結城史郎 五

 おじさんが誘拐された日──。

 学校が終わると俺は急いで家に帰った。

 家には誰もいないので、自分で荷物を用意しなくてはいけない。母さんからLINEに、①着替え、②タオル、③財布、④スマホ、⑤タブレット、⑥充電器、⑦モバイルルータ、⑧旅行の時の薬セット、を持っていくようメッセージが入っていた。リュックの隙間には家にあったお菓子を詰められるだけ詰めた。

 ちょうど荷造りが終わったときにハイラックスが家の前に停まった。運転席には石目さん、後部座席には美代子おばさんと久美ちゃん、そして助手席には知らない女性が座っていた。俺はリュックを荷台に放り込むと、後部座席に座った。

 俺は誰に言うでもなく、「よろしくお願いします」と言った。

「とつぜんのことでびっくりしたでしょう」と、隣に座る美代子さんが言った。

「いまも混乱しています」

「ユキシロ君には黙っとったけど、ちょっと前から誠一は狙われとったの」

 ええっ? ぜんぜん気づかなかった。

「敵は誠一の〈秘密〉を狙っとる」

「〈秘密〉って、石使いのこと?」

「そう。だから敵は誠一を殺す気はないし、殺せない。大丈夫。心配ないから」

 美代子さんは明るい声でそう言った。俺を心配させないための演技であることくらい、鈍い俺でもさすがにわかる。

 それにしても、石目さんたちはおじさんを守れなかったのだろうか?

「大口さんと開門さんは?」

「二人はいま入院中。でも大丈夫。土田さんがいるから」

「はじめまして、土田ルリ子です」

「あ、はじめまして」


    *


 俺たちは水谷出張所に着いて弁当を食べ終えると、まず男──石目さんと俺の二人──が風呂に入った。

「石目さん、なんだか疲れてますね」

「そりゃそうだよ。朝から死闘だったんだから。ほら、あざだらけだろ」

 よく見ると体はあざでいっぱいで、あざでない部分の方が少ない。

「強敵だったんですか?」

「ああ、とんでもなかったね。まるでクマ相手に戦ってるようなもんだったよ」

「石目さんたちの能力でもダメでしたか」

「やつはどうも痛みを感じない体のようだった。たぶんやつも〈ジーン〉なんだろう」

 ?

「石目さん、〈ジーン〉ってなんですか?」

 すると石目さんは、しまった、という表情をした。

「いやあ、なんでもない、なんでもない」

「あのう、〈秘密〉でしたら言わなくていいですよ」

 すると石目さんは考えた。

「……いや、誠一さんから〈ジーン〉を口外しないよう言われた覚えはないから、話しても大丈夫」

「ほんとうですか?」

「ああ。それに、ユキシロ君に自分のことを隠しておくのも不自然だ」

 中国国内の通信データは原則すべて監視されている。そして監視を可能とするために通信データはあえて暗号化されていない。そのため中国のデータは外部から容易にハッキングできてしまう。中国人民解放軍が世界中の機密データをハッキングしているとしばしば報道されるが、じつはそれ以上に中国の機密データは世界中からハッキングされている。

 五年前、防衛省は人民解放軍の〈ジーン〉に関する情報をハッキングした。それは人間の脳波に直接介入するための技術で、元からある人間の脳波にフィルターをかけ、増幅し、電磁波に変換したものを相手の脳に伝播させることで、相手の脳を一時的に乗っ取ることを可能にしていた。それを実現するために石目たちの遺伝子には、宿主を操る寄生生物の遺伝子を改造したコードなどが付加されている。

「こういった治療目的以外の遺伝子改変は、もちろん日本の法律で禁じられている」

「じゃあ、なぜ石目さんは〈ジーン〉になったんですか?」

「自衛隊はたとえ紛争に巻き込まれたとしても自由に武器が使えないんだ。自国どころか、自分の身すら自分で守れないんだよ。だからたとえ法律違反だとしても、こういった武器を用いない自衛手段は、誰かが実現しないといけないと強く感じていた。だったら自分がやろうと」

「そうだったんですか」

「ただ今回分かったのは、中国の〈ジーン〉は五年前よりも格段におぞましく進歩していたことだ。〈ジーン〉の女は吹き出物だらけでゾンビのような肌をしていた。もはや〈ジーン〉が本体で、人間が〈ジーン〉の犠牲になっている」

「寄生生物に寄生されているようなものですか?」

「まさにそうだ」


    *


 ──しばらくは相部屋だからテキストだけでお願い

 いつものように夜八時ちょうどに明官さんへLINEを送った。

 ──誰と一緒にいるんですか?

 ──ムキムキのお兄さん

 ──妄想が膨らみますね

 ──ラノベはどう?

 ──国王には悲しい過去があることにしました

 ──どんな?

 ──ちび、はげ、でぶ

 ──それって過去じゃないよね

 ──ちっちゃいころから兄弟でひとりだけ、ちび、はげ、でぶだったから、親から虐待され、兄弟からバカにされ、女子からキモがられ、家来たちから陰口を言われ続けたんです。それで性格がひん曲がったんです。

 ──でも、ラノベを買う人って、ちび、はげ、でぶの人が多いんじゃないかな? 敵に回しちゃまずいんじゃないかな?

 ──ボツですね。自分で書くのは難しいですね。

 ──www


 明官さんと話しているときだけ、俺は心配事を忘れることができる。

 俺はスマホの画面を消し、布団にあおむけになった。

 となりの石目さんが俺を見下ろして言う。

「こんなにニコニコしているユキシロ君を見るのは初めてだ」

「あ、ごめんなさい。不謹慎ですよね」

「いいや、単純に事実に驚いただけだよ」

「風呂場でもそうでしたけど、こんなに話したの初めてですね。石目さんってすっごい無口な人なんだと思ってました」

「自衛隊員はね、任務中は上長の許可がない限り無駄口を叩いたらいけないんだよ」

「そうだったんですか」

「僕は傷のせいで体がだるいから、もう寝かせてもらうよ」

「じゃあ僕も寝ます」

「おやすみ」

「おやすみなさい」

 この状態でZ会の講義は聴けない。明官さんもがんばってるみたいだし、明日仕事が終わったら二日分やろう。


    *


 朝九時に三郎さんがトロッコで水谷出張所へやってきた。

「やあユキシロ君、今日から頼むよ」

 三郎さんはいつもの軽い調子で明るく言ったが、それからずっと押し黙っていた。

 石目さんはハイラックスの運転席に、三郎さんと俺は後部座席に乗った。

「今日はどこをやるんですか?」と俺は尋ねた。

「立山新湯。やっかいなとこだ」と三郎さんが答えた。

「俺なんかにできますかねえ?」

「バカ。やるんだよ」

 水谷出張所はトロッコ軌道の東の端だが、立山新湯はそこからさらに四キロほど東にある間欠泉だ。途中の刈込池までは工事用の道があり、そこからやぶをかき分け四〇分歩く。山道はない。もっとも、石の置き場はたいてい山道から離れた藪の中にある。今回使う三つの五〇キロの石は昨日自衛隊員の三人が一個ずつかついで立山新湯まで運んであったから、今日の荷物はボンベとやぐら、消炎剤をのせだ電動キャタピラ台車だけだ。

 

 温泉が自然に湧き出るということは、マグマや蒸気が地表近くに豊富に流れていることを意味する。地表に近いから噴出する蒸気が土砂で遮られることはなく、通常であればルートが詰まることはない。

 しかしこの立山新湯のルートは詰まる。湯にガラスの主成分である二酸化ケイ素が飽和していて、溶けきれなかった二酸化ケイ素が結晶となって液中に存在しているからだ。この湯は地中に染み出し、土が半ばガラスのようになっている。そして二酸化ケイ素は強い粘り気を生むので、マグマや蒸気の勢いが弱まるとルートはたちまちガラスで詰まってしまうのだ。

 この場合、できるだけ多くの熱を詰まり部分に与えてガラスの粘性を下げ、詰まりを解消する必要がある。そのために円筒状の特殊な石を三段重ねにする。はじめの二つは地中に沈めてしまうのだ。そうすることで、アセチレンガスの高熱をより大量に、詰まり部分により近いところへ効率的に届ける。

 石を深くまで沈めるには、深部まで〈祈り〉を届ける必要がある。なのに俺の〈祈り〉はいつも拡散して深部に届かない。

 今回使う三つの五〇キロの石は昨日自衛隊員の三人が一個ずつかついでここまで持ってきていた。三郎さんが地中の磁場を眺めて石の置き場を決めると、石目さんが一個目の石を持ち上げ、指定場所に置く。

 そして三人で草を刈り、消炎剤を撒き、やぐらを組み立て、アセチレンガスをセットする。

「俺、これヤなんだよな。ユキシロ君、やってくんない?」

「いや、俺、できませんよ」

「しゃーないなあ」

 三郎さんは嫌々アセチレンガスを点火した。

 石が温まると、三郎さんと俺は石を挟んで向かい合い、手のひらを地面に置いた。そして、せーの、で〈祈り〉を発し、石を沈めていった。

 案の定、途中で俺の〈祈り〉が足りずに、石が少し傾いた。

「ユキシロ君」

「すいません」

「自転車に乗るときに、ハンドル操作のことなんかこれっぽっちも考えないだろ」

「……はい」

「行き先のことしか考えない」

「そうです」

「〈祈り〉もおんなじちゃ。〈祈り〉を届けよう、岩石を砕こう、なんて考えるな」

「でも、おじさんがそう教えてくれたんですが」

「それは初心者向けのアドバイス。自転車に乗れない子が、乗れるようになるためのアドバイスちゃ」

「そうなんですか」

「いつまでもヨロヨロ運転じゃあこの石は落とせない。石になったつもりで、熱のかたまりを下に、ぐい、ぐい、って押し出すんだ」

「やってみます」

 三郎さんがこんな真面目なことを言うのは初めてだ。

 熱のかたまりを押し出す──。

 俺は目を閉じ、朝乃山が押し出しで勝つ相撲をイメージした。

「せーの」

 土の中に横たわるあんこ型の力士の腹を、朝乃山が力強く上から押す。

「お、いいんじゃないけ?」

 目を開けると、さっきより石が沈んでいた。

 俺はコツを掴んだのか? それともただのビギナーズラックか?

「じゃあ続けるぞ。せーの」

 こうして三郎さんと俺は一個目の石を沈め、二個目の石も沈め、三個目の石を半分ほど沈めた。一個目、二個目は深さがかなりあり、三郎さんも俺もかなり疲れてしまった。後片付けは石目さん一人にお願いした。

「三郎さん」

「なんけ?」

「さすがですね」

「おいおい、何年やっとると思ってんだ」

「十一年」

「数えとったのかよ。イヤミなやつだなあ」

 三郎さんはぬるくて甘い缶コーヒーを開けてひと口飲んだ。汗だくの俺はさっきから一リットルのぬるいスポーツドリンクをがぶ飲みしている。

「昨日のこと、訊いていいですか?」

「ああ」

 三郎さんは大きくため息をついた。

「昨日、おじさんと会ったんですか?」

「会ったよ。倉庫に着いたら、ちょうどさらわれるとこだった」

 そう言いながら三郎さんは石ころを投げた。

「敵も味方も、みんな血まみれでさ。床に倒れて苦しんでいる石目さんたちを見て、あ、生きとる、って喜んだくらいちゃ」

「もう私は苦しくて、三郎さんが来たこともわかりませんでした」と石目さんが言った。

「すっげー怖かったよ。でも敵もフラフラだったから、俺は逃げることもできたんだ。でも気づいたら俺は敵から誠一さんを奪い取っていた。すごいと思わんけ? ヘタレの俺が敵に立ち向かうなんて。俺は自分で自分がわからなくなったね」

 三郎さんはまた石ころを投げた。

「でもそこまでだったちゃ。俺もアレにやられた。そして誠一さんをうばい返された」

 そう言って三郎さんは立ち上がった。そしてものすごい大声で、あーっ! と叫んだ。

 声が山肌にこだまする。

 俺は心底驚いた。石目さんも驚いていた。いつだってシニカルな三郎さんが感情を露わにすることなど、いまだかつて一度もなかったからだ。

「ユキシロ君、俺は石使いをやめるよ」

「えっ?」

「俺は怖くなった。石使いに命を懸けられなくなった。だから俺は石使いをやめる。やめなくてはいけない」

 やめなくてはいけない──。

 この三郎さんの強い意志を変えることなど俺にはできそうにない。

 しかし……。

「でも、いま三郎さんがやめたら、石使いが半人前の俺一人になります。それはちょっと……」

「安心しな。ユキシロ君は富大に行くんだろ? だったら富大を出るまでは続けてやるよ」

「ありがとうございます」

「俺は無責任男だが、そこまで無責任じゃない」

「でも、おじさんが戻ってこないと俺は学校に行けません」

「そうだよな」

「おじさんは戻ってこれるんでしょうか?」

「心配するな。誠一さんの後ろにはすごい数の味方がいる。それに、あの人の場合は神さままでついているんだ。だから近いうちに必ず戻ってくるよ」

「はい」

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