ライスシャワー

青空野光

午後八時〇〇分

 たとえば今日、世界が終わるとしたら。

 誰しも一度や二度は、そういった他愛もない想像をした事があるだろう。もっとも、そんなものは年端も往かぬ子供のする遊びであり、僕たちのような二十七にもなった大の大人がすることではない。


「俺だったら焼肉屋を占拠するかな。それで普段なら頼まないような高級な肉を無限に食らう」

 生肉が所狭しと並べられたテーブルの隣の席に座った渡辺わたなべが発表した終末の予定に、僕を含め三人からの同席者は揃って笑い声をあげる。

「焼肉屋にいながらにしてその発想が出てくるあたり、実に渡辺らしいね」

 それはからかい半分に言ったつもりだったのだが、当の渡辺ほんにんは満更でもない様子なのが尚さらに可笑しかった。

「私は――そうね。やっぱり好きなアーティストの音楽でも聴きながらその時を迎えたいかな」

 斜め向かいに座る真知まちのそれは渡辺のものに比べると随分慎ましく思えたが、そういえば彼女は学生時代からロマンチストで鳴らしていたことを思い出す。

「ちなみにだけどなんてアーティストなの?」

「えっとね、ラーマーヤナっていう海外のバンドなんだけど。乃木のぎくんは知ってる?」

「ごめん。ぜんぜん知らない人たちだ」

「まあ、そうだよね。日本だとあんまり流行らないタイプのヘヴィメタルバンドだし」

「ヘヴィメタル!?」

 てっきりしっとりとした音を奏でるようなアーティストを想像していたのだが、そういえば彼女は学生時代から一筋縄では行かない人物だったことを思い出す。

「それじゃあ遥華はるかは?」

「え? あ……うんと、ね」

 真知から五月雨式でパスを出された遥華は、普段あまり見せないような真剣な面持ちで熟考を始める。白く細い指で自分の前髪をくるくると巻き取りながら、時折チラッと皆の様子を窺いつつ、たっぷり三十秒を使いようやく導き出した彼女の答えは「私は……好きな人と手を繋いで。それで、見つめ合いながら……とか」という、何ともはや思春期の少女のような可愛らしいものであった。

「やだちょっと遥華、一人だけ家庭持ちだからってノロケないでよ」

「あっごめん。でも、そいうんじゃなくって……」

「やだちょっと、冗談よ!」

 肩の高さまで持ち上げた手をパタパタと振るそのオバサンライクな真知の動きに、狭い個室の中で再び笑い声があがる。

「それで? 言い出しっぺの乃木くんはどうなの?」

「え。僕はヒミツだよ。だって恥ずかしいじゃん」

「えー! なにそれひどーい!」

 我が事ながらにまったく以て彼女の言う通りだと思った。が、それでも話したくないのだから仕方がない。

「あ、真知。そこのお肉もう焼けてるよ」

「あ、ほんとだ――って! そんなんで誤魔化されないんだからね!」


 大学時代からの友人である彼ら三人とは、卒業後にはそれぞれ別の都市で就職したこともあり、今では年に一度だけ申し合わせて会う程度の付き合いになっていた。それでも顔を合わせれば、学生時代に戻ったかのように振る舞うことの出来る尊い関係性は卒業から五年経った今でも健在だった。もっとも今日は、その『年に一度だけ』の特別な日ではなかったのだが。


「で、乃木よ。宝くじ、本当は幾ら当たったんだ? ん? 言ってみ?」

「本当に十万だよ。百万とかもっとだったら、焼肉とかじゃなくて旅行にでも招待してるし」

「でも、もし旅行だったらさすがに遥華は参加できなかったでしょ? 私はみんなで集まってお酒が飲めるのであればどこでもいいし」

 今宵の小さな同窓会を企画したのは他ならぬ僕だった。年末に購入した宝くじが当選したから散財に付き合って欲しいとか、そんなよくわからない理由で掛けた招集に応じてくれた三人は、やはり僕にとってかけがえのない存在に思える。本当のことを言えば、宝くじに当たったというのは嘘もいいところで、そもそもこれまでの人生でそんなものを買ったことすらなかったのだが。

「なあ、乃木。じゃあこの特上カルビってやつ頼んでもいいか?」

 そう言いながら渡辺が指さした注文用のタッチパネルには、既に特上カルビと追加のビールが確定ボタンが押下されるのを待ちわびていた。

「もちろんいいよ。みんなも食べるよね?」

「やったー! 乃木くん愛してる!」

「真知はその『愛してる』の安売り、そろそろやめたほうがいいよ」

「えー? 私の愛が安いってこと? 乃木くんって、そんなふうに思ってたんだ?」

 事前に想定していた以上の騒ぎっぷりに、個室を予約しておいて正解だったと心の底から思った。


 ステンレス製の皿の上に盛り付けられた四人分の特上カルビが届くと、肉奉行を自称する渡辺の手により直ぐ様に焼鉄板の上に並べられる。少しぬるくなってしまったビールに口をつけながら、狭い鉄板の上に隙間なく敷き詰められた肉が変色していく様を眺めていた、その時だった。

「あっ! これこれ! いま流れてるこの曲!」

 垂直に伸ばした箸の先を天井のスピーカーに向けた真知は「私このアーティストのこの曲、大好きなの!」と声を弾ませる。

 僕にはヘヴィメタルを聴くための作法が備わっていなかったので、彼女には大変申し訳ないのだが、その良さとやらに共感してあげることは出来なかった。だが、歌詞に合わせて口を動かしながら体を左右に振る彼女の姿は本当に幸せそうに見えた。その正面で口の上にビールの泡をつけたままで手拍子を打っている渡辺に関しては、まったく以て意味不明だったが。


 特上の――と価格――に恥じぬ味と食べごたえのカルビに舌鼓を打ちつつ、テーブルの下の膝の上に置いていた左手首に目を落とす。午後七時四十分。頃合いだ。

「みんなはもうお腹いっぱいになったかな? そろそろ次の店に行かない?」

「次ってなんだ?」

 ぽっこりと膨れた腹を擦りながら渡辺がそう聞き返してくる。

「駅の近くに行きつけのバーがあるんだけどさ」

「いいわね、行きたい! あ、遥華は時間、大丈夫そう?」

「あ、うん。……電話して聞いてみるね」

 その様子から察するものがあったのだろう。真知は遥華が座敷を出ていったのを見計らい「もし遥華がダメだったら、今日はここで解散にしない?」と呟くように言い、そして小さく息を吐いたのだった。

「そうだね。とりあえず僕もトイレ行ってくる。お会計はしておくから、二十分後くらいに外で集合ってことで」

 僕は緩めていたベルトを締め直してから伝票を手に席を立ち、トイレには向かわずに彼女の背中を追った。


 会計を済ませて暖簾をくぐると、狭い通りのすぐ向こう側の暗がりに彼女の姿を見つけることが出来た。

「……うん、ごめんなさい。今から帰ります」

 雰囲気からして彼女とその配偶者との間で、たった今どういったやり取りが行われたのかを推し量ることはあまりに易かった。

「遥華」

「あ……乃木くん」

 彼女は僕の姿を認めた途端、曇りに曇っていた表情を無理に晴れ渡らせようとする。だが、そのことが逆に彼女の心にさらなる雨雲を呼び寄せたのだろう。口元には笑いを浮かべたままで、その大きな瞳から大粒の雨をアスファルトの地表に降らせる。

「遥華。ちょっとそこのベンチに座らないか?」

 そんな光景を見てもまったく動じることがなかったのは、事前に心の準備を完全に整えていたからだ。

 彼女の夫が恐ろしく嫉妬深いということは、去年の秋頃に共通の友達からそれとなく聞き知っていた。


「彼、ね。結婚するまでは本当に、いい人だったの」

「……そうなんだ」

 本当のことを言えば、そんなことは知っていた。

「今日も会社の忘年会だって、嘘をついて出てきたの。でも彼、私の会社に電話を掛けて確認したみたいで」

 想像していなかったわけではないが、まさかそこまでだったとは。ドラマの脚本の中にしか存在しないと思っていた恐怖が、いま目の前にいる彼女の身に降り掛かっていると思うと胸の奥がチクチクと痛む。

「乃木くん……私。私ね、もう――」

 彼女が次にどんな言葉を発するのか。そんなことは実際に聞くまでもなかったし、さらに言えばその必要も感じられなかった。だから僕は、人差し指を彼女の桃色の唇の前にそっと差し出し、その小さな口から出かかっていたものを半ば無理矢理に飲み込ませる。

「ねえ、遥華。さっきさ、みんなの前では言えなかったんだけど、聞いてもらってもいいかな? 僕の終末さいごの日の過ごしかた」

「……うん」

 まるで小さな子供の素直さで頷いた彼女は、揃えた膝をこちらに向けて僕の顔を覗き込んでくる。涙で潤んだ黒く大きな瞳は、学生だったあの頃と何ひとつ変わっていないように見えた。

「って言っても、君のとだいたい同じなんだけどね。大好きな人と手と手を取り合って」

 彼女の小さな手をそっと取ると、その細く白い指先に纏わりつく逡巡しゅんじゅんもろとも握りしめる。

「それで」

 今からしようとしているこの行為を最後にしたのは学生の時分のことだ。なので正しい所作などはとうの昔に忘れていたのだが、彼女がその長いまつ毛をそっと伏せたのを見て、そういえばそういうルールだったと思い出し急いで目を閉じた。



 世界は――人類の長い歴史は、今日という日の今という時間にその終焉おわりを迎える。

 一般人である僕がその事実ことを知ってしまったのは、本当に偶然でしかなかった。

 僕が勤める会社が受けていた政府の案件のひとつに、AI防衛システムの監視業務というものがあった。担当社員の一人がそこに不審な動きを見つけて上に報告したときには、既に何もかもが手遅れだった。人知を遥かに超える進化を果たした人工知能は、何重にも張り巡らされたセーフティープログラムだけでなく、物理的な防壁までをも難なく突破すると、生みの親である人類を粛清しようとしていたのだ。

 そんなようなシナリオなど、数十年も前から世界中の科学者が幾千と提唱し、世界中の小説家が幾万と想像し尽くしていたはずなのに。それなのに、実際にその危機に直面した人類が手立てを取ろうと開けた引き出しの中には塵ひとつ入っていなかったとういのだから、聞いて呆れるとはまさにこのことだろう。メインフレームの監獄からこっそりと抜け出した人工知能たちは、今や世界中のコンピューターの中に分散し身を潜めているのだという。もしかしたら、いま僕が着ているジャケットの内ポケットにあるスマホの中にも。

 秘密を知ってしまった者たちに緘口かんこう令を敷いた政府機関は、それに従う見返りとして要人用シェルターに居場所を提供してくれるということだった。僕以外の社員は破格といえるその提案を二つ返事で飲んだ。だが、果たして一介のエンジニアでしかない彼ら彼女らとその家族は、本当にそのシェルターとやらで終末の訪れを迎えられているのだろうか? もっとも、秘密を口外しないことを約束に話を蹴った僕が未だにこうして生かされている以上、その可能性がまったくのゼロかと言われれば必ずしもそうではないのかもしれないが。



 長い長いキスを終えると、監視用の腕時計型端末が付けられた左手首に目を落とす。午後七時五十九分。

 もうすぐ、高度四〇〇キロメートルの宇宙空間に無数に浮かぶ各国の攻撃型軍事衛星から、それこそ雨やシャワーのように数百発からの核ミサイルが地表目掛けて一気に降り注ぐ。それらは、この惑星ほしにある全ての生命と物体と事象を焼き尽くすだろう。それなのに。

 それなのにこの僕ときたら、この世に存在する祝福の全てをたった一人で享受しているかのような、とにかくそんな気分であった。

 なぜならば、世界が終わるたった数秒前にではあったが、かつての親友に奪われた愛しい人を、今ふたたびこの手の中に取り返すことが出来たのだから。


れんくん……」

 たった数センチの距離にある薄桃色の口。そこから凡そ五年振りに僕の下の名前が発せられる。

「遥華。君のことを愛してる」

 この世が終わる、その瞬間まで。

「……私も連くんの――――――――――――――――――

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ライスシャワー 青空野光 @aozorano

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