で触れただけで破壊する手品を披露していた。紙コップには指の形に穴が開き、プラスチックは指でなぞると亀裂が入り、陶器の湯呑みは割れ、そしてガラスコップは砂のように崩れた。
目の前一メートルで起こる破壊の数々に、少し酔った友だちは、ぜんぜんタネがわかんない、と大喜びしていた。が、土田さんは酔いがすっかり覚めてしまっていた。
〈ハカイダーみどり〉のショーが終わった後、土田さんはバーのマスターに頼んでバックヤードに入れてもらった。土田さんは手に空のグラスを持っていた。
〈ハカイダーみどり〉は汗を拭き、化粧を直しているところだった。土田さんを見て彼女はにっこり笑った。ファンだと思ったらしい。
土田さんは真剣な表情で、これを見てください、と頼んだ。そして持ってきたグラスを粉々に砕いた。
土田さんは彼女が自分の仲間だと確信していた。が、彼女は、それは手品じゃないね、とだけ言った。土田さんはひとこと、はい、と答えた。すると彼女は苦い顔をして、このことは墓場まで秘密にしておくことだね、めんどくさいことになるから、と土田さんに忠告した。
土田さんはフロアに戻り、友だちといっしょにほかの手品師のマジックを見た。テーブルマジックはどれも見事だった。が、土田さんの落胆をまぎらわすほどではなかった。
やがてショーも終わり、そろそろ帰ろうか、と友だちと話していると、土田さんの元に〈ハカイダーみどり〉が慌てた様子でやってきて、こう尋ねた。
「あなた、都営大江戸線に乗ったことある?」
「そりゃあ、ありますけど」
「子どもの頃から?」
「はい。家が練馬なんで」
「なんともなかった?」
「どういうことですか?」
「あなた知ってる? 都営大江戸線はモーターじゃなく磁石で動いているの。とても強い電磁石で」
「知りませんでした。ですがそれがなにか?」
「目がチカチカしたりしなかった?」
「いいえ」
土田さんは彼女が何を言っているのかさっぱりわからなかった。しかし〈ハカイダーみどり〉は満足そうな笑みを浮かべてハンドバッグから携帯電話を取り出した。
「さっきの墓場の話はナシ。電話番号を交換しましょう。あとで詳しいことを話すから」
「そうして防衛庁の防衛研究所を紹介されていろいろ調べてもらったのよ」
「そうだったんですか」
それにしても〈ハカイダーみどり〉って、どう考えてもみどりさんのことだよな。冬の出稼ぎで手品師だなんて、筋金入りの自由人だ。そしてみどりさんは土田さんの目玉がほじくられるのをみごとに回避してくれた。だいたい磁場を見る能力と物を砕く能力はセットで見つかるので、あのとき土田さんはほんとうにピンチだったのだ。本人はなんにもわかっていないようだが。
「測ってみると、あたしの手のひらからは三〇メガヘルツの電磁波が出ていたの。それは偶然にも二酸化ケイ素が共振する振動数と同じなんだって。だから物質に電磁波を浴びせ続けると二酸化ケイ素だけが共振して、結晶の結合が分子レベルで切れてしまう。その状態で電磁波を止めると二酸化ケイ素は共振をやめて再び結晶化する。とまあ、そういう仕組みだったの」
「二酸化ケイ素だけに反応するんですね」
「そう。それ以外の物質には何の変化も起きない」
「じゃあ、みどりさんは電磁波の周波数を自在にコントロールできたんですね」
「久美さん、みどりさんを知ってるの?」
「高橋みどりは祖父の妹、大叔母です。でも手品師をやっていたのは今はじめて知りました」
「おもしろい縁ね」
タイマーが鳴った。
「さあメシだメシだ」
私は加熱用袋の口を開け、中から食糧を取り出した。手早くしないとやけどをする。
「熱いから気をつけてくださいね」
私は麻婆豆腐をとり、土田さんには蟹チャーハンを渡した。これをプラスチックの先割れスプーンで食べる。
「麻婆豆腐のように米と具材が分かれているものは、そのまま具材をかけると溢れてしまうので、米の半分を掘って片側に寄せて、具材を入れるスペースを作り、そこに具材を入れます」
「言われないとわかんないね」
私たちは麻婆豆腐と蟹チャーハンを半分ずつ食べた。おこわじゃないのに餅米って、不思議な感じがするけど、悪くないね、と土田さんはおいしそうに食べていた。
「自分の能力に気付いたのはいつごろだったんですか?」
「ちいさいころ。ガラスのコップがとつぜん割れて手を切ったりして大変だったのよ。それからビー玉やおはじきを使って、きちんとコントロールできるようにひとりでこっそり練習したの」
「すごいですね」
「久美さんも練習すればできるようになるよ」
「いや、私、手品師とかムリなんで」
「あはは」
「近くに池があるんです。行ってみませんか」
「いいね」
私たちは弁当ガラを片付けると、近くにある泥鰌池まで歩いた。ここは一般の人が入れないのになぜかきれいな歩道が整備されている。
「きれいなとこね」
「昔はさっきごはん食べたところに事務所と温泉があって、事務所の人や作業員の人はこの池の魚を食べて暮らしていたんだそうです」
「久美さんはなんでも知ってるのね」
「ぜんぶ父の受け売りです」
「そう」
私たちは立ったままぼんやり池をながめていた。動きのない湖面にときおり魚がちいさな波紋を立てる。
「ベンチがあるといいのにね」
「あのう」
「なあに?」
「はじめてセックスしたときって、どんな感じでした?」
「は?」
土田さんは少し驚いた様子で私をじいっと見た。当たり前だ。このガキはとつぜん何を言い出すんだ?、と思っているはずだ。
「こういうこと訊ける人、ぜんぜんいなくて」
「中学生で語れる人がわんさかいたら怖いけどね」
「自分より体のずっと大きい男の人が、もしガバーッときたら、私、たぶん恐怖しか感じないと思うんです。だから、自分は一生セックスができないんじゃないかと思ったりするんです」
「真面目な話なのね」
「真面目です」
「はじめてのときは、……あまり思い出したくないね。恥ずかしいというよりも、怖い。相手の体が重い。そして痛い。痛いって言ってるのにやめてくれない。両手で押しのけてやっとやめてくれた」
「相手は好きじゃない人だったんですか?」
「好きな人だった。そして、してもいいかな、って雰囲気にもなっていた。なのにそんなふうになってしまった」
「そうだったんですか」
「今にして思えばね、あのときはまだ相手をそこまで受け入れてはいなかったってのがわかる。だから肌と肌が触れ合ったとき恐怖しか感じなかった。けど、わりとすぐに相手の体温がしあわせに感じられるようになって、それからはもう怖くはなくなったね。あいかわらず重かったし、たまに痛かったりはしたけど。こんなんでいいかしら」
「ありがとうございます」
「久美さん、好きな人はいるの?」
「それがいないんです。まったくいないんです」
*
十七時にSATの二人の大男、立塚さんと
女部屋をノックする音が聞こえて、扉を開けると、SATの二人が立っていた。
「どうもはじめまして。SATの立塚です。よろしくお願いします」と立塚さんが頭を下げた。
「おなじく摺出寺です。よろしくお願いします」と摺出寺さんが続けて頭を下げた。
まあまあそんな畏まらずに、と土田さんは二人を制した。
二人は悪目立ちしないよう、開襟シャツにストレッチのチノパンというラフな私服姿をしていた。ただし、玄人めいたガタイのよさだけはどうやっても隠すことができていない。
到着がこの時間になったのは、〈アンプ〉という、どうしても宅配では送れない荷物があったからだそうだ。そのため東京の市ヶ谷を朝一〇時に車で出発して、七時間かけてここまでやってきたという。
「よかったら一緒にお来しください」と立塚さんが言った。
土田さんと私はSATの二人のあとに着いていって外に出た。二人は車のトランクから、トランペットのケースのようなものを五つ降ろし、広間まで運んだ。
「土田さんの分の〈アンプ〉もあります。操作は簡単ですので、明日練習しましょう」
立塚さんがそう言ってケースを開けると、中には円筒状の機械が入っていた。
「この機械は離れた場所のモノを押したり引いたりする、いわゆる念力を可能にする機械です。手の機能を増幅するので〈アンプ〉と呼ばれています。試作機ですので正式名称はありません」
私たちがケースに入った〈アンプ〉を眺めていると、どうぞ手に取ってください、と摺出寺さんが言った。
持ってみるとすこし重かった。
「先端に開口部が六つありますが、外側の三つは超指向性送風機です。強力なモーターにより、トルネード状の風を離れた場所へピンポイントで送り出します。これでモノを〈プッシュ〉することができます。内側の三つは吸引機で、送風機が送風する空気をトルネードの中心部から吸引します。そうすることでトルネード内に上昇気流を生じさせ、極小の竜巻を生み出します。これでモノを〈プル〉することができます」
「これは腕につけるんですか?」と土田さんが尋ねた。
「〈アンプ〉は前腕部に装着して、肘から手首までを覆います。軽いポリカーボネート製ですが、中のモーターがすこし重いので、二キロちょっとあります」
そう言って立塚さんは実際に装着してみせた。ロックマンそっくりだった。
「土田さんも左腕につけてみましょう。腕をお出しください」
土田さんが左腕を差し出すと、お美しい腕ですねえ、と摺出寺さんがおどけた。そしてボタンをおして〈アンプ〉を開き、腕を覆ってカチッと閉めた。
「けっこう重いですね」
「僕たちは両腕につけますが、土田さんは左腕だけにして、右手で支える形にしましょう。あと、サイズがブカブカですね。バスタオルか何かを腕に巻いて固定させましょう。風の反動がそれなりに来ますので」
土田さんはボタンを押して〈アンプ〉を腕から外した。
「あの、そもそもの疑問なんですが、私がこれをつける必要というか、メリットはあるんでしょうか?」と土田さんは尋ねた。もっともな疑問だ。
「〈アンプ〉自身に殺傷能力はありません。できるのはせいぜい武器を握る敵の手元を狂わせることくらいです。ですが〈アンプ〉がすばらしいのは、風に乗るような小さなものをそのまま離れた場所へ作用させることができる点です。たとえば砂を風に乗せて敵の目に〈プッシュ〉すれば目潰しができます。もちろんガラスもOKです」
「面白そうですね。電磁波はムリ?」
「風が運べるものに限られます。残念ながら電磁波はムリです」
「そうですか」
土田さんはすこしがっかりしていた。が、すぐに気を取り直して質問した。
「コントロールはどうやってするんですか?」
「このメガネをかけます。そうすれば目で見たものへトルネードが飛んでいきます。目標に向かって〈アンプ〉を水平に押し出せば〈プッシュ〉になり、水平に引けば〈プル〉になります」
「あの、質問してもいいですか?」と私は言った。
「どういう経緯でこんな不思議なモノが開発されたんでしょうか?」
「銃火器を使った方が手っ取り早いのに、ということですか?」と立塚さんが言った。
「そうです」
「日本の法律ではSATといえど、アメリカのポリスみたいに銃をパンパン使えないんですよ。だから、なるべく銃火器を使用せずに、合法的に敵を制圧するにはどうすればいいか、私たちはいつも考えています。そうして知恵を絞った結果のひとつがこの〈アンプ〉なんです」
「僕たちは死にたくないし、かといって始末書も書きたくないんですよ」と摺出寺さんが笑いながら付け加えた。
*
翌日十八日、土田さんは出張所前の小さな広場で朝からSATの二人と〈アンプ〉の練習をしていた。まるでガンマンの練習のように、一〇メートル先の台に乗せた空き缶へトルネードの風を当てる練習をずっとやっていた。
私はそんな三人の様子を窓から眺めながら、入試過去問の数学を淡々と解いていた。
一〇時半に三人は休憩のため建物の中に入ってきた。私は女部屋から広間に出て、ゆきしろがくれた徳用ミルクチョコレートの袋を開けて三人にあげた。
「どんな感じですか?」と私は土田さんに尋ねた。土田さんは顔が赤らんでいて、ずいぶんと汗をかいていた。
「ずっと着けてると重い重い。あさっては筋肉痛だね」
土田さんはそう言いながらメガネを外すと、〈アンプ〉のボタンを押して開き、バスタオルでぐるぐる巻きになった左腕を解放した。
「止まった缶に狙いを定めて当てることはなんとかできるようになった。次の目標は動きながら止まった缶に当てることだね。その次は動いている物体に動きながら当てること。〈プッシュ〉は午前中で片付けたいね」
「なんだか楽しそうですね」
「楽しいもんかい。やられたくないだけだよ」
「土田さんは上達が早いですよ」と立塚さんが感心したように言った。
「そうそう、集中力があって飲み込みも早いんです」と摺出寺さんも感心していた。
「みなさんの足手まといにならないよう必死なんですよ」
そう言って土田さんは左腕にバスタオルを巻くと、ふたたび〈アンプ〉を装着し、メガネをかけた。
「午後は〈プル〉の練習。そしてガラスをつかった練習。もし遠くからガラスを突き刺せればこっちは楽勝だからね。がんばらないと」
「敵はこんなところまで来るんですか?」
「来ないといいよね」
土田さんたちは〈アンプ〉の練習に戻り、私は勉強を再開した。
窓の外では土田さんが歩きながら缶に〈アンプ〉を向けている。なかなか缶は倒れない。私はシャーペンをくるくる回しながら、その様子をぼんやりと眺めていた。
いきいきと汗を流す三人を見ていると、私は自分がひどく無価値な人間のように思えてならなかった。
三人だけではない。母さんも、石目さんも、三郎さんやゆきしろだって心の弦がピンと張り詰めている。中身は充実し、目的があり、意志があり、行動が伴っていて、ちゃんと生きている感じがする。
私だけがひどく薄っぺらで、中身がスカスカで、けっきょく誰からも必要とされていない。今に限らず、生まれてこのかたずっとそうだったのだ。そういう状況はほんとうに耐え難いのだが、なにをどう努力をすればいいのかがさっぱりわからない。今までけっこう努力を重ねてきたつもりなのだが、その結果がこの有様なのだ。これ以上努力を重ねても薄っぺらさに磨きがかかるだけのような気しかしない。
今年の春まではそんなことにまったく気づかなかった。今に思えば厚かましいほどの私の自尊心を支えるには、勉強ができて、スポーツもそれなりにできるという、単純で薄っぺらな指標だけで十分だった。
そう、私の努力はひたすら指標を上げることに費やされてきたのだ。
しかし今年の夏、私の中には成績以外なにもないことを思い知らされた。成績だけをもってほかの人を見下していたおぞましい自分を知り、成績以外のもっと人間らしい実経験に自分の支えをもつ人の、その感受性の深さに打ちのめされた。
私にはなにもなかった──。
そして大好きだった父にとどめを刺され、私はほんとうに無価値になってしまった。
*
この日は朝昼晩すべて〈ミリ飯〉だった。
私はいいかげん飽き飽きしていたのだが、働いてお腹を空かせたほかの人はかまわずガツガツ食べていた。
私たちは夕食を食べながら報告会を行った。
けっきょく土田さんは今日一日で〈アンプ〉の使い方を覚えたという。
SATの二人は明日、石使いチームに同行するという。
三郎さんは家に帰ろうとしたが、身の安全のためしばらくここに滞在することになったという。
ゆきしろは三郎さんのアドバイスのおかげで〈祈り〉に大きな進歩が見られたという。
敵は相変わらず富山ICのラブホテルに潜伏していると石目さんが報告する。
公安からの連絡はなにもないと母さんが言う。
……なんだかどの報告も私とは関係のない、遠い国の出来事のようにしか思えてこない。
*
翌十九日、私は昨日と変わらず問題集を開き、土田さんはひとり広場で〈アンプ〉の練習をしていた。
ときどきカーンと何かが命中する音がしたが、私はもう窓の外を見たりはしなかった。
昼過ぎに、ゆきしろ宛のゆうパックが転送されてきた。二〇センチほどのちいさな軽いダンボールで、発送日が二日前の十七日、送り主欄には〈明官玲奈〉と書いてあった。
私は目を閉じ、大きくため息をついた。
なにもかもが遠く感じる。
いろんなことが私と無関係な場所でゆたかに育まれている。いっぽう私は誰にも迷惑をかけず、一人で努力して、どんどん薄っぺらく、貧しくなっている。
私がいま一番ほしいものを、ゆきしろはすでに手にしているのかもしれない。
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