結城史郎 四

 土曜日の夜、俺も法土にならって親に進路の相談をしてみた。

 母さんは富山高校を出ている。なぜ富校にしたのか訊くと、「大学に行きたかったから」で、「それ以上のことは考えていなかった」という。母さんは久美ちゃんと同じく頭がよかったので進路で悩む必要がなかったのだ。母さんは高校卒業後に誠一おじさんと同じ富山大学理学部地球科学科を出て、今は登山ガイドをしている。

 父さんは黒部にある桜井高校の土木科を出ている。そこにした理由は「ユンボ(パワーショベル)の免許とかとれて楽しそうだったから」だという。父さんは運動神経のお化けで、コツをつかむ能力が頭抜けているので、さまざまな機械を操る土木科は向いていたのだと思う。父さんは高校卒業後に黒部の小さな観光会社に就職し、夏場は黒部峡谷の川下りツアーガイドを、冬場はスキーのインストラクターをやっている。職場での雪かきの時はもちろんユンボを操っている。

 二人の進路の選択理由はとても自然だった。

 無理がないし、悩みもない。

 が、母さんの頭のよさも、父さんの運動神経も受け継いでいない俺はどうすればいいのか?

「シロの長所はなんだろ?」と父さんがビールを飲みながら尋ねる。

 俺は答えられなかった。

「真面目なとこじゃないけ?」と母さんがビールを飲みながら答える。

「真面目で結果が出ればいいんだけど、俺のは真面目バカだから」と、俺は二人のあいだにある柿ピーに手を伸ばしながら言う。真面目に話しているつもりなのに、なんだか親にグチってるだけのように思えてくる。

「シロ、〈学習曲線〉って聞いたことある? いくら勉強してもね、すぐには結果は出ないんちゃ。でもある日ね、ポン、って結果が出たりするもんなの。だから焦らんでいいっちゃ」と母さんは赤ら顔で口に柿ピーを放り込みながら笑って言う。

「大事なのはね、何をやりたいかってことよ」

「俺は石使いになりたい」

 これだけははっきりしている。

 父さんが渋い顔をする。

「そんな無理して危ないことせんでも、父さんとこの社長なら中卒でも雇ってくれるぞ」

「いや、父さんとこの会社は体育の偏差値が八〇超えてないと入れんから」

「シロ、ほんとうに石使いに命を懸けられるんけ?」と母さんが訊く。

「たぶん」

「たぶん?」

「命を懸けるって、命を捨てることじゃない、って、石目さんも誠一おじさんも言っとったから。……っていうか、いま気づいたんだけど、父さんの仕事も母さんの仕事も、どっちもけっこう命懸けだよね」

 激流下りと峻峰登山だ。すこしでも気を抜けばすぐに死ぬ。

「……それもそうね、ははは」

 父さんと母さんは顔を見合わせて苦笑いした。

「じゃあ、仮にシロが石使いになるとして、高校はどうするんけ?」と父さんが尋ねた。

「それがわからんから相談しとるんだけど」と俺は頬杖をついて赤ら顔の二人を見た。

「もう、どこでもいいんじゃない?」と母さんが投げやりに言い、ビールを飲み干す。

「好きなことやれるなら、どこでも」

 自分は石使いの仕事が好きだ。だが、それ以外に好きなことが何ひとつない。

 母さんは冷蔵庫からビールを二本出し、一本を父さんに渡した。父さんは今飲んでいるビールをクイッと飲み干した。

「シロも富大行くけ?」と母さんが俺を指差す。「楽しいよー、モラトリアムって」

「富大いいじゃん!」と父さんが、ごくり、プハーッ、と言わせながら親指を立てる。「ユー、富大いっちゃいなよ!」

 ああ、それはダメな人だ。

「そりゃあ、行けるんだったら行ってみたいけど、無理無理無理、ぜったい無理」と、俺は全力で何度も首を横に振る。

「おまえさあ」と母さんが腕組みをして俺を睨む。

「中学生にとって大事なのは、やれることじゃないんだよ」そう言って派手にゲップした。

「大事なのはやれることじゃなくて、やりたいことだーっ!」

 母さんはそう叫んでから柿ピーを口に放り込んでボリボリいわせると、ビールで流し込んだ。

「行きたいんなら『行きたい!』って言え。それ以外のことは言うな。誠一なら〈門を叩け、さらば開かれん〉って言うぞ。ああ、なんとかなるもんなのさ」

「そう。なんとかなる」

 そうだよな。やれることだけ選んでいたら三郎さんになってしまうよな。

「俺が富大だなんて、考えもしなかった……」

「やれるかやれんかなんてさ、大人になって考えればいいんじゃないけ? ねえ奈江ちゃん」

「そうだよ貴史くん」

「若いっていいねえ」

「昔を思い出しちゃうよね」

 デキ婚のあと俺をなんとかしてきた二人はそう言って、俺の前でブチューとキスをした。


 結局父さんと母さんからは何の具体策も得られなかった。

 俺はベッドの上で大の字になった。そして明日の日曜日のことを考えた。

(明官さんはどうするんだろ?)

 付き合うと言ってはみたものの、それらしいことは何ひとつできていない。〈ぜったいに関わっちゃいけない〉という誠一おじさんの命令はいぜん生きたままだし、久美ちゃんの監視もある。だから放課後に残って一緒に受験勉強なんてことはおろか、一緒に帰ることすらできていない。街のようにどこか待ち合わせのできる店でもあるといいのだが、このあたりは田舎すぎてコンビニどころか自販機すらろくにない。

 いや、図書館なら立派なのが学校から歩いて一〇分のところにあるのだが、誰かに見つかる→久美ちゃんにバレる→おじさんにバレる、となるのが恐ろしくで近寄れずにいる。図書館が無理ならと、一度、図書館近くのちょっと奥まった場所にある熊野神社で待ち合わせをしたのだが、暑すぎてそれっきりになってしまった。

 もちろんこんな体たらくだから、お互いの家に行くなんて考えもできない。明官さんには事情をぜんぜん話していないので、あまりいい気分はしていないと思う。

 だから当分のあいだ、会えるチャンスは日曜日の午前中しかない。

 石使いの仕事は立山砂防事務所に敷地や移動手段を依存している関係上、砂防事務所が開いている五月から十一月のあいだに集中的に仕事を行う。その間石使いの仕事に休みはなく、誠一おじさんは文字通り休みなく立山に来て働いている。おじさん以外は、平日は三郎さんと自衛隊員三人の計五人でがっつりと、休日は俺と自衛隊員一人の計三人で、俺のペースに合わせてわりとのんびりやっている。

 そういうわけで五月から十一月のあいだ俺の土日はいつも埋まっているのだが、日曜の午前だけは空いている。おじさんが教会に行くからだ。


 日曜の午前中空いとる? よかったらどっか行かない? と明官さんにLINEで訊いたら、南富山のしまむらに行くつもりだったから一緒に行きましょう、と速攻で返事が来た。なんでも〈おぱんちゅうさぎ〉なるもののコラボグッズが発売されるのだという。もちろん明官さんが行きたいところであれば、小洒落た富山駅前だろうが、大きな商業施設がパチンコ屋しかない昭和臭プンプンの南富山だろうが、俺はどこだってよかった。こうして俺の生まれて初めての記念すべきデートの場所は街外れのしまむらに決定した。

 それにしても、まずは明官さんに俺が学校でコソコソしていることを謝らなくてはいけない。

 これからどうするのか? 秘密のままにしておくのか? それともオープンにするのか?──これはほとんど俺だけの問題だ。はたして俺はおじさんと久美ちゃんを説得できるのか?

 俺が明官さんに近づいていけない理由は、明官さんがその中二病ゆえに、石使いの秘密を根掘り葉掘り訊いてきて、バカな俺がホイホイ答えてしまう危険があるからだ。

 しかし明官さんは〈種〉それ自体を知ろうとしたことはない。彼女はただイリュージョンを体験するのが好きな一人の手品ファンにすぎないのだ。

 だがそんなことを言って二人は納得するだろうか? 俺が一方的に騙されていると思い、よけいに警戒されるだけではないだろうか?

 それに、久美ちゃんは俺たちのことに薄々気づいているような気がしてならない。久美ちゃんは明官さんとぜんぜん親しくないくせに、わざわざ教室に入ってきて明官さんに話しかけたりするし、俺にたいするトゲトゲしさも以前より五割増しくらいになっている気がする。

 ……決めた。おじさんの家に行こう。行って久美ちゃんも交えて明官さんのことを話そう。来週が終わればもう夏休みだ。夏休みに入る前にきちんと話をしたい。そして、夏休みに明官さんと図書館にこもっていっしょに受験勉強を俺はしたいのだ。

 明官さんは同意してくれるだろうか? してくれるといいな。今の時期になっても毎日がラノベ一色ってのはさすがにマズいと思うよ……と言って彼女は納得してくれるだろうか?

 いや、納得させる。明官さんがラノベに依存しているなにかの一部でも俺が肩代わりできれば、明官さんの中の〈僕〉と〈私〉はこんなにも引き裂かれずに済むのだ。あの日、明官さんの中の〈僕〉は俺に助けを求め、俺はそれに応えたいと思った。その気持ちは今も変わりない。

 出口がないから混乱してぐちゃぐちゃになるのだ。出口さえあれば、混乱があったことすら思い出せなくなるほど万事がすっきりうまくいくようになる──そうに決まっている。

 俺はルートを作る。

 明官さんの中のマグマがルートを流れて外に出ていけば、あとはもう伸びしろしかない。


    *


 上滝駅に九時に待ち合わせをして、九時四分発の電車に乗った。これだと十時の開店に二十分ちょっと早くついてしまうが、次の電車は一時間後で、この電車には誠一おじさんが乗ってくるから絶対に避けなければならない。教会は上滝駅と南富山駅の間にある小杉駅の近くにある。だから帰りの電車もおじさんと鉢合わせないよう一時間ずらさないといけない。

 俺はベージュのチノパンと青いシャツで出かけた。いずれも父さんのお古で、いちばん無難なやつだ。父さんは夏場はショートパンツをよく履いているが、俺はすね毛が結構濃いのであれは履けない。それと父さんは柄物のシャツも多く持っていて、父さんが着るとなぜかサマになるのだが、俺が着ると頭の弱い下っ端のチンピラにしかならないのでこれも着れない。だから私服はいつも消去法でベージュのチノパンと青いシャツなのだ。

 俺は明官さんの私服をけっこう楽しみにしていた。オタクっぽいのか、意外と普通なのか、あるいは俺の貧弱な想像を超えてくるのか?

 が、明官さんは上が淡いピンクのジャージで、下が制服のスカートという、まさに部屋着のような出で立ちでやってきた。それでもまぁかわいらしくはあったが、でもデートでジャージはないだろう、いや、もしかしたらデートという認識自体ないのでは──などと俺はひとりであれこれ考えては悲しんだ。

 俺たちは電車の隅に並んで座った。

「晴れてよかったね。……いや、日焼けするからよくないか。ははは」

「……」

「あのさ、日焼け止めクリームは塗った?」

「……」

「しまむら行くの、何年振りかなァ」

「……」

 俺はとても困っていた。やがて電車はとなり駅に着いた。

 ドアが開き、まだ朝だというのに熱気が車内に入り込んでくる。

「今日も暑くなりそうだね」

「僕、じつは……」と、明官さんは下を向いて力のない声で言った。

「明官さん、もしかして今日、調子悪い? 引き返そうか?」

 明官さんはもともと病弱だから本気で心配になる。

「じつは、こういうの、初めてなんです……」

「こういうの、って?」

 明官さんはそれには答えず、あいかわらずうつむいたまま、ゆうれいのようにゆっくりと左手を伸ばしてきた。

 その宙に浮いた左手を眺めていると、明官さんが上目遣いに俺のほうを見て、指を小さく動かした。

「こういうのです」と明官さんが言う。

 こういうのか。

「……俺もちゃ」

 そう言って、俺は右手を伸ばした。

 中学生になって初めて触れた女の子の手はこわれそうなほど小さく華奢だった。だから俺はうれしいよりも怖かった。

 握るというよりも触れるという感じで、まるで二人の手のひらで小鳥の卵を温めるようなかたちで組み合った手は座席の上、二人の間に収まった。そして俺は正面の車窓の景色がまったく現実感のないのにとまどっていた。

 電車に乗っている二〇分少々のあいだ、俺は会話が持つか不安だった。だから昨日の夜、いろいろ話すことを考えてきた。

 父さんと黒部の川下りに行ったらボートから振り落とされて死にそうになったこと。母さんと冬山登山に行ったら滑落して死にそうになったこと。立山カルデラ内の川に湧き出る温泉で足湯を楽しんでいること。冬の立山でモフモフの雷鳥を見たこと。ケツの骨が砕けそうなトロッコの乗り心地。トロッコに同乗する砂防ダムの人たちのメンタルが日に日にやられていく様子(彼らは五ヶ月間山に閉じ込められるのだ)。ついこの間まで学校があんまり好きじゃなかったこと。バカなふりをしている人がほんとうはぜんぜんバカではなかったこと。自分の希望進路がいまだに決められないこと。

 が、そんな必要はぜんぜんなかった。明官さんはずっとうつむいていたが、俺たちは互いの手の指のかすかな変化を感じ取るだけで十分過ぎるほど心が満たされていた。手のひらは汗ばんでいたが、それでも離すのがもったいなかった。

 電車に乗って一〇分くらい経ったころ、明官さんはあいかわらず下を向いたまま、

「もしかして、いまの僕たちって〈リア充〉なんですか?」

と言った。その話し方がいつもの明官さんの声とぜんぜん違ったので、俺は明官さんの顔を下からのぞき見した。

 明官さんは顔を真っ赤にし、爆笑を必死でこらえるような表情をしていた。

 えーっ? そういうムードじゃなかったの?

「明官さん、どうしたんけ?」

 そう訊くと、明官さんがじわじわと顔を上げた。

「なんか、〈『リア充爆発しろ!』と言い続けて悶死した陰キャ女がラブコメヒロインに転生してリア充ライフを無双してます〉、みたいなタイトルのラノベの主人公に自分がなったような気がして、僕、ずっと妄想してました。ぼっちの僕が、まさか『リア充爆発しろ!』と言われる側に立つなんて、もう、あまりにバカバカしくて、ずっと笑いが止まらなかったんです」

 明官さんは一気呵成にそう言うと、爆笑を堪えるために再度うつむき、手をぎゅっと握りしめてか細い手足を幼児のようにバタバタさせた。

 俺は明官さんがマグマを抱えた人だということをすっかり忘れていた。

 抑えきれなくなった明官さんがガバッと顔をあげると、こらえていた呼気が正面にプシューと吹き出した。そしてゲホゲホとむせはじめる。

「大丈夫?」

「結城くん、リア充って、電車の中で何をするんでしょうか? イヤホンをシェアしたり、一個のフラペチーノをかわりばんこに飲んだり、肩にもたれたり、もう仕方ないなあ、なんて言いながら垂れたよだれをハンカチで拭いてあげたりするんでしょうか?」

 いままで見たこともないニヤケ顔で明官さんが質問を畳みかけてくるので、俺までなんだかおかしくなってきた。

「あのね、リア充は〈ですます調〉で話さんし、〈結城くん〉なんてよそよそしい呼び方はせんよ」

「じゃあどう呼べばいいんですか?」

「やっぱ名前呼び捨てかな」

「シロウ、……ごめんなさい、それ無理です!」

「ったく、レナは仕方ないなぁ」

「それも無理です!」

 俺たちは手をつないだまま笑った。

「やっぱ今までどおり〈明官さん〉〈結城くん〉でいこうか」

 俺がそういうと、明官さんが大きくうなずいた。

「もっと早くこういうことがしたかったです」

「ごめん」

「学校でもこんなふうにできるといいんですけどね」

「実は……」

 俺は言える範囲で正直に話した。

 俺は口が軽いので手品の種をうっかり話してしまうかもしれない。だから祈祷に興味をもった、いわゆる中二病の人には近づいていけない、とキツく言われている。もし種をバラしたりすれば……

「俺は殺されてしまうんちゃ」

 すると明官さんは手に力を込めて、

「それってやっぱり、悪の組織?」

と、目を輝かせて訊いてきた。

「悪の組織なの?」

「……それを言うと、やっぱり俺は殺されるんちゃ」

 きっと今、自分よりも俺のほうが中二病だと明官さんは思っているはずだ。

「いままで黙っててごめん」

「……」

 明官さんはまた電池が切れたようにうつむいてしまった。


 改札を通るために離した手は汗でベトベトだった。明官さんはそのままトイレに行ったので俺もトイレに入った。

 トイレは誰もいなかった。俺は手を洗うのがもったいない気がした。ほとんどは俺の汗だが、明官さんの汗も混じっている。俺は手の匂いを嗅ぎ、ペロッとひと舐めした。匂いも味もしなかった。俺はトイレに誰もいなかったことを感謝してから、もう一度匂いを嗅ぎ、もうひと舐めしてから石鹸で手を洗った。

 しまむらまでは一本道だった。もちろん手をつないで歩いた。

「リア充は道を歩くとき何をするんでしょう?」

「さあ。俺もリア充だったことないからわからんちゃ」

 会話が止まった。明官さんはなにか考えているようだ。

「……きっと、たくさんいる陽キャの友達の恋バナをするんじゃないでしょうか?」

「そうかもね。でも俺は恋バナなんてしたことないし、耳にしたくもないちゃ」

「僕はぼっちだから恋バナなんてどだい無理です」

「もうぼっちじゃないんだよ」

 そう言って俺は顔を明官さんの顔に近づけた。しかし明官さんは

「いいえ、今日の僕はぼっちちゃんです」

と断言した。

「明官さんはもうひとりじゃないんだよ」

「いいえ、今日の僕は明官ひとりです」

 明官さんはなぜか満面の笑みを浮かべ、あくまで自分がひとりであることをかたくなに主張する。

「わけわかんない」

「……いえ、べつにいいんです」

 そう言って明官さんは明るく前を向いた。

 右手にしまむらが見えた。開店まであと一〇分ちょっとある。典型的な地方のロードサイド店で、周りに涼めるところはなにもない。

「待つ?」

 アスファルトの反射熱のせいで、もう気温は三〇度くらいあるだろうか。汗かきの俺はここまで歩いてくるだけでずいぶん汗をかいてしまい、すでに背中にシャツが張り付いているのがわかる。

「あと三分歩くとローソンがあるんです。涼みに行きましょう」

 そう言って明官さんは右手のこぶしをあげた。

「この辺はよく来るの?」

「はい」

「一人で?」

「はい」

「親に車で送ってもらったりはせんの?」

「一緒に行ったら『早くしろ』ってうるさいですし。それに、歩けるのが楽しいんです」

「それそれ。歩くと理屈抜きに楽しいよね。俺も山歩きとか好きちゃ」

「道を自由に歩き回るのが小さいころの夢だったんです」

 明官さんはローソンでアイス抹茶ラテを買った。じゃあ俺は何にしようかな、と迷っていると、

「結城くんは買っちゃダメです」

 ?

 俺たちは店の外に出た。冷房の効いた店内との落差で、太陽の照りつけが余計にきびしい。

「リア充はこういうのをかわりばんこに飲むんですよ」

 ああ、そうだった……。

 そういうわけで、俺は生まれて初めて女の子の唾液をストローを通じて口にすることができた。


 明官さんは俺に気をつかったのか、しまむらでの〈おぱんちゅうさぎ〉の買い物を手早くすませた。今が一〇時二〇分で、帰りの電車は十二時五七分発なので、うれしいことにまだ二時間半もある。

 〈おぱんちゅうさぎ〉はパンツを履いた目の潤んだピンクのうさぎで、その潤んだ目がなんだか俺を応援しているように見えた。なぜ〈おぱんちゅうさぎ〉が好きなのか訊くと、

「ロックだからです」

と明官さんは答えた。

 このあと駅近くの〈デリ&コーヒー〉という喫茶店に入った。ここでお昼をと考えていたが、まだ時間が早い。店内は冷房が効いていたので、明官さんはホットの抹茶ラテ、俺はホットのカフェラテを注文し、テーブル席に座った。

「喫茶店に入ったリア充はどんなことをするんけ?」

 明官さんは五秒考えて言った。

「インスタ映えするのを注文して、インスタにアップして、それでもう満足しちゃって、料理には手をつけずにぺちゃくちゃしゃべって、けっきょく注文したやつを残して帰る──ってとこでしょうか?」

「山科さんのことだね」

「法土くんは山科さんのことが好きなんですよね」

「どう思うけ?」

「バカ男子ですね」

「明官さんでもそう思うんだ」

「インスタ映えしない法土くんは完膚なきまでにフラれるでしょう。でも、ここから改心してバスケに目覚めて山王工業高校を倒すかもしれません」

「〈スラムダンク〉だ!」

 俺は思わず手を打った。

「うれしいです。結城くんが知っている作品がわかって」

 だが明官さんには悪いが俺は〈スラムダンク〉をよく知らない。俺が見ていたアニメは〈アンパンマン〉と〈おしりたんてい〉だけで、ちゃんと読んだ漫画は法土に借りた〈刃牙〉しかない。〈ドラゴンボール〉や〈鬼滅の刃〉すら読んだことがないのだ。

「ごめんね」

「いいんですよ。リア充はオタク談義なんかしませんし。結城くんはどんな本を読むんですか?」

「おじさんが遠藤周作、母さんが新田次郎が好きだから、それを少しだけ」

「ごめんなさい。ぜんぜん知らないです」

 明官さんは悲しそうに言った。

「知らないよね」

 俺はいまだに遠藤周作と新田次郎を読んだことのある中学生に出会ったことがない。

「じゃあ〈刃牙〉のお話をしましょう。僕は勇次郎とストライダムのコントが大好きです」

 明官さんは〈刃牙〉も読むのか。守備範囲がとてつもないな……。

「俺は花山薫とスペックの……、いや、やめよう。やめやめ!」

 明官さんがあっけにとられて俺を見る。

「俺、〈刃牙〉よりも話したいことがあるんちゃ。進路だよ。明官さん、どうするんけ?」

「火曜日提出のやつですね」

「そうそう」

「僕は、雄峰高校の通信制に行きます」

 なるほど──。

 雄峰高校は定時制と通信制がある富山駅近くの公立高校だ。

「いじめがないそうですし、苦手な集団行動もないですし、勉強のやり直しもできるって聞きますし、週一登校だから体への負荷も少なくてすみます」

「学校、やっぱキツいんだ」

「毎日ひとりでラノベを読み続けるのもけっこう疲れるんです」

「受験勉強しようよ」

「じつはですね、通信制の入試は面接だけなんですよ」

 そう言って明官さんはいじわるそうに笑った。

 ああ、なんということだ。これで〈夏休みにいっしょに図書館で勉強する〉という俺の夢は終わってしまった。

「そうなんだ……」

「あの、勉強したくないから通信制を選んだんじゃないですよ。やっぱりバカなのはイヤですし、僕だって分数の割り算とかができるようになりたいんです。でも、中三の勉強は国語以外むずかしすぎて僕の手に負えないんです」

「手に負えないのは俺も同じちゃ」

「でも、通信制にした一番の理由は、自由な時間がたくさん取れるからなんです」

「もしかして、家に引きこもってラノベ三昧の日々を過ごすんけ?」

「……書いてみたいんです」

 え?

「僕、ラノベを書いてみたいんです。それにはたくさんの時間が必要です。だから普通校でも定時制でもなく、通信制なんです。通信制でないとダメなんです」

 明官さんはすこし恥じらいながら、しかしはっきりとそう言い切った。

 明官さんの選択は完璧だった。まるで明官さんが入るために雄峰高校の通信制が設立されたんじゃないかと思えてくるほど完璧な動機だった。

「すごいよ。もうそれしか選びようがない。ほんとにすごい。それにくらべて俺は……」

「どこに行くんですか?」

「相談にのってほしい」

 俺は一人前の〈祈祷師〉になるために頑張りたいし、あわよくば富山大学で立山のことも勉強したいから、できれば普通科に入りたい。しかし成績的に、母さんの出た富山高校はもちろん、〈黒魔術師〉のおじさんが出た富山南高校も、とてもじゃないが入れない。

「だったら雄峰高校の定時制も選択肢のひとつに入れてみてはどうです?」

 雄峰高校定時制──。

 それは昨日までは考えもしなかった選択肢だったが、明官さんの話を聞いているうちに、そういうのもありかな、と思えてきたところだ。

 だがしかし……。

「理屈ではよくわかる。でも、なんか、定時制、っていうと……」

「落伍者」

「いや、そういうつもりは……」

「結城くんは、〈みんな〉とおなじレールに乗ろうと思えばそれができる人です。だから、〈みんな〉と一緒のことをしていれば何となく安心できるし、ずっとそうしていたいと思い続けているんでしょう。僕は生まれてからずっと〈みんな〉の外側にいたから、〈みんな〉とおなじレールに乗るなんてぜいたくなことはできませんでしたし、いつだって不安でした。けど、いまは逆に結城くんが不安を抱えていて、僕には不安がありません。わかってください。〈みんな〉に振り回されるなんてバカバカしいことなんです。〈みんな〉はいずれ別々の道を歩み、バラバラに解体しちゃうんですよ。そして結城くんがどういう道を選ぶのかなんて〈みんな〉はこれっぽっちも関心がないんですよ。祈祷師になって大学にも行きたいだなんてステキじゃないですか。結城くんが立山に登りたいのなら、たとえ〈みんな〉が富山駅とか金沢駅へ遊びに行くんだとしても、結城くんだけは立山駅で降りるべきなんです。僕は日がな一日結城くんの背中を後ろの席から眺めています。だから僕は結城くんが進路で悩んでいることを前から知っていましたし、結城くんがどうしたらいいのかずっと考えていました。そして法土くんや日合くんが独り立ちしたのに、結城くんだけがあいかわらず〈みんな〉はどうするのかばかり気にするのを正直じれったく思っていました。〈みんな〉ばっかり気にしたって『性格最悪』の山科さんにしかなれないのがどうしてわかんないかなってホントじれったかったんです。だって結城くんは祈祷師になりたいんだし、その時点で〈みんな〉とはかけ離れた唯一無二の中学生なのに、バカみたいに〈みんな〉のことばかり気にして正直腹が立っちゃっていました。僕、心の中で、バカバカバカ、と百回くりかえしてたんですよ。結城くんにはぜひ立派な黒魔術師になってほしいし、なってもらわないと僕が困ります。もし、結城くんがなんとなく周りに流されて黒魔術を忘れてしまうようなことになったら、僕はもう、いったい……、いったいどうしたらいいんですか。僕をぼっちに戻さないでくださいよ……。お願いです、僕はもう、ぼっちには耐えられそうにないんです……」


    *


 俺は家に帰ると、進路希望調査票に鉛筆で〈雄峰高校定時制〉と書いた。

 よし。

 俺は明官さんのおかげでようやく吹っ切れることができた。

 ひたすら感謝しかない。

 午後の立山での仕事にも精が出た。

 そして立山から帰るとすぐ、両親が酒を呑み始める前に俺は進路希望調査票を見せ、しらふで話をした。

 〈定時制〉と聞いて両親とも渋い顔をしたが、石使いと勉強を両立させるにはここしかないんだ、と俺は押し通した。

 二人はそれに折れた。

 ただし母さんは条件を出した。Z会に入り英語と数学の単元をこなしていくことだ。定時制の授業だけ受けていても富大にはぜったいに合格できないし、もし仮にAOで入学できたとしても大学の授業にはついていけないからだ。わからないところは学校の先生に訊け、それでもわからないところは自分が教えてやる、と母さんは言う。とにかくZ会をこなせ。それはとても大変なことだが、それくらいできないとシロに富大は無理だし、できなくなったら高校も辞めてもらう。俺は、はい、と言うほかなかった。

「シロ、いま『はい』と言ったね。じゃあ今からやりなさい。貴史くん、使ってないタブレットがどっかあったよね」

「ちょっと、いまはまだ中学の勉強が……」

「どうせ入試なんて形だけでしょ。シロは覚えが遅いんだから、いまのうちから高校の勉強をしておきなさい」

「いや、まだ中学のところもいろいろ怪しいし……」

「いいかい、富大ってのはね、クラスで一桁順位の人が、一生懸命がんばってやっと入れるかどうか、ってレベルの学校なの。シロはね、そういうところにほとんど独学で挑もうとしとるんだよ。わかっとるけ? だったらね、時間は無駄にできんの。キャッチボールが下手だからって、いつまでもキャッチボールばかり練習しとっても、野球はちっともうまくならんのよ。中学の知識があやふやだったとしても、それを高校の勉強をしない理由にしちゃいけない。わかった?」

「……はい」

「じゃあ入会しとくから、今晩からやりなさい」

「……はい」

 そんなやりとりがあったことを明官さんにLINEで伝えると、

 ──スパルタお母さん最高!

と返信があった。

 いや、母さんは根っからの自由人で、弟か妹がほしかった幼少期の俺にたいし、これ以上自分は自由を失いたくないから二人目の子どもはつくらない、と言ってはばからない人だった。そんな自由を失わせる存在である俺に対しても母さんはずっと自由のすばらしさを説き続けてきた。それを俺は、単に母さんは子育てがめんどくさいから放任しているだけなんだと思い込んできた。

 が、母さんの言う自由は放任ではなく、最低限の義務を果たした上での自由なのだということが今回のことで俺にはわかった。その義務とは、自分で決めたことは守る、ということだ。今回の場合だとそれは〈石使いと勉強の両立〉だった。思えば俺は、勉強を両立どころか片立(?)させたことすらなかったのだ。そんな俺が〈両立〉だなんて偉そうなことを言ったから、母さんは頭に来たんだと思う。

 そこで、

 ──上等だ、やってやろうじゃねえか

と闘争心を掻き立てられる性格だったらまだよかったのだが、あいにく俺は勉強面での成功体験がろくになく、勉強にたいして萎縮することしか知らない。くわえて富大に入ることの難しさもぜんぜん知らなかった。

 そんなことを俺はせっせとLINEに打ち込んでいたが、めんどくさくなって通話に切り替えた。

「というわけで、俺は今日からガリ勉することになりました」

「なにもできませんが、応援してますよ」

「だから明官さんも文章を書こうよ」

「それもそうですね」

「どんな話を書くんけ? 俺、ラノベって読んだことないからぜんぜんわからんちゃ」

「じつは、……構想は少しあるんです」

「へえ、話してみて」

 すると明官さんはこんな話をしてくれた。


 どこまでもつづく険しい山地・ヤータマーテに魔王ギルーツとその手下の魔族が住んでいた。

 魔王はじつはワクラージ王国の徳の高い高僧の転生者で、魔族と人間が争うことにひそかに心を痛めていた。

 ある日、魔王がひとりで山を散策していると、足を怪我して動けなくなっていたひとりの人間の少女を見つけた。少女は魔王の恐ろしい姿におびえたが、魔王はがんばって慣れない笑顔を作ると、もう大丈夫、と言って魔法で少女の体を小さくし、ポケットに入れて屋敷に帰った。

 少女は足の骨が砕けていた。前世の記憶で治癒の魔法を知っていた魔王は、誰にも見つからないよう、こっそり少女の傷を癒した。魔族にとって治癒の魔法は魔力の消耗が激しく、少女が癒やされるにつれ、魔王は衰えていった。

 少女は、魔王が自分のために命を削っているのだと思った。このままでは魔王は死んでしまう。歩けるようになった少女は魔王が眠っている隙に、ひとり魔王の屋敷を脱出した。

 目を覚ました魔王は悲しんだ。そして残り少ない魔力を振り絞ってみずからの姿を鷲に変え、空を飛び、耳を澄ませ、鼻を広げ、少女を探した。

 魔王は三日三晩空を飛び続けた。そして人間が争う姿を目撃した。

 ──魔界の方からやってきたお前は魔族の子どもだろ!

 ──これ以上近づくと殺すぞ!

 人間の男たちに脅されていたのはあの少女だった。

 鷲の姿の魔王は少女の体をつかむと空高く舞い上がった。

 人間たちはたちまち見えなくなった。

 しかし魔王は魔力を使い果たし、ガハラミーダ山にゆっくりと堕ち、そして息絶えた。

 悲しむ少女は元の姿に戻った魔王の亡骸を抱きしめた。

 すると治癒の間に少女の中に蓄積されてきた魔王の魔力が、二人の体をひとつに変えた。合体後の外見はほぼ魔王のままだったが、人格は少女由来のものだった。

 少女は魔王のすべての記憶を受け取った。

 魔王は高僧のころ、義を貫き、ワクラージ王国の国王に殺されていたことを少女は知る。

 高僧を殺した国王は魔族と結託して王にのし上がった残虐な人間だった。有徳な王子はみな暗殺されてしまっていた。そして王となったいま、こんどはじゃまになった魔族を滅ぼしに攻め入ろうとしていた。

 少女は国王、すなわち自分の父を斃してもらうべく、ひとり魔族の山に入ったのだった。

 しかし今や、少女は自分で父を斃せるだけの力を得てしまった。

 だが、魔王としての自分が人間の王を斃していいものなのだろうか?

 裏切りを知った魔族はたくさんの人間を殺すだろう。

 魔王が人間の王を倒すというのは、つまりはそういうことなのだ。

 それは義と呼べるのか?──そう私の中の魔王様が問いかける。

 ああ、私の魔王様、私はどうすればいいのでしょうか?


「で、魔王少女はどうするんけ?」

「このあと登場する勇者ユキシーロがなんとかしてくれるんです」

「頼りない名前の勇者だね。で?」

「魔王少女は勇者に恋をするんですけど、彼女は見た目が百パーセント男だから、なかなかうまくいかないんです。でも次第に勇者は心を開いていくんです」

「これって、シリアスなファンタジーと見せかけて、BLなの?」

「ボツですよね」


    *


 七月十六日の朝、担任は進路希望調査票を回収した。

 俺はなんだか肩の荷が降りたような気分になった。そしてそれ以降の授業のあいだはずっとぼんやりしていた。

 そして給食を食べ、昼休みになり、俺はスマホの電源を入れた(学校では昼休みと放課後以外はスマホ禁止なのだ)。すると美代子おばさんからLINEが届いていた。


 ──けさ、誠一が誘拐されました。このことは誰にも言わないでください。ユキシロ君はこのまま何事もなかったように学校で授業を受けてください。そして寄り道せず家に帰ってください。四時過ぎに迎えに行きます。今日からしばらく水谷出張所に避難してもらいます。


 俺は慌ててとなりの教室に入った。

 が、久美ちゃんの姿はなかった。

 隣の席の人に訊くと、一限目が終わって校長先生に呼ばれて、そのあと気分が悪くなって早退したのだと言う。

 ──久美ちゃんは大丈夫?

と美代子おばさんに打つと、美代子さんはそれには答えず、

 ──今は自分のことだけに集中して。誠一の代わりの石使いはユキシロ君なんだから。

とだけ返ってきた。

 そうか、そうなるんだよな。

 しかし俺は次の瞬間にはもう、誠一おじさんや久美ちゃんのことばかり考えてしまっている。

 いや、考えているはずなのに何も考えられない。

 昨日の記憶がやけに遠い昔に感じる。

 〈命を懸ける〉とはこういうことだったのか?

 俺は教室に戻ると、机に突っ伏し、目を閉じた。

 自分のことだけに集中──。

 胸がゾワゾワし、暑いのに冷や汗が止まらない。

 昨日まで一緒に仕事をしていたおじさんが誘拐された?

 どうして? 昨日まで一緒だったのに?

 俺はとつぜん吐き気を覚え、廊下を走ってトイレに駆け込み、給食をぜんぶ吐いた。

 教室に戻ると明官さんと目が合った。

「大丈夫? ……じゃないですよね」

 大丈夫だよ、という拒絶の言葉を飲み込み、俺はいま一番言うべきことを考えた。

「明官さん」

「はい」

「理由は言えないけど、明日からしばらく学校に行けなくなっちゃった」

「病気?」

「病気じゃない」

 そう言うと、明官さんは少しホッとした表情になった。

「〈理由は言えない〉って、ズルいですよね」

「ごめんね」

「どこかに行くんですか?」

「そう、どこかに行く。どこかは言えないけど」

「ズルいです」

「ごめん」

 俺が謝ると、明官さんは閉じていたラノベを開いた。俺は自分の席に座った。

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