【短編小説】「影を飲む男」

藍埜佑(あいのたすく)

【短編小説】「影を飲む男」

 灯りの心もとないバーの片隅、ひとりの男が常連の席に座っていた。

 彼は人呼んで「影を飲む男」。

 誰もが彼の過去を知らぬまま、ただ彼がそれぞれの夜に姿を現し、酒を傾けながら彷徨う陰に言葉を投げるのを見ていた。

 ある夜、私はその男に声をかけられた。

「影には色んな形がある。お前の影はどんな色をしている?」

 彼の目は深淵を覗き込むように暗く、とんでもない秘密を抱えているかのようだった。

 興味を引かれた私は、男におどけながら自分の影を見せた。

 すると、男は不敵な笑みを浮かべながら、語り始めた。

「この世には、人の命よりも重い影があるんだ。そいつらは、時に人を喰らい、時には……」

 彼の話は、まるで信じがたい都市伝説のようだった。

 翌日、私の日常に異変が起きた。

 私の影が、なぜかぼんやりと霞がかかったようになり、その輪郭が曖昧に溶けていくのだった。

 不安に駆られ、バーに駆け込んだ私は「影を飲む男」がすでに姿を消していたことを知る。

 彼の言葉を駆け巡らせつつ、私は自ら影を追いかけ始めた。

 街の暗がりごとに彷徨い、足を踏み入れたことのない不気味な路地、知らないはずの家の前、そこで私は自分でも驚くような、恐ろしい光景を目の当たりにした。

 影は、私が知るかつての形ではなくなっていた。

 彼らは、まるで独自の意志を持つかのように動き、そして静かに人々の生を吸い取っていたのだ。

 影は、街の光と闇の狭間で、その存在感を増していた。

 私は隙間の陰から陰へと、まるで何かに導かれるように彷徨い続けた。

 以前はただの付随物であった影が、今はまるで別の生命を持ったようにふるまう。

 そんなある夜、私はふとした偶然から、一軒の古書店の地下に足を踏み入れた。

 ここは「影を飲む男」が集めていたという、古びた書物と怪しげな文献の墓場だった。

 その中にある一冊の本が、私の目を捕らえた。

 表紙には「陰影術」と刻まれており、ページをめくると一連の奇妙な図と古い言葉で記した術式があった。

 震える手でテキストを追っていくと、影に宿る力とそれを操る秘術についての記述が現れた。

 影は、人の魂の一部でありながら、特定の条件下で独立した存在へと変異するという。

 そして、その力を制御するには、人間が影と共鳴し、契約を結ばねばならないと述べられていた。

 気がつけば夜が明け、私は絶望を感じながら古書店の階段を上がった。

 外の空気は、それまでの重苦しさが嘘のように澄み渡っていた。

 もしかすると「影を飲む男」も、かつてはこの書物に導かれ、影との深い契約を結んだのではないかとの考えが頭をよぎった。

 その間にも私の影はさらに形を変え、私の意識とは別に動きを見せるようになり、時折、私の行動を妨げるかのような振る舞いを始めていた。

 自分の影が不気味に自分を追いかける光景に、私は戦慄した。

 バーの片隅で「影を飲む男」が投げかけた問いかけが、今、私自身の問いかけへと変わっていた。「お前の影は、どんな色をしている?」 そして私は、影との契約を結ぶか、それともこの恐怖から逃れる道を探るか、決断を迫られていたのだった。

 街の喧騒が遠い彼方に沈んだ頃、私は再びあのバーを訪れた。

 しかし、「影を飲む男」の姿はどこにもなく、ただカウンターに並ぶ無数の酒瓶が思索を誘うように佇んでいるだけだった。

 バーテンダーは私の問いに首を横に振るだけで、男の行方については何も知らないと言った。この薄暗く、煙たい空間で、私は孤独を感じた。

 帰路につくと、私の影はまるで風に向かって立つ草のように、不規則に揺れていた。

 雑踏の中で影が人々をすれ違うたび、私は声無き叫びを感じた。

 私の影が一時的に他の影へと溶け込んだかと思えば、再びはっきりと私の足下に戻ってくる。

 まるで警告を発しているかのように。

 家に着くと、暗がりに鋭い目を光らせるネコが一匹、道を塞ぐように座っていた。

 ネコは私の影に目を落とし、そしてゆっくりとその場を離れた。

 その姿に何故かほっとする自分がいた。

 影が恐怖の源であると同時に、存在の証でもあるという矛盾。

 私はそこに深い皮肉を感じた。

 翌日、私の決意は固まった。この奇妙な現象から逃れ、平穏な日々を取り戻すため、「陰影術」の書物に従い、影との共鳴を試みることにした。

 古書店で出会ったその本には、契約のための儀式が詳らかに記されていた。

 しかし、それは簡単なものではなかった。

 影との共鳴は、人間の理性や感情を大きく揺さぶり、取り返しのつかない代償を要求するものだと警告されていた。

「影には色んな形がある。お前の影はどんな色をしている?」

 この一文が私の心に響いた。

 そしてある夜、私はその儀式を行った。

 ろうそくの揺らめく炎の中で、古書に記された言葉を唱えながら、私は影の中に身を委ねた。

 しばらくすると、部屋の隅に小さな渦が現れ始め、私の影がゆっくりとその中に吸い込まれていくのを感じた。

 翌朝、私はいつもと変わらない自分の影を見つめていたが、しかしそこには微妙な違いがあった。

 影は以前よりもはっきりとしており、私の心を読むかのような機敏さを持っていた。

 私は恐怖を感じながらも同時に大きな興奮を覚えていた。

 影との共鳴後、私の日常は一変した。

 人込みの中でさえ、我が影は他の誰の影とも重ならず、私に忠実に従っていた。

 だが、他の影々はそれを畏怖し、私が通り過ぎるときには静かに避けていくのがわかった。

 この新しい力に心を躍らせつつも、私はなぜか淋しさを覚えていた。

 週が過ぎ、月が満ち欠けるうちに、私は影とさらに同調し、それを操る技を身に付けていた。

 しかし、その力は一方で、人々との間に見えない壁を作り出し、孤独は日に日に深まっていく。

 そんなある夜、運命は再び私をあのバーに導いた。

 席につき、ジャズが流れる中、私は黙り込んで空になったグラスを眺めていた。

 それはかつて「影を飲む男」が座っていた席だ。

 耳を澄ますと、彼が語りかけてくるかのような気がした。

 もどかしさの中、ふと隣席に一人の男が座った。

 彼の横顔は不鮮明だったが、何となく懐かしい。

 男はゆっくりと私に言葉を投げかけてきた。

「影の中には、永遠の孤独だけがあるわけではない。時として、それは最も深い繋がりを創り出すものだ」

 私は息をのんだ。

 この声は……。

 そっと顔を上げると、そこには「影を飲む男」が微笑んでいた。

 彼だった。

 まさに彼だった。

 彼との再会は、何も言葉を交わさずとも理解し合えるものだった。

 彼の瞳には、これまで私が歩んできた道の全てが映っているようだった。

 そして、男は立ち上がり、静かにバーを出て行った。

「影は、人を苦しめることもあれば、救うこともある。だが、何も生み出さないものに変わりはない。お前の影はどんな色をしている、と問うたのはな……最終的にそれを判断するのはお前自身ということだ」

 彼が残した言葉が心に残響となって鳴り響く。

「影に喰われないで良かったな……」

 彼の声が消え去り、バーの片隅でボトルがこだまする。

 私はゆっくりと席を立ち、新たな自分と共に新しい朝を迎える準備をした。


(了)

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【短編小説】「影を飲む男」 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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