赤影 四

 立山砂防事務所で壊滅的な打撃を受けた七月十六日の翌日、范冰冰から抜き打ちの呼び出しがテレグラムにあった。李は仕方なくビデオ通話をオンにした。

「李会、なんだそのしけた顔は」

 李の顔は青あざだらけで腫れ上がっていた。

「范さんはお変わりないようで」

 李は香辛料で腫れ上がった喉から搾り出すように、か細い声で言った。

「話しな」

「〈高橋スタープラチナ〉の正体が高橋誠一という男だということまではわかりました」

「それだけか」

「おそれながら」

 李は同じ部屋に高橋誠一が転がっていることを伏せた。力ずくの諜報は范がもっとも嫌う手段だったからだ。范はなによりもまず気づかれないことを最優先に考えていた。

「ただ、この男には護衛が何人もいて、しかもその護衛がめっぽう強く、我々は高橋の自衛隊における役割を知ることができずにいます」

 ここで范は、何人がやられ、何人がまだ活動可能なのかを訊いてくると李は思っていたのだが、范が訊いてきたのはたったひとつのことだけだった。

「顔は知られたのか?」

「……はい」

 当然だ。顔を知られたスパイなどまったくの語義矛盾だからだ。

「もう、お前ら、手を引け」

「……」

 李は言い返す言葉がなかった。

「体を張って苦労したのに大した成果を得られないのは悔しいだろうし、諦めたくもないだろう。だがな、そういうのは〈サンクコスト効果〉と言ってだな、要はギャンブルでスった金をギャンブルで取り戻そうとするようなもので、行き着く先は破滅しかないのだ。なに、もともと〈高橋スタープラチナ〉がちょっと気になったから、ちょっと調べてほしい、ってくらいの話だったんだ。大傷を負うほどのことでもない。治療費くらいは出してやるから、さっさと手を引きな」

「……かしこまりました」

「しばらくはおとなしくしてるんだぞ」

 そこでビデオ通話は終わった。

 ラブホテルの二階はさながら野戦病院だった。

 李会は全身打撲で息が困難なほど喉が腫れ上がっており、痛み止めが切れると正気を保っていられなくなるほどだった。

 唐俊亮は全身および口内に無数の刺し傷があり、目にも傷を負っていた。今は口と陰部だけ開いたミイラのような姿になっている。

 周克華は顎を蹴られて骨折しており、顎がギプスで固められている。そのため食事は流動食に限られた。

 この三人が同じベッドに横になっていて、林紹葳がひとりで世話をしている。

 なお殺された頼昌星は昨夜アスファルトになった。

 別室では張于静がベッドに寝ている。張は左太ももを深く負傷し、杖なしに歩行ができない。彼女は自身の〈ジーン〉ゆえに常に痒み止めの抗ヒスタミン剤を服用しなくてはならず、免疫力が弱いため、傷の治りが遅い。彼女の世話は王淑燕がしている。食料などの買い出しは陳玲玉がひとりで担っていた。

 彼らの処置は金沢に住むモグリの医者にやってもらっている。大阪の大学病院で勤務医だった彼は、児童買春の容疑者として実名報道され、二年の医師免許停止をくらったあと、日陰者を相手に細々と個人で医業を続けている。

「で、どうする? 李さん」と、顎を固定された周がくぐもった声で隣で寝ている李に言った。

「ここで逃げるのはバカだ」と唐はあの時と同じことを言った。唐の遺伝子には、痛みも不安も感じず、傷の回復が異常に早いスコットランド人、ジョー・キャメロンの特異な遺伝子変異が組み込まれている。

「范冰冰にとっちゃ、そういう考えこそがバカだ、っていうんだろうがな」と李が息苦しそうに答えた。ちなみに李は〈ジーン〉ではない。周と、殺された頼もただの傭兵だ。

「いまはとにかく休むことしかできない」

 彼らはずっと中国語で話していたので、裸で縛られて部屋の隅の床に座っている高橋誠一に会話の内容を知られることはなかった。

 林が高橋に近づき、見下ろして言った。

「もしあんたが軍人なら、日本軍が中国人にどんな拷問をしたか知っているだろう」

「知らないね」

「ナイフで皮を剥いでいくんだ。一枚一枚」

「そりゃあひどい話だな」

「そして最後は肉の塊になって死ぬ」

「それを今からやるのかい?」

 林は高橋の頭を蹴り上げた。

 高橋の上半身が崩れ、床に転がる。

「お前ら小日本人は残虐非道な猿にすぎない。だが俺たちは違う。四千年もの間つねに世界の中心であり続けた中華民族だ。お前らのような野蛮な真似なぞ汚らわしくてできるかってんだ」

「そうだよな。法輪功への中国共産党の対応は慈愛に満ちている」

 林は高橋の頭を再度蹴った。

「ウイグル人も党にやさしくしてもらえて幸せそうだ」と、高橋は身を起こしながら言った。

 林はポケットからカミソリを取り出した。

「だいぶヒゲが伸びているな。剃ってやろう」

「助かるよ」

 そう言って高橋は右頬を林に向けた。

「お前な、自分があそこでなにをしているのかを話してくれさえすれば、こんな茶番はせずにすむんだぞ」

「……俺はな、あそこで……」

 林の動きが止まった。

「俺はあそこで、ヨーデルの練習をしてるんだ。ヨーレヒ、ヨーレヒ、ヨーレヒヒー」

 林がふたたびカミソリを構える。

 高橋がもう一度右頬を出す。

「右の頬を打たれたら左の頬を出すようにって言われてるんだ。だから右から頼むよ」

 李は高橋の右頬にカミソリを当てた。そして深呼吸を三回した。

 李の手が汗ばむ。

「早くしてくれ」

「ああ、悪いな」

 林はもう一回深呼吸すると、カミソリをスッと降ろした。

 三センチほどの毛のついた皮が高橋の太ももに落ちた。

 皮を切り落としたとき高橋の表情は変わらなかったが、次第に苦痛で歪んでいった。白い切り口からは血が滲み出てきた。

 林は皮をつまみ上げて高橋の目の前にぶら下げ、

「くだらねえ」

と言い捨てた。そして皮をゴミ箱に捨てた。

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