善悪

鯖缶/東雲ひかさ

善悪

 ジーっという音がなって、運転席の窓は開かれた。

「すみませんね、ちょっとばかし事件がありまして……免許証見せてもらっても?」

 薄く髭の生えた中年警官は白い息を吐き、運転席の開かれた窓の外から顔を覗かせて言う。その目は運転手である若い男から目を離さぬように、助手席や後部座席を舐めるように見ている。男は警官の持つライトに顔を照らされ、眩しくて気分が悪かった。

 男の車はセダン。車内にめぼしい物は何もない。

 外は夜の闇に包まれ、雪と風の吹きすさぶ軽い地吹雪でヘッドライトで照らしても視認性は最悪だ。男の視界には、フロントガラス越しに赤色灯の回るパトカーが見えている。その車体に跳ね返るヘッドライトの光もまた眩しかった。

 助手席側の外を見ると、もう一人の警官が見えた。警察は基本ツーマンセルであるから、その片割れが男を少し離れたところから見張っているのだろう。片割れの顔はよく見えない。

「何があったんです? こんな時間に検問だなんて」

 男はダッシュボードから免許証を取り出し、警官に渡した。警官のライトが免許証へと向けられる。男が一息吐くと、すぐにライトは男の顔に向けられた。男は目を細めて嫌な顔をした。

 すぐに免許証は男へと返却された。

「ご協力いただき感謝します。お手数お掛けしました」

 警官が帽子のつばをつまんで軽く会釈をした。つばに薄く積もった雪がこぼれ落ちた。警官が男の質問に答えることはなかった。

 男はエンジンをかけ、車を発進させようとしたとき、もうひとりの警官が中年警官の近くに来た。もうひとりの警官は若い女で目は切れ長、年不相応な威圧感と正義感に溢れている顔だった。

「一応トランクの中、見せてもらいましょう」

 若い警官は男に努めて聞こえないように言ったらしかったが、通る声だったのか音を立てて吹く風を押しのけて、微かに男の耳に届いた。

 中年警官は溜息を吐いて、面倒そうな顔を見せた。

「トランク、見せてもらっても?」

 その顔のまま、中年警官は男に聞いた。

「ええ、もちろん」

 男が言うと、若い警官が車の後ろに回った。中年警官は男から目を離さなかった。カタカタと何度かトランクを開けようとする音が車体に響いて、若い警官の通る声がそのうち聞こえた。

「開きません。鍵をかけてますか?」

 中年警官は眉を上げて、どうですと言うような仕草をした。

「この車、中古車でボロボロなんです。トランクも建て付けが悪くて、開けるのにコツがいるんです。いま開けます、いいですか?」

 中年警官は鼻で音を立て、乱暴に運転席のドアを開けた。男は車内に入ってきた突風に身震いをして、急いでシートベルトを外した。

 男がトランクに向かうと若い警官が男を睨んだ。男は下手くそな笑みを浮かべた。

「ほら、ここを押し込みながら蓋を持ち上げるんです。うう、あれ? 開かない」

 男はトランクの右側を押し込みながら力を入れた。若い警官は毅然と男を睨み、その後ろで中年警官は面倒に輪をかけて、既に興味を失った顔をしていた。

「手伝って貰えますか? 真ん中あたりを押さえるもらって、そっちの人も右側を軽く押し込んでもらって、僕は蓋を持ち上げます」

 若い警官は真ん中あたりを、中年警官は右端を軽く押し込んだ。男はしゃがんでトランクの蓋を押し上げる形をとった。

「それじゃ、開けますね。せーの」

 その瞬間、男の縮んでいた身体は目いっぱい伸ばされた。トランクは一気に全開となり、前屈みにトランクを押さえていた二人の警官はトランクの蓋にアッパーを喰らった。

 後ろに飛ぶように倒れた二人は何が起こったのか理解できず、ただ痛む顎と後頭部に顔を歪める。

 男はトランクから隠すように仕舞われていた自動式の拳銃を取り出し、瞬時に安全装置を外した。そして二発、倒れる警官の頭にそれぞれ打ち込んだ。警官たちは正確に穿たれたところから湯気を立てて、ビクビクして、動かなくなった。

「よかった。トランクが開いてくれて」

 男は呟いた。男はトランクの中を困ったように見た。左脇には小さな紙袋が三つ置かれ、その下に拳銃はあった。

 紙袋の横には胎児のように丸くなった少女がいた。大人びているが十代半ばであるのは分かる。意識はなく、穏やかな表情をしている。マフラーや手袋など、防寒対策は為されている服装だ。ただし腕と足首は縛られていた。

「そろそろ起きるな」

 男は腕時計を確認して言った。男は紙袋からホルスターを取り出し腰に巻いた。拳銃を背中にくるようにホルスターに仕舞った。そして少女を抱き抱えると、車の後部座席に移した。縛っている紐を解き、ドアを閉めた。

 警官二人を一瞥してトランクを閉め、男は車を今度こそと発進させた。

「ん……」

 車は吹雪の夜をひた走る。車が動き出して五分ほど経つと、後部座席の少女が目覚めた。男はルームミラーでそれをチラと見て、何も言わず運転に戻った。

 少女はすぐに異変に気がついた。なぜ車に乗っているのか。車を運転する男は誰なのか。今はいつなのか。ポケットを探っても携帯の類はなかった。そして記憶の欠落に少女は眉をひそめる。

 学校から家に帰り、おやつにドーナツを食べた。それ以後の記憶がない。少女は困惑と恐怖を覚え、不規則な呼吸を始めた。

「ここはどこ? あなたは誰なの」

 少女は絞り出すように声を出した。ルームミラーに映る男は若く、顔は無表情だった。能面のような顔というより、何かを押し隠して、本当に面を被っているような顔だった。

「僕は君を助けるためにこんなことをしている」

 男は無表情のまま答えた。少女はその言葉を鵜呑みにはしなかった。むしろ恐怖が助け、男に対しての信用はまるでなかった。

「それとも、僕は誘拐犯だと言ったほうが信じられるかい? どうせ信用できないんだから、黙って従ってくれ」

 少女の表情から何か読み取ったのか、男は諦観のこもった声で言った。しかし依然、無表情だった。

 男の言い分はもっともだった。少女は男に見覚えがない。何を言われても、きっと納得できないだろうと少女は思った。

 男への疑念は深まる。何があっても、男のことを信用することは出来ないだろう。少女は逃げださなければならないと思った。それは男が本当に自分を助けるつもりなら、信用されないと思っても、状況の説明を試みるはずだと少女は思ったからだった。きっと誘拐なのだと、少女は独り合点した。

 少女はルームミラーに映る男の顔に紅い何かを認めた。

「血……」

 少女の口から漏れる。男はミラーに映る自分の顔を睨む。そして頬に紅い点を見つけ、荒っぽく服の袖で拭った。

「とにかく逃げようとなんてするな。いかな状況でも君の命は僕が握っていることには変わりない」

 少女は男の本性を見た気がした。しかし、やはり男は無表情だった。

 あの点が血だったとするなら、自分は殺されてしまうかもしれないと、少女は当然考えた。

 車から飛び降りれば逃げられるだろうか。車は相当な速度で走っている。危険な上に外は猛吹雪だ。そう考えると様子を見るべきだと少女は男の顔を見据えた。

 少女は不気味なくらいに冷静だった。それは少女の肝が据わっていたわけではない。血を見たことで命が危機にさらされているのが分かり、それによって呼び起こされた生存本能が錯乱ではなく、生き延びるための方向に正しく作用したからだった。

 ガタンと車が短いブレーキを踏んだように揺れた。少女と男は突然の衝撃に前のめりに体勢を崩した。それから小刻みにブレーキはかかり、車のスピードはみるみる落ちていく。男がブレーキを踏んでいるわけではなかった。男は何回も確かめるようにアクセルを踏む。

「ああ、クソ、いかれちまった」

 車が完全に停止したあと、男は軽くハンドルを叩いて舌打ちをした。そのときに初めて、男の表情に少し感情が垣間見えた。苛立ちよりも焦りが顔に出ていた。

「歩けるか?」

 男は少女にきいた。少女は小さく頷いた。

 先に男が車から降り、少女はそれに続いた。

 男は道の先を見据える。車が走っていた道には街灯以外何も見当たらない。道の幅は車が二台すれ違える程度だった。

 道のずっと先まで街灯が続くのが見える。道には少女のくるぶしあたりまで雪が積もっていた。道の両側はそれ以上に雪が積もっているのが街灯に照らされる分だけ見える。あたりがどんな様子になっているのかは暗くて分からない。

 男はトレンチコートを着ていて、車から降りた直後はコートのボタンを留めていなかった。そのため風に煽られてバタバタと激しくコートがはためいた。

 その後ろ姿に少女は拳銃を見た。拳銃を初めて見るわけではなかったが、少女は驚いた。拳銃ならば護身用に一般家庭にもある。しかし血と拳銃が否応なく繋がって、少女はいっそう慄然とした。

 拳銃はホルスターにきちんと仕舞われていないのか、拳銃が落ちないように留めるはずの紐がプラプラと風に暴れていた。

 少女は隙さえあれば、拳銃を奪おうと考えた。男を殺そうと画策しているわけではない。体格的に少女と男は対等ではない。その差を埋めるのは拳銃だった。拳銃さえあれば対等かそれ以上に話が出来るかもしれない。交渉を諦めて逃げるにしても拳銃を持っている相手には難しい。そう考え、少女は拳銃の奪取を目標とした。

 男はコートのボタンを留め、少女のほうに足を向けた。

「動くなよ」

 そう言って男は車の後ろに回り、コツを使ってトランクを開けた。そして紙袋から紙の地図を取り出して広げた。ちょうど車は街灯の下で停止したので男は地図を読むのにさほど苦労しなかった。

「検閲はここだろう……あの速度で何分だ……さっきコイツを見たな……だとすると……」

 少女の耳に途切れ途切れの男の独り言が聞こえた。男は大まかな現在地を割り出しているようだった。そして男は地図を仕舞い、電話をどこかにかける。

「車が……そうだ……いや……少し遅れ……」

 少女にそれ以外は聞こえなかった。

「歩くぞ」

 冷たく言い放って、男は少女の先に立って歩き始めた。少女はそれについていく。

 男は不安だった。少女を無事に約束の場所に届けられるのか。その焦燥を裏打ちするように早足だ。しかしそんな男の顔は少女からは見えない。少女は虎視眈々と拳銃を奪うチャンスを覗っていた。

 男はふと立ち止まり、少女を先に歩かせた。少女にとっては都合が悪かった。男は少女を監視できるようにしたのだ。

「まっすぐ前を見ろ」

 男にそう言われた少女は後頭部に拳銃を突きつけられている思いだった。実際はそんなことはなかった。

 男も少女も打ちつけてくる風に指先や耳朶が悴んで痛んだ。

「どこに行くの」

 男は答えない。少女は雪風のせいで聞こえなかったと思ったが、もう一度きく勇気はなかった。

 少女の恐怖は歩くごとに増えたり倍になったり乗算されたりした。恐怖が大きくなるたびに体力と体温は吹雪に吸われていった。

「寒い」

 少女は覚えず呟いた。すると少女が思ってもないことに、男は着ていたコートを少女の肩に優しくかけた。

 先に少女が立ち止まり、次に男が立ち止まった。少女が振り返ると男は乱暴に少女の背中を押した。男は厚手のセーターを着ていたが、とても吹雪に耐えられそうには見えない。

「あ、ありがとう」

 掠れた声で少女は言った。少女はコートに手を通す。指先がかろうじて袖から出てくる。少女は手袋代わりに手を袖の中に隠した。裾は地べたに引きずっていた。

 少女は僥倖だと思った。拳銃を奪うにもまずはコートの壁が邪魔だ。それを男のほうから取り払ってくれるのは願ってもないことだった。

 それから少女はどれだけ歩いたか分からない。寒さと疲労のせいで何時間も歩いているように思える。

 街灯はどこまでも続く。まっすぐどこまでも。そのおかげで道を外れることもなかった。ここまでに人や車とは一度もすれ違わなかった。

 男は腕時計をポケットから取り出した。時計の金属部分が冷えて、凍傷になるので外していたのだった。男の視界には霧がかかっていた。目を細めるがうまく時計の文字盤が見えない。

 街灯の下に来て、男は舌打ちをした。寒さのせいで時計は機能を停止していた。止まった針は歩き出してから三十分のところで止まっている。男は歩き出して一時間経たないほどだろうと勘定した。

 そのとき、道の先に街灯でない灯りを少女は見つけた。まだ遠くぼんやりとしているがとても大きな光だ。少女は民家かお店であろうと思った。少女は息を呑む。もしかすると助けを呼べるかもしれない。

 少女がそんなことを考えていると、後ろからバタリと音が聞こえた。

 驚いて振り返ると男が俯せに倒れていた。男の身を案じてしまう少女だったが、男の腰にある拳銃を街灯が照らしているのが目に入った。少女はそれに後退りした。男は起き上がろうとしている。

 そして一瞬の逡巡のあと、少女は拳銃をホルスターから抜き取った。

「う、動かないで!」

 少女は男に銃を向ける。息は荒い。男がなぜ倒れたのか。少女には分からない。ただ単に蹴躓いただけか、それとも寒さのせいなのか。少女に申し訳ない気持ちが湧き起こるが、逃げだすほうが先だった。

 男は起き上がるのをやめる。

「逃げても……」

「黙って!」

 少女は話をするつもりだったが拳銃を持ち、気が急いて相手を牽制するので手一杯になってしまった。そして拳銃を握る手に力が入る。男は安全装置をかけ忘れていた。

 乾いた音が鳴る。少女の腕が跳ね上がる。拳銃は少女を手を離れ、夜の闇と雪へとうずまった。そして男の苦しそうな声。少女には男に弾丸が当たってしまったのか、当たったならどこに命中したのか、それは暗くて見えなかった。

 目を凝らせば少女にも見えていたかもしれない。しっかりと確認する前に少女は灯りに向かって駆けだした。

 男は心の片隅で自分の助けを呼んでもらえるのではと思った。男の意識は遠のく。寒さのせいなのか、もしかすると当たった弾丸のせいなのか、男にも分からない。感覚さえも希薄になっていたのだった。

 しかし男は笑っていた。外見では分からない。心の中で笑っていた。安堵していた。

 危機一髪だった。男はそう呟いた。ここで倒れるのならば、問題はないだろう。男が目指すのはあの灯りだった。きっと彼女はあそこへ向かうだろう。

 男は消え入る意識の中で少女のことを考えていた。

 これで、彼女は――

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