知られないから美しい 下
そろそろ戻るかと思いつつも、あと少し、もうちょっとと諦められずに進み続け、何個目かも分からないドアを開けた時、急に倉庫以外のものが飛び込んできた。
他の部屋よりも格段に広い場所。そこにはぎっしりと蝶の標本が並べられてた。壁に掛けられたものもあれば、宝石店に並んでいるようなショーケースに並べられているものもある。近づくと標本の隣には蝶の名前と共に説明が書かれたカードがある。
博物館のような光景に驚いた俺はポケットからスマートフォンを取り出し、ライトモードにしてそれらを照らした。
知っている蝶もあれば見たこともない蝶もある。同じ蝶でも標本が作られた年代が違ったり、色や大きさ、捕獲された場所が違っていることもあった。
これらを集めるのにどれだけの時間がかかったのだろうかと俺はただ圧倒された。
俺は何かにのめり込むことはなかった。子供の頃に買ってと散々騒いだおもちゃは手に入れて数日で興味を失ったし、格好いいと思った自転車もすぐに壊して興味を失った。友達が始めたからと一緒に始めた野球もすぐに止めたし、スイミングスクールもそうだ。何をしても長続きしない俺に両親は呆れていたが、俺は自分がそういう性分だと気にしていなかった。
だからこそ、長い時間をかけて集めただろうコレクションに衝撃を受けた。人間は一つのものにこれほどのめり込むことが出来るのだと、自分との違いを見せつけられたような気持ちになった。
そして唐突に羨ましくなった。俺にも一つ、何か一つでいい。蝶の標本を集め続けた誰かと同じくらいにのめり込める何かがほしい。そう強く思った。
「珍しい。この部屋に人がいるなんて」
その声と共に明るい光が俺を襲った。急に向けられたまぶしい光に俺はとっさに顔を腕で覆い、目を細めながら光が放たれる方向を見つめた。まぶしすぎてよく見えないが人が立っている。その事実に気づいて俺は焦った。標本に集中しすぎて誰かが来ていたことに全く気づかなかった。
「ご、ごめんなさい!」
「あーいいよ別に。俺、スタッフじゃないし」
とっさに俺は頭を下げて謝った。てっきり怒られるかと思ったが俺に返ってきたのはのんきな声。続いて「それよりごめんね、まぶしかったでしょ」と言いながら光が床の方へと向けられる。混乱しながら俺は相手の足から順番に視線をあげ、光の正体が懐中電灯であることを知る。着ているのがゆるめなルームウェアであることからスタッフではないという言葉も信じた。見回りのスタッフは深夜であってもきっちりした服装をしているからだ。
だとしたら誰だ。俺と同じように立入禁止区域に忍び込んだ患者だろうか。そんなことを考えながら視線を相手の顔まであげた俺は息をのんだ。
そこには信じられないほど美しい顔があった。あまりの美しさに俺は彼が絵画か何かで人間じゃないのではないかと一瞬本気で疑った。
続いて何かが彼の後ろで輝いていることに気づく。目をこらすとそれは自分の背に生えているのと同じ、クピドの翅。しかし同じであるはずなのに、同じだとは思えないほど彼の翅は大きく、懐中電灯の微力な光を浴びてキラキラと輝きその色を変えていく。こんな翅は初めて見た。こんなに美しい人間も初めて見た。あまりの衝撃に俺の手からスマートフォンが滑り落ちる。
「スマホ、落ちたよ?」
そういうと彼は床に落ちた俺のスマートフォンを拾い、なんの警戒心もない様子で差し出してくる。「はい」と言いながら手渡されたそれを受け取りながら、先ほどよりも近い距離で向けられた笑顔に俺の心臓は爆発しそうになった。
「な、名前は?」
「翡翠。君は?」
「し、清水聡です!」
「そっか清水か」
おそらく年上であろうその人は初対面の人間とは思えないほど緩い笑みを浮かべていった。
「用事がなかったら俺の暇つぶしに付き合ってくれない?」
「はい!」
深夜ということを忘れた元気すぎる返事に翡翠さんはクスクス笑う。それだけで俺の顔に熱が集まるのを感じた。おかしい。目の前に立っている人はどう見ても男の人だ。こんな異性に向けるような好意を向けるのはおかしい。俺が中学時代に恋した相手はクラスメイトの可愛い女の子だった。同性ではない。
それなのに顔の熱が収まらない。
「俺、病院棟に行くの禁止されてるから、今どんな子がいるのか知らないんだよね。君のことも含めて教えてくれると嬉しいなあ」
そういって笑う翡翠さんの姿を見たら細かいことはどうでもよく思えてきた。目の前の美しい存在がそういっているのである。同性だとか異性だとか、そんなことはどうでもいいじゃないかと俺は熱に浮かされたような気持ちになっていた。
その日、俺は朝方まで翡翠さんと話した。何を話したのかはよく覚えていないが、翡翠さんが楽しそうにずっと笑っていたことだけは覚えている。熱に浮かされたような気持ちで立入禁止区域から戻り、自室のベッドに倒れ込んだところで俺は気づいた。
監禁されている患者とは翡翠さんのことだ。
あの噂は真実だったのである。
これはとんでもないことだ。自由に出歩いていたから監禁とはまた違うのかもしれないが、病院棟で一般的な治療を受けていないのは間違いない。別れ際、「俺は病院棟にはいけないから」と寂しそうな顔で笑った翡翠さんの顔を思い出して俺は拳を握りしめ、ベッドに沈めた体を起き上がらせた。
スタッフを問いただそう。そんな使命感に支配されベッドから起き上がろうとしたところで気づく。
スタッフを問いただし、翡翠さんが病院棟で一緒に生活するようになったらどうなるのだろう。誰も彼もがあの美しさに魅了されてしまうのではないだろうか。
その想像に俺は血の気が失せた。これはほぼ確実に起こる未来のような気がした。そして翡翠さんが病院棟に入れない理由にも気づいてしまう。彼がもたらす影響はきっと大きい。きっと誰もが彼に恋をする。そして彼の好意を得ようと必死になる。俺が今必死に翅が落ちるのを耐えているように。
俺は再びベッドに仰向けで寝っ転がった。すっかり見慣れた白い天井を見上げ、しばし考えてから目を閉じた。
美しい標本の中にたたずみ笑う翡翠さんの姿を思い浮かべると自然と口角が上がる。これを誰かと共有してしまうのは勿体ない。翡翠さんが皆のものになるのは我慢ならない。
ならば秘密にすればいい。標本も翡翠さんも全ては俺の胸の中にしまっておく。
安心したと同時に忘れた眠気が押し寄せてくる。このまま眠れば夢で翡翠さんに会えるような気がして、俺は幸せな気持ちで眠りについた。
その日見た夢にはたしかに翡翠さんが登場したが、翡翠さんに近づこうとした俺の体はなぜか真っ赤な炎で燃え上がって灰も残らず燃え尽きた。
その秘密は胸の中 黒月水羽 @kurotuki012
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