宇宙で一番暗い森

「この森はね、宇宙で一番暗い森なんですよ」

「宇宙、ですか」

「はい。僕がいうところの「宇宙」ですが、あなたがいうところの「宇宙」もそう遠くないと思います」

「まぁたしかに、「宇宙」という言葉には色々なものが入り込んでしまいますからね。私の「宇宙」とあなたの「宇宙」がピッタリ一致、というわけにはいかないでしょうが、また逆に理解できないほど違うってこともないでしょう。でも、宇宙ってそもそも暗いものなんじゃないですか。70%がダークマターだとかなんとか……」

「いえ。僕は確かに宇宙一暗いとは申しましたが、暗いってことは何も悪いことじゃないんです。谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』は読みましたか。暗いな、よく見えないなっていうことがおもしろいということもあるでしょう」

「ふふ、まぁなにしろ、わざわざこんな所にテントを張るくらいですし」

「そうなんです。この森の暗さというものは、僕も最初はわからなかったんです。僕は以前仕事でGoogleマップのストリートビューを撮影する車を運転していたんです。車の屋根に大仰なカメラを載っけて走る、あれです。そしてある時「入ってはいけない村」にうっかり入り込んでしまいましてね。大変でしたよ。この仕事は世界を全部写真に撮ろうっていうんですから、そういう時みたいな非常事態の勘が大事です。世界が向こうから触れてきた時に、踏みとどまるための注意力と言ってもいいかもしれません。そして僕はあるあたりから、その辺の勘が冴えてきたんです。そして、暗い山と暗くない山がわかるようになったんです」

「暗い山……ですか」

「そうです、暗い山です。何かを隠している山、と言ってもいいでしょう」

「何かを隠している? 心霊スポットとか、そういうやつですか?」

「これはまた簡単な言葉を。違います、何かがあったとか、なかったとかではないんです。その森が目に暗く見えるかどうかですよ。暗くて、何も見えなくて、ちょっと入ってみようかな……と思うような暗さです」

「それは……たとえば暗渠みたいな?」

「暗渠! なるほど。暗渠……どうやらあなたに声をかけたのは正解だったみたいです。あなたの中の「暗渠」という言葉も暗い森の一つかもしれません」

「なんだか話が見えないな。それで、暗い森だと何だっていうんでしょうか」

「暗い森には、池があります。川かもしれません。誰にも知られていない川。テントの中で、どこからともなく水の音が聞こえて来ることはありませんか?」

「そう言われると、そんなことがあったような気もしてくるね。ただ、ここにはそもそも湖があるじゃないか」

「違う音ですよ。言ってみれば、あなただけの川です。眠りについたかついていないかの曖昧な時間に聞こえてくる、今この音を追わなければもう見つからない、川の音。音がするからにはやっぱり川なんでしょうね」

「君は、宇宙の話をしているのかい?」

「山の中で、宇宙の話をしないはずがないじゃないですか」

 びゅう、と風が二人の間を吹き抜けた。


 寒くなってきたので、私は薪に火をつけた。その夜をどうしようと決めてもいなかったが、この変な男ともう少し話をするのもいいかもしれない。

「いえ、僕には、森でやることがあるので」

「そうですか。二人分の簡単な食事くらいは用意できたのに」

「それは嬉しいことをおっしゃいます。それでは、熱い珈琲を一杯いただけませんか。このカップに」

 私と男は二人で熱い珈琲を淹れた。しかし、森の中からひゅうひゅうと風の音がして、それがすぐに珈琲を冷ましてしまうので、何かの儀式のように私たちは粛々と珈琲を飲み干した。濃くてとろみのある、コールタールのような、夜の珈琲。熱い液体が喉を伝って、胸のあたりに熱がこもった。近くで見ると、男の持っていたカップはスノーピークのシェラカップだった。みんな使っているからと、私はアウトドアショップでの購入を思い留まった覚えがある。ふと、ゲストハウスの方から、黄色い笑い声が聞こえた。

「これから森に行きませんか。私はこのためにここに来たのです」

 私は男に続いて森に入った。不思議なことに、あの暗い森に踏み入れた途端に世界が青く明るくなった。

「目が、慣れてしまったんですね。暗い森に」

 森の中は思っていたよりは温かく、葉っぱの降り積もった地面はスポンジのように僕の足の裏を押し返し、まるで大きな生き物の体内にいるような気さえした。ふと、もう誰にも会えないと思った。私の肩筋から、すごいスピードでゲストハウスが後ろに遠ざかっていく。悪寒を感じ、くすぐったいような感触に思わず振り向いた。

 そこには暗い森があった。

 前を向くと、男はいなくなっていた。

「おーい! また会えましたねー!」

 どうせ朝になればどこかに出ていけるだろうと、私の恐怖心はすっかり麻痺し、身軽な抜け殻のような気持ちになって歩いていたら、湖に出た。その湖の対岸から、男が手を振っていた。

「あの月まで! 泳ぐんです!」

 男はざぶんと水の中に飛び込んだ。暗くてよく見えないが、ざばざばと波がこちらに押し寄せてくる。そしてその時、私の目の前に、大きな湖を覆い尽くすように、黄金の満月が浮かんでいることに気がついた。自分が気づかなかったのか、本当にそこにいなかったのか。あきらかにその月は輝きを増していた。暗がりからその月を切り裂き、水飛沫をばしゃばしゃと立てながらその月を侵食していくものがいる。月の波面はゆらぎ、くしゃくしゃにされるけれど、すぐに光がその裂け目を継ぎ直す。まるで小さな男が巨大な月に一人で立ち向かっているようだった。英雄とはやはりこんなにも愚かなものだと、私は納得した。そして男は見えなくなった。かれは紛れもなくこの星の旅行者だったのだ。還ってこれなくなるくらいには。よく見ると、ぴかぴか煌めく小さな月が私のところまで漂ってきた。私は膝まで水に浸かり、その水の温かさになぜか感動しながら、それを拾い上げた。スノーピークのシェラカップだった。


 そのカップは、何だか形見のような気がして私が譲り受けることにしたのだが、いつぞやのキャンプで横着をして直火に当てた際に煤をたくさん浴び、真っ黒になってしまった。私は今でもそれを綺麗に洗い落とせないか、挑戦してみる日がある。

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この星の旅行者 石川ライカ @hal_inu_

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