高橋久美 四
一限目が終わった後、校長先生が教室にやってきて会議室に呼び出された。
なぜ校長先生?
私はざわついた休み時間の廊下を校長先生と二人並んで歩いた。その異様な光景を生徒たちは訝しげな目で立ち止まって眺めていた。
「じゃあ私はここまで」
と言って校長先生は帰っていった。
失礼します、と私がその小さな会議室に入ると、中にはスーツ姿の痩せた男が一人と、同じくスーツ姿の、左眼に眼帯をはめた顔色の悪い女が一人、立って私を待っていた。
私が扉を閉めると、男の方が口を開いた。
「はじめまして高橋久美さん。富山南警察署刑事課の山田といいます」
そう言って男は警察手帳を開いて見せた。警部補・山田文夫と書いてあった。
「同じく田中です」
女も警察手帳を開いた。巡査部長・田中芙蓉と書いてあった。
「おかけください」
男に促されて私たちは折りたたみ椅子に座った。
「あなたのお父さん、高橋誠一さんが、今朝、何者かに誘拐されました」
そう言われて、私はなぜか冷静だった。ヒグマの話を聞いてから、心の準備はもうできていたのかもしれない。
「父は今どこに?」
「まだわかりません。現在警察が全力で捜索にあたっているところです」
警察が全力で?
……おかしい。
父さんの身に起こる事案は警察ではなく、ぜんぶ公安が対処することになっているのだ。公安もいちおう警察官だが、組織はまったく別だし、情報の共有は一切ないと聞く。そして警察署は父さんにかかわる事案が公安マターだということを知っているはずだ。だから刑事課の人が父さんを捜索するというのはおかしなことなのだ。
「言葉が出ないのも無理はありません。お気持ち察してあまりあります。そんな中たいへん言いにくいのですが、捜査に協力してはいただけないでしょうか?」
「……」
「お父さんが狙われるような心当たりはなにかありますか?」
男は背筋を伸ばし、神妙な顔で私の目を見て尋ねてきた。
「いいえ」
「お父さんは立山砂防事務所で誘拐されました。ですがお父さんは砂防事務所の職員ではありません。お父さんがあそこで何をなさっているのかお教えいただけないでしょうか?」
話すわけにはいかない。
「すいませんが、もう一度警察手帳を見せてもらっていいですか?」
男は一瞬とまどった様子を見せたが、もう一度手帳を開いて見せた。
「これでいいですか」
私はスマホで写真を撮った。
「ありがとうございます。今から富山南警察署に電話をして、あなたが山田文夫さんだとはっきりしたらお話しします」
「あー、その必要はないね」
男の態度が急変した。
「山田文夫なんて奴いねーから」
私は部屋の出口へ駆けたが、男が私の腕をつかんで言った。
「それよりさ、お嬢ちゃん、お父さんの様子知りたくない?」
「……」
「あなたのヒーロー、スタープラチナ」
どこでそれを!
〈スタープラチナ〉は父さんが自衛隊内だけで使っている名前だ。もちろん父さんを「スタープラチナ」と呼ぶ隊員は一人もいない。だからもし〈スタープラチナ〉を口にする連中がいたら、それは自衛隊に内通する部外者、つまりスパイなのだ。もしそんな連中が目の前に現れたら迷わず逃げろ、と父さんからは小さい頃から言われていた。
「やつは鬼畜だ。あいつは俺たちを殺しにきた」
「それはお前らだ……」
私は大声で叫びたかったが、恐怖で声が出ず、喉から言葉を絞り出すので精一杯だった。
「俺たちは高橋誠一がどんな仕事をしているのかをちょっと知りたかっただけなんだ。なのに奴らは俺たちを殺しにきた」
「……」
「現にひとり死んでいる」
いや、これはハッタリだ。公安でも殺人までは揉み消せない。
だが、正体がバレた二人の殺気は本物だった。
「きみのお父さん、今ごろどんな目に遭っているだろうねえ。怖いねえ。かわいそうだねえ。痛いだろうねえ。でもねお嬢ちゃん、もしお嬢ちゃんがお父さんのことを教えてくれたら、俺たちが酷い目に遭ったことも、ひとり死んだことも、ぜんぶ水に流そうじゃないか。お父さんも無事に帰ってきて、また普段と変わらない、しあわせな日々が送れるんだ。どうかな、お嬢ちゃん?」
男は虫唾が走るような恐ろしい笑顔で私に取引を求めてきた。
私は男の手を振りほどこうとした。
「じつに残念だね」と男は言った。
すると今まで黙っていた女が私の正面に立ち、左眼の眼帯をずらした。
それ以降の記憶はない。
*
父さんにのしかかられている夢を見た。
が、それは夢ではなかった。
気づくと私は熊野神社の裏に転がっていた。時刻を知りたかったのでスマホに手を伸ばしたがなかった。あのとき盗まれたのだ。
鞄や勉強道具は学校に置きっぱなしだったが、とてもじゃないけれど学校へ戻る気はしなかった。私は服の汚れを軽く払って、手ぶらで家に帰った。
家の前にはハイラックスが停まっていた。家の中では、母さん、石目さん、土田さんの三人が待っていた。
「電話が通じないから久美までさらわれたのかと心配したっちゃ」
「父さんはさらわれたんけ?」
「申し訳ありません」
石目さんが頭を下げた。石目さんは全身に切り傷や青あざがあった。
「久美、急で悪いんだけど、今から避難するよ。ここは危ない」
「どこに行くんけ?」
「〈おやじ〉の指示で、しばらく水谷出張所で暮らすよ」
水谷出張所は立山砂防事務所のトロッコの終点で、砂防ダムの前線基地であり、とんでもない山奥にある。
「あそこならひとまず安心でしょ」
「そうだね」と私は同意した。
「ユキシロ君も来るから」
「え、なんで?」
「だって、石使いの仕事はやめらんないんだよ。だからユキシロ君と三郎君が二人で続けるんだよ」
マグマや蒸気がスムーズに流れるということは、別のどこかで流量の増えたマグマや蒸気が溜まってしまうことを意味する。だから石使いは休みなく次から次へと仕事をこなしていかなければならない。
「ゆきしろで大丈夫なんけ?」
「だってほかにいないじゃない」
「そうだよね。で、ゆきしろは一人で来るんけ?」
「そう。ご両親とも仕事があるし」
「だよね。でも結城家は大丈夫なの? ウチみたいに襲われたりせんの?」
「どうやらユキシロ君んちは敵に知られてないみたいだけど、いちおう監視カメラはつけてもらう。何かあれば東京の公安経由で警察が駆けつけることになっとる」
「警察なんだ」
「公安は東京だし、自衛隊は駐屯地が離れとるし、すぐ来れるのはどうしても警察になるのよ」
警察だとおおっぴらにニュースになりそうで私は嫌だったが、母さんがそう判断するのなら仕方がない。
「そう。……で、あたしは今から何をすればいい?」
母さんはそれには答えなかった。
「久美、お父さんのことは心配じゃ……」
「父さんのことは言わんで!」
私が近所に聞こえるくらい大声で叫んだので、母さんは慌てた。石目さんと土田さんも驚いていた。
「……父さんは生きとるよ」と母さんが言った。
しつこい。
「知っとる! だからもう言うな!」
もし石目さんと土田さんの目がなかったら、私は手近なものを破壊して暴れていたかもしれない。
私はとにかく風呂に入りたかった。風呂に入って体の隅々まで洗いたかった。
「久美、何しとるんけ?」
「風呂の用意」
「風呂なら出張所で入りなさい。ほら、もう行くから来なさい」
「今から?」
「着替えも勉強道具もぜんぶ車に積んだから、ほら、こっち来なさい」
いつも気丈に笑っている母さんが疲れた様子を隠しもせずに私を促す。そうだよな、母さんは父さんのことが心配なんだよな。
「さ、行きましょう」
土田さんが穏やかに言った。
「土田さんも来るんですか?」
「ええ。大口さんと開門さんは重症でしばらくはみなさんを守れませんので」と土田さんが状況を説明した。
「重症って……」
「大丈夫。意識はピンピンしてましたよ」と土田さんは微笑んだ。
土田さんはどこまでも穏やかだ。この穏やかさが本物なのか、あるいは演技なのかは私にはわからなかった。
「美術館のほうは大丈夫なんですか?」
「早めに終わらせたいよね」
「怖くないんですか?」
「怖いよ」
土田さんは笑って言った。
「だって、私がヘマをすると相手が死んじゃうんですもの」
そうだ、この人の強さは〈チート級〉だったんだ。
「なぜ土田さんは私たちに協力してくれるんですか?」
「べつに協力する義理はなんにもないの。ほかの方みたいに防衛省とハードな契約もないし、高橋さんたちが何をやっているのかも私は何ひとつ知らないし。だからこれは、ちょっとした人助け」
しかし、ただの人助けでここまでできるのか? 死ぬかもしれないのに。
「あいかわらず久美さんは顔にすぐ出るね。そんなんじゃこの先女子の群れで生きていけないよ」
「……すいません」
「秘密を抱えるって、けっこうしんどいのよ。久美さんだったら少しはわかるでしょ」
「はい。少しどころか……」
「でも久美さんの場合は秘密を共有する仲間がいる。仲間はしんどさを分かち合ってくれるし、自分を支えてくれる。仲間はある意味精神生活の基盤そのものじゃないのかな。もし仲間がいなかったら、手に触れた石が崩れていくことを、ひとりでずっと胸の中にしまっておけるかしら?」
「……変な風に思われたくないから秘密にしておきたい、という気持ちと、誰かに自慢したい、あるいは、秘密から解放されたい、という気持ちが綱引きをして、悶々とすると思います」
「私の場合は天涯孤独の身だったの。二〇年以上、ただひとりぼっちで悶々としていたの。だから、お仲間がいると知って、やっと解放された、ばんざーい、って思ったのよ」
土田さんが私の肩をポンと叩いた。
「さあ、そろそろ行きましょう」
*
私たちは途中でゆきしろを拾い、一般道を通っていったん立山砂防事務所に立ち寄り、倉庫にある石使いの道具を積んだあと、ほそい林道を一時間以上走って水谷出張所に到着した。
水谷出張所は、ひとことで言えば大きくてきれいな山小屋だった。単身男性が共同生活することを想定しているのでプライバシーはほぼない。私たちは空いている二部屋を、男部屋と女部屋として利用することになった。
部屋に荷物を下ろすと夜七時だったので、途中の〈立山あるぺん村〉のセブン・イレブンで買った弁当を広間で一緒に食べた。明日には自衛隊から戦闘糧食Ⅱ型レーション、通称〈ミリ飯〉がどっさり届く予定だ。
「さて、作戦会議をしましょうか」と母さんが石目さんのほうを見ながら言った。
「はい。まず連中の居場所ですが、いま富山ICのラブホテルにいます」と石目さんが言った。
「へえ、自衛隊ってなんでもわかるんですねえ」と母さんが言った。
「いえ、私は素人です。実は連中に、ハイラックスの車底にGPSを付けられていたんです。襲撃のあと公安がやってきて見つけました」
「だから砂防事務所にいるのがわかったのね」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいから続きを話して」
「はい。じつは私も同じことを考えていたんです。連中が高橋さん宅にやってきて自家用車にGPSを付ける手口を知ってから、自分も例のハイエースを見つけたらGPSを付けてやろうと機器を買って持ち歩いていたんです。そしてあの襲撃の日、文春記者を名乗る男が誠一さんに近づいてきたとき、私はもしやと思ってその場を離れました。そして例のハイエースがいないかあたりを見回し、そして案の定見つけたので、連中がやったのと同じように車底にGPSを付けてきたんです。運転席に女がいましたが眠りこけていたので気づかれませんでした」
「パンクさせておけばなお良かった」
「そこまで気が回りませんでした」
「すると誠一さんもそのラブホテルにいるんですね。そこへ攻め入るのは難しいんですか」と土田さんが尋ねた。
「明日にも公安が到着するはずです」と母さんが言った。「タイミングを見て突入することになっています」
「公安は石目さんたちより強いんですか?」と、ゆきしろが口を開いた。
「弱い」と母さんは即答した。
だめじゃん。
「公安は基本、頭脳集団だから」
「公安さんには吊り目の女の吐く息のことは伝えてあります」と石目さんは言った。「あの息を喰らっただけで、頭が真っ白になるくらい全身が痒くなるんです。誠一さん、三郎さん、私、大口の四人はあれ一発でやられました」
「防ぐ手段はあるんですか?」とゆきしろが尋ねた。
「病院で飲んだアレグラという薬が効きました。だから公安の人にはアレグラを飲んでおくよう伝えてあります」
みなさんの分も用意してきました、と、石目さんはカバンから錠剤を出した。
「あと、これは少しいい知らせですが……」
「なんでしょう?」と母さんが言った。
「連中はわたしたちを殺したり拉致する意図は持っていないのです。情報源である誠一さんを殺さないのはわかっていましたが、私が痒さで床に転がっているとき、彼らは私をどうにでもできたはずです。が、そういうことは一切しなかった。だからみなさん、万一のことがあったときには、床に倒れて痒みで苦しむふりをしてください。そうすればそれ以上の被害には遭わずにすむと思います」
「それも公安に伝えたんです?」と母さんが尋ねた。
「まさか」と石目さんは笑って言った。「彼らには働いてもらわないと」
「まあ、今は公安がうちの旦那を確保してくれるのを祈るばかりね。あと連中がこっちに来たりせんようにってのも祈っとかないと。戦力が石目さんと土田さんしかいないし」
「それについてですが、明日の夕方、SAT二名がこちらへ応援に来てくれることになりました」
「〈サット〉ってなんですか?」とゆきしろが尋ねた。
「特殊部隊。おもにハイジャックやテロに対処する警察の機動隊です。私とこの二名がみなさんの安全をお守りします」
「土田さん、出番ないね」と母さんが言った。
「私たちが斃れたら、あとはよろしくお願いします」と石目さんが言った。
土田さんが返答に困っていると、母さんが、大丈夫だよ、と言った。
そして母さんは立ち上がった。
「明日は朝イチで三郎君が来るから、ユキシロ君は三郎君の指示にしたがって作業をするように。石目さんは作業を手伝ってやってください。久美は部屋で自習。土田さんは久美の護衛をお願いします。私は砂防事務所の車庫でふだんの仕事をしているのでいっしょにはいられません。みなさんは石目さんの指示にしたがってください。よろしくおねがいします」
母さんのあとに続いてみんなが、よろしくおねがいします、と復唱した。
「じゃあこのあと、先に男性陣が風呂、そのあと女性陣が風呂と風呂掃除。順番は日替わりね」
母さんのその言葉で作戦会議は解散になった。けっきょく私だけがひとことも言葉を発しなかった。
私はそのまま女部屋に引き篭もった。そして浴室でも部屋でも、母さんと土田さんは、父さんの話をいっさいしなかった。
風呂からあがったあとの私はじっと畳の床に座っているだけだった。荷物の整理も勉強もしなかった。スマホが盗られて手元にないことも忘れていた。私は肌の汚れを洗い流せたことで満足していたし、もうこれ以上なにもしたくなかった。
──秘密を抱えるって、けっこうしんどいのよ
私は慣れない枕で寝付けないまま、土田さんの言葉を反芻していた。
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