Close Call
飯田太朗
Close Call
サンエンドウソジンについて調査をしに遠野へ行った。このことについては話したと思う。一週間の調査旅行だったが、ちょうど中日の三日目、僕は東京で文学賞の授賞式に参列する関係で一時的に帰らなければならなかった。これはその時起こった出来事だ。
「Close Call」という言葉がある。日本語に訳すと「危機一髪」だ。
僕はサンエンドウソジンの調査から一時的に離れたこの日、そんな「Close Call」なゲームに巻き込まれた。
以下はその詳細である。
*
「この授賞式、本当に僕が出なけりゃダメなのか?」
担当編集の与謝野明子くんにそう訊ねる。彼女は頷く。
「選考委員をした先生がいなくてどうするんですか」
「僕はこんな形ばかりのものよりも小説を書いていたいんだが……」
と、ぼやきながらも手元のスマホでスラスラと小説を書く僕。座っている椅子がふかふかなのでただものを書く分には問題ない。
「で、そのデビューした新人とやらは……」
「
「問題のそいつはどこにいるんだ」
「それがですね……」
実を言うと、僕はさっきから感じ取っていた。会場の慌ただしい雰囲気に。緊迫した雰囲気に。
「どうも失踪しているみたいで……」
「失踪」
「ええ、会場に来たことまでは確認が取れているみたいなんですけど、その後どこに行ったかはさっぱり……」
授賞式は都内の某ホテルの会場を貸し切って開かれる。馬鹿みたいに広くて大きいホテルだ。この中でかくれんぼをするだけでオトナたちは困るだろう。
「仕方ないから僕も手伝うか」
僕はふと立ち上がるとそうつぶやいた。与謝野くんが声を上げる。
「先生珍しい! 何か心当たりがあるんですか?」
「そんなところだ。与謝野くんは式の進行に滞りがないよう手配しておいてくれ。ちんたらされるのは困るからな」
「分かりました!」
「頼んだぞ」
さて、そういうわけで会場のホテルを出た僕は真っ先にとある場所を目指した。人ばかりのホテル内とは違い、外は空気が新鮮で歩いているだけでとても心地が良かった。
僕はホテルから離れた。横断歩道を二つ渡り、角を曲がった先にある隠れ家的なバーを目指したのだ。僕はこのバーをよく知っていた。文壇バーPolaris。作家なら一度は行ったことのある業界御用達のバーだ。
この手の店には珍しく禁煙。僕は煙草が好きじゃないので助かる。作中に出る分には小道具としてかっこいいが、リアルの世界の煙草はちょっと……。
さて、このバーに入ってすぐ、その男は見つかった。僕は受賞者近影でその顔を見ていたから知っていた。バーの片隅、テレビの前を陣取っていたのが楢崎知春その人だった。
「やあ」
僕は隣に座るなり話しかけた。
「授賞式はいいのかね」
すると僕の登場に多少面食らったのか、楢崎くんは少し驚いた顔をして、「作家の先生ですか」とつぶやいた。僕は応じた。
「君が来てくれないと僕がわざわざ執筆時間を割いてまでここに来た意味がなくなるんだがね」
すると楢崎くんは愉快そうに笑った。
「それは大変ですね」
「帰ってこい」
一方の僕は乱暴に告げた。
「あんまり業界人をなめない方がいい」
「なめちゃいませんよ、別にね」
授賞式をサボってバーで一服していた新人はひとつため息をつくと、バーに設置されていたテレビの方に目を投げた。それから心底楽しそうにつぶやいた。
「これからパリで映画賞がありまして。僕の好きな俳優が出るかもしれないんです」
「だから授賞式には出たくないと?」
「まぁ、そんなところです」
その話を聞いてぼくのリアクションは実にシンプルだった。
「気に入った。その我が道を行く姿勢」
僕はそう告げた。
「よし、ここで一緒にサボろうじゃないか。何ならここの代金は僕が持つ」
すると新人は目を丸くした。
「それじゃ、お願いします」
「ああ」
それからお互い何を話すでもなくぼんやりしていた。僕はといえばスマホを取り出し小説を書き始めていた。新人は何をしていたか分からないが、やがて急にこんなことを言い出した。
「あの……飯田さん、ですよね。選考委員の写真で見ました」
「ああ、そうだが?」
すると新人はにっこり笑った。
「僕とゲームをしませんか?」
「ゲーム」
新人はバーテンに目配せをした。やがて彼が持ってきたものは、ビーカーに、水の入ったペットボトル、それからビーカーを乗せる用だろうか、台座が一つだった。それらの下にはタオルが数枚重ねられて敷かれていた。新人が説明した。
「この台座は加熱器です。T-falなんかをイメージしてもらえれば」
「なるほど?」
「このペットボトルに入った水は、ビーカーに移すと……」
と、新人はペットボトルを開けるとそのままトクトクと中身をビーカーに移した。
僕はその様子をじっと見ていた。やがてペットボトルの中身はビーカーに移った……ペットボトルの中身はビーカーギリギリ一杯分、表面張力でかろうじて溢れない限界の量だった。
新人は続けた。
「表面張力のおかげてこの水はビーカーから溢れていない」
「ああ」
「水は熱せられると表面張力が弱くなるのはご存知ですか?」
知らなかったので僕は首を横に振った。
「実は、そうなのです。飯田さん、これから僕とゲームをしましょう」
どんな? と僕が訊くと彼は笑った。
「これからこのT-falの台座でビーカーを熱します。熱せられた水はやがて表面張力が弱まり水が溢れます。溢れたら問答無用で負け。そしてさらに……」
新人は台座のボタンを押した。途端に、ビーカーの水の温度だろう。数字が表示された。
「この温度計の数字が高い方が勝ち。勝負は三回。まず僕が水を熱する。そして『Close Call!』と叫びます。すると加熱が止まる。この加熱が止まった時の温度が、飯田先生より高ければ僕の勝ち。低ければ僕の負け」
「なるほど?」
要は、水を加熱し「Close Call!」と叫んで加熱を止める。この温度が相手より高ければ勝ち。低ければ負け。そして加熱しすぎて表面張力が限界に達し、水を溢れさせても負け。そういうことだろう。
「全部で三回勝負。勝った回数が多い方が勝ち」
僕は頷く。
「では始めます」
水が加熱され始めた。
「待ってる間は暇なんです、このゲーム」
新人がつぶやいた。
「雑談しましょう。今日は暑いですね」
「まったくだ」
僕はビーカーから目を離さない。
「こう暑いと嫌になる」
「先生は普段どこで執筆されるのですか?」
「家だね」
「やる気になれますか?」
僕は家だとエンジンかからなくて。新人がそうつぶやいた。僕は答えた。
「家の中で部屋を分けていてね。『この部屋に入ったらやるぞ』という風にしている」
「なるほど」
そう、つぶやいた後だった。
「Close Call!」
いきなり新人が叫んだ。台座の加熱が止まった。
「さて、温度は……」
新人が数値を出す。六十八度。高いのか低いのか分からない。
「ちなみに七十二・八度が臨界点です」
新人はニヤッと笑った。
「まぁまぁいい線行ったと思いますよ、僕は」
なるほどな。
水を、入れ替える。
それからまたゲームが始まる。僕は加熱のボタンを押した。ビーカーの水が加熱され始める。
「君がこのゲームを思いついたきっかけは?」
加熱する間、僕は質問をする。新人が答える。
「遠野に、行きまして」
僕はその言葉に反応した。
「
「奇妙な経験?」
「ええ、猿が……」
新人がパチっと片目を震わせた。
「不思議な、猿を名乗る……」
と、言いかけた時だった。僕は気づいた。溢れそうになっている!
「Close Call!」
僕が叫ぶ。だが、水は。
タラタラと、溢れ出てしまった。僕は温度を見る。
七十四度。
「惜しかったですね」
新人はヘラヘラ笑った。
「ひとつアドバイスをしておきましょうか」
タオルで台座を拭きながら、新人が告げた。
「コールをしても、加熱は急には止まりません。若干のラグがある。七十二度でコールしても、加熱器は止まるが温度の上昇は少しだけ余韻的なものが残る。それを考慮してコールすべきです」
なるほど。
「僕の番ですね」
新人は水を入れ、ボタンを押した。
「さっきの続きを話しましょうか」
僕の興味のある話だ。
「井伊岳山で僕は、猿に会いました。猿と言っても、猿を自称するおじさんです」
「猿を自称するおじさん」
「ええ、そのおじさんにこの勝負を持ちかけられました。完敗しました」
ふむ。
「悔しくてね。同じような装置を持ち込んで、このバーでいろんな作家に勝負を持ちかけてます」
「なるほど。百戦錬磨というわけか」
すると新人は笑った。
「いえいえ、運要素が強い勝負ですから、なかなかコツは掴めませんよ」
新人がウィンクする。僕はビーカーに目をやる。
「Close Call!」
新人が叫んだ。途端に加熱は止まった。
「さて、温度は……」
ボタンを押す。出てきた数字は五十九・二度だった。新人がうめく。
「これは低かったな」
そんな彼の、言う通り。
続く僕のターン。僕は加熱ボタンを押した。
「先生はミステリーを書かれますね」
新人が訊いてきた。
「ああ」
「どうしてミステリーを?」
この加熱が終わらない内に、話せるだろうか。
だが僕はゆっくり話す。
「ミステリーは優しい物語だからだ」
新人は首を傾げた。
「優しい?」
「ああ」
僕は頷く。
「世の中声を出せない人はたくさんいる。社会的立場が弱いから、あるいは声を発しても小さいと分かっているから。そして……」
「……もう死んでしまったから?」
新人の言葉に僕はまた頷く。
「そう。思いを残したまま死んでしまった人たち。ミステリーは、死んでしまった人の声に耳を傾ける話だ。死んでしまった人が何で死んでしまったか、考える物語だ。優しいとは思わないか」
そう、話し終わらない内に。
「Close Call!」
僕は叫ぶ。水の加熱は止まった。そして……溢れていない!
温度を見る。七十・七度。
「すごい」
新人が拍手をする。
「このターンは先生の勝ちです」
さて、一対一。
次の勝負で、決する。
「僕のターンですね」
新人が水を移し替え、ボタンを押す。
「君もミステリーを書くよな」
僕は新人に訊ねた。彼は答えた。
「ええ」
「どうしてなんだ」
すると新人は迷うような顔をした。それから、意を結したように話し始めた。
「楽しいからですよ」
なるほどシンプルな理由だ。
しかし続く言葉に僕は眉を顰めた。
「だって、人を殺せるんですよ? フィクションの世界なら。例えば嫌なやつがいたとします。そいつと同じ名前を登場人物につける。そいつを惨たらしく殺す。スッキリしませんか?」
「なるほどな」
僕は笑った。
「『飯田』が死んだらそう思っておくよ」
「先生は殺しませんよ」
と、その時。
「Close Call!」
加熱が止まった。
温度は。
「七十一度ぴったり」
すごい。
「これに勝つには、七十一度以上で七十二・八度より小さくないといけない」
僕は固唾を飲んだ。
「勝負しますか?」
棄権を、提示してきたのだろう。
この微妙な勝負。勝てる見込みは低い。
だが――。
「いいだろう」
僕は笑った。
「この喧嘩、買うぞ」
新人は笑った。
「そう来なくちゃ」
加熱を始める。
「君はどうして作家になった?」
加熱の間、僕が質問をすると新人は答えた。
「ねじ伏せたかったからです」
新人は続ける。
「誰も考えたことない最高の物語を書いて、世の先輩諸氏をねじ伏せたかったからです」
「なるほど」
その先輩、には僕も含まれるのだろう。
「でもね、先生。僕は先生を尊敬していて」
新人は僕の耳元で囁いた。
「どうやってあんな物語ばかり書けるんです? 正直、僕の前に立ちはだかる敵として先生は最高格なんです」
「どうやって、な」
僕は笑った。
「まず、よく見ることだ」
僕は続けた。
「君が踏み躙りたい作家先生方がいるだろう。彼らだけじゃない、他の一般人も含め、そうだ。みんなに人生がある。みんなに物語がある。それを拾って、形にする。僕は声を聞きたくてミステリーを書いている。だから、そう。君がね……」
新人の目がぴくりと動いた。僕は叫んだ。
「Close Call!」
加熱が止まる。
「君が加熱の臨界点近くで目をぴくぴくさせることに僕は気づいていたさ。このマシン、君が用意したものだね」
僕は続けた。
「君なら何分程度でこのマシンが臨界点の七十二・八度を超えるか理解している。だからさっきのようにギリギリを看破できる。一回目の勝負の時は説明のためにわざと低い温度を、しかも二回目の勝負の時はわざと負けたね? 声を聞くとはそういうことさ。これが、ミステリーだ。さて、温度は……」
ボタンを、押す。
七十二・六度。
僕の、勝ちだ。
「はは、ははは……」
新人が笑う。
「やっぱり先生は最高だ」
僕も笑った。
「ありがとうよ」
「ひとつ、何でも言うこと聞きますよ」
そう言われたので僕は返した。
「じゃあ、授賞式に出ろ」
バーには、静かな空気が、流れていた。
『Close Call』了
Close Call 飯田太朗 @taroIda
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