椿とアネモネ

藤野陽

椿とアネモネ







 細い路地の奥へ私を乗せた車は突き進む。車窓から流れる景色が、次々に移り変わり、持っていた花束から水が零れる。履いていたジーンズのポケットから朱色のハンカチを取り出し、椅子に垂れた雫を拭う。母の運転が荒いと私の気は休まらない。こういう機嫌が悪い運転は、事故を引き寄せるから嫌いだ。私はわざとらしくムスッとした表情で、窓に目を向ける。母は最近ずっとこの調子だ。まるで何も信じていない。自分だけが正しいとでも言いたげな様子なのだ。道路脇に植えられた山茶花が狂ったように咲いている。母も目を向けるけど何も言わない。その花は最初からなかったかのように。


 でも、次に見えた――綺麗な赤い――五枚の花弁を下向きに垂らした――その花を見たとき、母の目元の力が緩んだ気がした。それは古びた居酒屋の、脇にひっそりと、しかし確かにしたたかに咲いていた。居酒屋の真っ白な暖簾とは対照的なほどその色は濃くて華やかだった。十字路で信号が赤になる。ブレーキを踏んだ母は、やっと、その花をゆっくりと眺めることができた。その花は椿だった。

母にとって、椿の花は特別なのかもしれない。たまにそう思うことがある。


 十字路の信号が変わると、車はもう一度、発進したが、そのスピードは緩慢になり、私は息を落ち着かせることができた。窓の外の景色は移ろぐも、午後二時の、日の照った町は、どこかゆったりと寝転んでいるようにも見える。前から車が来る。母は、そっとハンドルを傾け、横にずれ上手く躱す。車に接続したスマホが震える。焼き肉チェーン店からのクリスマス案内だった。私はそれをスライドして、削除をすると、なんだか音楽でも流そうかなと思って、母に「いまどんな気分?」と聞いた。

母は、考える素振りも見せず、無表情に「緊張してるわ」と答えた。


 私はクラシック音楽のプレイリストを開き、そこに並んだいくつもの曲から、ドビュッシーの‘夢’を選んだ。軽やかなピアノの旋律が車内を流れ、母は息を吐いた。私はゆったりと、座席に背をつけ、手に持った花束をもう一度見た。水彩絵のように透き通った色をした紫のアネモネが束になっている。

今から向かう場所にいる人はこの時期になるとアネモネを好むようになる。私たちはそれを知っていた。それに私にとってもアネモネは思い出の花だった。昔、アネモネを貰ったことがある。彼はどうしてあのとき、アネモネを渡しに来たのだろう。それを確かめるすべはもうない。私は流れそうになる涙をぐっとこらえた。彼はどうしてアネモネを持ってきたのだろう。


 町の郊外に、そのマンションはある。灰色の壁は、塗料が剥がれてしまっている。母は入り口の前で止まると、「駐車しておくから、先に行ってて」と言った。


 車から降りると、冷たい空気に頬が痛んだ。息を吐くと白く、手足が長い間の車内に痺れていた。車の扉を閉めると、母が駐車場に向けて車を進め、私は花束を抱えながら、マンションの一階に向かった。そこにはエレベータが三つあり、自動販売機が白く輝いていた。ミネラルウォータ―はアルプスの山から取れたものだと書いてあった。値段は一一〇円する。不思議な場所だと思った。なぜかここは居心地が悪かった。自動販売機の煌々とした光のせいか、もしくは、この不気味なまでに静謐な空間のせいか。


 カタリカタリと革靴を鳴らして、母がやってきた。手にバッグを提げている。


「行きましょう」


 エレベータのボタンを押すと同時に、扉が開いた。まるで私たちを待っていたみたいだった。暗く淀んだ空気のするエレベータだった。中に入ると新品の冷蔵庫のような無機質な香りがした。母が、七階のボタンを押す。エレベータの扉がゆっくりと閉じて、ゆっくりと上に向かって動きだす。この空間のすべての時間が遅く感じた。影のある銀色の扉と、茶色く光るボタン。三階を過ぎたあたりで、母が不安げにこちらを見た。私は数秒遅れて「大丈夫、心配いらない」と呟いた。その声は何にも反響せず、消えていった。


 七階から一望できる町の冷気を帯びたコンクリートジャングルは人の気配も感じられない。動いている車でさえ、あれは人が運転しているのかどうか考えてしまうぐらいに、生物としての営みがなかった。七階の廊下はコンクリートがむき出しで、金属製の柵は低く、飛び降りようと思えば一瞬で肉の塊になれた。私はそれが少し怖かった。昔、小学校の先生が怪談話をするときに、水死体を見た話をした。私はその話がトラウマになっていた。水死体の腹は大きく膨らんで、青ざめた顔が、地獄の業火に焼かれているかのように目も口も、穴という穴をかっ開いていたのだと、先生は言った。なんでも近くのビルからその池に飛び降りて、全身のありとあらゆる場所を骨折し、そのまま溺れて死んだのだという。私は七階の手すりに掴まりながら、下を覗いた。駐車場がある。私の乗ってきた車もある。ひんやりとした風が私に飛び降りろと囁く。私は首を横に振った。


「ほら、行くわよ」


 その廊下を進むと、明らかに怪しい部屋が現れた。七〇九号室は、花でいっぱいなのだ。西洋の花や、野に咲いているが名前のわからない花など、とにかくいくつもの花が咲いている。赤い花があったかと思えば、透き通った青い花があり、端っこに紫色の、頭を垂れた花がある。私はどれも濃い色なのが気になった。まるで水にとかさないで、チューブからひねり出したままの絵の具で、一番濃厚な状態で染められたような、そんな花が溢れている。


「ほら、チャイム鳴らして」

「わかってるよ」


 母に急かされチャイムを鳴らそうとすると、壁をつたって這っている葉や茎に驚かされた。それはチャイムを覆い、ボタンの丸い穴の部分だけ何もなかった。谷のようだと思った。灰色の谷に指を入れる感覚はあまり良いものではなかった。甲高いチャイムの音が鳴ると、足音が遠くのほう、まるでこことは違う世界のほうから、ことん、ことん、と聞こえてきた。私は息を落ち着かせて、母を見た。緊張しているのか、母は唇を強く噛みしめていた。


 ドアノブがひねられ、醜い軋み声をあげて、ドアが開く。中から出てきたのは、私よりも身長の小さな少年だった。その見た目は日本の地からは遠く離れた欧米の方に見えた。流れるような金髪と宝石を嵌めたような碧眼をしていた。思わず見とれてしまうほどの白い肌と鼻筋、無地のTシャツを着ていて、首筋が艶やかだった。私を見ると、彼はどうぞと会釈して、私と母を招き入れた。


 まず感じたのは、異様なほど濃い香りだった。それは脳髄の奥まで刺激されるアロマで、鼻腔がすべてその匂いで満ちると、吐き出す息までもが、その香りになった気がした。


 落ち着いたピンク色の蛍光灯が暗い廊下を照らし、どこかのラブホテルなのかも、なんて思ってしまうほどに、そこには普通の部屋という部品が欠けていた。男の子は「靴を脱いで」と言った。私は玄関で靴を脱ぐとき、そこに誰の靴もないことを不思議がった。私のスニーカーと母の革靴の二足だけが、ぽつんとあって、それ以外には、何もない。


 男の子の後をつけていくと、暖房によって、一定の乾いた暖かさを保った部屋が私の肌から汗を分泌させた。床は軋み、それが母のため息にも聞こえた。抱えていた花束だけが、冷たく感じる。


 廊下を終えると、部屋が現れた。カーテンが少し開いて、陽光が隙間をぎらりと照らす、その部屋は、何も置かれていなかった。ただ奥のほうに椅子があって、影のなかに老婆が座っていた。老婆はピンク色のおかっぱ頭に、かえるのような顔で、私たちを見ていた。目が離れているのだ。たるんだ口元も、かえるにそっくりだった。私は何も言わず、男の子に誘われるように、老婆のまえに佇んだ。しかし、そこには明らかな境界線があった。窓から差し込むぎらついた光の線が、私と老婆を区切っていた。お互いが違う影にいた。現実の影と、常世の影のなかに、私たちは身を潜めていた。


「アネモネ」


 ゆっくりとした口調だった。タイプライターで頭に直接文字を打たれているような感覚だった。私は頷くと、こちらに寄ってきた少年に花束を渡した。少年は受け取ると、丁寧な足取りで、老婆のほうへ向かった。少年はそのとき、なぜか老婆の口元に、アネモネを寄せた。香りを嗅がせているのかと思ったら、むしゃりと音がした。それは老婆がアネモネを食べた音だった。その花をまるでサラダに乗った春菊のように、むしゃむしゃと食べはじめたのだ。私は悲鳴をあげそうになって、手で口を塞いだ。老婆は口から紫色の汁をこぼしながら、何度も咀嚼を繰り返すと、ごくりと喉に大きなこぶができるほどに飲み込んだ。こぶは、喉から胃にたどり着くまで、体の奥に落ちていき、そのまま、何も無かったかのように紫色の汁を、少年が真っ白なハンカチで拭った。


「美味しいのね。いいのを選んだ」


 私はなんとなく頭を下げた。何が起こっているのかを誰も説明してくれなかった。老婆は頭をあげた私の瞳をじっと見つめていた。彼女の瞳は、黒い液で満たされ、その奥に不思議な紋様が浮かんでいるような気がした。それは完璧な形をしたペンタグラムというよりも、もっとどろどろとした、規則性のない形に見えた。私はごくりと唾を飲み込んだ。


「何故、ここに尋ねてきたのかしら」


 老婆は首を斜めに傾けた。それは時計が十二時から少し進んだような角度だった。私は詰まりそうになりながらも、この身に起こった出来事を語ろうと決心した。それはあまりにも奇怪な話で、精神科の医者でさえ、そして自らの母でさえ困惑するものだった。


 先日、私の体は燃えたのだ。


 

「それはあまりにも突然のことでした」と私は老婆に言った。私はある日の朝、いつものように目覚めると、スマホに入っていた通知を見て、青ざめた。恋人のルイ君が別れようとメッセージを送っていたのだ。心臓が跳ねて、息が吸えなくなるぐらい驚いた。


 ルイ君と付き合ってから、もう七ヶ月経つ。彼は私に優しく、どんな要求も受け入れてくれる。でもそんな私たちですれ違いがよく起きた。それはほんの些細なことでもあったが、幼い私たちにとっては重大なことだった。ルイ君は私を大切に思いすぎて、自分が幸せになれないことを悩んでいた。私は意味わからないって思っていたけど、それは結構深刻だった。ルイ君は優しすぎるのだ。だから、私を気遣うあまり、自分を大切に思えなかった。つまり私たちは合わなかったのだ。お互いに好きだけれど、相性が合わない。よくあることだけど、私にとっては、はじめての失恋だった。私は一度、何事も無かったように、学校に行く準備をした。けど、自分の部屋から出るとき、何かが崩れた。まるでいままで立っていた世界の底が割れてしまって、奈落に落ちていくかのような、コペルニクス的転回とでも言えよう何かが心の中で蠢いた。すると、手がじんじんと熱くなった。


「本当に熱くて、手が溶けてしまったかと思ったんです。私は思いきり、手を払いました」


 そうすると、払った手で触れた壁に炎が飛び散った。ぼうっと燃えて、私は悲鳴をあげた。母が私の声を聞いて部屋に飛び入ったとき、辺りには炎が散っていた。母はパニックになりながらも、私を抱きしめようとして、その熱さに驚いていた。部屋にある姿見を見てみれば、私は溢れた炎に飲み込まれ、ごうごうと燃えていた。熱いと思った。でも、それは痛みではなかった。ただ全身が燃えさかっている、熱さだった。私の体からどろりどろりと炎が零れ、それが辺りを飲み込もうとする。やめて、消えて。そう叫んでも、炎は辺りを侵蝕していき、それは溶岩のように、辺りを燃やした。私はこのままじゃ家が燃えてしまうと思い、頭を抑えて、消えて、消えて、と叫んだ。すると、あるところで途端に、熱が冷めた。燃えた炭に水をかけたように、蒸気をあげて、私の炎は消え、そのまま私は気を失った。


 気がついたとき、私は病院にいて、精神科の先生に診てもらっていた。お母さんが、私の頭がおかしくなったと連れてきたのだ。不思議な出来事だった。私の体が燃えたのだ。でも先生は信じてくれなかったし、お母さんも確かに見たはずなのに動揺した様子であのときのことはよくわからないと呟くのだった。体を炎が覆ったなどと突拍子もないことを誰も信じることはできなかった。


 その後私は病院に三日間入院した。そのときは何ともなかった。

しかし、ルイ君がお見舞いに来たとき、また異変が起こった。ルイ君は、花を持ってきたのだ。アネモネだ。たぶん花屋に行って、適当に買ってきたのだろう。私は彼の顔を見ると安堵以上に、怒りに染まった。私の胸のうちからまたもや業火が煮えたぎり、あふれ出た。手を伸ばすと、火炎が吐き出され、病室の壁を黒く焦がした。ルイ君はそれでも、動揺一つせず、私をまっすぐな目で見つめていた。


「どうして」彼には炎が見えていた。そして、彼は私を抱きしめた。「駄目! やめて!」


 このままじゃルイ君は燃えてしまう。なのに彼はその熱のなかで確かに呟いた。


「ごめん。ヒカリ」


 ルイ君は燃えていった。彼は熱のなかで、皮膚を溶かし、気がつくと灰になっていた。


 私はその灰が、ルイ君であると認識できなかった。ルイ君を燃やしてしまったのだろうか。そう思うと、また炎が溢れてきそうになった。涙のように、炎が体中の穴という穴から溢れ出ようとした。病室の窓が赤く輝き、私の体は煌めいていた。


 でも炎は出ないのだ。それは大きな悲しみを私に与えた。炎が出なければ、今あったことを誰にも説明できない。私の目は涙でいっぱいになった。看護師の人が部屋に入ってくる。私はルイ君のことを尋ねた。しかし、看護師さんは面会になど誰も来ていないと言った。私は何か彼がここにいた証拠を探そうとした。だけど彼の持ってきたアネモネさえ、燃えて消えてしまったのだ。私は転がっていたスマホを手に取ると、母に電話した。そして今あったことをすべて話した。すると、母は不思議そうにこう言った。



「ルイ君? 誰のこと?」




 母は、ルイ君のことも、憶えていなかった。私はただ精神が不安定になり、病院に入院したことになっていた。誰に聞いても、それは変わらなかった。私の炎とルイ君は一体何だったのか。私は困惑し、精神病院を転々とした。誰も、私の話を信じるものはいなかった。でも確かにいたはずなのだ。私はまるですべてを失ったかのように、抜け殻になり、そしてある日、この場所を知った。


「魔女の家。この世とは別の摂理のものを扱っている人がいると聞きました」


 それが目の前に居る老婆だった。


老婆は「そうだね」と深く頷いた。「世界はいっぱいあるんだ」と言った。


「いっぱい、ですか」

「うん。いっぱい。数え切れないほど、世界はある。夜の空を蠢く星よりも多くある。お前は一度違う世界に訪れてしまっていたのだろうね。それも深く閉ざされていた世界に」

「深く、閉ざされた世界」

「いいかい、小さなヒカリよ」


 老婆は目線を落とし、カーテンから指す光を見た。


「昔々から、違う世界に行くときには、何かを失い、何かを得るのが掟なのだ。お前も、同じように失ったものと得たものがあった。お前が体験したこと、見て、感じたこと、それらすべては確かにあったことだ」


 その言葉はすとんと心に収まった。お伽話や昔話もそうだ。何かを得て、何かを失う。何かを失って、何かを得る。そうして別の世界に行く。帰ってくるときには、違う自分になっている。そして、それらは本当にあったことである。じゃあ、ルイ君は一体。


「彼はきっと、お前のために代償になったのだろう。お前さんが現実に戻れるように」

「でも、なぜ」



「愛だよ」老婆は真っ直ぐな瞳を私に向けた。「それが愛なんだよ。ヒカリ」



 そのとき、私の心の奥底で燃え上がる何かがあった。それは暗い谷底から這い上がってきて、私の心の膜を突き破り溢れてきた。炎だった。母が驚いたように悲鳴をあげた。でも、熱くはなかった。ただ暖かかった。


「ルイ君」


 気がつくと、炎は消えていた。母が私を抱きしめていた。魔女は安らかな目をして、私たちを見つめ、それからこう言った。


「さあ、帰りなさい。お前たちはもう代償を払ってある」


 その部屋を出ると、澄んだ空気に私の肌はひんやりと冷やされた。母は落ち着かない様子で、私の体を心配しているし、どこかそわそわとしていた。


「大丈夫だよ。ルイ君が守ってくれたから」


 それに、私はひとつ知りたいことがあった。スマホの電源を入れると、アネモネと検索した。ずっと調べたかったけど、調べられなかった。それは怖かったからだと思う。ルイ君が何故私にアネモネを渡したのかを知ってしまうのが、怖かったからだと思う。でも、アネモネの花言葉を見て、私は思わず笑ってしまった。


――はかない恋。


「ルイ君らしい」


 そのとき、日が落ちかけた天頂から葡萄色の光が落ちて、駐車場に差し込んでいた。その光の輪のなかに、一人の青年が佇んでいた。それは確かにルイ君だった。ルイ君は何かを探し求めるかのように、その手にはアネモネを持っていた。まるで私が魔女に会いに来たときのようにその代償を持っていた。走って駐車場に下りた。


「ルイ君!」


でも、そのときにはもうルイ君はいなかった。はっとしてマンションの七階を見た。ルイ君が、七〇九号室に入っていったのが見えた。


「世界はいっぱいあるんだ」


 その言葉が、私の心に深く残った。炎はもう消えてしまった。けれど、灰は残ったのだと、私は知った。もしかしたら、私の消えた世界で、ルイ君は今も私を探しているのかもしれない。そう思うと、胸が熱くなった。母が駆けつけてくる。私たちは黙ったまま車に乗った。


 マンションの駐車場から出ると、車は穏やかに元の道を戻っていった。


「ルイ君がね、さっきいたんだ」私の言葉に母は頷いた。

「知ってるわ」

「そうじゃないの。たぶん、私を探して、魔女のおばあちゃんのもとにたどり着いたんだわ」

「じゃあ、あっちの世界で、ルイ君はあなたを探してくれているのね」

「信じてくれるの?」

「ええ」お母さんは微笑むと、車を停止させた。私は驚いて、お母さんのことを見つめる。「ほら、見て」



 窓がゆっくりと開く。そこには大きな椿の花がいくつも咲いていた。お母さんはいつもみたいに椿を特別な目で見つめる。まるで私がアネモネを思い出深く見つめるように。


 お母さんは「私、忘れていた」と言った。「私も、ずっと探していたのに」


「お母さんも探している人がいたの?」

「ずっと昔のことよ。なんで大人になると、忘れてしまうのかしら」


 お母さんはその目を緩ませた。それは特別な感情の籠もった目だった。あの頃の憧憬がその瞳の奥に浮かび上がっている。私は首を横に振った。


「忘れてなんかないわ。信じることができなかっただけで」


 母は、はっとした様子で私に目を向けた。それから力強く頷いた。


「そうね。でも、今なら信じきれるわ」


 窓が閉まると、お母さんはアクセルを踏んだ。車が出発する。私はお母さんとの間にあった溝が埋まっていくのを確かめた。母は左手で、私の頭を撫でた。


「あなたのおかげよ、ヒカリ」


 そのとき不思議と涙があふれて、頬を伝うのを感じた。その涙は炎のように熱くて、星のように輝いていた。私はルイ君のことを信じようと思った。誰に何と言われようと。誰も信じてくれなくても。だって、きっとそれは真実なのだから。


                                                                               

                  終

                   

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