この星の旅行者
石川ライカ
教室の三日月
湖畔に着いたのは、日も傾き始めた午後三時ごろだった。私はバイクを留め、日差しの熱を吸収したヘルメットを外して息を吐いた。普段よく行くキャンプ場は油断していた隙に満員になってしまい、存在だけは把握していた人気のないこの場所を選ぶことになった。荷物は下ろしたが、準備をするにも中途半端な時間なので、変わり映えのしない同じような森に何か見つかるだろうかという幾許かの探究心をあてにして、キャンプ場入り口の坂道をたらたらと下った。
たしか、中学二年生の時だったと思う――キャンプ場を数百メートルも下ったところに新しめの喫茶店があり、そこに昔のクラスメイトがいた。「昔のクラスメイト」というのも、相手の名前も覚えていなかったし、彼女に中学生の面影はほとんど残っていなかった。なにか、匂いというよりも少しの涼しさを纏った風が鼻にかかったような、虫の知らせというにはあまりに儚い気配が、薄暗いカウンターの向こうに立つ彼女の面影から放たれたのだ。しかし、向こうはそうではなかったらしい。
「あれ、なんでこんな所にいるの」
とくに話す必要もない内容を、うどんを打つように千切れない程度に話を延ばしたけれど、こう問われてしまうと同じことを聞き返すのも芸がない気がして、私はこの「新しめの」喫茶店に話題を転じた。一言で言えば、彼女は若女将のようなものらしい。もちろん若女将とは一言も言わなかったけど、自分と同じ教室にいたよしみで、私はとりあえずそのように名付け、卒業アルバムに書き加えた。喫茶店のカウンターはスペースの半分でゲストハウスの受付を兼ねていて、本来はそちらが本業なのだという。そろそろ汗をかこうか身体が決めあぐねている、こんな中途半端な季節の休日に宿泊客はほとんどいない。積もる話がないなりにはこの森で夜を過ごそうとしている者同士、話は弾んだ方だと思う。お互いに午後を持て余していたのだ。私の脳裏にはバイクに積んだままのテント一式と暖色の日差しを吸い込むゲストハウスの寝具が交互に明転していた。しかし、どちらもまだ用意されていない。
……私は残念なことに私も彼女も共有していなかった教室を思い出しながら、もっと言えば二人で創作しながら、分担して描いてゆく教室の風景に思いを馳せていた。それはなぜか夜の教室で、窓の外には大きな、地球ほどもある三日月が大地と接していた。いや、それは校庭に接点を持ち、三階の教室から一番近い西側の階段をぐるぐると降りて、下駄箱で外履きに履き替え、中庭から吹き抜けをくぐって校庭へと走り出せば、その反比例したような三日月のカーブを上っていけるようだった。でも、間に合わないかもしれない。月はじっと校庭の砂を弄んでいるように見えて、中庭から吹き抜けをくぐる頃には何の音も立てずにふわりと僕らの思い出から抜け出して、宇宙へと還っていってしまうかもしれない。彼女とこんな話ができたら良いのに。僕は時間を忘れていたようで、気づけばゲストハウスの中の喫茶店は薄暗かった。というより昼でも薄暗い森が僕らのいる喫茶店に近づいて来たような気もした。でもそれも僕の目が違和感を演出しようとしているだけなのかも。その証拠に外に目を凝らせば山特有の暗さと明るさが入り混じった青緑色の空気がくっきりと漂っていた。
「それじゃ、この店は一旦閉めるけど、夜は宿泊客のために夕食を作らなくてはいけないの。今日は人が少ないから、食べにきてもいいよ。お金は払って欲しいけど」
「それは有り難いな。だけど、僕にもバイクに積んできた食糧やガスがあるから、気が向いたらくるよ。ありがとう」
私はもと来た坂を上り始めた。坂は上る方が時間がかかるから、同じ景色でも伸び縮みをしている気がして面白い。テントを張り、朝露対策のカバーをかける。頭の中で思い描くとテントに比べて自分一人がいやに小さく感じて大変だが、いざ組み立て始めると寝っ転がったテントがしぶしぶ身体を起こすまでの15分ほどを支えているのに過ぎないのだと思い出す。こういうことを覚えていてくれるのはいつだって身体だ。
ひと段落して、使い古した折り畳み椅子に座る。火をつけるにはまだ早いので、もう少し暗くなるのを待つ。キャンプを趣味にするようになって、段々と手際が良くなり、待つことが増えた。人はこれを「贅沢な時間」と言ったりするが、私には年々増えていく待ち時間の一つとしか思えない。その先には夜があるし、焚き火があるし、やがて出会う死がある。私は夜の闇に背を向けてもぞもぞとテントに潜り込む瞬間が好きだ。焚き火にあたっている時間にも風情はあるが、そこは山の中の闇で、外で寝る者には苦痛と不安に満ちた世界が待っている。私はテントに逃げ込むためにキャンプをするのかもしれない。そして私は、私の知らない別の世界の朝焼けを想う。
「こんにちは、この星は案外寒いですね」
丸みと角張ったところの雑居するイタリア人風の風貌をした男がシェラカップを片手に声をかけてきた。髪の毛はスマートに整えられているが、どこか怯えたような目つきをしている。
「寒いですね。山の中にくると、私のような人類は都合よく地球温暖化を忘れてしまいます」
その男は何か用があるわけでもなく、ただ時間を潰すために話しかけてきただけだろうが、山の中ではそれが許されるし、私も時間を持て余していた。そしてどこか奇っ怪なその男を私は少し好ましく思った。ただもっと奇妙なことに、私が立てたテントの周りにはその男が立てたであろうテントは見当たらなかった。
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